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〜第三章〜

目の前に並べられた豪華な料理。

しかしそれに一切手をつけずシエルはひたすらに待つ。

昼間の白いワンピースとは違い、肩口を大きく開いたデザインのドレスを着てその衣装を見せたいと思う相手を焦がれ続ける。


(何か私、しちゃったのかな)


昼間ボートから降りるとライセはすぐにクルーザーに戻り今まで会っていない。

嫌われた事をしてしまったのだろうかと思うと小さな胸は苦しいくらいに締め付けられ、開かぬ扉をただただ見つめるだけの自分がとても無力に思えてしまう。


「……ライセ」


思わず口に出た相手の座る席は、空席。

シエルの隣に立つセバスチャンも憂いの表情をし食堂の入り口に視線を向ける。

今だ開かず沈黙の権化のように佇む扉は、もしかしたら開く事はないかもしれない。

ボートを降りた時のライセの表情はそれほどまでに悲しかった。


「っ!?」


――音が、響いた。

通路と食堂を分断する扉はゆっくりと隙間を広げていき、そこからゆっくりと姿を現したのは、物憂げな表情のままのシエルの焦がれた待ち人――



「――何を悩んでおられるのですか?」


船上デッキに設けられたいくつかのテーブル。

食後そこに呼ばれたライセはセバスチャンにそう話しかけられた。「昼間お嬢様とボートに乗った頃から様子がおかしいようですが、まさか依頼を受けたことを後悔しているのですかな?」


「……そうじゃ、ないんです。ただ、シエルにどう接していいのか分からなくて」


「ふむ、確かにお嬢様はライセ君に心を許しているようですからね。接し方は人それぞれあるでしょうが、お嬢様は多分優しくされるのが好きでしょう」


笑みを浮かべ言ったセバスチャンであったが、ライセはその言葉に小さく首を振る。


「俺は、誰かに優しくなんて出来ません。出来る事といったらこの手を、紅色に染める事だけ。本当ならシエルに近づくのすらいけないと思っています」


「……何か昔にあったようですな」


「俺は、あの子が何かを望めば望むほどそれに応えられない。普通の依頼の時のように、平静でいられなくなるんです」


気付いたのは、いつの間にか心が満たされている事。ゆっくりと、でも確かに心は少女で満たされていた。

こんな経験は昔の、アイツがいたとき以来の事。


「俺があの子のそばにいるのは駄目な事なんです。多分、お互いにとって……護衛期間は命をかけて護ります。あの子が笑ってくれるんなら、何よりもあの笑顔を優先するつもりです。だけど心と心の繋がりは、害にしかならない」


プロならば、最後まであの子の全てを護ってあげようと思う。

傍にいれる権利をもらった今だけは、あの子を笑わせていてあげたいと思う。

苦しいけれど、辛いけれど、あと数日もう二度と無いだろうこの暖かさを感じていたい。

あの子の笑顔に、擦れて色あせた心を少しでも照らしてもらっていたい。

見つめるだけで辛いはずの気持ちは、それでも暖かな気持ちを抱かせてくれるから――



デッキへと続く廊下を小型のコンポを手にしてシエルは急いでいた。

額に汗がにじみ息が上がっているがシエルの表情は弾けるような笑顔で、嬉しさに口元が緩みっぱなしだ。


(ずっと、準備してた……ハニスなんかと踊らないって決めて、いつか現れる相手の為に練習し続けた曲。お父様とお母様が結ばれる理由になったらしい、恋を奏でる曲――)


