〜第二章〜
「そうだ、君に言わないといけなかった。おい、妻と彼らを呼んできてくれたまえ」
ハニスの手荷物を受け取っていたメイドに言いつけ、再びレシアは手を叩く。
「シエルには会ったかい? あの子は君が来るというのに湖に行ってしまってね」
「……はい、会いました。久しぶりだったのですが変な邪魔が入ってきまして」
ハニスの声に少しだけ黒い感情が滲む。だがレシアはそれに気づくかず不思議そうに首を傾げるのみ。
「邪魔? セバスチャンがそんな無粋な真似するはずはないし、君に恋した小鹿か何かだったのかな?」
おどける感じで言ってみたがハニスの反応はない。邪魔が何だったのか聞こうとした時、玄関扉の開く音がした。
そちらを見たレシアの目に映ったのは、金髪碧眼の幼い少女。よく見知った、大事な大事な一人娘の姿。
「シエル?」
まだ十年と少ししか一緒にいないが、妻と自分に最高の幸せをくれる愛しい愛娘。そんなシエルの横、セバスチャンと共にいるのはさっきまで警護していた庸兵の青年だった。
「遅れてしまいました。ハニス様、お久しぶりです」
外見からは想像できない大人びた微笑を称え、シエルは会釈する。厳格な貴族のお嬢様がそこには立っていた。
(……ちっ)
その姿にハニスは苛立った。
(お前は僕を恐れた顔だけすればいいんだ。そんな顔、すぐに潰してやる)
心の中に黒い感情を渦巻かせながらも表情は崩さず、その横には護衛と名乗った、今はスーツに着替えたライセがいた。
「おかえりシエル。しかしなぜ君が一緒に――」
「ライセ!?」
レシアの質問と重なるようにニックの声が上がった。その後ろにはレシアの妻であるエルダがいて、階段をゆっくり降りてきている。
「ハニスさんいらっしゃい。今お部屋に案内させますわ」
「お久しぶりですエルダ夫人。その人達は誰ですか? 屋敷に仕えているようには見えないのですが……」
無骨なスーツの男達を見て言ったハニスの言葉に、ニックは男達を従えてハニスの前に駆け寄った。
「ええ~、この度ハニス様の護衛に雇われました。後ろの奴らも同様、よろしくお願いします」
差し出された手を握り返し、しかしハニスは面食らった顔をした。
「夫人……僕はただ一週間だけ滞在に来ただけですよ? お心遣いは嬉しいのですが必要ないと思います」
「あら、世の中何があるか分かりませんわよ? 備えて駄目な事など何もありませんわ」
エルダは意味ありげな含み笑いを浮かべる。ハニスはお礼を言って頭を下げるが、心の中で毒を吐く。
(……ふん、やはり無能な家主より扱いにくいな。僕の事をいまいち信用していない)
だが、そんなことは問題でないと思う。自分用の護衛なら使い道はいくらでもある。
今、問題と言えるのは――
「あら、あなたも戻ってきましたの。ええと確かお名前は……」
「ライセです。今回シエルと個人的に契約を結び、一週間の護衛を担当します」
ライセは一歩前に出て頭を下げる。顔を上げたときニックと目が合った。
彼はこの状況に驚いた表情をしていたが、今の状況に一番驚いているのはライセ自身だったりする。
(なりゆきって、恐いな)
挨拶を済ませると困惑気味のレシアから質問を投げかけられた。
「し、しかしシエルを護衛する必要はないのではないか?」
「それは俺が決める事ではありません。ですがもう契約はしてしまったので、何であれ一週間の護衛が無くなる事はありえません」
営業用の微かな作り笑いで返すと、レシアは口を開けたまま黙ってしまった。
多分呆れているのだろう。
「それではライセ様、お部屋まで案内致しますのでついてきて下さい。お嬢様もお勉強の時間ですので部屋に戻りましょう」
「分かりました」
「それではまた後ほど。お父様、お母様、ハニス様」
三人が歩き出しエルダの横を通り過ぎようとした時、不意に前方にハンカチが舞う。
「ごめんなさい。落としてしまいましたわ」
ライセはそれを拾ってエルダに渡す。と、彼女がさりげなく顔を耳に近づける。
滑らかに動いた彼女の唇はライセにこう呟いた。
「ありがとうライセさん、あの子をよろしくね」
思わず見返したライセだったが、エルダはもうこちらを向いてはいなかった。
「じゃあ皆さん集まりましたし、これから一週間楽しみですわね。ねえ、あなた?」
「あ、ああ……」
ライセ達を見るレシアは、いまだ事情の飲み込み込めきれていない表情をしていた。
階段を上がりきると玄関扉の開く音が聞こえ、そちらを見れば巨漢の男が立っていた。
「物騒な物を持ってるな」
胸ポケットの膨らみを見てすぐに拳銃だと判断する。気の抜けない一週間になりそうだと静かに気合を入れ直すと、こちらを見ているシエルの視線に気がついた。
「どうした? まさか、俺にスーツが似合ってないとか言いたいのか」
「――――っ」
冗談で言ってみるとシエルは驚きの表情をして走って行ってしまった。
(……もしかして本当に似合ってないのか?)
