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〜第四章〜

そんなセバスチャンの感情には気づかぬまま、ニックはやれやれという風に首を振った。


「あんたたちが出て行った後すぐにハニス・エンドバーンが命令したんだ。屋敷に仕えている者たち全員を休暇にするってな。お陰で今この屋敷の仕事をしてるのは警護に雇われた俺達だけ。慣れない仕事を無理やりさせられてストレス溜まるってのに、更にあの野郎!」


「やはり、ヤツは……」


「気づいてても、分かってても止められねえんだよ。警護対象に逆らうのはプロとして失格だ。だけどあれは、マジに勘弁してほしいぜ」


ニックの声には苦悩の色が見てとれた。

それを聞くセバスチャンはだが何も言わず、握る拳に力を込める。

他の者が休暇を与えられ屋敷から離されたのはおそらく、自分の行いを知られたくないからであろう。

そんな事をせずともハニスの黒い噂は屋敷の者の殆どが知っているというのに。

その噂を信じていないのは、レシアくらいのもの。他の者は皆、あの男の異常さに気付いている。


「あんた執事長なんだろ? 何とか出来たり……はしねえよな」


「残念ながら。私は、お嬢様を守るので精一杯なのです」


「まあ、そう言うとは思ってたけどな。ところでライセはどうしてる? 相変わらず無愛想にしてるか?」


人の良さそうな顔でニックは笑う。少しからかい気味に言った言葉にセバスチャンは微笑を浮かべた。


「ライセ君は最高の警護をしてくれていますよ。お嬢様との仲も良好、彼を選んで本当に良かったようです」


「ベタ褒めだな。まっ、俺でも最高の警護は出来るけどよ!」


胸を逸らして言うニックに思わず苦笑が漏れた。先ほどからの行動や気配を見るに、とてもライセと比べられるレベルではないと分かっていたからだ。


「お? 信じてねえなあんた。なら特別に教えてやる――実は俺、伝説の傭兵って呼ばれた人の弟子なんだぜ」


「ほう、それは驚きですな」


「って、あんた信じてねえだろ。でもま、こんな屋敷で執事なんかやってたら俺の凄さなんて分かんねえよな」


「かもしれませんな」


ニックの口からに流れ出る言葉に笑みが零れる。

その笑いは伝説の傭兵がセバスチャンその人だと知らず喋る男を馬鹿にしたものではなく、孫の出来の悪い嘘を聞いているかのような優しいもの。


「では、そろそろ私は戻ります。ニックさんは良い心をお持ちですが出過ぎた行動は身を滅ぼしますぞ。決して無理はなさらぬように」


ニックという男の心意気は気に入ったが、実力の伴っていない考えは不幸を呼び寄せる。

多くを経験した者としてそれを熟知しているセバスチャンは諭すように言うが、聞くニックは話半分といった感じだ。


「けっ、雇われてさえなかったら正義のヒーローとして華麗に登場してやるってのによ」


器用に煙草の煙をドーナツ状に吐くニック。

彼は己を過信しすぎる癖があるらしく、セバスチャンは少し心配になってしまう。


「いざとなったら私やライセ君が何とかします。ニックさんは依頼された仕事をがんばってください」


「……あんたみたいな爺さんに何が出来るか知らねえけど、まあ短い期間だし何とか耐えてやるさ」


さて、と立ち上がって上に戻ろうとするニックをセバスチャンは呼び止めた。


「一応携帯番号を交換しておきましょう。何か、嫌な予感がします」


不穏な動きをするあのコック達の顔がちらついた。

修羅場をくぐり抜けわれた勘がピリピリと背筋を震わせ、何かよくない事が起こる気がしてならない。

気のせいで終わればそれでいいのだが、悪い予感というのは大概当たってしまったりする。


「ライセ君のもお教えしておきます。では言いますぞ?」


いらないと突っぱねるニックに無理やり登録させ、セバスチャンはクルーザーへ戻った――



「それで、ライセは今から何する気だったの?」


一息つくため木陰に移動したシエルが、用意されたアップルティーを飲みながら隣のライセを見る。


「ん~、及第点だね」


「まあ、初めて淹れたしな」


何とか合格をもらったお茶をライセ自身も飲んでみる。確かに昨日のものと比べると歴然の差があり、同じ作り方をしたとは到底思えない味だった。


「片手の戦い方の練習をしに来た。稽古は毎日の日課でもあるしな」


寄りかかる木に刺していたナイフを抜き取る。

しばし無言で見つめ、その細長い刀身に考えを巡らせる。

浮かんだのはアイツの顔と、シエルの顔。その両方の笑顔は、絶対に護らなければと心を震わせる。


