3 物語はめでたしめでたしで
最近、シメオン様がおかしい。
「お嬢様、今日も届きましたよ」
小間使いのナタリーが、一輪の薔薇をたずさえてやってきた。
「伝言や手紙などはあって?」
「いえ……ございません」
「そう。いいわ、ありがとう」
わたしは薔薇を受け取り、保護に巻かれている紙から出してテーブルの花瓶に放り込んだ。そこには同じ真紅の薔薇が何本も生けられている。まだ蕾に近いものから完全に開ききってしまっているものまで、状態はさまざまだ。
「……これはもうだめかしら」
わたしは見頃を過ぎ、形が崩れるほど開ききった花にふれた。その刺激で花びらが数枚、ほろりと落ちる。
「お水も変えた方がよろしいですね。整えてまいります」
ナタリーが花瓶ごと抱えて持ち出していく。それを見送り、わたしはため息をついた。
何日シメオン様のお顔を見ていないだろう? あの夜会からずっと、お誘いもなければ会いにも来てくださらない。手紙すら来ない。代わりに毎日、薔薇が届く。
お仕事が忙しくて時間を取れないのかしら? でもそれなら、何か伝言くらいあってもよさそうなものよね。シメオン様は律儀な方だから、何も言わずに放置するとは思えない。
……やっぱり、愛想尽かされちゃったのかしら。
心当たりを考えると、胸がずしりと重くなった。
ブラシェール公爵邸で夜会が開かれた日、シメオン様がお仕事なことを知っていたわたしは、何も言わず一人で出かけた。会場でお姿を見かけても、あちらはセヴラン殿下のお供をしていらっしゃるのだからと、お邪魔にならないよう離れていた。
婚約者が王太子殿下の信任厚い近衛騎士となれば、そういうことは今後もいくくらでもあるだろう。わたしは大したことと思わず、久々に一人で情報収集に励むつもりだった。
でも、それがいけなかったようだ。わたしを見つけてやってきたシメオン様は、笑顔の下に不機嫌そうな気配を漂わせていた。
婚約したのに一人で遊びに出かけるなんて、慎みがないと思われてしまったのでしょうね。いつになく強引で苛立ったようすのシメオン様が怖くて、わたしは殿下へのごあいさつもそこそこに逃げ出してしまった。
その後は話しかけることも話しかけられることもなく、離れたままで終わった。それっきり、今日までシメオン様とは会っていない。
多分、あれでひどくお怒りになったのだろう。婚約者を放り出して一人で遊び歩く放蕩娘と、呆れられてしまったのだろう。
否定できないわね……たしかにちょっと、軽率だったかも。
寛大な殿方なら奥様が気ままに出歩くことにうるさく言わないけれど、昔かたぎな方や気難しい方はそう簡単に外出を許してくれない。夫婦同伴で出向く場所以外、あまり外へ出られない奥様も珍しくない。
きっとシメオン様もそういう人なのね。婚約したのだから妻と同じ扱いで、わたしの行動を監督したいのだわ。なのに無断でひょいと出かけてしまったものだから、腹を立てたのだろう。
せめて事前におうかがいを立てておけばよかった。無断というのがまずかった。己のうかつな失敗を思うと、ため息が止まらない。
あーあ……生涯最大、一度きりの幸運を逃しちゃったかしら。
まだ婚約解消を言い渡されたわけではない。でもあれからひと月近く、一度も会わず手紙ももらえないのは、すでに破談状態と思うべきではないかしら。
水を換え、見苦しくなった花を抜いてきれいな花だけになった花瓶をナタリーが戻しに来た。天鵞絨のようなしっとりとした花びらを持つ、情熱的な真紅の薔薇。愛情を伝えるのにもっともふさわしいとされる花だけれど、わたしにとってはまったく別の意味を持つ。
毎日何も告げずに一輪だけ届けるって、書いたわねえ。そのエピソード、ものすごーく、心当たりがあるわあ。
アニエス・ヴィヴィエの小説を読んだとシメオン様はおっしゃった。これは間違いなく、あの話を真似ているのだろう。わざわざ私に再現してみせるというのは、すべてを知っているぞという無言のメッセージに他ならない。
あの話のヒロインは誰からの贈り物かわからずときめきと困惑に翻弄されるのだけど、シメオン様ははっきりご自分の名前を出して贈ってくる。わたしに、隠しても無駄だと姿も見せないまま追い詰めてくる。毎日薔薇を見るたびに、わたしは気持ちが重くなっていく。
「はあ……萌えない」
花瓶の前で頬杖をついて、わたしは肩を落とした。目の前にシメオン様がいて迫力笑顔で責めてくるならまだ萌えもあるのに、ご本人の姿が見えず追及だけされたのではたまらない。
もう間違いない。わたしがアニエス・ヴィヴィエであることを、シメオン様は確信していらっしゃる。きっとそれも怒らせている原因だろう。
でも証拠はないはずだ。出版社に問い合わせたって作家の個人情報は漏らさない。権力で強引に聞き出すなら、その理由を問われるはずだ。自分の婚約者かもしれないからなんて言えば、恥をさらすことになる。流行小説に不快感を持つ人なら、絶対に言いたくないだろう。
下手に騒ぎになって恥をかかないよう、わたしに自分から白状させようと仕向けているんでしょうね。毎日ネチネチと薔薇を送りつけて、こっちが耐えきれなくなるのを待っているのだわ。傍目には毎日愛情を伝えてくれる理想的な婚約者と見せながら、わたしをじりじりと崖っぷちへ追い込んでいく。
さすがの鬼副長っぷりに感心するけれど、問題が問題だけに萌えてはいられない。
うーん、もう降参しちゃおうかなあ。もともと釣り合わない話だったのよね。なんの奇跡か間違いか婚約まではできたけれど、そのまま結婚にこぎつけられると思うのが厚かましかった。
シメオン様がわたしを見限ったのなら、悪あがきをしても意味がない。このまましらをきり続けても、そのうち何かしら理由をつけて破談にされるだろう。夜会の件だけでも、婚約解消の十分な理由になる。
今はっきり言ってこないのは、きっとシメオン様の最後の優しさだわ。向こうから破談を言い渡されれば、わたしに問題があったからだと世間に知れ渡り、大恥をかく。だからうまい言い訳を考えて自分から辞退しろということだろう。
せっかくの配慮だ。とってもとっても残念だけれど、あきらめよう。今ほどそばにいられなくても、遠くからでもお姿をかいま見ることはできる。それでいいじゃない。短い間でもたくさん素敵な思い出をいただいた。特に騎士団本部へお邪魔した時のアレ! 夢にまで見た鞭装備のシメオン様! あれはよかった……物柔らかな中に危険な匂いをひそませた、鬼畜要素ありの腹黒美形! 眼福とはまさにあのことよ、ごちそうさまでした!
