12
「そろそろだな」
時計を見てポールはつぶやく。そばでともに時間を待つミレーヌが、落ち着かなく手を組んでいた。
「とうとうこの時がきましたのね……」
今日のサン=テール市は快晴――とはいかないが、まずまずの天気である。ところどころ空を覆う雲は薄く、きれいな白で、雨を降らせる気配はない。天候は大いなる懸念事項の一つだったので、関係者たちは目を覚まして真っ先に空を見、ほっと胸をなでおろしたのだった。
この日、サン=テールで刷られるすべての新聞に広告が載る。できれば数日前から広告を出して周知につとめたかったが、さすがに金が足りなかった。大衆紙だけでなく高級紙にも頼んだので、おそろしく広告費がかさんだのだ。経費の大半が宣伝に費やされた。仮に一千冊完売しても完全に赤字である。それでもかまわないと、ポールは手を抜かなかった。儲けよりも多くの人に知ってもらいたい、読んでもらいたいという一念で打てるかぎりの手を打った。
今日の各紙で一斉に発売が知らされる。できるだけ目立つ場所に掲載されるよう努力したので、多くの人が目にするだろう。
もちろんそれだけでは不十分だ。毎日新聞を読む人ばかりではないので、ポールはあちこち奔走した。看板も依頼したし、知人に頼み込んで垂れ幕もかけさせてもらった。
チラシもたくさん印刷し、街頭で配った。マリエルが少し分けてほしがったのでどうするのかと聞けば、王宮でばらまくという。そんなことができるのかと驚けば、
「もちろんこっそりとです。人がよく通る場所に誰かの落とし物や忘れ物をよそおって、さり気なく置いてきていただきます――お父様とお兄様に」
と、あまり誉められないことを堂々と言ってのけた。
マリエルはまだ社交界デビューしていない子供だし、そもそも彼女の家は王宮のサロンに出入りできるほどの身分ではない。頼みの綱は役所勤めで毎日登城する父と兄だった。
見つかれば厳しく叱責されるし恥もかくだろうに、娘に甘い父親はこころよく引き受けてくれたそうだ。兄も年の離れた妹の頼みを渋々ながら引き受けて、父親よりも巧みに宣伝工作を成功させた。
「王宮にはたくさんの職員がいます。高給取りで、間違いなく教養のある人たちです。下級女官であっても読み書きは必須ですから、本が読めないなんて人はいません。そして住み込みでお勤めしているので娯楽に飢えています。たまのお休みに街へ出てお買い物をするのが楽しみで、互いにおつかいを頼むことも日常なのだとか。こんなチラシを目にしたら、ぜったいにほしがる人がいますよ。断言します。もしかすると職員だけでなく貴族の奥様がたもほしがるかも」
悪い顔でそう言った少女は、母親にも協力を要請していた。
「うちのお母様はたいへんなおしゃべり好きで。類は友を呼ぶというか、お友達にも似たような人が多いのです」
奥様同士の集まりで話題に出せば、口から口へと伝わっていく。社交界ではそうして情報交換するのが常だそうで、又聞きをよそおって宣伝すれば、さほど時間をかけず上流の女性たちに広まるとのことだった。
貴族の奥方などなおさら体面を気にして読めないのではと思うが、表向き興味がないふりをしながらひそかに読書を好む貴婦人も多いとマリエルは言う。本当に興味がなければ噂も広まらない。だが彼女の狙いどおり、この話はまたたく間に社交界でも知れ渡ることになった。
ここでフロベール伯爵夫人の耳に入らなかったのは、交流する層が違うからだ。一口に貴族と言ってもさまざまで、クララック子爵夫人とフロベール伯爵夫人とでは格差がありすぎて接点がない。そのため、事前に情報を入手できたのは中流以下の夫人ばかりだった。高位貴族ほど出遅れるという、皮肉な結果になったのだった。
――などということが判明するのはもっとあとの話で、発売日を迎えたポールたちは、どれだけ宣伝が上手くいったのかまだわからず、不安の中にあった。