ふと、ライセが嫌がらないだろうか不安になる。

いや、たとえ嫌がっても無理やりに誘おう。

たとえライセが踊れなくても、ちゃんと自分からリードしてあげよう。

そして、笑おうと思う。

誰かを想う事がこんなに楽しく、切なく、幸せな事なんだと。

力いっぱい笑おうと少女は思い、デッキへ続く扉を思いっきり開けた。


「ライセ! あ、あのさ――」


「シッエル~~~!」


「……………………え?」


「シエル、シエル~~~!」


「は――はわわわわわわわわぁ!? な、何するのライセ! どどどどどうしたの~!?」


幾多の星と満月が広がる夜空、そんな夜空の下で青年は少女に抱きついていた。

さっきまでの深刻そうな表情はどこへやら。

今は緩みきった歳相応……より若干子供っぽい笑顔を浮かべている。無邪気としか言いようの無いその笑顔は、昼間のライセからは想像出来るものではない。

しかし、なぜこうなったか。次の瞬間、その理由は簡単に判明する。


「うわっお酒臭い! ま……まさか酔っ払ってるの!」


「はははぁ~」


「ラ、ライセしっかり! でででも何でまた――はっ!」


そういえば、さっきからいるはずの一人が見当たらない。辺りを見回し、そして見つけた。


「いやぁ、ビックリしました」


「セバスチャ~~ン!」


腰に巻きつく酔っ払いを引っ張り声の方を向くと、船内への入り口に隠れるようにセバスチャンはいた。


「まさかこんなにお酒に弱いとは。いやはや私の目もまだまだですな」


そう言って徐々に姿を消していく。慌ててシエルが制止の声をかけるが、返ってきたのはあまりにも大らかな声。


「先程からウジウジ言っていたライセ君に少しハメを外してもらおうと勧めたのですが、まさかこうなるとは。ですがこれはチャンスですぞお嬢様? お二人の仲をより親密に出来るチャンスですし、酔っ払っている時は本音が飛び出すものなのです」


「ライセの、本音?」


いい事を言っているのだろうがセバスチャンの表情は楽しがってるようにしか見えないので、説得力はまったくの皆無。

それでもシエルは本音というフレーズに動きを止める。


「それではそういう事で。私は用がありますので失礼します」


その言葉を置き土産にしてセバスチャンは姿を消した。後に残ったのは、絡むライセと絡まれるシエルのみ。


「きゃっ! ラ、ライセ――ひゃああ! ど、どこ触ってるの!?」


顔を真っ赤にして叫び、必死で腕を外そうとするがライセの腕はビクともしない。


「どうしたのライセ! ライセはこんな事する人じゃないよね!?」


叫ぶシエルの目には涙が浮かぶ。

唇を噛み締め、怒りとも恥ずかしさとも違う悲しそうな表情をする。

そしてシエルの心に浮かんだのは、あの男の事。暴力的で高圧な言葉で威圧して、無遠慮に近づいてくる顔が、嘘で塗り固まれた笑顔が気持ち悪かった。

いつか取り返しのつかない怖ろしい事をしてきそうで、あの男を好きになんてなれるはずが無かった。

それでも物語のような出会いを信じ待ち続けて、そしてやっと出会えた人だと思った。

でも、でも――


ライセも、あの男と変わらない?

私の想いは、関係ないの?


「…………くない」


「え?」


「離れたく、ない。離すと……もう、掴めないんだ」


震えるのは声と身体。矮小に、儚げに小さく震える姿は子供のよう。

まるで何かを求め手に入れ損ねた迷い子のように、誰かのそばにいないと簡単に潰れてしまいそうな弱い存在。

お酒を介して、今、少しだけライセの心が外へと漏れ出す。

そんなライセを見ていると、心にあった嫌だった気持ちが泡のように消えた。

代わりに心を満たすのは、温かな感情。

溢れるように気持ちはそのまま言葉となって、言葉となる。


「――大丈夫、だよ。このまま私が、そばにいてあげるから」


頭にそっと優しく手を乗せる。

優しく、自分にやってもらったように優しく頭を撫でてあげる。


「ライセの事はまだ全然知らないけど……ううん、全然知らないからこそ。私が全部預かるから。ライセの事なら悲しみも苦しみも、全部受け止めてあげるから。泣いて、寂しがっていいよ、一緒にいてあげる。ライセがいいって言ってくれるならいつまでも、いつまでもずっと」


――ちょっとこの体勢は恥ずかしいけどね。

そう言うシエルの顔はしかし幸せなもの。そしてライセはまた、小さく言葉を呟いた。


「……どういたしまして」


それにおどけたように返事をしたシエルだったが、もうライセは聞いていないようでその口からは小さな寝息をたてていた。

結局、かけるはずだった思い出の曲は流れる事なく、満天の星空の下で二人は身を寄せあう。


「ライセ――」


眠る相手に呟く少女の声は、はにかみながらも幸せに辺りに響き渡った――



「……さてと」


あとは若い人に任せてとでも言うように船上デッキを離れたセバスチャンはコック達のいる厨房へと向かっていた。

クルーザーで過ごすと決めた際、給仕など雑多の仕事は自分で何とかなるが料理はプロが必要だった。

セバスチャンも料理は多少は作れるのだが、やはりプロには敵わない。クルーザーで過ごすのはシエルの急な提案だったためライセのように屋敷外から雇うことが出来ず、仕方なく屋敷にいるコックの中から選んで連れてきた。