目を閉じて至福の光景を思い出し、うっとりと浸る。うん、この思い出だけで一本書ける。それで十分だわ。いい夢を見させてもらったと思いましょう。きっとお父様たちも納得してくれる。みんな、うちには無理な縁談だと思っていたのだもの。
チリチリと胸を刺す痛みにふたをして、わたしは便箋を取り出した。夜会以来シメオン様が怖くて、こちらから連絡するのもためらっていた。でも、もう腹を括った。ペンを走らせ、シメオン様への手紙を書き綴る。
わたしのいたらなさで失望させ、申し訳ありませんでした、と。身の程をわきまえて、婚約の話は辞退させていただきます……作家活動のことは書かないけどね。証拠を押さえられない限り、こちらからは絶対に言わないわよ。でもわたしが観念したことは伝わり、シメオン様を満足させるだろう。
気をつけて言葉を選び、何度も読み返して修正を加え、清書した手紙をしっかり封して使用人に託す。フロベール家へ届けるよう頼み、出て行くのを見届けると、なんだかどっと気が抜けてしまった。
あーあ……終わったわね……。
しばらくはまた噂されるだろう。行く先々で笑い物にされ、オレリア様たちはここぞと勝ち誇って厭味を言いにくるだろう。それはそれで参考になるからどんと来いなんだけど、妙に力が出ない。わたしとシメオン様の差を考えれば、婚約は夢か幻を見ていたようなもの。目が覚めて現実に戻っただけなのに、思いの外がっくりきているようだ。
だめだめ、いつまでも落ち込んでないで、切り替えないと。
わたしは手早く身支度して家を出た。ナタリーは連れず、馬車も用意させずに徒歩で行く。少し歩けば車通りに出られるから、流しの辻馬車を拾えるだろう。
貴族の女性、しかも未婚の娘として、こんな外出の仕方はあってはならないことだ。それこそ放蕩者と後ろ指を指される。――でも、うちの家族や使用人は気にしない。
わたしが庶民のような服装をして一人歩きをしていたら、まず間違いなく誰も注目しないからね。どこかの家の使用人がお遣いに出ているとでも思われるだろう。街まで行けば、周りは同じような人ばかり。完全にまぎれてしまって家族ですらわたしを見つけ出せなくなる。
今の私はどこから見ても中産階級の娘だ。飾り気の少ない淡いクリーム色のドレスに同色の帽子をかぶり、短い編み上げ靴で颯爽と石畳を闊歩する。社交界へ出る時とちがって、大股でズカズカ歩いちゃう。シャルダン広場でショコラのクレープと焼き栗を買って、ラトゥール川沿いの散歩道を歩こう。市場まで足を伸ばしてもいいし、商社や新聞社が並ぶ商業街を見に行くのもいい。貴族の社交界に出入りするばかりでは見られない、市井の雰囲気や人々を見てこよう。ついでに出版社に寄って、次回作の打ち合わせをしてきてもいいかもね。
今までどおり小説中心の生活に戻れば、婚約もシメオン様も忘れられる。元通りのわたしに戻るのだ。
開き直って明るいことを考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。わたしはちょうど走ってきた辻馬車を呼び止めて、秋も深まる街へ繰り出した。
街を見物しながら買い物を楽しみ、そろそろ帰ろうかという頃だった。
「失礼ですが、クララック家の令嬢でいらっしゃいますね?」
近付いてきた女性が呼び止めたので、わたしは驚いてしまった。
「あの……?」
身なりは悪くない。上流の家の使用人という雰囲気の、二十代くらいの女性だ。
「ああ、驚かせてしまって申し訳ありません。わたしはフロベール家の……シメオン様の遣いの者です」
どきりと胸が音を立てた。シメオン様から遣いが? なぜ? あの手紙を読んだから?
さっそく婚約解消に向けて話し合おうということだろうか。にしても、なぜこんな場所で呼び止められるのだろう。わたしがここにいると、シメオン様はもとよりこの人だって知らなかっただろうに。
「実はシメオン様がこの近くにいらっしゃいまして。偶然お嬢様をお見かけして、お連れするようにとわたしに命じられたのです。馬車でお待ちですので、ご足労いただけませんでしょうか」
なんと。この大都会の中で、それも貴族街ではなく市中で、たまたま行き合うなんて。
たいへんな偶然、というより運命? やっぱりわたしとシメオン様は運命で結びつけられているのかしら。大勢の人の中からわたしを見つけ出してくれるなんて、愛ゆえかしら。
――なんて、物語ならときめきが盛り上がる場面よね。現実はそんな都合のいいものではないけれど。
「どちらの馬車ですか?」
周囲を見回してそれらしい馬車をさがす。あちらです、と示されたのは、あまり人通りがない道へ入る曲がり角だ。馬車の端っこがちらりと見えていた。
わたしは女性に連れられて、馬車へと歩いた。家紋も入っていない目立たない造りの馬車には、馭者の男がひとりついているだけで、他のお供がいるようすはなかった。
「さあ、どうぞ」
扉を開けて女性がうながす。近付いて中をのぞき込むと、案の定乗っていたのはシメオン様ではなかった。ええ、わかっていましたよ。シメオン様のお遣いなら、侍女ではなく従僕か見習い騎士のはずだものね。
どん、と背中を突き飛ばされて馬車の中に倒れ込む。外に残った足を馭者が抱え上げ、わたしを無理やり馬車に放り込んだ。起き上がるより早くさっきの女性が乗ってきて、閉めた扉の前に陣取りわたしが出られないようにする。じきに馬車はあわただしく走り出した。
「ごきげんよう、マリエル様。こんなところでお会いするとは思いませんでしたわ」
馬車の主が、侮蔑と敵意をにじませた声を出した。わたしは乱れた裾を直し、彼女の向かいの座席に腰かけた。使用人の女は主のそばに座る。
「ごきげんよう、オレリア様。わたしも驚きました。オレリア様でも街中へ出かけられたりなさるのですね」
薔薇色のドレスに身を包んだ、豪華な金髪の美女が赤い口元を吊り上げた。
「ええ、劇場へはよく行きますわ。途中の風景を窓から眺めるのも楽しいわね。まさかそれであなたを見つけるとは思わなかったけれど。今日はずいぶんと変わった装いでいらっしゃるのね? まるで庶民のよう! とてもよくお似合いよ。でも侍女も連れずにご自分の足で歩き回るだなんて、クララック家はずいぶんと自由な家風でいらっしゃるのねえ。格の低いお家はそんなものなのかしら。わたくしの周りではとうてい考えられない話ですわ」
ホホホホホ、と高らかにオレリア様は笑う。絵に描いたような悪役令嬢の姿を、わたしはうっとりと見つめた。
馬車の窓から街を眺めていてわたしを見つけてしまうだなんて、信じられない。このわたしを人混みの中から見分けるとは、それはもう愛でしょう。オレリア様がこんなにもわたしを愛してくださっていたなんて、感激だわ。
――うん、まあ、わかってる。きっとアレね、嫌いなものほど目につくということなのでしょう。うちのお母様もネズミが大嫌いで、驚くほど気配に鋭いものね。
それでもこの格好のわたしを見つけ出すのだからたいしたものだ。憎しみは下手な愛情より強く人を結びつけるのかも……あら、このフレーズ使えそう。メモに書いておきたいけど今出すのはだめかしらね。
「ぼやっとしてらっしゃるけど、何かおっしゃらないの?」
つい見とれていたら、少し白けた顔でオレリア様がおっしゃった。わたしの反応が薄かったため、ご不満なようだ。
「申し訳ございません、オレリア様があんまり素敵だったもので、見とれてしまいました」
「は? なに、それ。今さらそんなしらじらしいお世辞を言って、わたくしの歓心を買えるとでも?」
お世辞だなんて。心からの言葉なのに。伝わらなくてマリエル悲しい。
「いいえ、そういうつもりでは。単なる萌えの発露です」
「……は?」
「それで、シメオン様からの遣いと偽ってわたしをお呼びになった理由は何なのでしょう? と申しますか、この馬車はどちらへ向かっておりますの?」
私は窓を流れる風景に目をやった。知らない街角を進んでいて、今どの辺りを走っているのかよくわからない。