メランション家の玄関はきれいに掃き清められ、扉を大きく開け放って客の訪れを待っている。誘導用の看板も設置したから、客が道に迷うことはないだろう。外と中を仕切るように置いた机には、インクの匂いも真新しい新刊が積み上げられている。後ろの廊下にも在庫が積まれ、足りなくなればすぐに奥から出してこられるよう準備されている。間際になって釣り銭が必要なのではないかとグレースが気付き、大あわてでかき集めた小銭や紙幣は引き出しに入れた。これで準備は万端のはずだ。あとは客が来るのを待つだけだ。
近隣の住人が家の前の細い路地を通りすぎていく。なにをしているのかとこちらに視線を向けてくる人も多いが、誰も近寄ってはこなかった。遠巻きにされているような雰囲気に、ますますミレーヌの顔が硬くなる。
時計の針がついに十時を指した。販売開始だ。けれどまだ客の姿はない。人は目の前を通りすぎていくばかりだ。
焦ることはない、まだまだこれからだ――と思いつつ、ポールも内心落ち着かない。客は来ないかと曲がり角へ目をやれば、身なりのよい少女たちが姿を現すところだった。
「おはようございます、ミレーヌ様、サティさん」
マリエルが親友ジュリエンヌをともなって、彼らのもとへやってきた。
「おはようございます、マリエル様、ジュリエンヌ様」
「よう、早いな」
マリエルは机に並ぶ新刊にうれしそうに顔をほころばせ、さっそく手提げから財布を取り出した。
「もしかして、わたしたちがいちばん乗りですか?」
「ああ、まだ誰も来やしない」
ポールは自嘲を込めて言ったのだが、少女たちは楽しげに笑うばかりだった。
「それはそれは、急いだ甲斐がありましたわ」
「弟がぐずってついてきたがったのを、無理やり置いてきましたの。お土産でも買って帰らないといけませんわ」
それぞれ一冊手に取り、代金を出す。
「まあ、そのような……マリエル様たちにお金を出していただくなんて」
ミレーヌが遠慮しようとしたが、とんでもないとマリエルは首を振った。
「これは売り物ですもの、ほしければお金を出して買うのが当然です。売り手が知り合いだからといって、ただでもらおうなんて厚かましいことは考えません」
「正規の代金を払って買えば、胸を張って自分のものだと言えますわ。借りものでもいただきものでもなく、自分で手に入れたもの。素敵でしょう?」
ねえ、と気の合うようすで少女たちは笑い合う。ポールも笑って代金を受け取った。
「ありがとう」
付き合いで買ってくれたのだとしても、その心根がうれしい。こんな早い時間に、北の貴族街からわざわざ駆けつけてくれたのだ。いい子たちである。
もっとも客としての用が済むと、マリエルたちはいそいそと机の横を通り抜けこちら側へ入ってきた。奥から顔を覗かせたグレースに挨拶をし、ポールと一緒に客の訪れを待つ。売り子もする気らしいが、これだけの人手が必要になるのだろうか。販売側ばかりがにぎやかになっていく。
「お姉ちゃんたちだれ?」
声を聞きつけてマルセルがやってくる。可愛らしい幼児の登場に、少女たちの意識がそちらへ奪われた。三人できゃっきゃとはしゃぎだし、手伝うんじゃなかったのかよとポールが苦笑した時、人が玄関の前に立った。
「あのう、この本を……」
声をかけられてあわてて振り返れば、中年の婦人が立っている。普通の店とはまったく違う一般家庭の玄関で、ここでよいのだろうかとためらい困惑するようすだ。けれどその視線はまっすぐ机上の本へ向けられていた。
「はいっ。あの、ご購入ですか?」
「は、はい……ええと、その、『路傍に咲く』の十巻なんですよね? アンドレ・ルグランの……」
ミレーヌが胸を押さえる。間違いなく客だと、ポールも胸が高鳴った。
「そうです。十年ぶりの新刊です。ただし、作者の名前はミレーヌ・フェリエに変えています。アンドレ・ルグランというのは男のふりをするための名前でしたので」
「ああ、はい、知ってます。そう……本当に続きが……」
婦人の目が涙ぐむ。彼女もまた感動に胸を詰まらせるようすだった。
「まさか続きが読めるなんて……もう無理だと思っていたのに」
ポールは本を一冊取り上げ、婦人にさし出した。
「これが真の完結編です。きっと楽しんでいただけると、自信を持っておすすめします」