「片手の場合は勝手が違ってくる。お前を護るためには練習をしないと」


何度も考え、悩み、辿り着いたのは少女の隣であった。

護りたいと思う気持ちが大きくならないように、傍にいたいと思う気持ちが長引かないように必死で自制をかけ、それでも護衛期間は片時も傍を離れない。

それが、ライセが今出せる精一杯の答え。束の間だけの暖かさを得る方法だった。


「でも、腕が痛んだりしない? 本当にそんな事やって大丈夫なの?」


怪我したほうの腕を言葉の代わりに動かしてみせた。それを見てシエルも大丈夫そうだと胸を撫で下ろした様子。


「セバスチャンさんが手を抜いてくれたお陰で大事には至らなかったし、あとは――」


一度言葉を濁す。首を傾げるシエルにライセの無愛想な声は、小さく届いた。


「お前の、手当ても良かったんだと思う」


「――――」


「とにかく今から俺には近づくなよ、危ないからな」


「――ラ」


「なんだ?」


「ライセ~!」


「なっ!?」


ライセが立ち上がってシエルに視線を向けた時、思わず驚きの声を上げてしまった。


「ライセ~……」


「何で、涙目になってるんだよ」


目一杯の涙をためているシエル。

いつでも流れそうな涙を浮かべ、表情は何と表せばいいのか複雑なもの。ライセは涙の意味が理解出来ず、とりあえず固まってしまう。


「もしかして何か変な事言ったか、俺?」


「言った~」


「……そうか」


内心でライセは自分の馬鹿馬鹿しさに苛立ってしまう。

泣かせたくないと思った少女を自分で泣かせていては本末転倒としか言いようがないのだ。


「お前の手当ても良かった、って言ったよ~!」


「それは、別におかしくないだろ」


「お、おかしいよ~。ボート降りてから私の事避けてくせに、昨日の事も覚えてなかったのに。き、急に優しくなるなんて卑怯だよ~!?」


「そ、それは――」


ボートの時は気持ちが混乱していたし、昨夜はセバスチャンに酒を飲まされた。などなどの言い訳が頭に浮かんできたが、しかしそれらはすぐに掻き消える。

ここは、こうするべきなのだと僅かに残った心の温かい部分が教えてくれた。


「悪かった、よ」


優しく、自分のできる最大限の加減で頭を撫でてやる。

一瞬水気を吸った金色の髪が自分の手で汚れてしまうのではと心配したが、少女の嬉しそうな笑顔でその考えは徐々に消えていく。


「今度からは、ずうっと優しくしてね」


「それは約束できない」


「ケチ……でもいいや。今はこうしてしてくれるだけで、私は」


撫でてくる手に全てを預けるように、はにかんだ笑顔を浮かべるシエル。

ライセも少し気恥ずかしいものがあったが表情は綻んでいた。

二人の笑顔は自然に零れる最大限の笑顔に見え、幸せで温かい時間が辺りを包み込む。


「――二人とも本当に、仲良くなられましたな」


「「っ!?」」


至近距離で囁かれた言葉に二人は一様に驚き思わずライセはその場を飛びのく。

たとえ聞き慣れている声であろうと、はっきり言って心臓に悪い登場の仕方。

そんな事を誰にも気づかれずに出来るのは知ってる限り一人だけ。


「……セバスチャンさん、驚かさないでください」


「せ、セバスチャン!? 今までどこ行ってたの!」


呆れと驚きの声は同時に上がった。それを聞いたセバスチャンは笑顔を惜しみなく振る舞い上機嫌である事を知らせる。


「いやはや、ですがお二人が仲良くなられてよかった。遠くで見ていたらもう恋人同士にしか見えませんでしたぞ?」


片目ウインクして言った。

若い仕草も似合うんだなとライセは何気なく思い、シエルはといえば――


「な、なななぁ~~!? 何言ってるのセバスチャンっ!? わわ私達が恋人同士だなんてそんな、ね、ねえライセ?」


ライセは斜め前を見て無視を敢行。

例え返事を待たれようと答える事は出来ない、というか何と答えていいのかライセには分からない。


「ふむむ、まだお二人の間には溝があるようですな。仕方ない、今夜もライセ君にはお酒を飲んでもらって」


「――あっ」


そういえばと思い出す。シエルに聞かせてもらった話だと昨日、ライセは酔ってシエルに抱きついてしまったという。

よくよく考えるとライセ自身酒を飲むのはその時が初めてで、身体に免疫が出来てなかったわけなのだが……構わずにセバスチャンは飲ませたようだった。

自分の性格を考えると自ら飲もうとするのはあり得ない。十中八九、巧みな話術で仕向けられたに違いなかった。


「セバスチャンさんのせいですよ……」


ある意味では責任転嫁とも思える考えで責めるような視線を向けるライセ。