ちょっと真剣に考えてみたがセバスチャンに呼ばれすぐに思考を打ち切る。そして、追いつこうと軽く足を速めた。
長く広い廊下を駆けるシエル。心なしか、頬には朱が差しているように見える。
(……スーツ、似合ってた)
そう思ったとき今までにないくらい胸が高鳴ったのを、シエルの心は確かに感じていた――
シャンデリアが垂れる豪華な部屋に通されてライセはリュックを下ろすと一息つく。
(そういえば)
バックの中に入れていた物の事を思い出し中をまさぐる。
(……念の為に持ってきていて正解だったな)
ずしりと重みのある拳銃を、身体の一部のように馴染むそれを腰のベルトに差し込んだ。
と、自嘲気味の笑いが漏れる。
(ハニスからあの子を守っても俺の罪は消えないのに、我ながら未練がましいな)
だからこそ、まだこんな仕事を続けているのだが……しかし、今はそんな事を思っていても仕方ない、依頼に集中しなければいけない。
控えめのノックが鳴ったのは、そんな時であった。
「私だけど……いいかな?」
次いで聞こえた声にライセは少し驚き、とりあえずはドアの鍵を開ける事にする。
「…………」
無言で入ってきたシエルは、なぜか緊張していた。
「なにか用か?」
声をかけるが返事がない。再度聞こうと思ったとき、シエルの持っている小さな箱に気がついた。
「それは……」
大きく赤い十字の取り付けられたそれは、必要最低限の物しか入ってない救急箱だった。箱の事を言われた途端、シエルは慌てたように早口で喋りだす。
「わわ、私は別に要らないって言ったんだけどセバスチャンが必要だからって! そ、それに一応私のせいでもあるかなって思って、その……」
「いや、お前には――」
この腕の怪我の事ならば自分の慢心が招いた結果であり、シエルに責任はない。そう言おうとしたがシエルは二の句を許さぬスピードで近づきベッドへ強引に座らせる。
「い、いいから座って! 手当てさせて、ね!」
その一生懸命さに言葉を挟むのは悪く思えてライセは口をつぐむ事にする。
(まあ、悪い気分じゃないけど)
ただ、セバスチャンが傷の手当を頼んだ事には疑問が浮かぶ。これぐらいの傷など湖でやってくれた応急処置で事足りている。
傭兵として伝説とまで言われた人物にそんな事が分からないはずがない。なら、シエルを向かわせたのは何か別に理由があるのだろうか。
「……よく分からないな」
「何か言った?」
そう聞き返してきたシエルに何でもないと答え、セバスチャンの考えが分からないままであるが今は手当ての為すがままになる事にしようと思う。
「そういえば、セバスチャンさんは――」
そこまで言って気づく。少女が包帯を巻くのに難しそうな顔で挑んでいる事に。
怪我の手当てという、おそらくお嬢様が今までやったことない事に挑戦中なのだ。声をかけ邪魔をするのは無粋というもの、目を閉じ素直に身を任せると不思議と穏やかな気持ちになった。
(……誰かに手当てしてもらうのは久しぶりだな)
目を閉じると浮かぶのは、鮮明に残る数少ない忘れえない光景。優しく笑うアイツの顔と、柔らかな手の感触。
簡単に折れそうな腕で巻かれた包帯はあの頃、何よりも大事だった気がする。
「――何も、聞かないの?」
「ん?」
突然のシエルの問いに疑問で返したライセだが、その意図するところに気が付くと視線をシエルに向け、声色を僅かに柔らかくする。
「俺は契約を交わしただけだし、依頼内容の真意を聞く権利は持ってない。ただ……お前が話したくなったらちゃんと聞いてやる。この家の事やセバスチャンさんや、ハニスの事。護衛期間は一週間。時間なら、まだまだある」
見つめてくる碧眼に出来うる限り優しく頷いてみせる。聞いていたシエルの瞳には潤いが増し、それを隠すように俯いてしまう。それを見てライセは無意識に手が動き、気づけば頭を撫でていた。
さらさらと手触りのいい感触と、小さく響いた『ありがとう』の声に、締め付けられるように心が震えた。
(そうか――)
なぜこの子がアイツに重なったのか、分かった気がした。
あの頃、護っていたようで実は自分がアイツに護られていた。あの戦場で、壊れそうな心をアイツの笑顔が護ってくれていた。
でもライセは、護る事が出来なかった。
この子には誰かを救える強さがある。誰かを支える優しさがある。
今度こそ、そういったものを護りたい。償いのように、ただの偽善のように。
今度こそ全ての悪意から護れるように。
――でも、救いの手が自分にも向けられたら?