破顔して婦人は受け取った。代金を払い、何度も頭を下げながら帰っていく。買ってもらって礼を言うのはこちらなのに、売ってくれてありがとうと言わんばかりだ。ミレーヌがこらえきれず目元を拭った。
「あの方、本当に楽しみにしていらしたのですね」
去っていく婦人の姿にマリエルがつぶやく。そうだな、とポールはうなずいた。
「たとえ一人でも、ああして喜んでくれる人がいると報われる。作ってよかったって、心底思うよ」
「あら、なぜ一人だけだと? まだまだたくさん来ますよ。のんびりしていられるのは今のうち――いえ、もう終わりかも」
「え?」
マリエルにうながされて道の先を見れば、人がどんどん路地へ入ってくるところだった。女性ばかりだ。みんななにかをさがして歩き、こちらを見つけるや勢いを増して突進してきた。
「ほら、お仕事開始ですよ。気合を入れて頑張りましょう」
驚くポールの背中を小さな手がどやす。あっという間に人だかりができ、次々本が売れだした。
「これ! これください!」
「ちょっと、こっちが先よ! 割り込まないでよ!」
「こっちもお願い!」
「並んで! 順番に並んでください! 数は十分にありますから!」
「一冊十六アルジェです! なるべくお釣りのないようにお願いします!」
ほんの少し前の静けさが嘘のようだ。たちまちメランション家の玄関先は戦場と化した。これは列整理が必要だと、売り子をマリエルたちにまかせてポールは外へ出る。近所迷惑にならないよう客を並ばせ、道一杯に広がらないよう声をかけ続けた。
「も、もう本がありません!」
「奥から出してきます!」
「おかーさん本がたりないよー!」
「ええ? もうなくなったの?」
中の方も大騒ぎだ。グレースとミレーヌがせっせと本を運び、マリエルとジュリエンヌが売る。扱う本は一種類だけなのが幸いだった。売り子などはじめてのお嬢様たちでも、どうにかさばけている。ただたまに何冊もまとめて購入する客がいて、そんな時は計算に頭を働かせる必要があった。普段はどうということのない単純な足し算、かけ算も、この騒ぎの中であたふたしながらでは上手く頭が回らない。うっかり安くしてしまうならまだしも高くしたらたいへんだ。間違えないようマリエルたちは必死に計算した。
「た、多分、あれお城の職員よね」
「他の人の分も頼まれたのね」
なんと二十冊も買う客までいて、ちゃんと持って帰れるのかと心配になるほどだった。
「な、なにか、袋とかありませんか」
「ふ、袋、袋っ?」
「ちょっと待って、さがしてくるから!」
グレースが台所へ飛び込んで袋をさがす。「これはどう?」と母親が見せた麻袋をつかんで引き返し、大量に抱える客から本を取り戻して入れてやった。
「紐でも用意しといた方がいいかしら」
「せめて束ねておけば、持ち帰る途中で崩す心配もありませんね」
よたよた去っていく背中を見送りながら、今後も来るであろう同様の客の対策を考える。その間にもひっきりなしに本は売れ続け、人の列が途切れることはなかった。客と売り子の間を紙幣と貨幣が飛び交う。丁寧に仕分ける余裕などないからポンポン引き出しに放り込んでいく。そのうちあふれそうになったので、これまた麻袋が活躍した。もう金を扱っている気分ではない。芋でも入れるように無造作に、袋に紙幣が放り込まれていく。
「これで最後よ!」
在庫を運んできたグレースがそう言ったのは、販売開始から二時間ほどがすぎた頃だった。
「最後って、それで全部か? もう残ってないのか?」
ポールは驚いて家の中を覗き込む。マリエルたちの後ろに積まれた本の数は、ざっと五十冊ほどだった。千用意して、残り百足らず。つまり九百冊以上売れたことになる。
「嘘だろ、間違えてないか」
「間違いじゃないわよ、本当にこれで全部なのよ。もう全部出しちゃったの」
額に汗を浮かべながらグレースが言い返す。ポールもミレーヌも、信じがたい思いで残りの本を見つめた。
「これだけ人が来ているのですから、おかしくはありませんわ」
「お金だってこんなに貯まってるし、いっぱい売れたのは間違いありません」