カヴェニャック侯爵邸へ連れ込まれるのかしら。でも多分、貴族街方面へは向かっていないと思う。
わたしが聞くべきことを聞いたので、ようやくオレリア様は満足そうにフンと笑った。
「とても楽しい場所へお連れしようと思って。きっとあなたも気に入ってくださるわ。期待してらして」
「ええ、展開には大いに期待しておりますが、先にひとつお伝えすべきことが」
「……なんなの」
またオレリア様の眉が寄る。美人はどんな表情をしてもうつくしい。
「オレリア様がわたしを不快に思われる理由は、シメオン様との婚約でしょう? ですが実は、婚約を解消しようと思っているのです。今日シメオン様にお手紙を出したばかりです。あちらもそのおつもりでしょうから、多分すぐに決まると思いますが」
「なんですって?」
一瞬、オレリア様のお顔がきょとんとなった。あら、そんな間抜けな表情をなさると険が消えて、ずいぶん可愛らしくなるのね。オレリア様の新しい魅力、発見。
「ですから、オレリア様がわたしを敵視なさる必要もなくなるのですけど」
「……そんなたわごとを真に受けるとでも思って? シメオン様の方から破談を言われるならわかるけれど、なぜあなたが断るのよ。あり得ないでしょう」
「ええ、何もなくお断りするつもりはありませんでした。いろいろ、問題が発生しまして。シメオン様はわたしの世間体を考えて、ご自分から破談を言い出すのではなく、わたしから辞退するという形にさせてくださったのです。きっと数日中には婚約解消が発表されることになると存じます」
「…………」
オレリア様はうさんくさそうに、わたしを見つめた。すぐには信じられず疑っているようだ。嘘もごまかしもないので、わたしは動じることなく緑の瞳を見返す。しばらく馬車の中は重い沈黙に包まれた。やがてオレリア様はまだ疑わしげに目をすがめながら言った。
「その話が本当なら素晴らしいことね。シメオン様ほどのお方が、あなたのようなつまらない人に人生を無駄にされるなど、耐えがたいことですもの。でも、事実かどうかは疑わしいわね。この場を逃れる方便ではなくて?」
「逃れなくてはならない場面なのですか?」
ああ、どうしよう。ゾクゾクする。悪口やたわいのない嫌がらせとはちがう、もっと強引な手段に出てくるなんて。まるで物語のような展開だわ。もっとも物語のヒロインには救いにきてくれるヒーローがいるけれど、わたしは自力でなんとかしなければならない。萌えてばかりいないで、状況は冷静に把握しておかないと。
「あら、いいえ。そうね、楽しいことと言ったのよね。ふふ、余裕ぶってみせているけれど、いつまでそんな虚勢が続くかしら」
ああ、獲物をいたぶる愉悦に歪んだ顔がいい! それでこそ悪の華! 美しく迫力のあるオレリア様だからこそさまになる。わたしが真似をしてもこうはいかない。
ハァハァする内心を隠し、しおらしく黙っていると、やがて馬車が停まった。どこかの建物の前だった。
「こちらは?」
そろそろ暗くなってきた時間なのに、ずいぶんとにぎやかだ。表の繁華街とはまた異なる雰囲気のここは、もしや歓楽街というものではないだろうか。
そこはかとなくいかがわしい雰囲気の店が並んでいる。通りを歩く姿は圧倒的に男性が多い。ちらほら見かける女性は素人ではなさそうな、近くのお店のおねーさんたちだ。
「食事をしたり音楽を聴いたりして遊ぶお店よ。さ、お降りになって」
侍女が扉を開くと、すでに馭者が待機していた。強引に引きずり出されたわたしのあとから、オレリア様が降りてくる。
「これは、もしかして……憧れの娼館というものですか!?」
「あこがれ?」
はっ、いけない。興奮のあまりつい本音がこぼれてしまった。
「いえ、ですから殿方たちの憧れの」
あわててごまかす。これまで入るどころか近寄ることもできなかった禁断の園を前にして、うっかり暴走しそうな自分を懸命に抑えた。
「ふふ、大丈夫よ。ここはプティボンでいちばん格式の高い店だから。顧客には貴族の男性も多いのよ」
プティボン……おお、その名は間違いなくサン=テール市最大の歓楽街。そこでいちばんの店というと、『トゥラントゥール』!? 王族すらひそかに訪れるという、あの!? セヴラン殿下もいらっしゃるのかしら!?
「わたし、ここで働くんですか!?」
「はあ?」
話でしか聞いたことのなかった場所に興奮を抑えきれず、つい叫んでしまったら、オレリア様はおもいっきり眉を上げて馬鹿にした顔になった。
「働きたいなら店に頼んでさしあげるけど……あなたでは客がつくかしらねえ」
ああ、そうですね。一流の美女を取り揃えたお店に、わたしなんかが並べるはずがありませんでした。
いえ、がっかりしているわけじゃないわよ? 娼館に売り飛ばされるなんて物語じゃないんだから、我が身に起きてほしくはない事態だ。興奮はしても現状はちゃんと認識している。オレリア様にその気がないようで一安心だ。ええ、がっかりなんかしていませんとも。
どれだけ素晴らしいネタを仕入れても、無事に帰宅しないと小説にはできないのだから、売り飛ばされるのは困る。
でも、それなら何をするつもりでわたしをここへ連れてきたのだろう。
話をしている間にまた馬車がやってきて、わたしたちの近くに停まった。降りてきたのは見覚えのある顔だった。
「こんばんは、ジャコブ。急に呼び出してごめんなさいね」
若い男性にオレリア様が甘い声で語りかける。やはりモレ男爵家の若君、ジャコブ様だった。オレリア様の熱烈な信奉者と聞いている。本人は愛する人に尽くす自分に陶酔しているけれど、都合のいい使い走りにされているだけと陰で笑われている人だ。
さり気なく噂を聞き集める中で、時々耳にする話だった。オレリア様とそのとりまきたちは、悪口ネタの常連である。ご本人も悪口がお好きだけれど、周りからも同じように言われているとご存じかしら。
「オレリア様、ああ、僕の金の薔薇! あなたがお呼びならたとえ地の果てへでも駆け参じましょう。この愚かな愛の下僕に、今宵は何をお命じになるのです? なんでもおっしゃってください」
ジャコブ様は熱に浮かされた目で、芝居がかった台詞を口にした。本当、陶酔しきってるわね。
「ありがとう。この子をね、そこの店に連れて行ってあげてほしいの。普通の女性が見ることのできない場所を、見学させてやって」
ジャコブ様の視線がオレリア様からわたしに移る。とたんに目から熱が消え、石ころでも見下ろすかのような冷やかさになった。
「誰です、このみすぼらしい女は。あなたのおそばに置くには、まったくふさわしくない。小間使いといえども、もう少しあなたにふさわしい者を選ばれるべきでしょう」
「まあ、おほほ。ちがうわよ。こちらはクララック家の令嬢、マリエル様なの。市井のようすを学びたいと、わざわざこんなお姿になって出ていらしたのよ」
馬鹿にするつもりで言ったのだろうオレリア様の言葉は、限りなく真実に近かった。
「クララック……ああ、あの」
ジャコブ様の目がますます冷たくなる。彼にとってわたしは、オレリア様の眼前を汚すゴミみたいなものだろう。
「せっかくだから社会見学の機会を増やしてさしあげようと思ってね。わたくしではあの店には入れないから、あなたが連れていってあげてくださらないかしら。食事をして、数時間ほど滞在してくるだけでいいわ。個室ではなく他の客と一緒にね」
……つまり、オレリア様の狙いは、わたしを娼館に連れ込ませ、そしてそれを他の客(貴族もいる)に目撃させ、悪い噂の元にしようということか。
貴族の娘が娼館に出入りしていたなんて、たいへんな醜聞だ。ただの噂でなく事実として目撃されていたならば、もう二度と社交界に顔を出せないほどの事態になる。婚約だって即破棄される。わたしの話を疑っていたオレリア様は、たとえ嘘でも本当になるようこの策を考えたのか。
いえ、それ以前からよね。ジャコブ様を呼びに行かせたのなら、わたしを捕獲する前だ。たまたま街でわたしを見かけて即座に作戦を立て、素早く手を打つなんて……素晴らしい! まさに悪役の鑑!
