薔薇色の人生
その会話を聞いたのは、本当に偶然だった。
マリエルと婚約してから大分たち、想いをしっかりたしかめ合って、私たちは順風満帆な日々を送っている。結婚に向けての準備は着々と進められ、式の日取りも決められた。私を慕い、輝く瞳を向けてくれる婚約者に、不満などなかった。その輝きに、時に理解を超えた熱意がこもろうとも。特殊な嗜好と思い込みが交じろうとも、すべてを含めて彼女を愛したのだ。しばしばついていけない気分になることもあるが、不満なわけではない。いや、待ってくれと言いたくなる時もあるが……目の前にいる私よりも妄想の中の私に焦がれている姿には、もの申したいところもあるが……。
……まあ、小さな不満ならある。だが彼女への愛情が薄れるような、そんな問題はなに一つなかった。
マリエルの方も、私を愛してくれていると信じていた。妄想だけでなく、ちゃんと現実の私を見て、想いを寄せてくれているはずだ。私が鬼畜でも腹黒でもないと(断じてない!)わかっても、落胆するわけでない。それはそれでよしと、あるがままの姿を喜んでくれていた。
――そう、信じていたのだ。
「不誠実きわまりないわ! あなたはアラン一人を愛することができないのね!?」
そんな、言葉を聞くまでは。
たまたま通りがかった小サロンの前、半開きの扉から聞こえてきた声に驚かされた。つい足を止めて、扉の隙間から見える室内に目を向ける。数人の少女が集まる中に、婚約者の姿を見つけた。
「そんなの、アランがかわいそうよ! 彼に申し訳ないと思わないの!?」
一人から責められているのは、他でもないマリエルだった。
いったい、なんの話だ。アランといえば私の副官の名前だ。アラン・リスナール中尉、ちょうど今そばにいる。
私の視線を受けて、中尉はあわてて首を振っていた。
「しっ、知りませんよ!? 自分はなにも」
聞かないうちから釈明しようとする中尉を、私は身振りで黙らせる。
室内の少女たちに目を戻せば、マリエルが反論するところだった。
「なぜかわいそうなのですか。そのお考えがわたしには理解できません。アランのことはもちろん大好きですわ。それと同じくらい、ユーグも好きなだけです」
――今度は殿下の名前が出てきたぞ!? セヴラン・ユーグ・ド・ラグランジュ。言うまでもなくわが国の王太子殿下だ。なぜマリエルが親しげに殿下のミドルネームを、しかも呼び捨てにしているのだ。いつの間にそんな関係になった。
これまた偶然殿下が向かいから歩いてこられる。扉に張り付く私に気付き、なにごとかと足を止められた。
「なにをして――」
声を上げかけた殿下を、失礼ながら実力行使で黙らせた。私にはがいじめにされ口を押さえられた殿下は、一瞬抵抗しかけたが、室内から聞こえる声に気付きおとなしくなった。私の意図を悟り、物音を立てないようにしてくださる。私はそっと殿下から手を放した。
「どうしたのだ、いったい」
マリエルたちに聞こえないよう、小声でささやかれる。私も同じようにしてささやき返した。
「殿下、いつからマリエルと交際を?」
「は?」
凛々しい眉が上がり、次いで寄せられた。
「交際って……いや、お前の婚約者だから、むろん付き合いはあるが……」
「ミドルネームを許されるとは……まさか、マリエルを妃にとお考えなのですか」
「なんの話だ!?」
殿下の声が高くなったが、それを上回る声が室内から聞こえてきて、こちらに気付かれたようすはなかった。
「理解できないのはこっちよ! よくそうも堂々と二股宣言できるわね。そんないいかげんな気持ちでアランへの愛を語らないでほしいわ!」
「二股!?」
殿下もその後ろに控える侍従たちも、いっせいに驚いて中尉を見る。全員から注目されて、ふたたび中尉が首を振った。
「ですから、自分は知りませんて!」
「いやしかし今――別のアランか? うちの秘書室にも一人アランがいるな……」
殿下は侍従たちと顔を見合わせる。当該人物をもちろん私は知っているが、彼は四十代の妻子持ちだ。
「彼とマリエルに接点があるとは思えません。マリエルの知るアランは中尉だけのはずですが」