そう考えてしまった瞬間ライセは電流が走ったように身体を強張らせる。
握られる暖かさと、握れなくなってしまった時の悲しみ。どちらも知っているライセの心は、誰かとの干渉に怯え震えていた。
「あっ」
撫でていた手が急になくなりシエルは思わず声を上げた。無意識に声が出たので恥ずかしくまた頬が染まってしまう。
ただ今回は、微笑みと一緒に。
「お嬢様~!」
部屋の外から女性の声が聞こえた。どうやらメイドが探しているらしい。
「私戻らないと。あっ、手当てはちゃんと終わったけど無理はしないようにね、分かった?」
笑顔でそう言うとシエルは部屋を出て行く。そして残ったのは沈黙と、決して上手だとはいえない包帯の巻かれた腕。
「……俺は、」
その腕を、その包帯を、ライセの色違いの瞳はいつまでも眺めていた――
シエルが出ていった少し後ライセもメイドに呼ばれ一階の食堂へと降りる。
大きなテーブルにはもう料理が並べられ、長方形のテーブルには両親に挟まれるように座るシエルと、その向かい側に座っているハニスの姿。
食事と共に穏やかに進む会話の中に、しかしライセは違和感を感じてしまう。
(なるほど……)
シエルの後ろに立った時、その違和感の正体に気が付くことができた。
(親にまで気を配って、自分の気持ちを偽って喋るなんて苦労性だな)
ハニスへの本当の気持ちを悟られないためか、まあ心配をかけたくないためにやっているのだろう。シエルは気品に溢れ、穏やかに微笑んで、虚像をなぞるように貴族の娘を演じていた。
(ちぐはぐ、だ)
しかしライセが一目見て違和を感じたように、シエルにその態度は合っていなかった。言うなれば噛み合わない歯車のように。
シエルには無邪気に笑う方がきっと何倍も似合っている。ほんの少し前に雇われたばかりのライセが気にする事ではないのだが、やはり気になってしまうのは重なる面影のせいか。
「ハニス様」
と、急に食卓の上でされていた会話に男の声が割り込む。見れば玄関ホールでハニスの隣に立っていた男の一人である。
「何だジップ?」
「シニス様からお電話です」
「……兄さんから? すいません伯爵、少し席を外させていただきます」
「構わないよ。シニス君によろしく言っておいてくれ」
男を伴い席を外す際ライセは見た。ハニスの口元が笑みに歪められているのを。
「そういえばシエル、セバスチャンはどうしたの?」
エルダからの質問にフォークを置きナプキンで口を拭いて、湖で見せていたのとは別人としか思えない気品と凛ある声でシエルは答える。
その態度もやはり、貴族の娘という演技をしているようにライセには映る。
「セバスチャンは湖のクルーザーにいます。そこで色々準備をしてもらってるの」
「何? せっかくハニスが来てくれたのにまたクルーザーに行くつもりなのかい? そうか、ハニスを招待するつもりなんだね。いや、いい考えだ」
会話に加わったレシアに曖昧に頷くとシエルは席を立つ。ライセに少しだけ視線を合わせると、入口に向かって歩き出す。
「あらもういいの? なら少しだけライセさんを借りてもいいかしら。彼とお話がしたいわ」
――その後夫婦の食事が終わるのを待ち、ライセはエルダの部屋へと案内された。ノックをし中に入るとエルダはソファでくつろぎ、メイド数人が大きな旅行ケースに荷物を詰め込んでいる最中であった。
(あのソファは、確か)
見覚えがあると思って見ていてふと気付いた。それは紛れもなく書斎に運ぶよう言われたソファであった。しかし、それがなぜこの部屋にあるのか。
(力関係が丸分かりだな……)
「よく来てくれましたライセさん。ふふ、そんなに畏まらなくていいのよ。こっちに来て座ってちょうだい」
「その荷物、客人が尋ねてきて早々どこかへお出かけですか?」
詰めている荷物の量が傍目にも半端でなく、一日二日で済むようには見えない。
「……ええ。ハニスさんが食堂で電話に席を立ったでしょ? その相手はシニスさん、彼のお兄さんだったの」
「それが出かける事に関係が?」