しかしセバスチャンは何の事か分からないといった顔を向けてくる。


「何が私のせいなのですかな?」


聞かれても困る、と黙り込んでしまったライセに楽しげな視線を送った後、セバスチャンはいまだに赤く点滅中のシエルへと向き直った。


「すいませんお嬢様、私用で屋敷まで戻っておりました」


「そ、そうなんだ……」


それを聞いてシエルはぎこちなく返した。

あえて自然に振舞ってはいるが、話がハニスに関わりそうになると感情は隠せないらしい。

悲しげな目でそんな様子を見つめ、セバスチャンは懐から何かを取り出すとシエルに手渡す。


「大丈夫ですぞ。私やライセ君がいる限り絶対お嬢様には手を出させません。それより昨日の夜に偶然撮れたものなのですが、どうかこれでも見て元気を出してください」


言うと同時にライセに視線を向ける。

その目は悪戯好きの少年のような目をしていた。


「…………」


嫌な予感がする。セバスチャンの表情もなのだが、手渡された瞬間から再びシエルの顔が完熟してしまっているのだ。

おそらく、というか間違いなくあの時の写真だろう。


「……あの」


「おや、ライセ君もいりますか? ですがあなたが見てしまうと良識やプライドが砕けて、恥ずかしい思いをする事になりますぞ?」


そして投げられる一枚の写真。

受け取り、崩れる青年。

顔が真っ赤ながら大事そうに写真を持つ少女。

愉快そうに笑う老人。

そんなこんなで、時間は穏やかに過ぎていった――



穏やかに時間の流れる湖からは、足をばたつかせる水音と金属のぶつかり合う音が響いていた。


「ふむ、では次――右斜め袈裟斬り」


「っ!」


ライセは指定された場所に指定された斬り方でナイフを這わせる。

指示からコンマ数秒の動作に、だがセバスチャンは納得をしない。


「まだ怪我した腕を庇って動いてますね。戦いの最中は腕は無いものと考えなさい。次――左下横ぎ」


「はいっ!」


快活に返事し、先ほどよりも素早く腕を動かす。

放つナイフは銀色の尾をひき、前を見据える瞳は意思強くきらめく。意識無く零れた笑みは獰猛でありながら優しく見え、遠くの水面にいたシエルはそんなライセの表情に思わず見とれてしまう。


「は! はわわわわ!?」


そんな自分が恥ずかしかったのか頭を振り、熱くなった頬を両手で覆う。


「…………」


今やっている稽古が終わったら、すぐに駆け寄り頭を撫でてもらおうと思うシエルであった。


「そうそうライセ君。これを君に渡さなければいけませんでした」


セバスチャンとの稽古に一段落し木陰で休んでいる時、思い出したようにセバスチャンはそう言ってライセへと近づいてきた。


「これは?」


「とある方の携帯番号です。念の為に聞いておいたので、渡しておきます」


「け、携帯番号! 一体誰のっ!?」


その言葉に、なぜかライセ以上に食いつき大声を出すシエル。

怒ったようにセバスチャンを睨み眉を吊り上げて寄ってくる。


「誰の番号か言いなさい!」


「……なんで怒ってるんだよ」


多分、少女の中で妙な勘違いが起こっているのだろうとライセは呆れる。

先ほどもいきなり頭を撫でるようにお願いされて、断るのに結構な時間がかかったばかりだ。

加速度的に二人の間が縮まっているのを感じ、己の心の変化に気付き始めたライセ。それがいい事とは思えず苦悩するが、動く時計の針を止められぬように距離の縮まるのを止める事はできなかった。


「ままさか最近入ったリンって新人メイドさんの! た、確かに可愛いとは思うけどわわ私だって結構……」


錯乱が酷いようでころころと表情が変わっているシエル。怒ったり泣きそうになったり、と思ったら恥ずかしそうにしたり。

そんな様子にライセは思わず笑ってしまった。


「わ、笑い事じゃな~~い! そんなハ、ハレンチな番号なんか許さないからねっ!」


必死で奪い取ろうと手を伸ばすがセバスチャンが高く持ち上げた所までは届かない。

くやしそうなシエルと、楽しそうに笑うセバスチャン。

(こんな時間も、あるんだな)


今を笑える自分の事がとても不思議に、けれど自然に受け入れられた。

一瞬この二人とならいつまでも一緒にいられるんじゃないかと思う。だが、と心の中で首を振る。


(俺は通過点でいい。俺を踏み越えて幸せになってくれるだけで、俺はいい)


今まで他人の笑顔を護る事などしなかった。

護りたい者を救えなかった手では、助けようと伸ばしてもこびり付く血が邪魔をしてしまうと思っていた。

――俺なんかが、誰かを救えるのか?