――しかし。


(やはり、何者かと繋がっているようですな)


明かりの点いていない廊下を進み厨房の入り口まで来ると、微かな声が漏れてきた。その内容はクルーザー内でのシエルの行動を細かく伝えるというもの。

何か指示が飛んだのかも知れないが、しかしそれまでは声に出さない。セバスチャンが連れて来たコック達を見たときに感じた、雰囲気や立ち振る舞い。

そして先ほどの返答の仕方から察するに何かしらの訓練を積んでいるのは明白なのだが、なぜコックがと疑問に思う。


(組織か、はたまた個人に雇われたか。どちらにせよこのコック達はハニスと繋がりはないはず。ハニスが知りえない、屋敷で働き出したばかりの者の中から選び彼らが来る前にコック達にはこちらに移ってもらったから。顔すら合わせていないはずです……)


もしハニスとの繋がりを持っているのなら屋敷に来る前からという事になる。

そこまで調べるのはさすがにセバスチャンでも限界があり専門家に頼んだほうがいい。

友人であり情報の専門家の顔がふと浮かんで、思わず苦笑してしまった。


(どうやらまだ老体を休ませる訳にはいかないようですな。お嬢様のことはライセ君に任せるとして私は私で動くとしますか)


緩やかな笑み。しかし、笑顔の下には研ぎ澄まされた気配が渦を巻き、まだ彼が枯れものになっていない事を実感させる。


(お嬢様を脅かす敵が増えたとしても、私のやる事は変わりません)