「知りませんてばー。よくある名前だし、もっと他のアランなんじゃないですか」
「彼女の家の使用人にも、関わっている出版社にも、アランという名の人物はいない。マリエルの周辺でアランといえば中尉くらいしか……」
「いや待て、待てシメオン。それよりもだな、もっと大きな問題がないか」
殿下が私を止めた時、またも室内の少女が声を張り上げた。
「あなたは結局、アランのこともユーグのことも真剣には愛していないのよ! 遊びでしょう! そんな不純な気持ちで彼のことを語らないでほしいわ。あなたにそんな資格はない。アランを汚さないで!」
「…………」
私たちは無言で視線を交わす。殿下はますます複雑な顔になっていた。
「……ユーグという人物に心当たりは?」
「目の前に」
「いや私以外に」
「殿下、正直にお答えください。本当にマリエルと……」
「だから知らんと言うのに!」
あのう、と遠慮がちな声が私たちの間に割って入った。どこか気の毒そうな顔をして、侍従の一人が言った。
「それよりもですね……マリエル嬢のお相手に、フロベール副団長のお名前が出てこないように思うのですが……」
「そうだ! それを言いたかった! そちらの方が大問題だろう」
殿下が勢いを得ておっしゃる。私は言い返すことができなかった。
そうだ――さきほどからの会話に私の名前が出てこない。マリエルが関係を持つ男となれば、真っ先に出てくるべき名前だろうに。本当は二股ではなく三股だ。なのになぜ、私の存在がないもののようにされているのだ。
頭を殴られたような衝撃だった。足元に穴が開いて、呑み込まれそうだ。
私たちは相愛の婚約者同士ではなかったのか。結婚の準備をし、ともに春を待つ関係だったはずなのに。
そう思っていたのは私だけなのだろうか。マリエルは、私の他にも付き合う男がいたのか。地味で存在感がなく、常に風景に同化していると思わせて、何人もと愛を語らう奔放な女性だったのか。そんなことが……。
――あるとは思えない。
自失しかけた己を、私は頭を振って立て直した。なにを動揺しているのだ、情けない。たしかにマリエルは見た目と大違いな、予想を遥か斜め下に裏切ってくる娘だが、そういう意味で裏切る人物ではない。彼女はなにごとに対してもまっすぐで、陰湿さや卑怯さとは無縁の人間だ。仮に他の男に心が揺らいだとしても、私に隠れて不貞を働いたりしない。そういう女性ではない。
なにかがおかしい。私はもう一度室内のようすを覗いた。
マリエルと同席しているのは、友人のジュリエンヌ嬢と他に数名だ。ざっと見たところ、高位貴族の令嬢はいない。同じくらいの家格の令嬢たちが集まっているらしい。
宮廷には社交のために開かれた部屋がいくつもあり、ここもその一つだった。貴族の娘同士で交流している風景じたいは、なにも珍しくはない。ただそこにマリエルが交じっていることが珍しい。しかも口論など――と考えたところで、彼女たちの手元にはそれぞれ本があることに気付いた。
まさか……。
「レベッカ様、少し落ち着いてくださいませ」
相対する少女とは反対に、マリエルは落ち着いた声で言い返した。いつもの能天気な陽気さはないが、怒りや怯えを感じさせるものでもない。彼女は静かに相手を諭そうとしていた。
「レベッカ様の価値観を否定する気は毛頭ございません。ただ一人を大切に想うのも尊いことだと思います。ですが、いろんな人物に好意を抱いたからといって、不誠実と決めつけられるでしょうか。裏切りなどではございません。それぞれのあり方、生き方を尊く思い、素晴らしいと称賛しているだけです。彼らの輝きに心惹かれ、ただ喜び愛しているだけです」
「やめてよ、もうこれ以上彼を貶めないで」
「貶めているとするのは、あくまでもレベッカ様の個人的な認識です。わたしにはけっしてそんなつもりはありません」
「自分勝手にねじ曲げた人格を捏造して、それがアランの姿だと言いながら貶めていないなんて、その考え方が許せないわ。あげく他の男と並べて語るなんて、どこまで彼を侮辱すれば気が済むの!?」
緊迫の口論に聞き耳を立てていると、肩がつつかれた。殿下がもの言いたげな顔をしておられる。私は首を振って、もう少し黙っていてくださるよう身振りで伝えた。
