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事件や騒動が起きるのは市井だけではなく、軍部や王宮内においても人を驚かせるできごとは枚挙に暇がない。この春、都に集まった貴族たちのいちばんの話題は、汚職事件による各所要人の一斉検挙、更迭であった。
完全に無関係な立場から面白おかしく噂するだけの者、親類縁者が関わっていたためにとばっちりがこないか戦々恐々としている者、憎い相手が失脚して大喜びしている者、反応はさまざまである。更迭された面子の中に近衛騎士団の団長もいたので、もとから近衛に反感を抱いている者はここぞと意気込んでもいた。
事務的に説明すれば、近衛は陸軍に所属する一部隊にすぎない。人員数はせいぜい大隊といったところだが、もちろん人々の認識は異なる。なんといっても国王の信頼を受けてそば近くに控え、守るのだ。憧れの花形職、名誉ある職、王宮に華を添える存在と認識している者が多かった。騎士などという古くさい称号がいまだに使われているのがいい証拠だ。規模から言えば団長は少佐か中佐あたりであるところ、准将もしくは少将である。あらゆる面で一般の軍とは異なり、「華やかさ」が重視される組織には違いなかった。
それをもてはやす者ばかりでないのは当然である。見下し嘲笑する者もいれば、妬む者もいる。名前だけの軍人、王宮の飾り人形と揶揄もされている。そういった人々にとって、近衛の団長が不正に関わり更迭されたというのはまったく愉快な話であった。
シメオンの耳にもさまざまな声が聞こえてくる。王宮の廊下を、なにも聞こえていないかのように超然と歩きながら、内心では今後の計画を練っていた。
まずは団の引き締め、立て直しが急務だ。特に問題のある人物は団長とともに処分されたが、そうまでいかずとも職責をはき違えた団員は多い。外部の評価そのままの態度でいられては困る。己たちは軍人であり、あくまでも戦うことが職務と思い出してもらわねば。いかなる危険からも主君たちを守り、王宮内の治安維持に従事する。建前ではなく第一の意義としてそれぞれが自覚するよう、これから厳しく律していかねばならなかった。
副団長が団長にくり上がるのにともない、シメオンが新たな副団長に任命されると決定している。これも反発や妬みを招くだろうが、手に入れた権限は大いに活用しようと決めているシメオンだった。
「おー、シメオンじゃないか。暇そうだな?」
――などと考えていたそばから、のんきな声が背にかかる。
一瞬足を止めそうになったシメオンは、無視すると決めてそのまま歩き続けた。
「この間はどうだったよ? 報告をまだ受けてないぞ。いろいろ話すことがあるだろうが、うん?」
振り返らなくてもわかる。声までにやけて追いかけてくる。無表情だったシメオンの眉間にくっきりとしわが刻まれ、両手が硬い拳を作った。
「照れずに聞かせろよ。誰を選んだんだ? お前と相性がよさそうなのは、やはりオルガかね。けどクロエちゃんも可愛いし、案外勝気なイザベルとも上手く合いそうだよな?」
「…………」
「気を利かせて三人用意してやったが、逆に選べなくて困らせたかな? それともまさか、三人まとめてお相手したか? おお、すごい、さすが若いな! さぞ激しく濃厚な一夜を……」
「――全員断りました!」
我慢しきれずに足を止め、振り返りながらシメオンは怒鳴る。最後まで無視できないあたり、まだまだ未熟だった。
すぐ後ろを歩いていた髭中年は、露骨に呆れた顔になった。
「断ったぁ? なんつうもったいないことを。今売り出し中のいちばん人気の美女たちだぞ。天下の花園トゥラントゥールの最高位、金を積んでもなかなか予約が取れない高嶺中の高嶺の花だ。俺がコネを駆使してなんとかあの三人を用意してやったってのに、お前断ったのか? そのままなにもせずに帰ってきたのか? なんって不甲斐ない……お前それでも男か! つくもんついてんのか!?」
「品のない発言はやめてください! 近衛の長となられるのでしょうが! あなたこそご自分の立場をわきまえていただきたい!」
拳を震わせながらシメオンはポワソンに言い返す。あの日、上官命令と信じて届けた極秘書類は、そう見せかけた真っ白な紙の束でしかなかった。あやうく取り違えで紛失しかけたのを懸命に取り戻したのに、一杯くわされたと知った時の脱力感と怒りといったら、とても言葉にはできない。もう二度と、この上官の言うことは信じるまいと誓ったものだ。