って、萌えてる場合じゃないのだけれど。うん、店に連れ込んで周りに目撃させるだけって、ちょっと肩すかしな気分もある。それだけ? って言いそうになった。めいっぱい悪辣になったつもりでもその程度って、やっぱり育ちのいいお嬢様なのね。わたしもお嬢様のはずだけど、もっと悪辣な場面をいくらでも思いついてしまうのはなぜかしら。きっと物語の読みすぎね。
想像したほどひどいことをされるわけではないらしい。いちおう安心していいのだろうか。でもオレリア様の作戦だって、十分に困る内容だ。
娼館の中は見たい。でも好奇心より我が身の安全を優先しないと。
逃げることはできるだろうか。わたしはそっと周囲を見回した。すると、こちらへ近付いてくる集団が目に入った。
庶民の男たちだ。すでにお酒が入っているのか、大きな声で笑ったり怒鳴ったりしながらやってくる。
彼らはすぐにこちらに気付いて注目してきた。そうでしょうね、いくら格式の高い店とはいえ、娼館の前で立ち話をしている派手な男女が目を引かないはずがない。
「こりゃあ、どちらのお姫様で? たいした別嬪さんじゃねえか」
「さすが天下のトゥラントゥール、表で客引きするような女でもこの美貌か」
「そんな坊ちゃんより俺の相手をしてくれよ。いい客になってやるぜ」
からまれたのは当然オレリア様だった。ついでで侍女もちょっかいを出されていたが、男たちの意識がわたしに向けられることはなかった。
「なっ、何よお前たちは! けがらわしい、さわらないで!」
オレリア様が悲鳴を上げて身をよじり、無遠慮にさわってくる男の手から逃れる。その前にジャコブ様が立ってかばった。
「さがれ、下賤の輩が! このお方は貴様らごときがふれてよい存在ではない!」
実に立派な、毅然としたお姿だった。物語のヒーローのように、きりりとした顔でオレリア様を守ろうとしたけれど。
「うっせーよ」
無情なひと言と腕の一振りで、あっけなくジャコブ様は吹っ飛ばされてしまった。石畳に叩きつけられ、その場でうめいて立ち上がれなくなる。
ああ……現実のかなしいこと。愛と勇気だけでは解決しないのね。
お嬢様を助けようとした馭者も、殴られてへたり込んでしまった。
オレリア様たちが甲高い悲鳴を上げた。男たちに抱き寄せられ、無理やり引きずって行かれそうになる。
「いやぁ! やめて! もうっ、なんでこんなことになるのよ!?」
なんでって、そりゃあこんな時間にこんな場所へ来たら、こうなるに決まっている。
貴族でなくても若い女の子は歓楽街になど踏み込むべきでない。世間の常識だ。
わたしも若い女の子に含まれるはずなのだけれど、男たちはわたしの存在にはまったく気付かなかった。馬車にくっついているから同化しちゃってよく見えないのかしらね。
「そこ! 何をしている!」
気付かれないうちに助けを呼びに行こうと思っていたら、助けの方から来てくれた。鋭い声とともに数人の男が走ってきて、オレリア様を連れ去ろうとする男たちに飛びかかった。
あら……この人たち、目立たない普通の服装だけれど、中身は軍人ね。
素人には見えないよく訓練された動きで、彼らはあっという間に酔漢を撃退した。危機を逃れたオレリア様は涙目になっていた。
「お怪我はございませんか? カヴェニャック家の令嬢とお見受けしますが、このような場所で何を……」
「しっ、知りません! わたくしはただの通りすがりですわ!」
ぎょっとなってオレリア様はあとずさる。ここで身バレするとは予想外の展開だろう。わたしに仕掛けようとした策が、今自分の身に起きかけていると悟り、彼女はあわてて身を翻した。
オレリア様と侍女が馬車に飛び込み、なんとか起き上がった馭者もあたふたと戻って馬に鞭を入れる。呆気にとられて見送る人々を置き去りに、たちまち馬車は走り出した。
「ああっ、オレリア様! お待ちください僕の薔薇!」
復活したジャコブ様がやはり芝居がかった叫びを上げるが、おいてけぼりをくらった姿はしまらない。周りの目に気づき、彼もそそくさと自分の馬車に向かった。が、馭者がいない。どうしたのかとさがせば、さきほどの騒ぎにすっかりおびえて物陰に隠れていた。
「なにをしている! さっさと出せ!」
……あの馭者、若様が襲われても助けに入らず隠れていたなんて、クビかしらねえ。
そして二台の馬車が走り去り、わたし一人が残された。
オレリア様……わたしを忘れて行っちゃうなんてひどい。悪役なら最後まで責任持ってくれないと。
しかたがないので、辻馬車が拾えるところまで行こうと歩き出した。ところが助けてくれた男性たちはちゃんとわたしの存在に気付いていて、すぐに止められた。
「あちらへどうぞ」
やけに丁重なしぐさでうながされる。見ればいつ来たのか、少し離れたところに馬車が一台停まっていた。
「あの?」
「ご心配なく。我々の主が、あなたを保護してくださいます」
一般人のふりをした軍人が、そう言ってわたしを馬車へ連れて行く。今度は誰が出てくるのだろう。首をかしげながらついていったわたしは、開かれた扉の向こうの姿に目を丸くした。
「このような場所で人目につくのはよくない。早く乗れ」
少し厳しい声で命じられ、後ろからも急かされて、わたしは馬車に乗り込む。どうしようとためらっていると、座れと言われた。おっかなびっくり、向かい合って座席に腰かける。
はあ、と呆れた息がこぼされた。
「まったく、こんな場所で顔を見るとは思わなかったぞ。いったい何をしていたのか、説明してもらうからな」
黒い髪と黒い瞳。シメオン様とは趣の異なる、精悍な美貌を誇る青年がわたしをにらむ。驚きのあまりわたしはつい言い返してしまった。
「こちらこそ、街でお会いするとは思いませんでした。殿下がこのような場所に出向かれるとは、やはり、お目当てはトゥラントゥールですか!? 王族すら通うという噂は本当だったのですね! それで、馴染みの妓女はどなたで!?」
「最初の言葉がそれか! 目を輝かせて何を聞いてくる!?」
即座につっこんでくるセヴラン殿下もまた、普段とはまったく異なる身なりをしていらした。
さすがに一般人とまではいかずとも、中流貴族くらいの地味な装いだ。お忍びで出ていらしたのだということが、一目でわかった。でも殿下、わたしもつっこんでいいですか? いくら身なりを変えたところで、美貌と威厳が自己主張激しすぎてまったく無意味です。
遠目になら目立たない、という程度の効果しか見込めそうになかった。
「申し訳ございません、つい好奇心が暴走しました」
「……正直すぎるが、まあよい」
あわてて謝ると、セヴラン殿下もコホンと咳払いをして表情を戻した。
「のんびりしている時間もないので、詳しい話はのちほど聞かせてもらう。このまま、だまってついてこい。途中でよけいなことをしゃべったり、勝手な行動をせず静かにしているように」
「はい」
王太子殿下のお言葉に逆らえるはずがない。わたしはしおらしくうなずき、その後は置物のように静かにしていた。馬車は少し動いただけですぐにまた停まった。殿下にうながされて降りれば、トゥラントゥールの正面玄関前だった。
おお……憧れの花園が目の前に。中からきれいな楽の音が漏れ聞こえてくる。いい香りもする。貴族の館のように豪華な入り口付近に、雰囲気を壊す不粋な喧騒や人混みはなかった。執事よろしく上品な男性が出迎えてくれる。
「入り口で何を感動しとる。早くこい」
先を歩いていた殿下がふりかえり、わたしを呼んだ。入っていいんですね!? いいんですね!? ではいざ、禁断の花園へ!