マリエルは少し困ったようすで息をついた。隣のジュリエンヌ嬢は、もっと露骨に顔をしかめている。なかなかかみ合わない二人の口論に、他の少女たちも困惑していた。
「……同じことを、誰かから言われたらレベッカ様はどう思われるでしょうか。ただ純粋に楽しんでいるだけなのに、他者から捏造だ、侮辱だ、不誠実だと罵られたら?」
「話をすり替えないでよ。あなたは現実にアランを侮辱しているのよ。それを指摘しているだけでしょう」
「それはレベッカ様の個人的な感想にすぎないと言っているのですが」
「ああもう、本当に話の通じない人! まっとうな批判を受けても聞く耳持たないで被害者ぶって、こんなひどいこと言われましたーってやりたいわけ? 被害者はこっちよ。あなたが自分勝手なことを言うたびに、こっちはいやな気分にさせられるのよ。大切な存在を汚されて、とても傷つけられるのよ。もう二度と来ないで! あなたにアランのことを語る資格なんかないんだから、もういっさい発言しないで。あなたに少しでも良心があるのなら、おとなしくこの界隈から消え去って」
話し合いは決裂のようだ。マリエルはさきほどよりも深く息をつき、立ち上がった。ジュリエンヌ嬢も続いて立ち上がる。二人は室内の少女たちに挨拶をすると、こちらへ向かって歩いてきた。
一緒に覗き込んでいた殿下があわてて身を引かれる。私も数歩下がって扉から離れた。なにも指示しないのに、アランと侍従たちが壁に張り付く。はたから見ると奇妙でしかない光景の中に、マリエルたちが出てきた。
「……なにをしてらっしゃいますの?」
壁に張り付く男たちに気付いて、マリエルが目を丸くする。ジュリエンヌ嬢は小さな悲鳴を上げてマリエルの背後に隠れた。
「いえ、すみません、通りがかったらもめているようすでしたので」
「殿下まで……」
マリエルの視線を受けて、殿下は咳払いをされる。
「いや、私はシメオンがいたものだから――それより、なにをあんなにもめていたのだ?」
大きく開かれた扉から、室内のようすがよく見える。向こうからもこちらが見えている。レベッカ嬢と他の令嬢たちが驚いていた。
マリエルが扉を閉めて、向こうの空間と切り離す。
「別に、たいしたことではございません。本が好きな人同士で集まって読書会をしていたのですが、少しばかり解釈の相違がありまして」
「さきほどの彼女はアランの関係者か?」
殿下に聞かれて中尉は必死に首を振る。
「何度も言ってますが、知りません」
「しかし、ずいぶん熱心に語られていたではないか。腹が立つほどモテモテだな」
「知りませんてばー」
首をかしげて二人のやりとりを見ていたマリエルは、ああと手を打った。
「やだ、違います。アラン様のことではなく、こちらのアランです」
と、手にした本を掲げて見せる。大体察しがついていた私以外、全員が目をまたたいた。
「そのアラン? む? どういうことだ」
「この物語のヒーローもアランという名前なのです。レベッカ様とお話ししていたのは、こちらのアランのことです」
ようやく明かされた真相に、全員がどっと息を吐く。揃って気の抜けた顔になっていた。中尉は肩も落としていた。
「小説の話か! それをあんなに真剣に言い合っていたのか!」
「ああ……そうですよね、自分があんなにもてるはずは……ははは……」
嘆くな。あとで酒でも差し入れてやる。
「もてますよ。凛々しい近衛騎士ですもの、アラン様だって素敵です。ただこちらのアランは、絶世の美貌と超人的な強さを誇るヒーローで、ちょっと別格なだけです」
「美貌と超人……それ副長のことでは」
「うーん、条件は似ていますが、ちょっと違うかも」
「ではユーグというのも……」
「それはこちらの」
マリエルは背後を振り返り、ジュリエンヌ嬢の手にある本を示す。殿下の視線を受けて、ジュリエンヌ嬢は掲げた本に顔を隠した。
「レベッカ様は熱烈なアラン推しなのですが、ちょっと思い入れが強すぎて他人の解釈を受け入れられなくなってらっしゃいますの。他の登場人物と同時に推すのも許せないようで」