護る笑顔を無くさぬようセバスチャンは両の手を強く握った。

シワを刻んだ枯れ木のような腕を見て、そして前を見据える。

進む廊下は薄暗く、まるで彼の進もうとしている道のように闇の色に染まっている。

その先に光はあるのか。それとも――



「シュバレニア家の娘を監視している者から連絡が入りました」


屋敷からほど近く、湖からはそう遠くない場所に一台の大型バスが停まっていた。

暗闇の更に暗い場所へ隠れるように停められた車体はツヤ消しされた黒。明かりの点いていない車内には四人おり、その中の一人が携帯を片手に別の一人に話しかける。


「……伝えろ」


「コックに扮した彼らは今のところ疑われていないそうです。また、娘がハニスのいる屋敷に近づく事は一週間の間は無さそうだと」


電話で聞いた情報を述べる。顔は暗くて見えないが、声からして若い男のようである。


「つまんないの~。引きこもるなんてそいつ馬鹿だよ。なんなら湖のほうは今すぐボクが殺してこよっか? ねえ、どうせ今回も皆殺しなんでしょ?」


次に聞こえたのは声高い子供の声。変声期前のその声は、ただ純粋な悪意を滲ませて喋る。

世の中の善意を知らずに、悪意のみが絶対の感情と思わせるような雰囲気。人殺しを悪い事だと思っていない良識の欠落した声は楽しそうに続ける。


「ねぇいいだろ~?」


子供の声が問いを向けたのは喋っていた男でなく報告を受けていた男だった。

闇の中輪郭しか分からない身体は筋骨隆々としており、暗くて見えないはずなのに瞳は光を放っている。

狂気の光を躍らせる男は、冷静な落ち着いた声で喋る。


「シニスは我らのスポンサーだ。予定通り、シュバレニアの家の者には危害を加えず、狙うのはハニスと目撃者のみだ」


「ぶ~。分かったよ、そう言うなら従うよ」


不満が残った声だったが子供の声は承諾した。

それを黙って聞いていた、報告していた男はそういえばと思い出した声を出す。


「予定になかった黒服の男達ですが、どうやらエルダ夫人が雇ったようです。また、シュバレニア家の娘に個人的に雇われた男の名前が分かりました。ライセというらしいです」


名前を聞いた瞬間、男の静かな雰囲気が揺らいだ。男の隣で黙っていた女がその機微に気づき、心配そうに話しかける。


「どうかしたのですか?」


凛とした女の声に、だが男は答えない。

よく見ればその男の瞳の光は、対ではなく一つだけ。


「……その、雇われたライセという男。両目の色が違わないか?」


「え? ああ、そういえばそんな事も言っていたような」


聞くと、更に何かを考えるように黙ってしまった男。

周りの三人はどうしたのか意味が分からず、子供の声の主が近づいて顔を覗き込んでみる。と、すぐさま驚きの声を上げる。


「うわ! 何でそんな楽しそうにしてるの?」


「……あなたがそんな顔をするとは珍しい。そのライセという男に心当たりがあるんですか?」


「一体、どうしたのです? ――隊長」


三人の声に男は答えず、無表情だった顔に微かながら笑みを貼り付ける。

暗い車内で異様な雰囲気は殺気と共に膨れていく。

静かに男は頬を触った。

そこには昔付けられた傷が、怒りで我を忘れた少年に付けられた傷跡がある。


(まさかこんな所で会えるとはな。偶然……いや、必然か。お前もそう思うだろう、ライセ!)


数年前、自分のような人殺しを集めて作られた一つの集団。

その中で一際、殺しの才を持っていた少年。大事だった、とある少女を殺した俺に――そして仲間に襲いかかってきた、両の目の色の違った少年。


「これから少し作戦を変更する、よく聞けよ――」


闇を切り裂くように月明かりが車内に射しこみ、淡い光に照らされた男は隻眼の顔を獰猛な笑みに変えていた――



「ハニス様、例の『モノ』が到着しました」


「そうか。よし入れ」


夜更けを少し過ぎた頃、ゲイルは屋敷の東側に建て増しされたハニス用の客室を訪ねていた。その客室はライセへあてがわれた部屋とは比べ物にならない豪華さを持ち、高級そうな調度品や天蓋付きのベッドなどが置いてあり、その中でベッドに腰掛けるハニスは一糸纏わぬ姿をしている。

しかしゲイルはそれを見ても何も言わず、相変わらず無感情で平坦な声を出す。


「ブローカーにはもう金を渡しました。では、例のモノをすぐに……」


そう言って指を鳴らすと扉が開く。入ってきたのは自分と同じ護衛のジップ。

それと――


「~~~~!?」


「ゲイル、モノだなんて可哀想な言い方をするんじゃない。ちゃんと『女の子』と呼んでやれ」


ニタァ、と粘りつくような喜色溢れる顔を向ける先、ジップに掴まれ入ってきたのは一人の少女。

歳はまだシエルと変わらないほどで、色素の薄い茶髪はぐしゃぐしゃに乱れ、同色の瞳からは大粒の涙を流している。

涙の跡のついた頬を更に涙で濡らしながら声を上げようとしているが、ふさぐテープのせいで言葉は発せない。

ハニスの目の前まで連れてこられるとハニスの手が顎を容赦なく掴んできた。

そして怖ろしいとしか言えない笑みが近くに寄る。

今まで味わったことのない恐怖が全身を駆け抜け、鳥肌が危険信号のように表れる。必死にもがいても後ろからはジップに肩を押さえられ、身体はビクとも動いてくれなかった。

そうやって運命は、抗う少女を嘲笑うかのようにハニスの味方に付いていた。


「まだ時間はある。メインディッシュを食べる前に、まずは前菜をいただいておくとしようではないか」


「――――――――――――っ」


少女の声にならぬ悲痛な叫びに答える者はなく、ハニスの手は目の前の未熟な蕾に伸びていった――                                                                            






窓から差し込む陽光にライセは目を覚ますと、眩しさに寝ぼけた顔をしかめる。


「……何時だ?」


時計を見るともう十時を回っていた。

いつもなら小さな物音でも目が覚めるよう意識的に浅い眠りにしているはずだが、昨夜はなぜか熟睡をしていたようだ。


「……頭が重い」


頭の芯をハンマーで叩かれているような感覚に思わず額を押さえる。

しかしなぜ頭痛がするのかまったく分からない。

とりあえず寝汗で濡れた服を着替えながら原因を探ろうとしたが、どういう訳か昨夜の事が思い出せなかった。

必死で頭の中にあるはずの記憶を探すがそれは叶わず、仕方なくそのまま部屋を出た。昨晩の事をセバスチャンに聞こうと思って彼の部屋を訪ねてみたが姿はなく、船内を回っても見つけることは出来なかった。


