13
開け放った窓から街の喧騒と爽やかな風が入ってくる。夏の暑さも一段落といったところか。にぎやかな中にもどこかのんびりと、心地よい時間が流れていた。
「ありがとうございました。では、これで次の工程に入らせていただきます」
「はい、よろしくお願いいたします」
ポールとミレーヌは揃ってほっと息をつく。改稿を終えた原稿を、ひとしおの感慨でもって見下ろしていた。
「とうとう最後ですね。これで全巻が揃う」
「ええ、サティさんには本当にお世話になりまして。ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
十年ぶりの復活でサン=テール市を騒がせたあの日から、さらに三年が過ぎた。ポールが商売抜きの夢と意地だけで作った本は、やがてラグランジュ全域へと話題が広まり、今や国外にまで知られるほどである。続刊を待っていた読者だけでなく新しい読者も大勢生まれていた。彼らは当然かつて発行された既刊を読みたがったが、もはや本屋にも出版社にも在庫は残っていない。そこでポールはあらためて一巻から発行することに決めた。まったく同じ内容ではなく、加筆修正を加えた改訂版だ。古い既刊を大事に持っていた読者も読みたがる。この企画も成功していた。
十巻を発行する前に、かつてミレーヌが取り引きしていた出版社から権利を買い取っておいたのは正解だった。そこはポールも同じ業界で働いていただけに、わかっていた。もしうまくいって本が売れたなら、かならず権利を主張してくる。ややこしいもめごとにならないよう、先に手を打っておくべきと考えたのだ。
ポールから権利を買い取りたいと言われた出版社は、せせら笑いながら了承した。今さらそんなものを買い取ってどうする気だと、頭から馬鹿にしていた。おかげでじつに安く買えてポールは内心ほくそ笑んでいたものだ。今頃彼らは歯ぎしりしてくやしがっているだろう。きちんと契約書を取り交わして正式に売買した以上、文句の言いようもない。毎回飛ぶように本が売れるのを、指をくわえて見ているしかなかった。
自業自得だとポールは思う。だまし取ったようなものではないかと言われても、それがどうしたと言い返してやった。罪悪感を抱く必要など、どこにある。
作者が女とばれて騒動になった時、彼らはミレーヌをかばうこともなくあっさりと見捨てた。それどころか預かった原稿すら紛失したのだ。多分無用のものとして廃棄したのだろうが、さすがにそうと正直には言わない。担当者が辞めてしまったので、とかなんとか言い訳を並べてごまかし、ミレーヌが強く言えないのをよいことに冷たくあしらって追い返した。今回改訂版を出すにあたって、ミレーヌは古い本を見ながらすべて書き直さねばならなかった。
それきり十年間、知らん顔で忘れ去っていた連中が今さらなにを言おうと知ったことか。とうの昔に放棄した権利を惜しがってもあとの祭りである。
「モンテ夫人のおかげで俺は早々に夢をかなえることができました。自社設立は、十年は先の予定だったんですが」
二人がいるのは小さな雑居ビルの一室だ。一等地とも言えない、少しばかり下町寄りの地域である。いつかかならずと誓った夢にはまだ届かないが、十歩くらいは近付いただろうか。
入り口にはちゃんと「サティ出版」の看板があり、ポール以外の社員もいる。書店との取り引きも増えた。そしてミレーヌの本だけでなく、他の作家の本も発行するようになっていた。まだまだ弱小出版社、デジール出版のような老舗とはくらべようもないが、けっこう注目はされている。ミレーヌのおかげで得た追い風を、ポールは最大限に活用していた。新しい作家の育成、新しい本の発行。他とは違う路線を売りにして読者の心をつかんでいる。
「いいえ、サティさんがいろいろ努力なさったからですよ。どんな本が望まれているのか、どんなふうに作れば売れるのか、本当によく調べられて」