そんな自問、浮かんだこともなかった。それほどに、自分は何も出来ないのだと心が閉じられていた。

でも、この子なら。


(この子を救えたらきっと俺も……)


ライセの人生の分岐点は今、この場所。

一人の少女の笑顔のままに決まっていく気がした。


「……絶対、護ってやる」


はしゃいでいるようにしか見えない二人に近き、シエルには届かない位置でセバスチャンから紙を受け取る。

ライセの顔には、穏やかな微笑。


「あっ! それどうするつもり!?」


「さて、どうしようか」


もう少しだけ、限りある今の時間を二人と楽しみたくなったライセであった――








それからの四日間は何事もなく時間が過ぎた。

ハニスからのアクションはなく、たまにセバスチャンが姿を消す事はあったがこれといった特別な事件などは起こらなかった。


「……平和だな」


湖を取り囲むように生える木々の木陰に座ったライセは思わず呟いた。

セバスチャンとの稽古を終え一息ついた身体は何ともいえない疲労感に包まれ、汗が風に撫でられ疲れを癒してくれる。

今だセバスチャンからナイフさばきを認められはしないが、それでも心は充実している。


(今日で、最後か)


とうとう今日は警護期間の最終日。予定では今日の夕方ハニスは自家用機で帰り、念の為もう一泊してからライセは空港に向かう。

そして多分――シエルとの永遠の別れになる。


(元からそういう内容だったからな。依頼が終われば俺はあの子のそばにはいられない。それで、いい)


自嘲にも似た笑みが出た。だが色の違う両目に宿る意思は揺らいだりしない。


(ただ、ハニスの問題を片付けないと依頼完了とは言えない。セバスチャンさんに相談するか……)


暴力で黙らせてもいいのだが、その後シュバレニア家に何をするか分からない。

だからこそシュバレニア家に接点のあるセバスチャンが何も出来ないでいるのだが、果たして自分は何をすればいいのか。

正直、暴力以外の手段を思い浮かべる事が出来ない。


「考え込んでどうしたの、ライセ?」


「……いや、やらないとな」


「何の事?」


クルーザーから持ってきたのだろう、ティーポットとカップの乗ったトレイを持ちシエルが横に座ってきた。

ライセの言葉に首を傾げるが大して気にした風もなく、持っていたティーポットでお茶をそそぐ。

中から透き通る琥珀色の液体が出てきて、ほのかにリンゴの匂いが鼻をくすぐった。


「じゃじゃーん! 私が淹れてみたアップルティーだよ。飲んでみて飲んでみて!」


ずずずい、と差し出されたカップを無言で受け取ると口元に運ぶ。何口か飲んだ後、ライセは笑って感想を告げた。


「――美味い」


「えへへっ」


頬を染めるシエル。そんな姿を見て、ライセはもう一度強く思う。


(この子が抱える不幸の芽は全部潰す。そして、心から笑って過ごせるようになったら、きっと……)