大理石の廊下に敷かれた赤い絨毯にそっと踏み込めば、足音が吸い込まれる。わたしはどきどきしながら殿下のうしろを歩いた。きれいなお姉さんたちはどこ!?
誰にも出くわさないまま、わたしたちは進む。入ってすぐのところに扉が並んでいて、案内人は右の扉を開いた。左から音楽や笑い声が漏れ聞こえてくるのに反し、こちらは静かだ。誰もいない廊下を歩き、階段をいくつか昇り、館の三階へあがった。
「こちらでございます。お連れ様は、先にご到着しておられます」
奥まった一室の前で案内人が言う。この状況、隠れた逢い引きですか!? 市井にはそういう場を提供する宿もあると聞くけれど、トゥラントゥールほどの店がそんなことに使われるとは驚きだ。だってここには、美しく魅力あふれる妓女が山ほどいる。わざわざそんな場所を使ったら、男性の目が他へ移りまくっちゃうのではないだろうか。
次々襲い来る感動と驚きの波に翻弄されながら、わたしは殿下につづいて室内に入った。想像どおり、豪奢な内装だった。きらめくシャンデリアの下の長椅子から立ち上がった人が、殿下におじぎする。
「お待たせしたかな。途中で少々拾い物をしていてな、申し訳ない」
「いえ、さほどでも。約束の時間より早いですよ。拾い物というのは、そちらで? ずいぶん可愛らしいものが落ちていたのですな」
冗談めかして答えた人の目がわたしに向かう。渋い落ち着きのある整った顔には見覚えがあった。
「こんばんは、マリエル嬢。お互い意外な場所での再会となりましたね」
「ごきげんよう、ファン・レール大使。あなたが殿下の『お連れ様』だったのですね」
部屋の中で殿下を待っていたのは、フィッセルの新任大使だった。なんと、きれいなお姉さんではなく渋いおじさまとの逢瀬だった! これは予想外の展開! でもアリかもしれない。美青年と美中年のカップリングもある種の王道よね!
たしかにこれなら、他へ目移りする心配は必要ない。美しかろうがどうしようが、女性である時点で対象外ならば。
「……なにか、誤解されているような気がするが」
殿下がいやそうなお顔でわたしをにらんだ。あら、表情に出ていましたか?
「人目につかぬよう、内密の会談をするのにこういう場所を使うこともある。それだけだ。それぞれ関係のない客のふりをして出入りすればよいし、この店は客の秘密を絶対に漏らさないので信用できるのだ。言うまでもないことだが、ここで見聞きしたことは口外無用だぞ。家族にも言うな。ぺらぺらとしゃべれば、そなたの首ひとつでは済まずクララック家の存亡に関わると思え」
「もちろんです、誰にも言いません。黙っておふたりを見守ります」
「いやだから、会談だからな!? 政治の話だからな!?」
わたしがきっぱりと約束しているのに、なぜか殿下は不安そうなお顔だ。そんなにわたしは信用できないだろうか。さすがにこれは小説のネタにもできないと、わきまえる分別くらいはあるのに。
「……だが先に、まずそなたの話を聞かせてもらおう。なぜそのようななりで、このような場所にいた? 一緒にいたのはオレリア・カヴェニャックと、もう一人はジャコブ・モレだったな? 彼女たちと何をしていた」
猫の子のようにわたしをつまんで椅子に押しやり、ご自身も腰を下ろしながら殿下が尋ねてきた。外国の大使と同席しながらという妙な状況で、わたしは事のいきさつを説明した。
オレリア様が気に入らない相手に嫌がらせをすることは社交界ではよく知られている話なので、殿下もさほど驚かなかった。やることがいささか悪質すぎると呆れてはいたが、わたしが一人歩きしていたことにも呆れていたので、五十歩百歩といったところだろう。ファン・レール大使は口を挟まず、面白そうな顔で聞いていた。
「まったく……おとなしすぎるほどおとなしい、地味で特徴のない娘と思っていたのに、今日は驚かされっぱなしだ。そなたからの手紙でシメオンは真っ青になっていたぞ」
「手紙のことをご存じで?」
「そなたから連絡があればすぐ知らせるようにと家人に言いつけていたらしい。フロベール家から王宮へ届けられた。おかげで今日はシメオンを連れてくることができなかった。動揺して机の角に手と足を同時にぶつけ、さらにあわてて眼鏡を落とすような状態では、いても役に立たんからな。さっさと行ってこいと放り出したのだが……そなたがここにいるということは、行き違ったのだな」
「はい。手紙を出してすぐに出かけましたので」
殿下は疲れたようすで深々と息を吐き出した。椅子に肘をついて、こめかみを押さえる。そのお姿が妙になまめかしく見えて、ちょっと萌えてしまった。
「なぜ、婚約解消などと言い出した」
あら、とわたしは首をかしげた。
「それもご存じですか」
「シメオンのようすがただごとではなかったのでな。何が書いてあるのかと問い質した。あの男の何が不満だ? ……いや、欠点がないとは言わん。切れ者だの策士だの言われているが、じっさいのところは融通の利かないくそ真面目な男だ。意外とボケているところもあるし、見た目ほど格好のいい男ではないが」
殿下のお言葉に、わたしはうんうんとうなずいた。そう、シメオン様はとっても真面目な方。婚約して以来なんとなく感じていたことを、団長様や部下の人たちからも話を聞いて確信した。騎士団でも、シメオン様は生真面目な方で知られているらしい。
頭脳派なのは事実で、智略で活躍する場面もある。でも普段のシメオン様は真面目に職務に励み、誰に対しても公正で、厳しい中にも思いやりを持ち、部下たちから慕われている人だった。みんな鬼副長に愚痴を言いながらも、顔は笑っていた。
わたしが抱いていた人物像と現実の間には少々差があった。腹黒鬼畜参謀とはちょっとちがうみたいで、がっかりしてもいいところなのに、不思議とそういう気持ちにはならない。むしろ新たな魅力に萌える。見た目と中身との違い……ギャップ萌えというものかしら。
そういう人だからいきなり婚約解消を突きつけるのではなく、わたしから辞退できるよう配慮してくれたのだろう。その割に無言で追い詰めてきたりもしたのが、やっぱりちょっと腹黒かなとは思うけど。