「パーティに誘われたの。両家の親睦を深める為とか、あってないような理由でね。相手はあのエンドバーン家の将来的な跡取り、もちろんお断りなんて出来ないわ。だから、私と主人はこれから出かけないといけなくなったの」
「……それで、俺を呼んだ理由は何です? シエルの事なら依頼期間中は必ず護りますから、安心してください」
相手の言わんとしている事の先手を取るようにライセは言う。
セバスチャンに色々と聞きたいことがあったので、用はそれだけならと急ぐようにソファから立とうとした。しかしエルダは首を横に振り、悲しそうな顔をする。
「その事ならあなたを信じているわ。だってセバスチャンが選んで、シエルが納得した人ですもの。私が言いたいのはその事じゃなくて……シエル自身の事」
母親としての真剣な眼差しで喋るその言葉に、ライセは浮いていた腰を再び降ろし話を聞く事にした――
「みっずうみ~みっずうみ~~みずうみ!」
汗を促す太陽の下を歩きながらもシエルは上機嫌この上なかった。
運ぶ足取りは軽く、先ほどからの歌など屋敷を出てからずっと続いている。
その後ろから付いてきているライセはしかし考え事をしているようで難しい顔をし、暑いためだろうネクタイを緩め胸元を開いている。
それでも汗は止まらず流れ、それはシエルも同じなのだが……とにかく少女は元気を振りまいていた。
「何でさっきから黙ってるのライセ? 湖だよ湖! もっと楽しそうにしようよ!」
「……湖ならさっき見た。それより何でそんなに上機嫌なんだ? 湖には毎日のように行ってるんだろ」
ライセに言われるとシエルは朱に染まった頬をかいて照れくさそうに笑った。
「う~んとね、ライセと一緒だからかな」
「さっきの時も一緒だったと思うぞ?」
訳が分からないという風に言うとシエルから盛大な溜め息が聞こえた。
「はあ、ライセって鈍感なんだね」
「……まあ暑いし変な事言い出すのも仕方ないか。クルーザーに着いたら氷で頭冷やせよ」
二人の噛み合わない会話は、湖に着くまで続くのであった――
湖に着くとセバスチャンが暑いなか汗をかく事なく待っていた。手には冷えていそうなグラスを乗せたトレイ。
「お待ちしていましたぞ二人とも。喉が渇いたでしょう、冷えたアップルティーを用意しておきました」
シエルが小走りで受け取りにいきグラスを二つ受け取る。そしてまた小走りでライセに駆け寄っていく。
「ライセ飲み物――きゃっ!」
「っ危ない!!」
悲鳴と共にライセは走り出し地面にダイブを決めようとするシエルをギリギリで支える。
間一髪で受け止め倒れずには済んだが、持っていたグラスの中身は盛大に零れてしまった。
「あっ……」
「…………」
ライセの頭からは水滴が垂れ、身体からは微かなリンゴ臭が撒き散らされる。
「ごごごめんライセ! だ、大丈夫?」
「……ただリンゴ臭くなっただけだ。それより走る時は足元に気をつけろ」
ライセの注意に大きく頷き、次いでシエルは小さく笑う。
なにが楽しかったのか分からないが、その笑顔はとても自然だった。
そんな二人にセバスチャンは近づき、どこに持っていたのか真っ白なタオルをライセに差し出す。
「お嬢様、お茶がクルーザーの冷蔵庫にまだ入っていますので持ってきてもらえますか? 今度は走らずにですぞ?」
「分かった、行ってくる!」
そしてクルーザーへと向かうシエル。結局また走ってしまっているが今度は転ばずにクルーザーの中へと消えていく。
そして、セバスチャンは口を開く。
「さて、何が聞きたいのですかな?」
「……なぜあなたが地方貴族の執事なんかをやっているか教えてもらえますか?」
木陰に移動し座るとライセは渡されたタオルで頭を拭く。セバスチャンも隣へと腰掛け、視線を空へと向けた。
「そうですな、ならば私とお嬢様の赤裸々な出会いからで――」
「――っ!?」
――セバスチャンの言葉の途中、唐突に胸を押さえて苦しみだしたライセ。
噴き出すように尋常じゃない量の脂汗をかき、心臓は爆発するのではと思うほどに体内で暴れ狂う。
(きた……アレだ!)
