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マリエル・クララックの婚約  作者: 桃 春花
マリエル・クララックの邂逅
23/27

10




 この数日間のできごとは、きっと生涯忘れられず語り種になることだろう。

 今はまだそのただ中にあり翻弄されるばかりだが、間違いなく人生の転機なのだとポールは確信していた。

 ふわふわと地に足がつかない気分で下宿へ帰る。モンテ男爵邸で不覚をとったあとすぐに目を覚まし、椅子に落ち着いていろいろと話をしてきたのだが、今でもどこか夢を見ている気分だった。


「どうしたの、ポール」


 今日も元気に出迎えてくれたマルセル坊やが、いつになく魂の抜けたポールに首をかしげる。ああ、とかうん、とか意味のない返事をしながらポールは懐に手を入れ、お土産のお菓子を渡してやった。男爵邸で出された砂糖菓子だ。ポールには甘すぎて食べられないがマルセルにちょうどよいと思い、包ませてもらって持ち帰ったのだった。

 案の定マルセルは大喜びしてさっそく頬張ろうとし、すかさずグレースに取り上げられた。一つだけ食べさせて、グレースは残りを空き缶にしまう。息子が一度に食べてしまわないよう高い棚に片付けつつ、ようすのおかしなポールにやはり首をかしげた。


「今日はあの原稿書いたお嬢さんに会ってきたんでしょ。またなにか問題が起きたの?」

「いや……問題じゃないんだが」


 上着も脱がないまま、ポールはふらふらと食堂の椅子に座る。グレースがスープを温め直すのを待つ間、原稿の入った袋をじっと見つめていた。

 待ち焦がれていた物語の完結編が、今ここにある。作者のフェリエ女史――今はモンテ男爵夫人となったミレーヌは、出版ができなくなっても筆を折る気になれず、一人で書き続けたのだそうだ。


 もともとこのシリーズを書きはじめたきっかけも、離婚して実家に戻ったあと他にできることがなかったからだった。出戻りに対する世間の目は冷やかで意地が悪く、あまり外へ出かけていく気になれなかった。経済的にも遊び歩く余裕はなく、自然と家に引きこもりがちになり、暇を持て余した結果小説を書こうと思いついたのだ。庶民の生活に関しては使用人から聞き、昔のできごとは祖父母から聞いた。苦労してきた人々への敬意を込めながら、好きだった歴史ともからめて書いた。

 それが偶然出版できることになり、生き甲斐も得られたし収入にもなった。だが作者が女であると発覚したため最終巻を出せなくなったのはすでに語られたとおりだ。そこでまたミレーヌは非常につらい思いをしたが、反面今の夫との出会いにつながった。なにかを失い、別のなにかを手に入れる。不思議なめぐり合わせの結果、今は幸せに暮らしているそうだ。


 夫は彼女のよき理解者であり、同好の士のために屋敷を提供することにも協力してくれた。家族の目が厳しくて思うように本が読めない女性、自分も物語を書きたいと熱意を抱く女性。知り合いから知り合いへとひそかに情報が伝わり、モンテ男爵邸に人が集まるようになる。そこへ加わったマリエルがさらにポールと出会い、十年の時を経た邂逅へと導いたのだった。

 人の縁はまったく不思議なものだと思う。求めても得られないかと思えば、時にこうして向こうから転がり込んできたりもする。ポールもマリエルもミレーヌも、誰も意図していなかった結果だ。それぞれが抱く小説への熱意が縁をつないだのだろうか。


「留守中にポールにお客さんが来たのよ」


 今日も美味しそうな夕食をグレースが並べてくれる。汚さないよう原稿の袋を脇へ置き、ポールはフォークを握った。


「誰?」

「カンタール家の顧問弁護士だってさ。はい、名刺」


 見せられた名前にもカンタール家とやらにもまったく心当たりがない。食事をはじめながらポールは名刺を眺め、首をひねる。


「知らんなあ……弁護士サマが俺になんのご用かね」

「なんかお礼をしたいとかいう話だったわよ。そのカンタール家ってとこが詐欺の被害に遭いかけてたのを、あんたのおかげで助かったとか」

「――――ああ」


 あれか、とポールはうなずく。聞いてもまったく思い出せないが、きっと詐欺グループの標的になっていた被害者の一人なのだろう。マリエルと一緒に見た名簿の中に名前があったはずだ。