客の相手をしながらマリエルとジュリエンヌが言う。二時間売り子を続けていた二人は少々声を枯らしていた。たしかに、休む間もなくずっと売れ続けていたのだ。あの勢いで二時間なら、九百以上売れていても不思議ではなかった。
「…………」
読者は待っていると、何度もポールは言い続けてきた。多くの人が喜ぶと信じていた。だがこの結果には驚くしかない。たった二時間、それだけで九百人以上も集まったのだ。まだ並んでいる人々を見ると、完売までそうかからないとわかる。予想以上の――いや、予想外の成果だった。
大喜びしてよいところだが、どこかまだ実感がわかない。なにかの間違いではないのかという気分が拭えない。せっせと売り子をする少女たちの前でポールはまるで役立たずになり、馬鹿のようにぼんやりと人々を眺めていた。
「おい、誰に断ってこんな商売やってんだよ!?」
「邪魔だぞ、近所迷惑だ!」
突然荒々しい声とともに割り込んできた男たちがいて、ポールの意識を引き戻す。並ぶ女性たちを突き飛ばす勢いでかき分けて、男が二人詰め寄ってきた。
「すみません、ご迷惑をおかけしましたか」
すかさずポールは販売台の前に立ち、マリエルたちを背後にかばった。
「勝手にこんなとこで商売やって、迷惑に決まってんだろうが!」
近隣住民が苦情を言いにきたのかと思ったが、それにしては柄の悪い連中である。腹を立てて怒鳴り込んできたというより、はじめから因縁をつけるために来た雰囲気だ。ポールは素早く周囲に目を走らせ、客の列がさほど乱れていないのを確認した。人数も大分減って落ち着いてきた。隣のアパルトマンの入り口をふさいでいるわけではない。もちろん大声で騒いでいるわけでもないので、こんなふうに怒鳴り込まれる状況ではなかった。
あらためて男たちに目を戻せば、いかにも堅気ではなさそうな若い連中だ。人を見た目で判断してはいけないと言うが、これは見た目どおりの人間だろう。
「お隣の住人かい? 騒がせて申し訳ないが、通行の邪魔にはならないよう気をつけていたんだがな。いちおう事前に大家さんに話して、理解もしてもらってる」
「ああ? 邪魔だから邪魔だって言ってんだよ! 現実に迷惑かけられてるっつの!」
ポールは後ろ手に、こっそりマリエルたちに合図を送った。もしおかしな人間が来ていやがらせをするようなことがあれば、すぐに奥へ逃げ込めと事前に話してある。周りにいるのが女性ばかりなので、この連中も嵩にかかって脅しつけてくるのだろう。じっさい彼女たちに危害を加えられては困るので、危なそうならすぐに逃げるよう言い聞かせていた。
マリエルとジュリエンヌが販売台から身を引く。ごろつきにからまれたら即気絶しそうなお嬢様たちなのに、二人ともけっこう肝が据わっていた。大急ぎで引き出しから金を取り出して麻袋に放り込み、しっかり抱える。これを置いていってはいけないと、彼女たちにはわかっていた。
もちろんそんな行動もからんできた二人からよく見えている。いやらしい笑いを浮かべてポールを押し退けようと進み出た。
「ずいぶん稼いだじゃないか。それだけあれば迷惑料くらい出せるよな」
最初からそれが狙いだったのだろう、麻袋を取り上げようと腕を伸ばす。その腕をポールはつかんで引き止めた。
「奥へ入って鍵をかけろ!」
殴りかかってくる腕をよけながらマリエルたちに言う。怯えて泣きだしそうなマルセルをグレースが抱き上げ、真っ先に走り出す。そのあとにマリエルとジュリエンヌも続いた。ミレーヌはポールを見捨ててよいのかとためらい、足が動かせない。だが彼女がここにいてもしかたない。早く行けとポールは続けて怒鳴った。
「いきがってんじゃねえよ!」
「おとなしく迷惑料払えば許してやるってのによ!」
二人がかりでポールに襲いかかってくる。周りの客が悲鳴を上げて散った。ポールは大怪我を覚悟する。どんなに殴られても、ここを譲るわけにはいかなかった。グレースたちが警官を呼んできてくれるまで、なんとか持ちこたえなければ。もちろん自力で追い払えたら言うことはないのだが、そこまで腕っぷしに自信はない。相手はけんか慣れしていそうなのが二人だ。どこまでやれるか――と歯を食いしばった時、突然目の前の男が消えた。