震える指で胸ポケットをまさぐり煙草を取り出す。箱から出すのに一苦労しながら一本出すと口に咥えた。
が、ライターがいくら探しても見つからない。落としたのか忘れたのか、その間にも心臓はのたうち意識を遠のかせようとする。
「……お使いください」
セバスチャンが悲しそうな表情でライターを差し出してきた。急いで煙草に火を付け大きく煙を吸い込み、それが身体に行き渡ると徐々に動悸は収まり安堵の息が漏れた。
「あ、ありがとうございます。セバスチャンさん」
呼吸を整えてから礼を言う。セバスチャンはそれを聞いても悲しそうなまま。
「……『M・О・S』の依存中毒ですね、アレの依存性は異常ですからな」
「……それを知っているって事は、やはり、あの湖の時は?」
「ええ。しかし私は薬ではなく、不定期に来るフラッシュバックのみです。君を試させてもらった時も、その不完全な状態になっておりました」
言うとセバスチャンからは苦笑が漏れた。
煙草を惰性で吸いながらライセはその表情を訝しむ。
「M・О・Sを使っていたのは組織に属していた紅のメンバーだけのはず。セバスチャンさんが、フラッシュバックなんて中毒を起こすまで服用をしてるんですか?」
「……六年前の事、覚えていますか?」
唐突に話題は変えられた。しかしライセは反論せず無言でそれに頷いてみせる。
「ライセ君はまだお嬢様ぐらいに幼く小さかったですな。握り慣れていない銃を私に向けた時の事、今でも昨日のように覚えていますぞ」
「俺も、あなたから向けられた殺気は身体に焼き付いて忘れられません」
だからこそライセはセバスチャンがあの時の人物だと分かったのだった。
「……」
浅く、溜め息が漏れた。昔を思い出すと自然と嫌な記憶も脳裏に浮かんでしまう。
敵を殺し、仲間を殺され、明日があるか分からない日々をただ血まみれになりながら生きていた過去の自分。
出会った次の瞬間には死んでいく、そんな中で所属していた紅、その仲間達。
――そして、いつも笑ってくれていた大切なアイツ。
「なぜ、昔話を?」
思考を無理やりに断ち切りライセは疑問を投げつける。セバスチャンは遠い目をし、やがてゆっくり口を開いた。
「ある国で内乱の絶えなかった時期。そんな頃に、不完全ながらある薬の製造方法が流出していました。流出先は不明……至る所に流れ出ていたその情報を元に作られた不完全品は、今までのどんなものより素晴らしい結果を生み出しました。内乱に加担していた様々な組織、国、個人。薬は大量に作られるようになり完成を求められました――数年後にある組織が完成させるまで、それはずっと続いておりました」
「……まさか」
「その完成させた組織は薬をM・О・S――――Madness・Of・suppressorと名づけ、同時にある集団を作ります。それがライセ君のいた傭兵集団、紅」
セバスチャンの口から語られた事実をライセは無言で聞いていた。薬が他の組織で作られた事や、紅の成り立ちなどそれはライセ自身も知らない情報ばかり。
「当時私は雇われていた組織の被験体として薬を使っていました。しかし不完全な物ばかりで、数年の月日が経った今では、不定期に起こるフラッシュバックとその際の破壊衝動に苦しむ日々です。ライセ君のように症状が軽く別の物へ依存を移すには、もう私の身体は汚れきっていた」
セバスチャンにも思い出したくない過去があるのだろう。表情は暗く、視線は物憂げに細められる。
「……組織に捨てられ行き場を失ってしまった私を拾ってくれたのが、今仕えているシュバレニア家のご当主、レシア様でした。そして、私にも分け隔てなく笑顔を向けてくれたお嬢様。あの方々のおかげで私は救われました。老いぼれた身体でも、命を懸けて護りたいと思える人に、私はここで出会えたのです」
「……それが、セバスチャンさんがここにいる理由なんですね」
陽の光そそぐ世界に戻れたセバスチャンを、まるで眩しいかのようにライセは見つめた。まだ暗闇の淵でもがく事しかできない自分と比べ、おのずと羨望が視線に混ざり込んでいく。
それでも、差し出されていた腕を失ってしまったライセにはどうすることも出来ない。
ただ、アイツを殺したあの男を憎み続ける事しか、自分にはもう許されてはいない。
「……ライセ君。実は最近ある噂話を聞いたのですが、これを君に話していいのかどうか私は迷っています。君と再会したのは偶然でなくまるで恐ろしい運命の引き合わせのようにも感じてしまう。そんな、噂話を」
逡巡するように眉を寄せるセバスチャン。その姿を見て、考えるよりも早く言葉が口をついた。