「思い出した?」

「思い出したっつうか、まあわかった。けど俺が助けたってわけじゃないんだがな。警察へ届けたのが俺だってだけで、証拠書類をかっぱらったのはブリスだし、詐欺グループを叩きのめしてくれたのは通りすがりの軍人だ」


 ふうん? とグレースは肩をすくめる。


「よくわかんないけど、あんたも無関係ってわけじゃないんでしょ。せっかく言ってくれてるんだから、お礼してもらったら」

「そいつはなんか、図々しくて気がひけるな」

「いいじゃないのよ。向こうから言ってくれるなんて、なかなかないことよ。あんたも気取ってられる状況じゃないんだから、謝礼金なり新しい仕事なりねだってきなさいな」

「うっ……」


 痛いところを突かれてポールは言葉に詰まる。もそもそと食事を終えて、逃げるように三階の自室へ引き上げた。

 一人になって、あらためて原稿と向かい合う。ミレーヌが託してくれた、あの物語の最終章だ。十年間ずっと読みたいと願い続けてきた。いつか書いてもらおうと思っていたものが、すでに書き上げられて目の前にある。

 早く読みたいという気持ちはもちろんあった。今でも興奮がさめやらない。食事なんて後回しでとにかくこれを読んでしまいたかった。

 しかしあまりに強くこだわりすぎたせいか、長く焦がれ続けたせいか、手が出せない。読みたい気持ちと同時に、読んでしまうのが怖いという気持ちも存在していた。読みたいのに読めない――馬鹿みたいな葛藤に苛まれ、一人悶えるポールだった。


 落ち着いてじっくり読ませてもらうと言って預かってきたが、はたして落ち着けるのだろうか。もう今夜はこのままにして読むのは明日にしようか。いや、とても眠れる気がしない。どうせ落ち着かないなら徹夜で読んだ方が――ああでも、読むのが怖い。

 はたから見れば呆れるしかないことで悩みながら夜が更ける。翌日、幽鬼のように顔色を悪くしくっきり隈を張り付かせながらもなぜか生き生きと目を輝かせる下宿人に、メランション家の人々は驚かされたのだった。






「本を出すぞ! 十年後なんて言ってられるか。もう十年待ったんだ、十分だ。今すぐこいつを本にする!」


 意気込むポールにマリエルが気圧されながら拍手し、ミレーヌは気がかりそうに眉を寄せる。


「ですが、どこの出版社が扱ってくださるでしょう。それに今さら続きを出すと言っても、どれだけの人が求めてくださるものか……」

「読者は待っています! 断言します! 十年たっても読みたい本はある。そしてこれは、その期待を裏切らない内容でした。多少手直しは必要ですが、大筋はこのままで問題ありません。きっと世間を騒がせます!」


 身を乗り出してポールは熱弁する。今日男爵邸にいるのは彼とマリエル、そしてマリエルの親友だという少女の三人だけだった。

 少女たちが身を寄せ合ってひそひそやっている。


「大丈夫なの、あの人。昨日も急にひっくり返っちゃって、情緒不安定じゃないの」

「好きなものに興奮するのはお互いさまよ。ジュリエンヌだって殿方同士の物語には熱くなるじゃない」

「世間を騒がせるって、そりゃ騒ぐでしょうね。十年前も作者が女性とばれて、大騒ぎになったのでしょう? また同じ騒動になって、ミレーヌ様がいやな思いをされることにならないかしら」

「それは、わたしも心配だけど……」


 少女たちの視線を受けて、ポールは咳払いする。少し勢いを落ち着かせ、あらためて話した。


「いろいろ言われるだろうことは確実だ。当然けなすやつや馬鹿にするやつもたくさんいるだろう。だが喜ぶ人間も絶対にたくさんいる。読者にとっていちばん大切なのは作品の中身だ。作者が誰かなんてたいした問題じゃない。女だからとはねつけた連中は、もともとまともに読む気なんかなかったんだ。そんなやつらがなにを言おうと気にしなくていい。物語の続きを、完結を待ち続けていた読者とだけ向き合えばいい。お願いしますモンテ夫人、ぜひ出版許可をください」