「それもモンテ夫人のご助力あってのことですが。美しい挿絵がほしいとか、男にはなかなか思いつかないことが多かった」
ミレーヌのもとに集まっていた文学少女・婦人たちは、ポールのよき助言者となってくれた。かねてから考えていたこともあり、ポールは思いきって本の作り方そのものを変えてみた。硬い表紙で装丁された上製本ではなく、薄い紙をつけただけの本。雑誌みたいに安っぽいと馬鹿にされたが、だからこそ手に取りやすい。装丁は金がかかる部分だから、そこを削ることで値段を抑えられる。そのかわり表紙にも本文にも絵をたくさん入れた。使う紙の種類や色も、女性が好むものを選んだ。見た目はけっこう華やかで悪くない。そしてこれは作ってから気付いたことだが、表紙がやわらかいと読みやすかった。
ミレーヌの本は従来どおりの装丁にしたが、新しく作る本は「お手頃」を売りにしている。誰もが気軽に買って読める本。たしかに安っぽい読み捨てになるかもしれない。けれどそこからまた新たな名作が生まれるかもしれない。その機会すらなかったのが、これまでの出版界だ。まずは入り口を作るところからだった。
手書きの原稿を綴じただけの束を、仲間内で回し読みしていた女性たちが、サティ出版から作家として世に出ていった。中には男にはどうにも理解しがたい特殊な物語もあり、それを発行することはポールも大いにためらったのだが、求める女性は多いと力説されていちかばちか挑戦してみた。結果は……まあ、失敗ではない。大きく売れているわけではないが、たしかに一部では人気を得ていた。
三年の間に世間の認識も変わりつつある。なんといっても女性向けという分野が成立していた。女の書いたものを女がありがたがっているだけと揶揄されても、読者は年々増える一方、右肩上がりである。経済の一端を動かしているのは間違いない。十年後、二十年後にはいちいち議論されることもない当たり前の文化になっているだろう。
受け取った原稿を丁重に片付け、ところでとポールは話を変えた。
「以前からお話ししていましたが、新しい作品を書くおつもりはありませんか。あなたの才能は、これだけで終わらせるのはもったいない。ぜひ新作を考えていただきたいのですが」
改訂版を出すかたわら何度か頼んできたことを、あらためて切り出す。ポールとしてはミレーヌを看板作家として売り続けていきたかったのだが、なかなか色よい返事はもらえずにいた。
「そう言っていただけるのはありがたいのですが……」
ミレーヌは困った顔で、これまでと同じ言葉を返す。
「あまり家のことを放り出してもいられませんし……それに一度話題になったからといって、次も上手くいくとはかぎりません。むしろ期待を裏切って皆さんをがっかりさせてしまうことになりそうで」
「いや、そうならないよう、一緒に頑張りましょうよ」
「ええ、サティさんが優秀な編集者でいらっしゃるのは承知しております。助言をいただきながら書けば、それなりのものは作れるでしょう。でも『路傍に咲く』があまりに話題になりすぎたため、読者の期待も普通よりずっと高くなってしまうと思うのです」
ミレーヌの懸念は理解できる。あの名作を書いた作者なら次作もさぞ素晴らしいだろうと人は期待する。それを真っ向から受け止め、満足させてやると豪語することは難しい。
「卑怯かもしれませんが、わたしは幸せなままで終わりたいのです。次々書き続けるよりこの幸せを大切にしたい……多分、わたしは作家には向いていない人間なのでしょう。自分の楽しみのためだけに書き、それが評価されれば十分と考えてしまうのです」
別の作品でも評価され、さらなる名声を得たいと望むことはない。ミレーヌは趣味の世界だけで満足してしまっている。たしかに作家としてやっていくには欲が足りなかった。
だがもったいない話だ。才能があるのは間違いないのにとため息をつくポールに、「それに」とミレーヌは続けた。