「――教えてください」
第六感とでもいうのかもしれない。それを知れば必ず混沌へと吸いこまれる気がする。
しかし、それでも聞きたいと思うのは自分の中にそんな世界を望む自分がいるから。
鼻腔の奥にこびり付いている血と硝煙の匂いが、今では自分の匂いかと思う日さえある。
「昔馴染みの情報屋から聞いた話です。最近、数年前に死んだといわれていた男にそっくりの者が現れ、とある集団を作ったと――」
「――――」
心の奥底では、予想していたのかもしれない。
その死を目の前で見ない事には、ただ深手を負わせただけでは確信できなかった。
「その男は、左目に眼帯をした隻眼の――」
あれぐらいじゃ死ぬはずはないと……いや、信じたかったのかもしれない。
――あの男の血に腕を染め上げなければ、この憎悪が消える事は無いのだから――
同日、午後二時。スコットランドから遠く離れたロサンゼルスにそびえる高層ビル群の一つ、天空を貫く人工物の最上階で一人の男が電話をしていた。
「ああ、首尾よくこちらに呼んだよ。なに心配するな。唯一無二の弟の頼みが迷惑な訳ないだろう。一週間でいいのだろう……ではな、ハニス」
男はゆっくりと受話器を置く。
片側の壁一面に作られた窓へとおもむろに近づくと、視界には外の光景が広がった。
排気スモッグで鈍色をした空と砂粒のように小さい人を見ながらしばしそうしていると電話のコール音が部屋内に響いた。
変わらぬ表情のまま電話に出ると、最近聞き慣れてきた男の声が聞こえてきた。
「――到着したか。ならば計画通りに、殺せ。最初に言ったがシュバレニア家の者は殺すなよ? あの貴族にはまだ使い道がある」
不敵に笑った口元は、電話の相手へ最後にこう言った。
「我が愚弟、きちんと殺してやってくれよ隊長どの?」
鏡のように磨かれた窓に映る男は、赤茶色の髪と赤眼という風貌をしていた――
うだるような熱気が外にあるもの全てを包み込む中、ライセは冷気の効いたクルーザー内の部屋にいた。
スーツは先ほど汚れたので今は持ってきていたシャツに着替えている。
セバスチャンに替えの服を用意してもらったのだが、やけにカラフルな文字が躍っていたりアニメの絵がプリントされていたりと、どう見ても似合わない物ばかりだったので丁重にお断りさせてもらった。
聞くとあれらの服は日本の通販サイトで買ったらしいのだが、日本はそんな国だったか? と疑問を浮かべずにはいられない服ばかりであった。
よく冷やされたアップルティーを飲み、ちらりと隣を見てみる。自分の座るソファの横で存在感を出しまくるそれに、思わず頭を抱えたくなってしまう。
「……一体どうしろって言うんだよ」
口に出た呟きの原因は、セバスチャンの用意したある物。
「ライセ~、水着に着替えた?」
水着、であった。せっかくの湖だからと用意してくれたらしいが、渡されて数十分経った今でもライセは水着に着替えていない。というか、まったく着替えたくなかった。
「あっ! 何でまだ着替えてないの。まさか、泳がない気?」
ぱたぱたと音を立てながら近づいてきたシエルはもう水着に着替えている。髪の毛に合わせたのか腰には黄色のタータンチェック柄をしたキルトを巻き、垂らしたままだった髪は団子で二つに結ばれている。
可愛らしさが倍増したシエルはむくれっ面でライセを見ると、音が出るくらい勢いよく水着を指さす。
「水着を着なさい!」
「…………」
「うわっすごい嫌そうな顔! そ、そんなに泳ぎたくないの?」
眉を八の字にして言うシエル。が、ライセは額を押さえて首を横に振る。
「いや、この水着はどう考えても……無いだろ」
ジト目をして持ち上げた水着は、際どい角度のハイレグブーメラン。色は原色カラーの斑点模様。
これは凄まじく選んだ人物の美的センスを疑ってしまう水着であった。
「き、着れば意外と似合うかもしれないよ……多分。とととにかく私は着替えたんだからライセも早くしてよ!」
怒るシエルは踵を返し部屋を出ようとする。と、ライセがそれを呼び止める。
「シエル、さっきから気になってたんだがその水着は何なんだ?」
見たことが無いとは言わないが、なぜ今この国の少女が着ているのか不思議でならない水着がライセの視界に入っていた。
「えへへ~似合うかな? 日本の『すくうるみずぎ』っていうんでしょ。前にセバスチャンが買ってくれたんだ」
見せびらかすようにその場で一回転し照れたように笑う。
「ライセにとっては懐かしい、じゃなかった。えっと、萌える?」
ポーズらしきものをとって言ってきたが、ライセはといえばそれを見ても表情を変えず、とりあえず飲みかけのアップルティーを口に運ぶ。