「だが、頼りがいはあると思うぞ。浮気の心配もない。あいつにそんな器用さはない。結婚すれば妻ひとりに操を立てて、けっして他の女とは付き合わぬだろう。融通が利かぬとは言っても横暴なわけではないから、悪い夫にはならぬはずだ。自分勝手に妻を抑圧することはない。よほどに羽目を外したりせぬかぎりは、ある程度自由にさせる度量くらいある」
いろいろと言葉を並べて、殿下はしきりにシメオン様を弁護する。聞いていてわたしは不思議に思った。なぜそうもシメオン様の方ばかりを弁護するのだろう。
「お言葉はいちいちごもっともと存じます。わたしはけっして、シメオン様に不満など感じておりません」
「では何が問題なのだ!? 嫁姑問題か!? フロベール伯爵夫妻は反対などしていないぞ。細かいことはさておき、息子が結婚する気になってくれたことを大喜びしているぞ」
殿下はシメオン様側に問題があると思い込んでいるようだ。ということは、シメオン様から何も聞いていないのだろうか。問題はわたしの方にあるのに。
どう説明しようかと考える。ファン・レール大使の方もちらりと見た。無関係な人の前で、あまり恥ずかしい話はしたくないのだけれど。
わたしは作家活動については知らんふりをして、夜会にひとりで出かけたことでシメオン様を怒らせたと話した。婚約者のいる身でふらふら遊びに行くような慎みのない娘では妻にできないと思われたのだろう。あれ以来一度も顔を見せず、はっきり言ってはこないものの遠回しに責められている。世間体を考えて、こちらから辞退するようにという彼の意図を汲み取り、婚約解消を申し出た――
話すうちに殿下はどんどんと呆れたお顔になっていった。お気持ちはわかるけれど、そんなにあからさまに軽蔑しなくてもいいじゃない。ちょっと失敗しちゃったけれど、いちおう婚約者にふられた傷心の令嬢よ。
反対にファン・レール大使の方は、何がおかしいのか肩をふるわせて笑いをこらえていた。わたしから顔をそむけ、椅子の肘掛けをつかんでぷるぷるしている。こちらもひどくない? 笑い上戸なのだろうか。でも婚約解消の何がそうまでウケたのだろう。
「何も言う気になれんな……」
しばらくして殿下がため息混じりにおっしゃった。なにか、ものすごく疲れたお顔だった。
「あれから会っていないと? 一度もか?」
「はい」
「手紙などは……」
「手紙も伝言もいただいておりません。お言葉以外のものなら毎日届けられましたが、つまりそれがわたしに辞退をうながす合図のようなもので」
「なんだ、それは」
よくわからないというお顔の殿下に、今度は答えられなかった。薔薇がなぜそういう意味になるのかと聞かれれば、秘密をすべて話さなければならなくなる。いずれシメオン様からお聞きになるかもしれないが、わたしみずから認めてしまうわけにはいかない。
なんとなく室内に沈黙が落ちた時、扉が外から叩かれた。殿下の護衛が入ってくる。知らない顔だけれどきっと彼らは近衛騎士なのでしょうね。
「殿下、副長が到着しました」
「すぐにこちらへ通せ」
「はっ」
きびきびと騎士が出ていく。すぐにまた扉が開いて、シメオン様が姿を現した。
「…………」
眼鏡の奥のきれいな目が、まっすぐにわたしを見据える。よほどに急いで来たのだろうか、いつもきちんとしている髪や服装が、少し崩れていた。婚約解消が済まないうちからまたわたしが問題行動を起こして、主君や外国の大使の前でたいへんな恥をかかされ、怒り心頭だろう。すぐには言葉が出てこないようすで、ただだまってわたしを見つめていた。
コホン、と咳払いがわたしたちの間に割って入った。
「向こうの部屋を使わせてやる。ふたりで話し合ってこい」
続き部屋につながる扉を殿下が示す。そこでようやく殿下の存在に気付いたという顔でシメオン様は目を向け、頭を下げた。
「申し訳ございません、お言葉に甘えて失礼させていただきます」
「ああ。しっかり話し合って、誤解をといてこい」
――誤解?
殿下に急かされて、わたしも立ち上がる。シメオン様に背中を押され、わたしは殿下と大使に軽くおじぎして隣の部屋へ向かった。
しかし入るなりシメオン様がぴたりと足を止めた。驚いた顔で部屋の中心を見ている。そこには三人くらい余裕で寝られそうな、天蓋つきの立派な寝台が鎮座していた。
――おお、こちらは本番用の部屋でしたか!
あっちの部屋で酒食を楽しんだあと、こちらへ移ってアレやコレを楽しむというわけですね! 大きな照明はなく小さめのランプがいくつか置かれ、薄暗い空間を妖しげに盛り上げている。天蓋から垂れる帳は上品でありながらなまめかしい紫色。この寝台でたっぷりと愛を語り合ったあと、腕に抱いた妓女からおねだりされちゃったりとかするのかなっ。
「……なにをしているんです」
シメオン様の声に我に返った。いけない、つい夢中で布団の手ざわりや帳の模様をたしかめてしまっていた。あ、枕がいい香り。
「ドキドキしますね。シメオン様はこのお店によく来られるんですか?」
「し、仕事です、仕事! 殿下のお供で来るだけで、けっしてそういう目的では!」
「トゥラントゥールの『花』で今もっとも位が高いのはオルガ、イザベル、クロエの三人ですよね。シメオン様はお会いになったことありますか? どなたがいちばん好みで?」
「なぜそんなに詳しいのですか!?」
なぜでしょうね。オルガが赤毛、イザベルが栗毛、クロエは金髪だなんてことも知っていますよ。
現地に来たのはこれが初めてだけれど、噂だけは今までたくさん仕入れていた。かなうことなら一目でも姿を拝みたいものだ。
シメオン様は前髪をかきあげ、はあ、と息を吐いて眼鏡を直した。
「……何から話せばよいのか……どうしてこんな場所で保護されているのかも非常に不可解なのですが」
「それは話すと長くもない事情が。のちほど殿下からお聞きくださいませ」
同じ説明を何度もくり返すのが面倒でそう答えると、眉をひそめながらもシメオン様はうなずいた。
「そうですね、今いちばん重要なのはそこではない。私が何より聞きたいのは……なぜ婚約解消などと言い出されたのか、その理由です」
じっとりとこちらをにらんでくる目に、わたしは首をかしげた。なぜって? それをあなたが聞きますか?
「私に、耐えがたいほどの不満がありましたか? 女性の気持ちはよくわからない。知らぬ間にあなたを傷つけるようなことをしていたのなら、教えてください。改善に務めますので」
――はいぃ?