「サティさんのもとには若い才能が集まっているではありませんか。これからまだまだ成長し、先を望んでいく意欲にあふれた人たちがいます。サティ出版の看板作家は、わたしより彼女の方がふさわしいでしょう?」
誰のことを指しているのか、名前は聞かずともわかった。新しく誕生した女性作家は複数いるが、この人と真っ先に挙げる人物なら決まっている。いちばん最初にポールと出会い、今日この場所までつながるきっかけを作った娘。ミレーヌとも出会わせ、長年の夢を実現させてくれた。運命の女神と呼ぶには威厳も美しさも足りず好奇心ばかりが人一倍で、むしろ騒動の種のような気もするが、底抜けに明るく前向きな人柄にはポールもはげまされてきた。ミレーヌの本が売れたからといってすべてが順風満帆とはいかず、苦労することも多かったが、なんだかんだで乗り越えてこられたのは彼女のおかげと言える部分もある。
折しも噂の当人が階段を駆け上がってきた。ちょうど外から戻ったところのテオが気付き、扉を開きながらポールに知らせる。ポールとミレーヌが振り向く先で、お騒がせ女神はテオの横をすり抜けて事務所へ飛び込んできた。
「サティさん聞いてください! 大事件です! すごいことが起きました!」
「……三年前から少しも変わらんな。もう社交界にも出てる立派な淑女なんだろうが。もっとおしとやかに入ってこいよ」
マリエルの勢いに驚くこともなく、ポールは椅子に座ったままで言う。向かいでミレーヌも笑っていた。こんな風景はサティ出版の日常だ。子猫を拾っただの珍しいお菓子を見つけただの、マリエルはいつもなにかに驚き騒いでいる。今度の「大事件」はなんだと、テオたち他の社員も軽く聞き流していた。
「だってびっくりなんです、とても落ち着いていられないんです。あまりに予想外な、天地がひっくり返りそうな驚きなのですから!」
「はいはい、んで今日も一人で来たのかよ。お供を連れてこいっていつも言ってるだろうが」
「サティさんはナタリーに会いたいだけでしょう。口説きたいならわたしをダシにせず、ご自分で頑張ってくださいな」
「言われなくても口説いてるよ! で? なにがあったってんだよ」
「そう! それです!」
憎まれ口を叩いたかと思ったら、またころりと表情を変える。祈るように手を組み合わせ、眼鏡の中の大きな瞳を輝かせながらマリエルは言った。
「わたし、婚約者ができました!」
「ほー、そりゃすごい……ってへぇえっ!?」
奇声を上げたポールの背後で積み上げられていた本が雪崩を起こした。あわてて拾おうとしたテオが机に膝を打ちつける。お茶を淹れようとしていた事務員は茶葉をぶちまけてしまった。
「婚約者って……つまり、婚約したのか?」
「そうなんです、驚きですよね? まさかこのわたしに求婚者が現れるなんて」
「自分で言うなよ悲しいな。求婚ってことは、相手から望まれたのか」
「ええ、お父様がさがしてきたわけではなく――いえさがしてくださっていたのですが、その話を聞いて立候補されたそうで。昨日うちへいらして顔合わせを済ませました。わかります? わたしを、この地味で冴えない芋眼鏡を見ても気を変えず、正式に求婚されたのです。もうびっくりです。あちらも眼鏡をかけていらしたからすごく目が悪くてはっきり見えなかったのかしら」
「自覚があるならもっとしゃれっ気出せよ。あんただって着飾ればそれなりに可愛くなるのによ」
「わたしはこれでよいのです。派手に目立っては風景に溶け込めませんもの」
自分の容姿がぱっとしないことにいじけるでもひねくれるでもなく、マリエルは明るくネタのようにとらえている。社交界で顔を売ってよりよい結婚相手をさがすのが若い令嬢の使命なのに、そんな努力ははなから投げ捨てて人間観察に夢中だ。さまざまな人間関係を勉強しろと言われたことを素直に実践し、舞踏会だの音楽会だのに出かけては取材活動に勤しんでいる。デビューを済ませてから三年もたつのに、いまだにほとんどの貴族から顔を覚えられていないというから徹底している。本人はそれでよくても、親はさぞかし頭を痛めているだろう。