内に秘めた誓いは微熱のように身体を熱くし力を充満させる。

この子の為なら例え世界でも敵に回せるだろうと思う。

そして、そんな風に思える自分がなぜか誇らしく感じれる。

風で形の変わる木陰の下、二人はまるで寄り添うように座って他愛のない話を続けた――



巨大な屋敷の東側。そこには後から増設された部屋がいくつか連なって並んでいた。ハニスのためにわざわざ造られた部屋もここの中に並んでいる。

ハニスのこの屋敷で唯一欲望を放てる場所。その部屋の窓から数十メートルの距離にある雑木林の中に、ニックとセバスチャンは隠れるように座っていた。

軍用と思われる迷彩柄の双眼鏡を覗き込んで部屋の様子を窓から窺っている。

と、覗いていたニックが小声でセバスチャンに話しかける。


「おい爺さん、これ本当にバレねえんだろうな?」


「大丈夫です。ここは屋敷から風下の位置で匂いで気づかれる事もなく、この雑木林の中から私たちを見つける事だって不可能でしょうから」


ハニスのくっつき虫程度なら、と心の中で付け加える。


「それならいいけど……ていうか、何で俺あんたに協力してんだろ」


その言葉にセバスチャンは温和に笑い返す。


「もしバレてしまっても私が何とかします。それに奥様があなた方を再度雇い直したのはハニス様の見張りのためなのですぞ?」


「なっ! 警護としか聞いてねえぞ俺は!」


そんな事にも気づいてなかったのかとちょっと呆れる。

事件が起こらなそうな田舎での大人数の警護。

度の過ぎた行動をする大貴族の息子、その婚約者に心を開いていない貴族の少女。そして毎晩ハニスの部屋から聞こえる、甲高い少女の悲鳴。

少し考えれば依頼の真意は思い至るはずなのに。


「ですがまあ、依頼を蹴ってまで何かをしようと思った方はいなかったようですな」


セバスチャンの視線の先。部屋の窓はカーテンで覆われ中の様子を窺い知る事は出来ないが、ここまでも微かに鼻をつく匂いと、僅かに聞こえる水音で大体の予想はつく。

常人にそれらは感知できず、ニックなどは双眼鏡の意味ねえーなどと愚痴っているが。


(まさしく傍若無人。好き勝手やってくれますな)


力を持つほど人間は歪んでいく。

かつての自分もそうだったように、ハニスもそうなのだろう。歪みは他人を巻き込み、喰らい、何もかもを剥ぎ取ってしまう。


「……どうしましょうか」


自分はシュバレニア家という素晴らしい人達と出会い変わる事が出来たが、ハニスは違う。

変わることなく進み続け、そして人間のクズになってしまった。

そんなハニスにセバスチャンがしてやれる事は、命を奪ってこれ以上他人に迷惑をかけなくさせるだけ。

だがそうやって殺してしまうのは簡単だが、それでこの問題が解決するようならこんな所で手をこまねいてなどいなかった。


「で、どうすんだ爺さん。言っとくが突入するってんなら止めとけよ? 俺やライセならいざしらず、爺さん一人であのデカイ男達に……って聞いてんのか?」


ニックの言葉が聞こえないほどに考え込んでいた。

と、虚空を睨むように漂っていたその視線に遠くの人影が映りこんだ。


「ジップ、ですな」


部屋の窓から更に離れた大きな玄関。そこにジップは立っていた。さっきまで気づかなかったので、多分さっき屋敷から出てきたのだろう。こちらからだと後ろ姿しか見えないが、どうやら誰かと話している様子だった。

数分もしないうちにジップは屋敷内へ戻っていった。

後に残った話し相手も門の方に歩き出す。セバスチャンよりもかなり小さな背の男。ずんぐりした体型と、ここからでも分かるくらい不釣合いに大きな頭。

よく目を凝らしてその人物の顔を見た瞬間、セバスチャンの身体に電流のような驚きが走った。

――それは、昔まだ戦場を駆けていた頃見かけたことのある顔だったのだ。


(あの男、は……)


蛙を思わせるのっぺりとした顔。いつも薄ら笑いを浮かべ、口元から見えるのは並びの悪い歯。

脂ぎってぬるりとした質感の肌は気持ち悪く、まるで蛙そのもののよう。


「玄関の方ばっか見てどうしたんだよ?」


双眼鏡で覗こうとしたニックを手で制し止める。努めて冷静を装い、セバスチャンは静かに言う。


「ニックさん……もう手伝いは必要なくなりました。あなたは通常通りの仕事に戻ってもらって構いません。この事は奥様に言っておきますので、お気持ち程度でしょうが後で謝礼をさせて頂きますね」


矢継ぎ早に言うとセバスチャンは門へと歩き出してしまう。

ニックはあまりに突然だったので呆気に取られたようだったが、遠ざかっていく背中に慌てて声をかけた。


「こ、これどうすんだよ!」


その手には双眼鏡が握られており、存在感を出すためか左右に振られている。


「それは差し上げます。なかなか高性能な代物ですから売ればお金になるかもしれませんぞ」


いつもの穏やかな笑顔。

だが、ニックは背筋が凍らされた感じがした。


(何だ……?)