(おかしい……)


セバスチャンがクルーザーを離れる事があるとすれば、それはハニスの事かシエルに何かがあったか。

彼がいれば大抵の事態は収まりそうだが……外に出てみようかと思った瞬間、後ろから視線を感じて歩みを止めた。

振り返ってみると、曲がり角から顔を覗かせるシエルが見えた。


「?」意味が分からなかった。

尾行とするならあまりにもバレバレなのだが、それでも本人は隠れたまま。もしかしたらバレていないと思っているのかもしれない。


(何をしてるんだ?)


奇行を気にはしたが少女に何かあったのではない事が分かり、口からは安心の溜め息が出る。

思っていた以上にシエルを心配していたようで、その事に苦笑いが出る。


「おいシエ――」


「!?」


声をかけると驚いたように顔を引っ込める。が、すぐにまた顔を出して金色の髪を見え隠れさせる。


「おい、シ――」


再度呼ぶとまた顔を引っ込める。

追いかけると、次の曲がり角からまた顔を覗かせていた。ライセはその行動に、重い頭を押さえながら呆れる事しかできずにいた。


「じぃ~~~~」


「……何なんだよ」


隠れたままのシエルに声をかけるが、なぜかその度に少女は逃げていってしまう。

そんなこんなを続けいつの間にか大きな部屋まで来た二人。シエルは隠れる場所がなくなったようで落ち着きなく髪を触ったりワンピースの裾を伸ばしたり。

冷房の効いた室内の中でしかしシエルの頬は赤い。

困ったような照れたような表情をするシエルは目線を逸らし、怪訝な顔のライセが詰め寄ろうとしたら身体を強張らせ、表情も固くする。


「お、おはようライセ! 今日はいい天気だね!」


高い声を更に裏返して喋る。明らかに挙動不審であった。


「どうしたんだ?」


「い、いつもと変わらないよ!?」


「いや、まあ。お前がそう言うなら――ん」


何かに気付いたライセは歩を進めた。


「な! なななにっ!?」


顔を真っ赤にしながら後ずさるシエル。だが数歩下がったのみで壁にぶつかり、距離を縮めてくるライセから視線を外せないまま、シエルは緊張のため口を真一文字に結んだ。

差し出されてくる手に、覚悟を決めたように目をつぶった。


「髪の毛にゴミが、ってどうした?」


緊張しているようなでも実は期待しているような、そんな面持ちのシエルを見てライセはますます怪訝な顔をした。


(まさか、昨日と関係が……)


思い出せない記憶、何かあったとすればそこしかないだろう。

もしかしたら自分はシエルに嫌われるような事をしてしまったのではないだろうか。


「……俺と何かあったのか?」


少女に嫌われたのではと思った瞬間、胸がざわついた。少女の気持ち一つで焦ってしまう自分に、しかしそんな己の変化に気づかぬライセは早口で問うた。


「……え?」


その問いを聞いた瞬間、シエルはこれでもかという程の驚いた表情をした。

その顔は信じられない事を耳にしたような顔で、ライセの胸を更に締め付ける。


「え? え?」


質問の意味が分からないといった風に聞き返すシエルにライセは神妙な顔で再度問う。


「昨日の、夕食を食べてから寝るまでの記憶が無いんだ。あり得ないが、本当に全然思い出せない」


そんな事態は初めてでありどうしていいのか分からない。病院に行って調べたほうがいいのかもしれないが、今は警護中でそんな暇などない。とライセは悩んだりする。

どうやら昨夜セバスチャンにお酒を勧められた事まで忘れたようで、はたから見れば泥酔した恥ずかしい結果といえる状態に陥っていた。

だが本人は至って真剣な顔で、先ほどから呆けているシエルに言う。


「俺は昨日、お前に何かしたのか?」


――甲高い音と共に季節はずれの紅葉がライセの頬を飾ったのは、その直後であった――



蒸し暑い空気が外に出た瞬間に押し寄せ、ライセの身体は汗が滲みはじめる。

暑さに辟易した顔をしながら桟橋の先のほうへ向かうライセの手にはナイフが握られていた。

と、ライセの目が突然険しくなる。


(何だ?)