案内された部屋に入った時からおかしいと思っていたのだ。それらしい相手の姿はどこにもなく、待っていたのは三人の妓女だけだった。彼女たちは事情を承知していてシメオンが見せた封筒をすんなり受け取ったが、それを待っていたとは思えない態度だった。やたらとシメオンにまとわりつき、酒食をすすめようとし、封筒は放り出したまま見向きもしない。あやしんだシメオンは、着いたら開封してよいと言われていたことを思い出して中身を確認し、上官にはめられたと知ったのだった。
国王のひそかな命を受けて一斉検挙をしかけた一方で、こんなくだらない悪ふざけもする。切れ者には違いないのだが、どうにも付き合い方がつかめない上官だった。
「お前けっこう好みが難しいな。あの三人でだめとなると、どういうのがいいんだ? もっとおとなしそうな、清純な子がいいのかな?」
ふたたび歩きだしたシメオンに、ポワソンも懲りずについてくる。
「まあたしかに、お前には真面目ですれてない娘が似合いだろうが、そういうのは本命に置いといて、いろいろ経験しとく方がいいと思うぞ? 見た目は派手だがとんと奥手だからな、慣れた女に教えてもらうくらいでちょうどいい。そう思って用意してやったんだがなあ」
「……よけいなお世話です。女性が苦手というわけではありませんので、必要になれば自分でさがします」
「いやその言い方がすでに間違っとるんだが。まあ名門伯爵家の跡取り様だ、結婚相手は色恋より条件で選ぶんだろうが、だからこそ今のうちに遊んでおいた方がいいと思うぞ」
「遊ぶ時間があるなら休ませていただきます。調査のため三ヶ月間休暇なしの働きづめでしたので、さすがに疲れました。私が休んでいる間に進めていただきたいことをまとめましたので、きちんと目を通し処理されますように。四日後確認いたしますので、残さないようにお願いしますよ」
手元から引っ張り出した書類を叩きつける勢いで上官に渡す。受け取ったポワソンは別な意味で呆れた。
「三ヶ月ぶりに取る休暇が三日? なんだ、三て数字が好きなのか? 働きすぎだ、もう忙しい時期は過ぎたんだから、もっと休んでいい」
「あまり長く離れると、その間団内がどうなるか不安です」
「お前一人がキリキリしてもしょうがない。そうすぐにどうにかなるもんか。ああわかった、ちゃんとやっとくから――て多いな!? お前、これを三日でやらせるつもりだったのか!?」
一覧に目を通したポワソンは冗談でないと顔色を変える。対してシメオンの方は、驚かれるのが心外と言わんばかりの真顔だ。
「できるでしょう、そのくらい。私が担当してきたことのごく一部ですよ」
「不休の働きづめを基準にするな! 五日――いや、七日だ! 休暇は明日から七日間。いいな、七日休むんだぞ!」
「七日もかけるおつもりですか?」
「お前のために言ってやってるんだ。あと俺だって間に休日がほしい」
「……まあ、よいでしょう。七日もいただければ、当家の事業関係にしっかり時間が取れますね。ありがたく使わせていただきます」
「どんだけ働く気だ!? 休めって言ってるんだよ俺は!」
二人のやりとりに通りかかった騎士たちが笑っている。腐敗を切り捨て団内に新鮮な風を通してくれた上官たちに、感謝し好意を寄せる者も多い。若くして副団長となるシメオンに対しても、尊敬し支えていこうという目が向けられていた。
だが、彼らはまだ知らなかった。たしかに有能で信頼できる上官ではあるが、一方で訓練にも規律にも厳しい鬼副長の誕生である。その下でヒイヒイ言わされる日々が訪れるのは、そう遠い先の話ではなかった。
そんな一幕があった翌日、めったになく朝をゆっくりとすごし、午後は事業の視察にでも出向こうかと思っていたシメオンの耳に、母親のやけに焦った声が聞こえてきた。
「早く用意して! 馬車を――ああ、それでは間に合わないわ。シメオン! シメオンいらっしゃい!」
日頃はのんびりした母親が大声で呼んでいる。なにか面倒なことを言いつけられるのだろうとため息をつきながら、シメオンは一階へ下りていった。
「なにごとですか、母上」
フロベール伯爵夫人は玄関近くで騒いでいた。どうやら出かけようとしているらしいが、それにしては部屋着のままである。おしゃれが大好きで名門伯爵家の女主人としての体面も心得る彼女は、常に身なりには気を遣っている。間違っても部屋着のまま出かけることなどなかったのに、着替える時間もないのか今すぐ飛び出そうという雰囲気だった。
「シメオン、ぐずぐずしないで馬を出しなさい! わたくしを街へ連れていってちょうだい!」
執事や家政婦がおろおろして止めようとするのを振り切り、母親はシメオンに詰め寄ってくる。研究に没頭しだすと周りの音が聞こえなくなる父親までが、なにごとかと顔を出すほどの騒動だった。