彼女の父親はそうとう頑張って相手をさがしてきたようだ。人のよさそうな子爵の顔を思い出し、お疲れさまですとポールは心でねぎらった。
「そうか、婚約か……もう十八だもんな」
驚きが落ち着くと、ポールの胸にいささか複雑な感慨がわき上がった。大人が日々をあわただしくすごすうちに子供はどんどん成長する。マリエルはすっかり年頃になっていた。胸はあまり育たなかったが背は伸びた。出会った時は子供にしか見えなかったのに、気付けばずいぶん娘らしくなっている。あらためて彼女を眺め、もう恋人ができてもおかしくない年頃なのだと気付かされた。久しぶりに会った親戚の子供を見る気分だ。向こうが成長した分こちらは年を取ったのだと切なくなる。
「そりゃあおめでとう……と言っていいのか? どういう相手なんだ?」
しかし彼女の話しぶりでは恋愛感情などまったく介在しない婚約であることがうかがえる。上流階級の婚姻とはそういうものかもしれないが、納得できているのだろうかと心配になった。
「わたしより九つ年上の軍人さんです。お背が高くて見上げるのが疲れるほどですわ」
「九つってことは、俺よりも一個上か。ずいぶん年が離れてるが大丈夫なのか?」
「さあ、大丈夫か大丈夫でないのか、まだわかりませんね。昨日婚約したばかりですから」
マリエルはあっけらかんと答える。子供っぽく騒いでいるようで、これでけっこう冷静にものごとを見て理解している娘なので、突然の縁談にも浮足立つばかりではないようだ。
「あちらは有名人なのでお顔も存じあげていましたが、お話をしたのは昨日がはじめてです。今のところ優しくしてくださっていますけど」
「そうかい……」
ポールにとってマリエルは、作家の一人というだけにとどまらない。三年間一緒に戦ってきた仲間であり、成長を見守ってきた妹分だ。この縁談が彼女に幸福をもたらすものであるよう、親のような気分で祈る。
ポールが言葉を切ると、かわりにここまで黙ってやりとりを聞いていたミレーヌが口を開いた。
「おめでとうございます、マリエル様。子爵様もさぞお喜びでしょうね」
「ありがとうございます、ミレーヌ様。喜んで……いるかしら? みんなまだ信じきれないようですけど。だってこのわたしにねえ、よもや向こうから求婚してこられるなんてねえ」
「まあ、そのような」
マリエルの変人ぶりはミレーヌも知っているから、否定しようにも苦しい。ここでうなずいてしまうわけにはいかないが、周りにいる全員が内心で同意していた。
「ま、まあ、どこかであんたを見初めていたのかもしれないじゃないか。そういうことがないともかぎらんだろ」
「物語では王道の展開ですわね。そういうの好きです。でもわたしにはありえないので、きっとなにか別の理由ですね。お父様とどういう交渉をされたのやら。うちが出せる条件なんてたいしたものではないはずですが」
「そんな身も蓋もないこと言うなよ」
「よいのです。政略結婚でもなんでもご縁に恵まれただけでありがたいですから。それに! とっても素敵な方なのですよ! わたしの理想そのまんま、大好物! あんな方を一生そばで見ていられるなら理由なんてなんでもかまいません!」
頬を染めて喜ぶマリエルはさながら恋する乙女だ。好みの男性から求婚されて舞い上がっているようにも見える。だがポールたちにはわかっていた。マリエルが大好物と公言する男性像を、彼らは知っている。彼女の作品にも登場していた。どういう特徴を持っているのか説明されずとも理解し、それは本当に大丈夫なのかと不安を抱いた。
「あんたの大好物って言えば……」