ますますわけがわからなくて、わたしの首は傾きっぱなしだ。どういうことだろう、話がちっともつながらない。
こちらこそ、シメオン様に愛想を尽かされたのだと思っていたのに。シメオン様は自分が愛想を尽かされたと思ってらっしゃるの? なぜそうなるのかしら。さっぱりわからない。
「あのぅ……婚約解消を望んでいらっしゃるのは、シメオン様の方ではありませんの?」
「私が? なぜ?」
眼鏡の奥の目が大きく開かれ、眉がぐぐっと上がる。やっぱり美しくて、そして凛々しいお姿にあらためて見惚れつつ、わたしは言った。
「もう隠してもしかたがないので白状しますが……わたしの秘密を、ご存じでしょう?」
「秘密……小説のことですか?」
ずばりと答が返ってくる。わたしはうなずいた。
「アニエス・ヴィヴィエの名で出版していることですね? ええ、あれは間違いなくあなただろうと確信しておりますが」
「どうしてわかっちゃったんでしょうね……ええ、そうです。わたしがアニエス・ヴィヴィエです。貴族の娘が流行小説を書いて売っているなんて、さぞ軽蔑なさったでしょうね」
「え?」
「そこへもってきて、婚約者のいる身なのにひとりで遊びに出かけるなんて、慎みのない軽薄な女と思われたのでしょう? だからあの時、あんなに怒ってらしたのですよね。申し訳ありませんでした。あれ以来シメオン様から一度もお誘いがなく手紙も伝言もいただけなくなって、代わりに小説のことを知っているとほのめかす薔薇が毎日届けられて、悟りました。シメオン様は婚約解消を望んでいらっしゃると。でもご自分から切り出されたのでは、わたしがどんな不貞をはたらいたのかと口さがなく噂されますから、わたしの方から辞退するよううながしてくださったのでしょう? そうすれば、分不相応な縁談だったから当然だろうと世間も納得してくれますし」
目だけでなく口まで開いて、シメオン様はわたしを凝視する。なにか、心底驚いているようすにわたしは話ながらも首をかしげた。さっきからかしげっぱなしで元に戻らなくなりそうだ。
「……なぜ、そうなる」
シメオン様の喉から、うめき声のような言葉が漏れた。わたしにかけた言葉でなく、無意識に出てきた言葉のようだった。
額を押さえ、めまいを堪えるような顔でシメオン様は考え込む。わたしは自分の認識がもしかして大間違いだったのだろうかと、彼のようすを見ていてようやく気付いた。
「ちがったのですか?」
「大違いです! なぜそうなるのですか! ……いえ、あの夜のことは、私も心が狭かったと反省しています。けっしてあなたの言うようなことを考えたのではなく、ちがうことで……その、勝手に拗ねていただけで」
「拗ねた?」
「そ、それはもう反省しています! あなたは何も悪くない。私の態度が悪かっただけです、申し訳ありません。ひとりで出かけたと言っても、あの時はそれで問題なかったでしょう。お互い事前に連絡くらいしておくべきだったとは思いますが。しかしそんなことで怒ってなどおりません」
「……そうなのですか」
あら、びっくり。シメオン様はとても寛容な方だったのね。
ではそれなら、なぜあんなに不機嫌にしていたのだろう。別の理由で拗ねていたと言ったけれど、いったいどんな理由があればシメオン様が拗ねるのかわたしにはわからなかった。
「あれ以来一度も顔を出さなかったことは、謝罪します。その……仕事が忙しかったというのもありますが、それは半分口実で……どうにも、顔を合わせづらく」
「……あの日は、お互い気まずくなりましたものね」
「そうですね……それにいろいろ、気付くことがありまして、平静な気持ちであなたと顔を合わせる自信がなく。もう少し落ち着いてからと思っていたら、なにかかえって会いづらくなってしまい」
うんうん、それはよくわかるとうなずいた。
けんかしたらさっさと謝って仲直りしちゃうべきなのよね。冷静になってからとか言って下手に時間を置くと、よけいに気まずさが増してしまう。昔ジュリエンヌとやらかした時にものすごく後悔したわ。あの時は仲直りまで二ヶ月もかかってしまい、それもお祖母様の助けがあってのことだった。あれ以来わたしたちは、けんかをしてもできるだけすぐ謝って仲直りするように心がけている。
そこまで考えて、なんとなくわかった。シメオン様はわたしとちょっと気まずくなったことを引きずって、でも縁切りまでは考えていなかったから、仲直りするために毎日薔薇を贈ってきたのか。あれは無言の脅迫ではなかったのか。
あら……すっかり誤解していたわ。
「申し訳ありません、わたし大変な思い違いをしていたようです。てっきり、小説のことを知っている、隠しても無駄だとわたしに詰め寄るため、薔薇を贈り続けていらしたのだと思っていました」
謝ると、シメオン様はとても情けなさそうなお顔になった。鬼副長のこんな顔、部下のみなさんが見たらきっと驚くわね。わたしも驚いた。迫力が消えてなんだか可愛らしいとか思っちゃったのは、内緒にしておくべきかしら?
「そんなふうに思われて……あれは、単に、そういうのがお好きかと……」
「わたしが、ですか?」
「……書いていたでしょう?」
「……書きましたね」
ええ、まあ、そういう物語は書きました。やがて贈り主の正体を知ったヒロインは、ひそかに見守ってくれていた彼の想いに気づき、諸々の誤解とわだかまりを越えて結ばれる――そういう展開でしたね。
え、純粋にそれを真似しただけ? いやでも、ひそかじゃなく堂々と名前を出しての贈り物だったし、意図が変わってくると思うのが普通じゃないですか?
よもやそんなつもりで贈られていたなんて。ネチネチと追い詰める腹黒いやり口だなんて思ってしまってごめんなさい。ついでにわたしは真紅の薔薇より菫や鈴蘭の方が好きだなんてとても言えない。
「あのー……ええと」
がっくりと肩を落とすシメオン様がそれ以上口を開かなかったので、わたしは頭を整理しつつ言った。
「それはどうも、ありがとうございました。勘違いして申し訳ありません。ではシメオン様は、婚約解消を望んでいらしたわけではないと、そう解釈してよろしいのですね?」
「……ええ」
ため息をつきながらシメオン様はうなずいた。
「そんなことはまったく考えておりません」
「わたし、小説を書くのはやめられませんけど」
「かまいませんよ。たしかにおおっぴらに明かせる話ではありませんが、私個人は問題視していません。以前にも言いませんでしたか? あなたの話は面白かったと。よほどにくだらない内容であったなら違ったでしょうが、読んで不快感を覚えることはありませんでした。むしろ心に残るものが多かった」
……おお。
寛容を通り越してシメオン様が神に思えた。わたしの活動を容認するどころか、好意的に受け取ってくれているなんて。女性による女性のための女性の物語を書いてきたのに、男性からこんなに高評価を得られるとは思ってもみなかった喜びだ。
シメオン様って、ちょっと女性寄りな内面を持っていらっしゃるのかしら? ああ、だから殿下と並ぶとお似合いなのかも――
「マリエル?」
目の前で手を振られて我に返った。いけない、つい感動と妄想の世界に意識が飛んでいた。
「ありがとうございます! わたし、次はシメオン様をモデルに書かせていただきますね! お相手はやはり黒髪がいいですか!?」
「なんの相手ですか!」
感激しながらシメオン様に詰め寄った時、背後でブーッと吹き出す声が聞こえた。一人分ではなく、何人もの笑い声だった。
「や、やだ……なにあれ、面白い」
「あの冷血騎士がかたなしじゃない。笑えるぅ」
「お前たち、控えろ」
「そうおっしゃる殿下だって笑っていらっしゃるじゃありませんの」
「ははは、いや若い人たちはいいですな。実に微笑ましい」
「微笑むどころか爆笑寸前ではないか、ファン・レール殿?」
「いえいえ、黒髪のお相手は誰がモデルなのかとか、そんなことは考えておりませんよ」
「……国境を越えた誤解が発生しないよう、そこはしっかり抗議しておかねばな」
「あらいいじゃなーい、わたしそういうのも好きよー」
「そういうのもどういうのもない!」
閉じたはずの扉が、いつの間にか細く開いていた。その向こうにうごめく人影は、ひとつやふたつではなかった。
「…………」
「…………」
わたしたちは無言で少し距離を取った。
「ずいぶんと、品のない真似をなさる。そんなに見たいのでしたらコソコソ覗いたりなさらず、こちらへ入られればよろしいでしょう。歓迎いたしますよ」
――うわぁお。
扉へ向かって声をかけるシメオン様のお顔は、それはそれは美しくもおそろしい、凄味のある笑顔だった。ああっ! これぞ鬼畜腹黒参謀! わたしの好みど真ん中! 最高に素敵ですシメオン様!