ピリピリと肌に突き刺さる気配を出しながら、程なくしてセバスチャンの姿はニックの前から消える。

結局、ニックは気づく事はなかった。あの時セバスチャンから発せられていたのは、並々ならぬ殺気であったという事に――



敷地の中と外を隔てる鉄格子の門。

その前に一台のワゴン車が停まっていた。あちこちがヘコみ塗装が剥がれ、廃車処分されてもおかしくないような外見。

おおよそ屋敷の豪華さとは不釣合いな車には、近づく男が一人いる。


「ちっ、特急料金はこれだけかよ」


悪態を吐く顔は異様なほど目が離れ、潰れた鼻と汗でぬめる肌は蛙を思わせる。

中を覗き文句を言うと封筒をしまい、歪んだ顔を不満げにしながら男は車の鍵を取り出した。


「あ? なんでだ?」


鍵穴に差し込んで回すがドアは開かない。ガチャガチャと何度も引いてみるがビクともせず、男はしたように思いっきり車を蹴りあげた。

当然だが車は無反応、その後意味ない八つ当たりを何度かするが結果は同じで、男は仕方なく近くの木陰で少しだけ涼む事にした。


「くそ! まったく今日はついてねえぜ!」


木陰に入ると日光の下とは格段に温度が違い、過ごしやすい事に多少安堵する。

しかし唯一の移動手段である車のドアが開かないという大きな問題が残っており、大きながま口からは溜め息が漏れた。


「あの変態貴族は何もしてくれないだろうしな」


金の受け渡しでさえ側近にやらせ、今頃は連れてきた『商品』で楽しくやってるんだろう。


「でもまあビジネスパートナーだしな」


少ない金で多くの要求をクリアした『商品』を用意する。何十年も前から、それこそ戦場でだってやってきた仕事。

最近はインターネットなどで気軽に捕まえられる事からこちらの需要が減ってきてしまったので、例え今回のような割に合わない仕事でもやらねばならなかったりする。


「確か、十歳前後の気が強そうな娘。しかも一週間連続で追加する事だっけか。なんつう人道無視な男なんだろうな、あの男は」


笑った口から糸を引いた涎が垂れる。大きな口のせいで開けるとどうしてもそうなってしまうのだが、理由はそれだけではない。


「ま、そんなの相手に人身売買なんてやってる俺も俺だよな」


悪びれもなく声を上げていた男だったが、ポケットに何か入っている事に気が付いた。


「ああ。あのガキのか」


簡素な細工のされた銀のペンダント。

金になるのではと無理やり奪った物であったがペンダントの裏側に名前が彫ってある事に気づき、価値無しと分かってそのまま忘れていたのだ。


「――愛を感じるねえ。けどもう、必要ねえけどなっ!」


渾身の力で草むらの中に投げた。草むらに消える際、まるで最後に抵抗する声のように小さな音が鳴りペンダントは見えなくなる。

大して興味なくそれを見届け、さて今からどうしたものかと男が考えていると――


「よくも、まあ」


「……?」


辺りを見回してみるが鬱蒼とした草や木々が生えているのみ。声が聞こえたが気のせいだったかと思う。


「――こんな事を続けていましたな」


「っだ、誰だ!?」


今度は確かに聞こえた。しかも、恐ろしいくらい悪意の乗った声が。

おのずと寒気が身体に走り瞬時に腰に差していた銃を取り出す。

後ろにしていた茂みのほうに向き直り目を凝らすが声の主は確認できない。

身体中からは脂汗が出て、不安な気持ちを大きくさせる。


「誰なんだよっ!?」


これでも修羅場を何度かくぐった事もある。しかし基本的に逃げてばかりいた自分に、これ程まで明確な感情を飛ばされるのは初めてだった。

『商品』からだったら数え切れない程浴びせられたその一つの感情が、今は純度のまったく違うものが浴びせられている。

――それは、絶対的な殺気。


「くっそおおお!」


緊張に耐えられなかったのか、弱者の遠吠えのように銃弾が所構わず放たれる。

何度も何度も引き金を引き、ホールドオープンしてもしばし引き続けた。弾が出なくなっている事にやっと気づいた男が銃を下げた、瞬間。


「おや? それを下げたという事はもう動いても大丈夫なのですな」


え――と声が出た刹那、男の身体は宙を舞う。

身体の側面からまるで特大の鉄球がぶつかったような衝撃。痛みや驚きよりまず頭に浮かんだのは、死んだという三文字だった。


「ぐげぇっ!」


潰された蛙みたいな鳴き声と同時、男の身体は木に激突した。腰を強打し視界いっぱいに火花が飛ぶとずるずると地面に崩れ落ちていく。

口元から澱んだ色の血が出て、全身の骨を砕かれたように身体は微動だにせず、何かの反射運動のような痙攣が時折手足に起こるのみ。

激しい痛みと明滅する視界の中で、男の目に映ったのは執事姿の老人であった。

歪む視界でその人物を見つめていたら、唐突に瞳は見開かれた。

驚きと、それ以上の恐怖に。

さっきまでの痛みさえ忘れるほどの衝撃を受けた男へ、目の前に立つ老執事は感情の浮かんでいない表情を向ける。

その顔は、決してある一人の少女には見せない彼の昔の顔そのもの。


「まだこんな事を続けていたとは……やはりあの時に殺しておけば良かったですな。なあ、ガマガエル?」


その手に握られているのはさっき男が投げ捨てたはずのペンダント。しっかりと握り締めたそれを懐に入れると、殺気だけが灯る瞳が男を射抜く。


「みっともなく土下座をして命乞いしてきたから見逃してやったものを。あの時の誓い、貴様は覚えていますかな?」


丁寧な喋り口調が逆に恐ろしく思えてしまう。

男は歯の根が噛み合わずカチカチと音を奏でながら先ほどの強気な雰囲気とは違う、媚を擦りつけるような気持ちの悪い声音で話す。


「ひ、久しぶりじゃないかあ! まさかこんな所で会えるなんてっ……そうそう約束! 確かに覚えてるよ! ただ、生きてく為には仕方ないんだよ。あ、あんたなら分かるだろ? グレ――」