「……俺は確かに日本人だが実際日本に暮らしたことはない。だからそれの知識はあっても、懐かしいとかはないんだ。大体、萌えるってなんだ?」
何気ない言い方であったが言葉の切れ味は抜群のよう。一刀のもとに両断されたシエルはしょんぼりと俯き、小さな声で謝ってきた。
「た、ただ似合っているとは思うぞ」
慌てて言ったライセのその言葉で一瞬のうちにヒマワリみたいな笑顔を綻ばせた。立ち直りは凄く早いようだ。
「俺は泳がないが付いて行くから、まあ、その……一緒に下まで行くぞ」
「うん!」
弾けるように頷くシエルを見て、ライセの顔にも知らぬ間に微笑が浮かぶ。
(本当に、似てる)
よく笑うところがそっくりだと思う。何者も救ってしまいそうな笑顔の輝きも、何もかも。
似ていて、それでいながら違う魅力を持っている少女は笑顔を自分の方だけに向けてくれている。
その事実が嬉しいながら、しかし心を緩く締め付けてきた。
そして大きな謎が一つだけ残る。
シエルの水着に付いている大きな名札。それに書かれた『しえる』という日本語は、一体誰が書いたのだろうという疑問が――
「ライセ~~!」
元気よく手を振るシエルに相槌のように手を振り返し、何度目かになる拳銃の確認をした。万が一に備え弾は入れているが、できればシエルの見ている前で使いたくはない。
(……それでも、護れるのなら躊躇はしない)
自分に言い聞かせるように思うと、触れていた手を離す。木陰へと移動し空を仰いでみると大きな入道雲が一つだけの快晴であった。
自分の心とは真逆の空模様は澄んでいて、どこまでも果てなく広がっている。
(しかし、ハニスからの妨害らしきものが何も無いのはどうしてだ? まだ一日目だから急いでいないのか、シエルが屋敷を出て行く時も何もしてこなかったし……だからといって気を抜くつもりはないが)
「あまり気を張っていてはすぐに疲れますぞ?」
「……何するんですかセバスチャンさん」
真後ろで聞こえた声に不機嫌気味に言うと驚いた声が返ってきた。
「何と! 私と分かりましたか。ううむ、やはり老人のしわがれた手で目隠しというのは不利なのでしょうか」
「いや声で分かりますし。大体こんな事しないでください気持ち悪い」
「ライセ君があまりにもつまらなそうにしていたもので、つい。ですがやはり若い方がいいのですね、分かりました。さっそくお嬢様に伝えておきますぞ」
「……シエルにされても同じような反応しか出来ないんで結構です。また泣きそうになられても困るし」
少しバツの悪そうな顔をするライセ。先ほどのシエルのしょんぼりした顔を何気に引きずっていたりしていた。
「ふむ、そうですか――しかしもう、手遅れのようですぞ?」
セバスチャンが指差した先、その先にいるシエルの瞳はこちらを見てきらきらと眩しく輝いていた。
「…………」
何だかいいように遊ばれているようで疲れが込み上げてくる。セバスチャンは温和な顔で一人頷き、そういえばと手を叩く。
「ライセ君、拳銃は持っていますか?」
「持ってますけど、なんでですか?」
疲れた目を向けるとセバスチャンが真剣な事に気づく。慌てて周囲の気配を探ぐってみたが、これといって怪しい気配はなかった。
「まだライセ君では見つけきれないと思いますぞ。とにかく貸してもらえますかな?」
腰に差していた拳銃を渡す。太陽により黒光りするそれを手にするとセバスチャンはシエルを僅かに見た。シエルは今まさに水の中に潜ろうとしており、そして息を吸い込むと姿を消す。
――瞬間、上空に銃口を向け引き金を引いた。
轟音は少しの間だけ辺りに反響し、消える。
「……鷹? いや、鷲か?」
撃たれて落ちる物体を見つけ微かに確認できた形で、それは大きな鳥と分かった。息絶えたのか鳥は森の向こうに落ちて見えなくなった時、潜っていたシエルが水面から顔を出す。
拳銃が撃たれた事には、もちろん気づいていない。
「なぜあの鳥を撃ったんです?」
「何やら機械らしきものを付けているのが見えました。先ほどから上空を旋回していましたので、おそらく問題の彼の飼い鳥でしょう。機械はビデオかカメラ――いわゆる盗撮ですな」
ゆっくり桟橋へと歩いていき、水を滴らせながら上がってきたシエルにタオルを渡す。そして、セバスチャンと何かを喋っている。
(あんな距離で見えたのか……)
ライセは驚くしかなかった。
遠く離れた鳥に気づいた事もだが、更にあの距離を一発で当てられるセバスチャンの腕にも感嘆の息が漏れる。
(フラッシュバックしてなくても俺に勝てるんじゃないか?)