「――へっ?」
なにが起きたのか、一瞬わからなかった。ごろつきのかわりに身なりのよい人物が立っている。ポールと同年代の、淡い金髪の青年だった。背が高く体格もよく、ついでにやたらときれいな顔をしている。眼鏡の奥の水色の瞳が、氷のように冷たく足元の男を見下ろしていた。
そこでポールも気付く。寸前ポールを殴ろうとしていた男が、なにをどうしたのか地面に転がっていた。
「なんだてめ――っ」
もう一人がいきり立ってつかみかかろうとするのを、金髪の青年は眉一筋も動かさず軽くかわす。と同時に腕が動き、相手の手首をつかんだ。一瞬でひねり上げられてごろつきが悲鳴を上げる。足元の男が立ち上がって怒りとともに襲いかかろうとするところへ、つかまえた男を突き飛ばして二人もろともに吹っ飛ばした。
「……紐がありますね」
周りを見回した青年は、販売台に梱包用の紐が用意されているのに目を留めた。
「私が押さえていますので、それで縛っていただけますか」
「え、はい?」
目を白黒させているポールを置いてごろつきたちに歩み寄る。まだ暴れようとするのを難なく取り押さえ、ポールをうながした。
「ここを縛ってください」
二人の男を軽く一人であしらい指示する。言われるままにポールは男たちの手首を縛った。二人は背中合わせにつながれて立ち上がることもできない状態になった。口だけは元気に罵声を放っているが、立とうとしては相方に引っ張られて尻餅をつくという無様なありさまだ。逃げていた客たちから笑いが上がった。
「ここに座らせていたのでは邪魔ですね」
自由に動けないとはいえ騒ぐ男たちが目の前にいたのでは客が近寄りにくい。金髪の青年は二人の襟首をつかむと長い脚ですたすた歩いた。それなりに体重がありそうな成人男性を二人、軽々引きずって道の端へ移動させる。ごろつきが往生際悪く足を振り回して蹴ろうとし、逆に蹴られていた。踵がまともにみぞおちに入って悶絶している。ポールは見た。金髪の青年が、一瞬しまったという表情になっていた。どうやら彼としてはかなり手加減していたつもりらしい。今のはうっかり力が入りすぎ、うっかり急所に直撃させてしまったようだ。
「……まあ、死にはしませんね」
などとつぶやいたのも聞こえてしまった。いったいなに者だ。けんか慣れとかいう次元ではない。どう考えても玄人だろう。体格がいいから軍人か――と考えて、どこかで似たようなことがなかったかとポールは首をひねった。
そんな彼の前へ金髪の青年が戻ってくる。
「警官を呼んで引き取ってもらいますが、その前に一冊いただけますか」
懐に手を入れて財布を取り出す。あ、これも客なのかと、麻痺した思考でポールはうなずいた。
「どうも……十六アルジェです。あの、警官は多分うちの大家さんが呼びに行ってますんで」
「そうですか、それならよいのですが。十六……これと、これか」
どこか慣れないようすで青年は金を取り出し、ポールに渡す。銀行から出してきたばかりのようなきれいな紙幣だった。
「ええと、ありがとうございます。おかげさまで助かりました」
「いえ、たまたま居合わせただけですから。しかしもう少し対策を考えた方がよいですね。簡単に手出しできるところに大金があるとわかれば不心得者もやってくる。男手を増やすとか、外から届かないところに金を置くとか、もっと用心すべきです」
「は、はい」
同い年くらいなのにやたらと迫力がある。教師に叱られたような気分でポールは首をすくめた。さらに青年は「ところで」と続ける。
「これはどういう本なのですか?」
知らずに買ったんかい、とつっこみそうになるのをあやうくポールはこらえた。青年はいたって真面目な顔だ。
「もしかして、誰かに頼まれて?」
「ええ、まあ、母に」
ああ、なるほどと納得する。ポールのように続編を待っていた男性読者ではなかったのか。残念だ。