「もう、見た目からしてものすっっっごく曲者っぽいんです! 優しく微笑んでいても絶対におなかの中では黒いことを考えているわっていう、一癖も二癖もありそうな人! まさしく腹黒属性……いい! あの鬼畜感がたまらない!」
「いやそれ現実の結婚相手としては全然よくないだろ!? 小説の登場人物じゃないんだぞ!?」
ポールのつっこみも今のマリエルには届かない。
「しかもしかも、肩書がまた萌えの塊で! 近衛騎士団副団長! 団長ではなく副団長! そこがいい! 物語のお約束、腹黒眼鏡の美形脇役なんて完璧じゃないですか!」
「だから小説とは違う――ってけっこう大物だな!?」
「近衛の副団長様……というと、もしや」
つっこむばかりのポールと違い、ミレーヌは今の情報で相手の名前を悟った。呆気にとられるばかりだった顔に異なる驚きが浮かぶ。彼女の視線に気付き、マリエルは大きくうなずいた。
「ええ、フロベール伯爵家のシメオン様です」
ミレーヌはさらに驚いて言葉を失う。出てきた名前にポールたちも目を丸くした。
「フロベール伯爵家って、俺たち庶民でも知ってる名門中の名門じゃないか。たしか先代は海軍司令官だったか軍務大臣だったか、そんな人で」
「そうです、そのフロベール家です」
「その親戚……ってわけじゃないんだな?」
「直系ですよ。フロベール家のご子息は三人いらっしゃるそうですが、シメオン様は長男でいらっしゃいます」
「つまり次の伯爵か。え、それがあんたの婚約者? あんた伯爵夫人になるの!? いやそれはたしかにありえんわ!」
思わずポールは言ってしまった。気遣いなどどこかへ吹き飛んでしまった。
今回ばかりは本当に「大事件」だと、サティ出版に居合わせた人々は思う。なんという格差婚か。そんなことも起きるのかと、小説に負けない突飛さに驚かされるばかりだ。反応できずにいる人々の前で逆にマリエルは落ち着きを取り戻し、床に散らばった本を集めだした。
あわててテオも身をかがめ、茶葉をぶちまけた事務員は台の上の分だけでもとかき集める。ポールも頭を振りながら立ち上がり、室内の片付けに参加した。
「まあいろいろ驚いたし心配でもあるが、とりあえずめでたい話だよな。うん、めでたいはずだ」
「ええ、今のところは。このまま本当に結婚できたらよいのですが」
「他人事みたいに言ってないで上手くいくよう努力しろよ。あんたにとっては間違いなくめでたい話なんだからさ……こっちには残念だが」
最後のつぶやきにマリエルが振り返る。
「なぜ残念ですの」
そりゃあ、とポールは肩をすくめた。
「婚約が決まったとなったら、もう小説なんて書いていられんだろ。あんたのお父上やモンテ男爵みたいに寛大な人は少数派だ。名門伯爵家なんてきっと古いしきたりが山盛りだぜ。じつは女流作家やってるなんてのがばれたら破談だよ、絶対秘密にしないと。……せっかく人気が出て、これからどんどん活躍してもらおうと思ってたのになあ」
世の中の認識が変わってきたとはいえ、まだまだ女性作家への風当たりは強い。恋愛を主体とした流行小説を低俗とみなし、娘や妻に読ませない男もいる。上流になるほどその傾向は強くなるため、マリエルも小説を書いていることは身内にしか明かしていなかった。ミレーヌが旧姓を使ったように、マリエルもアニエス・ヴィヴィエという筆名でひそかに執筆している。良家の女性にとって作家業など醜聞だ――という風潮は、なかなかに根強かった。
フロベール家側に知られないよう、マリエルの両親は作家活動を禁止するはずだ。ミレーヌに続きマリエルまで引退してしまうのかと、ポールはため息をついた。これは別の意味でも重大事件だ。サティ出版にとって大いなる損失である。
――と思っていたら、
「まあ、とんでもないことですわ。わたしから小説を取り上げたらなにが残りますの。書きますよ。書くに決まっているでしょう」
当たり前の顔をしてマリエルは言った。わずかな迷いもためらいもない反応だった。ポールの方がなにやら焦る気分になってくる。