ハァハァしながら見上げるわたしに気づき、シメオン様は表情をあらためて咳払いした。そしてその場で、跪いた。
え、なにごと? と驚く私の手を取り、彼は頭を垂れる。
「改めてあなたに求婚します、マリエル。どうか私の妻になってください」
……わぁぁお。
さっきとは別のときめきがわきあがった。まさに物語さながらの、愛の見せ場だ。贈られた口づけにうっとりしながら、わたしはうなずいた。
「ええ、よろこんで。あなたほどに萌えられる人はおりません。どうか末永く、あなたをそばで見つめさせてください」
「……ええ」
最後にちょっぴり反応が微妙だったように感じたのは、気のせいかしらね?
確認する暇もなく、扉から人がなだれ込んできた。
「きゃー見せつけてくれるわね!」
「シメオン様ってば、婚約者の前ではずいぶんとお可愛らしいこと」
「ほーんと、この煮ても焼いても食えない男があたふたしちゃって」
お、おお。花が。きれいな花が突進してくる。視線が白い胸元に吸いよせられる。なんて大胆に開かれた襟。豊かな谷間のまぶしいこと! 夢のようなきれいどころがわたしたちを取り囲む。
「不躾な。遠慮というものを知らないのですか、あなた方は」
「入れと言ったのはシメオン様じゃない」
「そうよ。そんなことより、あなたがアニエス・ヴィヴィエって本当なの!?」
赤毛のお姉さんの手がわたしの頬をはさみ、強引に自分へ振り向かせた。なんてすべすべとやわらかな手。胸がときめくいい香り。そして谷間が。谷間が目の前に。
「あ、はい……」
なんとかうなずくと、キャーッとお姉さんたちから歓声が上がった。
「うっそー、ヴィヴィエ本人と会えるなんて!」
「わたしあなたの本全部持ってるわ! 『霧の城の恋』がいちばん好き!」
「まさかこんな可愛いお嬢ちゃんが書いていたなんてねえ。あとでサインしてくれない?」
きれいなお姉さんたちにもみくちゃにされて、いつしかシメオン様とは離れていた。向こうの方でシメオン様は、セヴラン殿下とファン・レール大使に肩を叩かれてなぐさめられていた。部屋の中、どこを見てもとびっきりの美男美女ばかりだ。なんという至福、なんという極楽。まぶしすぎて目がつぶれそう。
「あ、あなた方は……もしかしてオルガさんとイザベルさんとクロエさんですか?」
「あら、わたしたちのこと知ってるの?」
「知ってるも何も、トゥラントゥールの最高峰の花はサン=テール中の憧れです! わたしこそサインください!」
「貴族のお嬢様が何をおっしゃるの。こちらはただの妓女よ」
「それこそ何を! トゥラントゥールの花はみんな、一流の教養と技能を身につけた淑女ではありませんか! 年季で縛られているわけではなく、誇りを持ってお仕事なさっている職業婦人でもあります! お金さえ出せば買える商品なんかじゃない、何度通ってもどんなに貢いでも、気に入られなければけっして床入りはできない天女ですよ! その中でも最高位の花なんて、もはや女神です!」
「……だから、なぜそうも詳しいのですか」
シメオン様の声が聞こえたような気がするけれど、それどころじゃない。わたしは目の前の女神様たちに夢中です。
ああ、今日はなんて素晴らしい日でしょう。オレリア様にはヒロイン気分を味わわせていただいたし、シメオン様との誤解もとけて仲直りできた。婚約は継続され、それどころか執筆を秘密にしなくてよくなった。さらにさらに、憧れの花たちと対面できるなんて!
どうか夢を見ているのではありませんように。この一夜が幻と消えてしまいませんように。
意気投合し盛り上がるわたしたちから離れて、男性陣は静かに語らっていた。
「シメオン……今さらだが、本当にアレでよいのか?」
「……はい」
「そうか。お前がよいのなら何も言うまいが……」
「いやいや、よいではありませんか。退屈しない楽しい奥方になりそうですな」
「大使、他人事だと思って」
「男女の間に適度な刺激は必要です。人生は長いのですから、ゆっくり楽しんでいかれるがよろしいでしょう」
「……そうですね……」
これから二ヶ月ほど後に、アニエス・ヴィヴィエによる新作が出版された。対立関係から始まる恋と陰謀の物語はなかなかの評判を博し、トゥラントゥールの花たちにも大ウケだった。
「それはいいのですが、この、脇で妙な雰囲気を出している二人組は何なんですか」
今回もシメオン様はわたしの作品を読んでくださった。隣り合わせに腰かけながら、尋ねてくる。
「なにって、ヒーローの親友たちです」
「それはわかります。そうではなく……なぜ男同士でこのような雰囲気を」
「わたしの親友のため、ひそかな同好の士のためです。でも、何もはっきりとは書いていませんでしょう? 一般女性向けの話ですからね、これ以上は書けません。匂わす程度です」
「書けるなら書くのですか!?」
「わたしは書きませんけれど、そういう本はありますよ。ちょうどジュリエンヌから新しいのを借りたばかりで。お読みになります?」
わたしが取り上げた本を、シメオン様は頭を抱えながら断った。さすがに男性にこの手の本は無理かしらね。ガチ本物の人でないとね。
「まあ……そういう要素を取り入れるだけならうるさくは言いませんが……なぜか妙に知った人物と似ている気がするのですが?」
「ホホホ、あらどなたでしょう? 黒髪と金髪ではありませんけど」
「やはり私たちなんですね!? なぜ、よりにもよってこの二人なんです!?」
「まあ、なんのことでしょう。よくある王道カップリングですよ? 物語においては珍しくもない、ありふれた組み合わせです。読者も特にどなたがモデルだとか考えたりしませんとも」
「そうならよいのですがね。わかる人にはわかりますよ……まったく、絶対に! 続編は書かないでくださいよ」
渋いお顔をしながらも、シメオン様は私の腰に腕を回し、ぴたりとくっつくほどに抱き寄せた。最近やけに距離が近い。以前は隣り合わせではなく、別々の椅子に向かい合って座っていたのに。
女性が好む物語を読んで、いろいろ研究していらっしゃるのね。政略結婚と冷たく割り切らず、わたしと良好な関係を築いていこうと努力してくださるのがうれしい。わたしも頑張って、いい奥さんをめざそうと思う。旦那様のために全力で尽くします。
小説は書き続けるけどね。
意外と脇の二人に反響が大きく、編集からぜひ続編をと言われていることはどうしよう? ジュリエンヌも喜んでいたし、わたしとしては書きたいんだけどな。
見上げれば、しかめっ面がゆるんだ。笑いかければ微笑みが返ってくる。わたしは広い肩に頭をあずけた。
またトゥラントゥールへ行って、上手なおねだりの仕方を教わってこようかな。
わたしの髪を一房すくい、口づけを落とすシメオン様にくらくらしながら、わたしは楽しい明日のための計画を考えていた。
今日も、明日も、その先も。
毎日楽しく幸せに暮らしていきましょうね?
***** 終 *****