 ポールに頭を下げて頼まれ、ミレーヌは困惑の表情を浮かべた。


「わたしにとっては願ってもないお話ですが、さきほども申しましたようにどこの出版社が扱ってくださるでしょう。サティさんがどんなに望んでくださっても肝心の出版社が動いてくれないのでは……」

「おっしゃるとおりです。既存の出版社を通して発行することは、不可能と言っていいでしょう。それはもう俺がさんざん思い知らされてきたことです。だが本を作るだけなら出版社に頼らなくてもいい。自費出版という手があるんです。直接印刷所に発注します。そのかわり、いろんな工程を自分で手がけることになりますが、それは俺がやります。これまでに培ってきた知識がある、大丈夫です」

「自費出版……残念ですが、それは無理です。当家は正直、あまり余裕がなくて。本を作って売り出すとなれば何万アルジェも必要でしょう? それだけのお金を出すわけには……回収のあてがあるならともかく、赤字覚悟で出せる余裕はありません」


 確実に売れて黒字になるなら、思いきった投資もできる。だがそんな保証はどこにもない。まったく売れずに終わる可能性もあるのに、大金をぽんと投げ出せるほどの余裕はモンテ家にない。恥ずかしそうに言うミレーヌに、ポールは笑顔で答えた。


「金は俺が出しますよ。あなたには原稿を仕上げていただくだけです。あとのことは俺が全部やります」

「そんな……」

「貯金をはたけば一冊作るくらいはなんとかなります。その分売り上げから経費を回収させていただくことになりますが、そういう細かい話はまたのちほどにして、まずは出版許可を。お願いします」


 もう一度頭を下げられて、ミレーヌは困惑しながらもうなずいた。


「そうまで言っていただけるなら、もちろん喜んで。でも本当にそれでよいのですか? サティさんにとってはなんの得にもならない――下手をすれば大損になりかねない話ですが」

「いいんです。俺はこのために編集者になったんですから」


 少年の頃の夢が、今実現しようとしているのだ。ポールはもうためらわなかった。たしかに大赤字で終わり、会社設立の夢が遠のくかもしれない。その可能性は考えていたが、諦める理由にはならなかった。ここで動かなくてどうするのか。運と巡り合わせが終結してこの状況に到達したのだ。もうまっすぐに突き進むしかなかった。

 ポールは徹夜で読んだ原稿について、さっそく指摘を開始した。さすがに元は商業で通用していただけあって、マリエルが書いたものよりずっと水準の高い原稿だった。それでも本にするには、いくつか直すべきところがある。じっくり打ち合わせしてマリエルたちとともに男爵邸を辞去したのは三時間もあとのことだった。


「サティさん、お金は本当に大丈夫なんですの?」


 下宿まで送ると言ってくれるのを辞退したが、ここから歩いて帰るのも大変だ。せめて辻馬車が拾えるところまでということで、ポールを乗せてマリエルたちの馬車は市街地へ向かってくれた。


「いよいよ困ったら相談してくださいね?」

「ああ、ありがとう。けどまあ、なんとかなるさ。こないだの詐欺事件の被害者からも、なんか謝礼がもらえそうだしな。俺はなにもしてないのに正直申し訳ないが」

「あら、そこは遠慮なく受け取るべきですわ。サティさんが関与したのはまぎれもなく事実ですもの。頑張ったサティさんに神様が幸運を授けてくださったのですよ、きっと。これからお金が必要になるのですから、ありがたくいただきましょう」


 ちゃっかり言って笑う少女にポールも苦笑する。退職金をもらえないか、もう一度デジール出版にもかけあってみようと考えていた。テオが知らせてきたところによると、ビドー男爵のおかげで風向きが変わったらしい。今ならポールの要求も聞き入れられるかもしれなかった。


「お金さえあれば本が作れるんですか?」


 マリエルの連れの少女が尋ねてくる。貴族の令嬢たちにわからない事情を、ポールはどう説明しようかと考えた。


「作るだけなら簡単だ。原稿を用意して体裁を指定して、印刷所に発注すればいいんだからな。個人からの注文は受け付けないなんて印刷所はほとんどない。出版社からでなくても、正規の料金を払えばちゃんと作ってくれるさ」