「まあくわしいことはお母さんに聞いていただきたいですが、ちょっと昔の人気小説ですよ。十年ぶりに出る続編なんです」
「十年……たしかにそんなことを言っていたな」
「覚えていてくださってありがとうと、お母さんに伝えてください」
不思議そうにうなずき、青年はポールに背を向ける。きびきびと歩いていき、今気付いたが近くにつないでいた馬に颯爽と乗った。まるで物語の王子様だ。この生活感あふれる路地には似合わないにもほどがある。さながら、養鶏場にまぎれ込んだ孔雀のような。
なんともかっこいい男がかっこよく去っていくのを、周りの女性客も自分の買い物を忘れてうっとり見送っていた。全員が惚けているところへ、家の奥からマリエルがおそるおそる戻ってきた
「サティさん? あの、大丈夫ですか? 今グレースさんが警官を呼びに行ってらっしゃいますが……って、さっきの人たちは?」
声をかけられてポールはわれに返る。周囲の客たちも目的を思い出してふたたび集まってきた。
「釣り銭持ってきてくれ。さっきの連中は縛り上げて動けなくしてるから大丈夫だ」
今度はポールが販売を担当し、マリエルたちには家の中に入っているよう指示する。もう全員で頑張る必要はなかった。残る本は数十冊、それもみるみる減っていく。
警官がようやく到着してごろつきを回収する頃には、きれいさっぱり完売していた。あとからやってきた客が間に合わなかったと知って不服の声を上げる。はじめは謝ってお引き取り願っていたが、次から次からやってきてきりがない。女性ばかりではなかった。おつかいではなくみずから求めて来た男性もいた。彼らは完売したと聞いても諦めず、なんとかならないかと訴える。騒ぎは一向に収まらず拡大するばかりで、とうとうポールを決断させた。
「近日中に追加販売します! かならず全員に行き渡るよう増刷しますので、いましばらくお待ちください!」
書店にも置いてもらえない自費出版。民家の玄関先で売って、どれだけさばけるかという不安を抱えていた。ポールの出した広告は嘲笑された。高級紙の発行元には渋られて、拝み倒して掲載してもらった。看板を設置している最中いやがらせを受けることもあった。
こんなにしても売れないよと、何人に言われただろう。無駄な金を使うと呆れられ、ポールも原価回収など諦めていた。儲けなどなくていい、たとえ一人でも待っていた読者に届けば――そんな願いにすがって。
それがほんの数時間で売れた事実は、サン=テール中を驚かせた。ポールやミレーヌを馬鹿にしていた人々もこの結果には表情を改めるしかなかった。
女が書いたものなど売れるわけがない? そう言ったのは誰だ。真の読者は待っていた。どれだけ酷評されようと、己が面白いと思った作品は忘れずに待っていたのだ。
――こののち、十年前と似たような騒動もあった。どうあっても否定したい連中は駄作呼ばわりして評判を落とそうとしたが、なんの効果もなかった。追加で刷った本もまたたく間に完売し、さらに追加を発注しなければならなくなる。作るそばから売れていった。商売になるとわかるや書店が扱いたいと申し出てきたが、メランション家以外で販売されることはなかった。ポールは悩んだが、グレースが近所の知人に声をかけて男手を集めてきたのだ。給料を払って雇い、手伝ってもらう。防犯対策もそれで解決した。給料分の経費は発生するが、書店に委託料を払うよりは安上がりだ。そしてすでに売り上げは黒字で、十分な余裕があった。いちばんの協力者であり場所を提供してくれたメランション家にも謝礼を出すことができた。
このできごとがきっかけで、のちにメランション家は本格的に書店を経営することになる。古い家は改築され一階が店舗になる。その頃にはポールは下宿を出て別の部屋に住んでいたが、元大家たちを心配する必要はなかった。働き者で世話好きないい女を、いつまでも周りの男が放っておくはずがないのだ。マルセルには新しい父親ができ、頼もしく家族を守ってくれていた。
といった話は、もう少し先になる。今はまだ余韻に浸る暇もなく、忙しく走り回るポールだった。