微かだが視線を感じる――いや、感じるような気がする。

判然としない感覚が続き、鋭敏に尖らせた神経が少しずつ摩耗していく。

気のせいではと思えるほどの、例えるならば静電気が流れるほどの微細な感覚が続く。


(誰かが見てる……のか?)


神経を更に鋭くし探ろうとするが、その気配は上手く掴めきれない。まるで極限まで気配を消しているのに、肝心の行動が慣れていない素人のようなそんな感じなのだ。

不可思議としか言いようのない気配を何とか探り当てようと集中した時、ライセの感覚に別の視線が割り込んだ。

隠す気なんてない堂々たる視線。無遠慮に浴びせられるその視線の主はすぐに分かる。

先ほどから湖で泳ぎながらこちらにチラ見を繰り返す少女。

ジト目をしたまま浮き輪で浮いてるシエルだった。


(これじゃあ、気配が掴めない)


シエルの視線に塗りつぶされるように気配は捉えられなくなり、ライセは諦める事にした。

用心深い彼にしては珍しく、それは任務よりも少女の不機嫌な顔が気になって仕方ないという、やはり珍しい気持ちのせいであった。


(気のせいだよな……)


そう割り切るとシエルの方に近づいていく。さっき叩かれた頬が痛むのは多分、何も覚えていなかった事への罪悪感。近づくライセに、シエルは慌ててむすっとした怒りの顔を作り上げた。


「…………」


子供っぽいその仕草に、ライセは自分でも驚くほど衝撃を喰らった。


(そんな顔されると、悲しいだろ)


もしかしたらそんな心情を読み取ったのだろうか。そっぽを向いていたシエルも眉根を下げ、いそいそと桟橋に上がってくる。


「シエル」


数歩の距離を残しライセが止まる。呼んだ相手は腕を組み次の言葉を待っているように見えた。


「――悪かった。何をしたか分からないが、そんなに怒らせるような事をしてしまった俺が悪い。本当に、悪かった」


言葉の通り頭を下げて謝る。

ライセの精一杯の気持ちが込められていた謝罪に、シエルは小さく息を吐く。そこにはもう刺々しい雰囲気はなくなっていた。


「別にもう怒ってないよ。でも私にあ~んな事をしたのに覚えてないなんて、損としか言えないけどね」


頬を染め冗談っぽく言ったシエル。ライセの謝りを見て仲直りと取ったのだろう、それが出来たのが嬉しいのか元のような笑顔であった。


「あんな、事?」


近くには、笑ってられない者が一人。


「待て、待ってくれ。あんな事って一体……」


「そ、そんなの私の口からじゃ言えないよっ」


そう言って、年端のいかない少女が頬を染めて恥らう。

自分自身のまったく覚えていない、昨日の記憶。

恥らう少女、無い記憶。

頬を染める少女、覚えていない記憶。

それらの事実が指し示すものは、一体――


「昨日は……本当に何があったんだ?」


「ふふ、教えてあげな~い。忘れちゃった罰だよ」


(……万に一つの確率もないと思うが、相手は子供だぞ……)


あ~んな事の度合いが分からないままではあるが、とりあえず取り返しの付かない事をしていたらセバスチャンに八つ裂きにされてるはずなので安心……はできないが、最悪な事はやっていないと思う。思いたい。


「でもライセは、どこまでならいいの?」


「なぁっ!?」


思考に浸っていたライセの意識を浮かび上がらせたのは、思いもがけない言葉だった。

何がと問う前に、更にシエルの言葉は続く。


「私は……初めてだったよ」


「――――」


ライセの脳裏には皿の上で焼かれた自分が夕食のテーブルに並べられている。リアルに表現すると見れたものではないからデフォルメされてはいるが、こんがりと丸焦げである。


(抱きつかれただけだけど、ライセの反応が楽しい)


どうやらライセはだいぶ困っているようで眉間にシワが寄っている。

絶対頭の中ではにまで発展しているだろう

――大事?