「それで不誠実だとか裏切りだとか言っていたわけですか」
また全員が息を吐く。私も気が抜ける思いだった。まったく人騒がせな。本当に二股騒動なのかと思わせるやりとりだったぞ。
ようやく理解と納得を得られた殿下は、頭が痛そうに押さえていた。
「人それぞれに解釈があり、どれも間違いではないのだとご理解いただきたかったのですけど、上手くいかなくて。まあしかたありませんね。今のレベッカ様にとってアランは恋人ですから。複数同時推しは恋人への裏切りでしかなく、解釈違いは恋人を否定されること。そもそも他人がアランについて語るのも、いい気はしてらっしゃらないようでした。いわゆる同担拒否ですね」
「いわゆるもなにも、そんな言葉はじめて聞いたわ。小説の中の男だろうが。実在しない架空の人物相手になにを馬鹿馬鹿しい」
たまりかねて殿下が言い返す。マリエルはむっと頬をふくらませた。
「それはひどいおっしゃりようですわ。素敵な登場人物に心ときめかせ、キラキラした気持ちを楽しむのがご理解いただけません?」
「楽しむのはよいが、恋をしたところで不毛だろう。どんなに素晴らしい人物であっても、手を取ることも結婚することもできない。常に一方通行だ。想いを強くすればするほど、切ないではないか」
「結婚した人いますよ。指輪や食器を揃えて二人で暮らしていらっしゃいます。妄想ですけど」
「妄想ではないか!」
「死んでしまった推しのために、お葬式をして祭壇を作った人も知っています」
「妄想でそこまで!」
「記念日のすごし方とか、けんかをしてしまってどんなふうに仲直りしたかとか、子供は何人でどんな子だとか、いろいろ聞かされます」
「どこまで妄想するんだ!? すごいな!?」
世の中にはマリエルの同類が意外にたくさんいるらしい。レベッカ嬢の思い入れの強さも、珍しいものではないのかもしれなかった。
解釈違いに同担拒否。また特殊な用語を覚えてしまった。マリエルと付き合いだしてから、どんどんおかしな知識が増えていく。時折自分の向かっている方向がわからなくなる。
まあそれも、人生の楽しみと言えるかもしれなかった。私の知らなかった世界を彼女は見せてくれる。頭を抱えたくなったり、つっこまずにはいられなかったり、珍妙なことも多いが、知るほどに私の世界は広がっていく。多分、それは悪いことではないのだろう。
「ところであなたにとっての『アラン』は、どういう存在なのです?」
後日二人だけで会った時に、私は気になっていたことを尋ねた。他者と意見を対立させるほどだ、マリエルも「アラン」に思い入れがあるのだろう。架空の人物だと知りながらも、いささか面白くない話だった。
「え? ヒーローですよ。とっても素敵な」
マリエルの答えは明快だった。少しも悩まず即答する。
「…………」
「アランもユーグも同じくらいかっこよくて、同じくらい萌えます。そう言うとレベッカ様には不誠実だと怒られたのですが、そもそも視点が違うというか……レベッカ様はご自分とアランの恋に萌えていらっしゃいますが、わたしはアランとヒロインの恋に萌えるのです。不誠実もなにも、アランの相手はわたしではありません。立ち位置が全然別なのですよね」
屈託なく笑うマリエルに、また脱力するのを感じる。けれど今度は悪い気分ではなかった。こんなことで安堵している自分がまったく馬鹿だと思うが、小説の中の男に嫉妬する必要がなかったのは幸いだ。
「ヒロインね……そういえば恋愛小説なのですから、いるはずですよね」
「ええ、いるんです。とても素敵なヒロインが」
くすくす笑いながらマリエルは身を寄せてくる。ふれ合うほど近くに座り、甘えてくる。嫉妬したことに気付かれ、いささかばつが悪いが、それ以上に心地よい幸福感が押し寄せて、どうでもよい気分にさせられた。こうしていつも彼女に振り回されている。それを楽しんでしまうのだから、私もたいがいまいっている。
「いろんな物語のいろんな登場人物に萌えますが、わたしのいちばんの推しは、シメオン様ですよ」
そんな言葉一つで喜んでしまう自分に呆れつつ、世界は今日も薔薇色に輝いている。
5巻が4月2日発売になります。