「街? 劇場にでも? それとも買い物ですか」
「違うわ――いえ、そう買い物よ。ここに行きたいの!」
母が手にしたものを突きつけてくる。新聞だ。一面に――ではなく、中の面だが、比較的目立つ場所に大きな広告が出ていた。
内容に目を走らせれば、小説の発売広告であるとすぐにわかる。十年ぶりによみがえる名作、という売り文句に見覚えがある気がした。つい最近目にしたばかりではなかったか。記憶をたぐったシメオンは、数日前に同じ内容のチラシを王宮で拾ったことを思い出した。
あの時は深く考えず、近くにいた職員に処分を頼んだのだが、母が血相を変えるほどたいへんな広告だったのだろうか。
「この本を買いたいのですか?」
「そう! 今日発売ですって! 販売開始は十時からとあるわ。もう午よ、急がないと売り切れちゃう」
「……そんなに人気の本なのですか?」
広告には販売される場所の地図も載っていた。書店で売られるわけではないらしい。妙な話だ。どのあたりだろうと番地を確認し、労働者の住宅が集まる地域であると気付いた。特別柄が悪いわけではないが、伯爵夫人が乗り込むような地域ではない。
「マリアンヌにでも行ってきてもらったらどうです? 母上が直接行かれずとも」
「だってだって、十年ぶりよ! まさかの完結編よ! ああ、なぜもっと早く気付かなかったの!? 今すぐ行くわ、お願いよシメオン、馬を出して。全速力で連れていって!」
興奮のあまり母親の言葉は支離滅裂だ。おそるおそるやってきた父親とシメオンは目を見交わし、二人ともにわけがわからないと首を振った。
「ええと、奥さん? そんなにほしいなら手配してあげるよ? あなたがわざわざ買いに行かずとも……」
そっと声をかける夫に、伯爵夫人は目を吊り上げて振り返った。
「そんな悠長なことを言っていたら間に合いません! 見なさい、ここ! 限定一千冊とあるでしょう! たった一千なんて、あっという間に売り切れてしまうわ! 貴族だろうとたとえ王族だろうと、今すぐ買いに走らないと間に合わないのよっ」
そこまで話題の本なのだろうか。もう一度じっくり広告に目を通したシメオンだったが、彼にはよくわからなかった。読書は好きだし小説もそれなりに読むが、この題名には覚えがない。売り切れを心配されるほど人気の本なら噂くらいは耳にしていただろうし、そもそもそんな本が一千冊しか刷られないというのもおかしな話だ。
「母上、落ち着いてください。大丈夫ですよ、今日発売なのでしょう? そうあわてることはない」
「いいえ、大あわてよ。全然大丈夫ではないわ」
「いえ、ですから……わかりました、行きますから。私が馬で走りますから、母上は待っていてください」
今の彼女に常識は届かない。とにかく母が直接乗り込むことは阻止すべく、シメオンは言った。使用人に馬の用意を言いつけ、上着も取ってこさせる。そのまま出ていこうとする彼を執事が呼び止め、現金の入った財布を渡した。下々の小さな店では小切手は使えないと教えられ、シメオンは財布をしっかり懐にしまった。
「シメオン兄様、癇癪玉も買ってきて!」
窓から下の弟が顔を出してついでのおつかいを頼んでくる。それは聞こえなかったふりをした。いたずら好きの末っ子にあんなものを持たせたらろくなことにならない。断固として聞かなかったことにした。
そうして南部へと馬を走らせたシメオンは、母を納得させるため急ぎながらも、無駄な努力だと思っていた。さして話題にもなっていない小説、それも今日発売されたばかりだ。余裕で手に入るだろうとたかをくくっていた。
だが目的地に近付くにつれて、もしかすると母が正しかったのかもしれないと思うようになってきた。
ところどころに看板が出ている。本の宣伝と、販売場所へ誘導する矢印が描かれている。建物の屋上から垂れ幕もかかっていた。街中いたるところで広告を目にし、気付かないで一日をすごせないような状況だ。
ここまでして売られるような本なのか。驚きながらシメオンは馬を急がせる。もしかすると世間はとうにこの話題でもちきりになっていたのかもしれない。仕事に忙殺されていたシメオンや深窓の奥方だった母が気付かなかっただけで、サン=テールっ子の間では発売を切望されていたのだろうか。
なじみのない番地を、案内図を頼りに進む。この先すぐという立て看板を見つけ、最後の角を曲がれば、行列が目に入った。あそこが販売所だろう。間違いない。思ったほど人が殺到しているわけではなかった。あの最後尾に並んでも、五分と待たずに順番が回ってくる。シメオンはほっと安堵しかけた。
その目前で、騒ぎは起きた。