「その名で呼ぶな」


倒れる男の腹を容赦なく蹴り上げる。

何かひしゃげる音がして男はまた血を吐いた。


「ぐふぅ……う、うぅ」


みっともなく泣き声を上げ始めてしまった男に、しかし老執事は同情などしない。


「貴様はあの時、二度とこんな事はしないと言ったのです。人を商品だといって売ったりはしないと。ですが、どうやら誓いを守らずあれからもやってきたようですな」


いつの間にか手にはナイフが握られ、光る白刃が男の恐怖をさらに駆り立てる。

痛みなどとてつもない殺気の前では感じないのか、引きずるように身体を起こすと男は精一杯の笑いを浮かべ小さな皮袋を取り出した。

そしてそれを老執事の前へと差し出す。


「あ、あんたが何でここにいるのか知らねえが、こ、これが目的なんだろ? どうやって情報を手に入れたか知らないがさすが伝説の傭兵と呼ばれたお方だ!」


必死で持ち上げられている袋。その中身など老執事が知る由もないのだが、男は勘違いとは気づかず早口でまくし立てる。

その姿は強迫観念に囚われているようで見ていて憐れみさえ浮かびそうであった。

袋を無言で受け取ると、作り笑顔で見てくる男にナイフを向けたまま中身を確認してみた。


「――――っ」


言葉が、出なかった。

一目見て分かるこれは、この『薬』は――


「こ、これは新たに作られた改良版なんだぜ。あんたなら知ってると思うが最近あの集団の隊長ってのが現れてな。ど、どこかと協力してその薬『新M・О・S』を作ったんだ」


機嫌取りのためか男は聞いてもいない事をよく喋った。

だが、老執事の耳にその声は届かない。

自分の視界に映る赤く半透明なカプセル錠剤で彼の頭は埋め尽くされていた。


「なぜ、これを貴様が……」


声が震えていたかも知れない。その震えを男に感づかれる訳にはいかなかったが、幸い男は自分の保身のための弁護で頭がいっぱいのよう。


「そ、それはもちろん完成品たる新M・О・Sが必要な人物がここにいるからだ! あ、あんたもヤツとは昔馴染みなんだろ、何なら今から待ち合わせ場所に――」


そこで、男の言葉が唐突に途切れた。手の平の袋のみを見ていた老執事は顔を上げ男に視線を合わせようとした。

が、あるはずの場所に男の頭は無く、代わりに首からは大量の血しぶきが上がっている。

何が起こったのか分からないという男の頭はゆっくり時間をかけて地面に落ちていく。

実際にはほんの数秒の出来事、それでも老執事に衝撃を与えるには十分すぎる時間。


「喋りすぎは長生きできんぞ」


血しぶきで作られた噴水の後ろ側、男の身体よりも数段も大きな男がそこには立っていた。

降ってくる血を避けようともせず全身で浴び、滴り落ちる血を感じていないような男。

いや、最初から感情というものが男には存在していないのかもしれない。

頬の傷と片目の眼帯以外は希薄に見え、男の原動力は瞳に灯った狂気のみのように思える。

口を歪めて男は話しかける。

かつての戦友に、まるで昨日会ったような気軽さで老執事へ、語りかける


「久しいな。今はセバスチャンだったな? くく、貴様までここにいる事が分かった時俺は初めて神というものを信じたぞ」


「……私は悪魔を信じてしまいそうですよ。こんな所に何用ですかな隊長さん? まさか、この屋敷の方々に用事などではないでしょう」


冷や汗が一筋、垂れる。

血の出尽くした男の死体が倒れるが、自分もいつあのようになってしまうか分からない。

それ程に、目の前のこの男は危険である。


「なに、『俺達』のスポンサーの依頼でな。シュバレニア家の者には手を出さないから安心しろ」


ふと片手をこちらに向ける。手招くようなジェスチャーは袋を渡せという事なのだろう。


「それは俺達の大事な商売道具なんでな。返してもらうぞ」


「先ほどから俺達と言ってますが……まさか」


瞬間、遠くから爆発音が鳴り響いた。そちらに目線を向ければ遥か彼方、湖の方向からうっすらと煙が上がっている。


「っ何をしたんです!?」