「いや、無理だろう。せっかくの縁談がぶち壊しになっちまうじゃないか」
「もちろん全力で隠しますよ。一生に一度の幸運を逃すわけにはいきませんからね。でも小説だって捨てられませんわ。萌えはわたしの生きる糧なのです」
「って、言ってもよ……」
「だって書いても書いても萌えがわき出してくるんですもの。もっともっといろんな物語を書きたくてたまりません。なにがあろうと、わたしの中に書かないという選択肢はないのです」
マリエルはミレーヌとは正反対だった。一作だけで満足することはなく、次々書き続けたがる。創作に対する情熱は少しも尽きない。琴線に触れるできごとがあれば、すべて創作の糧とする。まさに作家になるために生まれた人間だった。
それはポールとしてもうれしいかぎりだ。しかし一人の女性として幸せな人生を送ることも大切ではないのか。社運に関わる話なのでやめろとは言えず、さりとて作家の私生活など関係ないと突き放すこともできず、ポールは板挟みになって悩んだ。
そんな思いやりをわかっているのかいないのか、マリエルは上機嫌に続ける。
「だいたいあんな萌えの塊がそばにいるのに我慢できるわけがないでしょう。シメオン様をモデルにしてうんとときめく話を書きますわ。腹黒ヒーローもいいと思うんです!」
「うん、ちょっと待とうな。読者がみんなあんたと同じ好みってわけじゃないからな。そこはしっかり話し合って考えような」
これは悩む方が馬鹿だと、ポールは思考を放棄した。誰がどう言おうとマリエルは書く。そうせずにいられない人間だ。だからこそ三年前のあの日、相手にされないことも覚悟して原稿を持ち込んだのだ。
ならば存分に書かせてやるのが編集者の務めだろう。もちろん、趣味に走りすぎて読者を置いてきぼりにしない範囲で。心配するならそちらの方向だった。
脱力する気分でポールは笑う。つられてテオも、ミレーヌも、みんなが笑いだしていた。きっと大丈夫。マリエルならどんな時にも明るく前向きに、人生を楽しみながら切り抜けていくのだろう。そして経験したことはすべて創作の参考にするのだ。
「婚約者殿はかっこいいかい?」
「とっても! ミレーヌ様もご存じですよね? まるで物語の王子様のように美しい方ですわ! さらに軍人さんですから鍛えられていて、凛々しくたくましいのです。ほんっとにかっこよくて素敵な方ですわ!」
「そりゃよかったな。せっかくだから恋愛も経験して作品に活かしてくれ」
はしゃぐマリエルを適当にいなし、サティ出版の人々は仕事を再開する。やることは山ほどあって、いつまでもおしゃべりに興じていられない。この立ち上げたばかりの小さな会社から売り出される本を、心待ちにしている読者がたくさんいるのだから。もう少しマリエルが落ち着いたら新作の打ち合わせもしたいところだ。
「でも一つだけ足りものがあるんですよねえ。あの手に鞭があれば言うことはありませんのに。腹黒参謀といえば鞭! 鉄板の小道具、世界のお約束! なんとか持っていただけないものかしら」
「その性癖は隠せな!? 結婚するまで常識的なおとなしい令嬢のふりしとけよ!?」
サン=テールの街は今日もにぎやかで、華やぎにあふれている。人々の営みは途切れることなく続き、かぞえきれない喜びや苦悩がくり返される。とある少女が婚約して、これからどんな人生を歩むのか。それもありふれた話の一つにすぎないけれど、彼女の生み出す物語は輝きを増すだろう。読者をいっそう甘い夢でときめかせる。
本は生きるために不可欠というわけではない。けれど人々の暮らしの中常に存在し、求められてきた。知識も娯楽も心を豊かにし、時になぐさめとなり、明日の活力ともなる。なくてもいいように見えて、なくてはならないものなのだ。
女性作家の生み出す物語も、これからどんどん増えていく。誰もがそれを当たり前に手に取る日は、きっと遠くない。
***** 終 *****