年老いた伝説の傭兵のその凄さに改めて驚き、盗撮という真似をしてまでシエルの水着が見たかったのかとそちらにも別の意味で驚く。
ライセは返された拳銃を戻すとセバスチャンから呼ばれた。
隣のシエルが嬉しそうな恥ずかしそうな、そんな顔をしているのが気になったが呼ばれたので行かない訳にはいかず、その場から二人のほうへと駆けだす。
その後言われた事にライセが更に驚いたのは、いうまでもない――
「…………」
鏡のように景色を反射する水面に、ゆらゆらと漂っている一隻のボートがあった。
雄大な自然と折り重なり絵画のような湖に波紋を残すそれに乗るのは二人の人間。
「た、たた楽しいねえ~! す、すっごく楽しいなぁ~~!」
緊張で声が上ずっているシエルと、視線を遠くの方に投げているライセである。
「み、水の上って涼しいね!」
「……ああ」
「きゅっ!? き、今日はいい天気だよね!」
「……ああ」
「ラ、ライセ?」
「……ああ、ん?」
シエルもここでさすがに気づく。
ライセはどこか上の空で今の二人の間に会話が成立していない事に。
両親の前でいたようなシエルなら、ライセのこの態度に怒っていたかもしれない。
ちぐはぐで似合わない強気の仮面を付けたかもしれない。
しかし彼女はここでは気を許して笑い、心のままに悲しむ。
本来の弱々しい自分を晒し、それが気持ちを伝える最良の方法だと信じて、隠さぬ心をそのままライセへとぶつけてくる。
「わ、私といても楽しくない? 迷惑、だよね……ごめん。ライセは護衛に雇われただけだから、迷惑に決まってるよね」
ボートの上で膝を抱え顔を見せないように俯いた。
そんな様子を見て、しかしライセは何も言えない。言葉をかける事が出来ない。
(なんでこんなにも、俺に……)
二人が出会ってまだ幾ばくの時間も経ってはいない。
短時間しか接していないライセへ警戒心のない心の許しようは、しかし考えてみれば当然の成り行きかもしれない。
昔から婚約者がいて、自発的な恋愛とは縁遠かった。
刺激のない、自然が豊かなだけの周りの世界では出会いを求めるのが酷であろう。
そんな中、ライセが現れた。ハニスとは別種の異性が自分を護るため、今一番近くにいる。
状況としては、勘違いを起こしても不思議ではなく思える。
――そう、勘違いなのだ。こうやって懐いてしまうのは色んな状況が幾重にも重なり、結果生まれた勘違いがシエルに夢を見せているだけ。
夢が覚めれば残るのは虚無感だけ。ならば、お互い近づきすぎない方がいい。
ライセは無意識の強制のようにそう思い、そうして自分の心が何かで埋まるのを避けようとしていた。
「ライセ?」
それでも。
「――えへへ」
それでも、なぜか放っておく事が出来ないのか。
理性で歯止めをかけたのに、本能で押さえ込んだはずなのに、ライセの手は自ずと動いていた。
物言わぬ口の代わりというようにその手は無意識にシエルの頭を撫でる。
大切なもののように優しく、優しく。
(護りたい……)
心の底から湧き上がる。依頼のためでなく、昔の罪滅ぼしのためでもなく。
ただ、そう思える。気づいてしまった気持ちは暖かく、穿たれていた傷に染みながら全身を優しく撫でる。
震える心と腕は、しかし今度こそ少女から離れることが出来ず、ライセの表情はより濃い苦悩の色へと染まっていく――
夜の帳が外に広がり暑苦しかった気温を徐々に下げ始めていた。
鏡のように輝いていた水面は漆黒に彩られ、底の見えぬ巨大な穴のような湖には一つだけ光が浮かんでいる。
船の形をしたそれの一室。広々とした食堂でシエルはライセを待っていた。
「お嬢様……料理が冷めてしまいます」