「っっ!?」


考えてしまった瞬間シエルの顔は火が点くように赤くなった。どこまで考えてしまったのか、それは少女だけの秘密。


「頼むから、教えてくれっ」


このあと数十分間、シエルが観念して昨日の事を喋ってくれるまでライセは自身のプライドを削り続ける事になった――



「これ意味あんのかな~?」


ビデオカメラを掲げていた子供は不機嫌にそう言うと、腕を下げて空を仰いでみた。

垂れる汗は両手が塞がっているのでそのままにし、ビデオカメラを持っていないもう片方の手は木の頂点を握る。その声は、バスの中で聞こえた声そのもの。

場所は湖から離れた森の中。

その中で、他よりも背の高い一本の木の上だった。

どうやって登ったのかと聞きたくなるほど子供のいる場所は高く、また、子供の両腕は肘から先が赤黒く変色しており、容姿と相反する気味悪さを漂わせる。

大きめの半袖シャツとハーフパンツというラフな格好ながら、色の瞳は幼い外見に似合わぬ鋭さを持っている。

短髪を時折風に揺らしながら、子供の愚痴は続いた。


「大体なんでボクがこんな事……それに暑いし!」


日射が容赦なく降り注ぎ、しかしそれを防ぐ影は何も無い所で黙々とビデオカメラを回す子供。

どんな事情であれ、今の季節に直射日光の下にいさせられるこの状況は拷問に近いものがある。

ボクの身体はデリケートなんだ~とか、冷たいアイスいっぱい食べさせろ~など文句は次々飛び出してくる。

そうやって鳥さえ飛んでいない青空に愚痴を飛ばしていた子供であったが、突然後ろを振り返る。


「なんか用?」


「いやなに。キリが文句を言って隊長から与えられた仕事をサボっていないか、確認に来ただけですよ」


いつの間にいたのか、同じような木の上に立っていた声の主は、昨晩バスで報告をしていた男の声だった。

キリと呼ばれた子供のいる木、その後ろ側にそびえる同じような木に二本の足のみで立っている。

伸びた黒髪を後ろで縛り、ストライプ柄をしたスーツ姿。日差しを避けられないこの場所では暑い事この上ない格好だが、男は汗一つかかずにいた。


「隊長の指示を無視されては困りますからね。大体、君はいつも自分勝手に動く。子供だからといっても限度というものがあります。私のように出来た大人になれとは言いませんが――」