急いで男へ振り返ったが、視界に男は映らなかった。


「貴様がいると少し面倒だ。悪いが眠っていてもらうぞ」


声のした方に反応し身体を動かそうとした矢先、首にとてつもない衝撃が加えられ視界が明滅する。

消えかかる視界に最後に映ったのは、丸太のように太い紅色の腕だった――








「何だっ!?」


青く澄んだ空に濛々と上がる煙を見てライセは声を荒げる。

突然爆発音がしたかと思うとクルーザーの後ろ側から黒煙が上がり、小さいながら火の手が上がっているのだ。


「くそっこんな時に!」


セバスチャンは稽古を終えると屋敷に向かっていった。

今この場にいるのはライセと、その傍らで不安げに服を掴んでくるシエル。

あとは船内にいるであろうコック達ぐらい。


「ラ、ライセ。どうしよう……」


煙が空へ昇り消えていくのとは対照的に、シエルの不安は沈殿し大きく濃くなっていく。

もしクルーザーにいられないとなると、あと数時間ではあるがハニスのいる屋敷に行く事になる。

それは狼の懐に獲物を投げ入れるようなものであり、何より嫌がるシエルを連れて行けるわけがない。


「私、屋敷には――」


戻りたくない、そう言いたいのだろう。

だがライセが二の句を制し、意気込むように息を大きく吸う。


「とりあえずは爆発の原因探しだ。心配するな、たいした事じゃな――」


そう言い終える前に、ライセはバネのように跳ね横へと飛びのいた。


「え?」


シエルの気の抜けた声を切り裂くように、一拍もなくライセがいた場所には数本の鉄針が突き刺さる。

それらは一本一本が小指ほどの太さをしており、銀色の体躯は陽の光を反射して存在感を醸しだす。


「……誰だ」


片手にナイフを握り油断なく辺りへ目を凝らす。

強い日射に照らされた地面、入り組んで濃い影を作り出す雑木林。

投げられた角度から推察すると、向かい側の雑木林が怪しいのだがそこから人の気配はしない。


「ラ、ライセ?」


何が起こっているのかいまいち分からないシエルが声をかけるも返事はなく、ライセは握るナイフをひたすらに構えるのみ。


「くっ!」


唐突に甲高い音が鳴り響く。

ライセの背中にはナイフの刃が切迫しており、それを後ろ手に構えたナイフで防いでいた。

後ろを振り返る余裕のないまま、ライセは敵が誰かも分からぬままにナイフの競り合いは続く。

強襲だったとはいえ相手に後ろを取られ防御一辺倒に回っている自分がくやしく、ライセは思わず歯噛みしてしまう。


「ライセ!? あ、あなた何するのっ!」


そこに、あろう事かシエルが相手に怒声を浴びせながら近づいてきた。

その声に相手が反応しようとしているのが気配で伝わる。

ライセはそう感じた瞬間、血が沸騰するほどの怒りが沸きあがってきた。


「やめ――ろぉぉっ!」


防いでたナイフを無理やり横へと逸らし、相手のバランスが崩れた場所に渾身の力で足を蹴り上げる。

それと連動して上半身をねじると相手を視界に収めようとする。

が、既にそこには誰もおらず蹴り上げた足は虚しく空を裂いた。


「シエル!」


振り子のような勢いを殺さぬままに走り出す。突然呼ばれて一瞬動きを止めたシエルを抱きかかえると、クルーザーの入口を目指して駆け出す。


(外ではシエルが巻きこまれる、早く安全な場所に連れて行かないと!)


警護対象、しかし、そんな言葉で言いきれる事の出来ない大切な存在の少女を護るため。ライセは力の限り疾駆する。


「ラ、ライセ、怪我とかしてない?」


抱えられたままシエルは不安そうな顔をしている。心配させまいとライセはその言葉に無言の笑みで返す。


(どんな事があってもお前だけは……)


羽毛のように軽い少女の身体を強く、壊れ物の陶器に触れるように優しく抱きかかえる。

目指すのはクルーザーの入口。とりあえずあの場所まで行けばシエルへの危険度は一気に下がるはず。


「!?」


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