「うるさいよ、ひ弱」


「……何ですって」


機嫌よく喋っていた男の声色が変わる。静かに、だが確実に怒りに染まった。


「なぜあなたのような者が仲間なのか、私にはまったく分かりませんね」


「本当にうるさいな~、ロウのくせに」


キリの目も不機嫌を更に強め相手を睨みつける。


「口だけは達者でボクより弱いくせに。頭ばっかでロウはいつも役立たずじゃんか」


鼻で笑うように言うと口の端を持ち上げる。それを見て、ロウと呼ばれた男は顔をしかめた。

たかが子供の言う事。たかが、生意気な子供の言う事。

出来た大人はこれくらいでは怒らないと、自分に言い聞かせる。


「頭使ってばっかりだと若ハゲになるんじゃない?」


侮蔑の色が濃かったその言葉を聞き、ロウの細い目が一層細くなった。頬をさせながら声はより低くなる。


「子供に礼儀を教えるのも出来た大人の役目ですよね。キリ、礼儀を知らないと痛い目にあう事を優しい私が教えてあげます」


「ロウに教えられる事なんて何もないと思うけど。っていうか僕に勝てるって本気で思ってるの?」


両者向かい合い、二人の人間が木の上で睨みあう。

腕はどちらとも赤黒く染まり、漂う空気は肌を刺すほど殺気で張り詰める。


「――二人共、やめなさい」


痛いほど張り詰めた空気の中、それを気にしない平坦な女の声が間に割って入ってきた。二人が声の方向を見ると同じような木の頂点に立つ女が目に映る。


「殺気を出せば相手に感づかれる。行動は慎重になさい」


「で、でもさあ~ミレ姉。わざわざフラッシュバックになってまでやる事なの? あいつらを撮る事はさ」


女に話しかけたキリからは殺気が一瞬で消え、代わりに歳相応のむくれっ面をする。ミレ姉と呼んだ女に慣れ親しんでいるようでロウの時とは真逆な雰囲気であった。

その不満声に答えたのは、こちらも殺気を霧散させた溜め息混じりのロウの声。


「だから隊長の指示なんですから文句を言っても仕方な――」


「いやロウには聞いてないから」


再び睨みあう二人。それを見る女はしかし止めるでなく、感情の乏しい顔で二人を睨むのみ。

それだけで二人は息をつまらせるように口論をやめた。

逆らってはいけない。逆らえば、いつの間にか握られているあの鉄針で刺されてしまう事を二人は知っている。


「あの方が必要と言ったの。キリも文句を言わずにちゃんとなさい」


「ぶう、ミレ姉がいうなら我慢する~」


「……本当私を馬鹿にしていますねあなたは。それよりも、ミレリアは何か用があってここに来たんですか?」


キリの言葉にいちいち反応するのをやめる事にしたロウは、女の名と共に質問を投げかけた。


「そういやミレ姉が隊長の傍を離れるなんて珍しいね。何か問題でもあった?」


「まだ危惧するほどではないけれど、老執事が色々と嗅ぎ回っているようでね。それでキリに勝手な行動をしないよう注意に来たの」


「そ、そんなに信用ないのボク!?」


「キリは自分勝手極まりないですからね。私と違って考える力が足りないのでしょう」


「ロウ、息が臭いからちょっと黙っててくれないかな。このままじゃ空気汚染が進むからというか死んで世の中の為に」


「………………」


睨みあい殺気をぶつけ合おうとする二人。それを見てミレリアは呆れたように息を吐き二度目の注意を鉄針と共に放つ。


「だから、殺気は駄目だと――」


そんな、再び怒られるキリやロウと違ってビデオカメラはきちんと自分の仕事をこなし二人の人間を映し続けていた。

軽く刺された二人の悲鳴が聞こえても、その黒光りする身体を頑張って動かし、金髪の少女と黒髪の青年を映し続けるのであった――









(……くさい、ですな)


屋敷に戻ってきたセバスチャンが最初に気付いたのは、建物全体に漂う匂いの異常さであった。

匂いはどうやら屋敷中に広がり、常人が気づかぬ微量であってもセバスチャンの鼻は悪臭にヒクついてしまう。


「予想はしていましたが……絶倫ですな」


匂いの原因といえる男に対し呆れと驚きの感想を抱きながら、ゆっくりと地下への階段を下りる。

辿り着いたのは執事やメイド達の休憩室とされている部屋。いつもなら必ず何人かいるはずなのに、しかし今は誰もおらず状況を詳しく聞こうと思っていた当てが外れセバスチャンは訝しむ。


(なぜ誰もいないのでしょう? 上でも見当たりませんでしたが)


その時、階段を降りてくる靴音が響いた。この部屋に近づいてくる音に、屋敷の者ではない見知らぬ気配にセバスチャンは表情を固くする。

身を屈め扉にへばりつくと気配を断ち、ゆっくりと開く扉を凝視した。


「――誰ですかな?」


「あ? ――うわあ!」


扉から入ってきた人間は声に反応し、次いで首にある冷たい感触に声を上げる。


「お、俺が何したって言うんだよ!」


弱々しい声を出して両手をあげる男。その男にセバスチャンは見覚えがあった。


「確か、ライセ君に玄関で話しかけた……」


「ライセ? そういや爺さんライセと一緒にいた執事じゃねえか!」


男も気づいたようで先ほどとは別種の大声を上げる。


「セバスチャンです。どうやら私がいると気づかず降りてきたようですな」


言うと首筋に這わせていたナイフを下げ男を見やる。


「確かニックさんでしたね。ここに一体何しに来たんですか?」


「お、俺のことよりもあんた達何でいなくなってんだよ! お陰でこっちは大変な事になっちまってんだぞ!」


ニックは怒鳴るように言うとイスに座った。セバスチャンも扉を背にするように立ち、顔を険しくしてニックを見る。


「現状を詳しく聞きたくて私はやって来ました。教えてもらえますか? 屋敷の現状を」


憤怒の色を瞳に覗かせるセバスチャン。


「……本当なら警護対象の事を喋るのは駄目なんだがな」



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