「作る以外のことが難しい?」


 言葉の裏にあるものをマリエルが読み取る。ポールはうなずいた。


「難しいのは、売る方だ。書店に置いてもらうのはそう簡単なことじゃない。これは出版社の力がないとつらいな。あちこち頭を下げて回っても、どれだけ棚を確保できるか……それに広告も打たないとな。でっかく宣伝して、発売前から話題にするんだ。あの幻の名作が十年ぶりによみがえる! ってな。まあ、それにも金がかかるわけで……どこまでやれるかだな」

「ふうん……」


 わかったのかどうか、少女たちは顔を見合わせる。

 十年越しの夢を実現しようと高揚していても、ポールは冷静な部分も残していた。まったく、作るより売る方が難しいのだ。ミレーヌには太鼓判を押したが、じっさいのところ勝算は五割も確信できていなかった。

 読者が待っていても、流通できなければどうしようもない。自費出版の本など書店はあまり扱ってくれない。ましてそれがいわくつきの女性作家の本となると――突っぱねられることは覚悟しなければならなかった。

 どうやって説得して回るか、ポールの手腕にかかっている。忘れかけている世間に思い出してもらうため、続きを手に入れたいと思わせるための広告も、頭を使って工夫しなければならなかった。


 それからは出版準備に奔走する日々だった。ミレーヌと何度も話し合い改稿を重ね、原稿を完成させていく。そのかたわらポールは書店を回って頼み込んだが、予想どおり難航した。話を聞いてくれる店主もいたが、かつて騒動になった女性作家の本だと知るや皆態度を変えた。そんなものを扱う店は笑い物になったり批判にさらされると心配し、関わりたがらない。まったくの取り越し苦労とは言いきれないのがポールとしても悩みどころだった。面白半分にいやがらせをしてくる連中は、多分いるだろう。

 原稿が完成しレイアウト指定も終わり、いよいよ印刷所に入稿する段になっても、まだ一店も契約が取れない。さすがにポールは頭を抱えていた。


「お疲れね。上手くいってないの?」


 暗い顔で帰ってきたポールを、グレースたちが温かい夕食でねぎらってくれる。ありがくいただきながらも、ポールはため息が止まらなかった。


「街中の本屋という本屋にかけ合ったんだがな……全滅だよ。ったくみんな頭が固いっていうか、弱腰っていうか、ちょっとは冒険してみようって気にならないのかよ。自分のとこから話題の本が出たら面白いじゃないか。なんでそう考えられないかね」


 ほうれん草と鶏肉のキッシュに恨みを込めてフォークを突き立てる。「お行儀が悪いわよ」とたしなめながら、メランション夫人が特製のシチューを置いてくれた。


「本屋さんも商売だからねえ。気軽に冒険できないんだろうね」

「売れないだけならともかく、いやがらせされると困るものね。怖がる気持ちはわかるわ」


 母娘の言葉にポールは力なくうなずく。その横へ幼児がやってきて、おもちゃの剣を振りながら声を張り上げた。


「ぼくぼうけんするよ! ポールを助けてあげる!」

「はは……ありがと。マルセルはかっこいいな」

「うふん」


 話を理解できないながら、マルセルなりにポールをはげまそうとしてくれている。みんなこの勇気と優しさを抱いたまま大人になれたらいいのにと思わずにいられない。

 食事の手を止めてマルセルの頭をなでていると、なにか思いついたようすでグレースが身を乗り出してきた。


「そうよ、冒険なら自分ですればいいんだわ。人に頼むからだめなのよ」

「……どういうことだ?」


 見上げるポールに、グレースは大きく微笑む。


「本は本屋で買うもの。その思い込みを捨てましょう。どこで売ったっていいじゃない、ちゃんとほしい人の手に入るなら」

「そりゃあ、そうだが……?」


 屋台でも出せということだろうか。なるほど、それならば所定の届けさえすれば済む話だが。


「あまり大量には運べないな……本は重いからな」

「違うわよ。ここで! この家で売ればいいの。うちが臨時の本屋になるのよ」

「へっ?」


 グレースは母親を振り返った。


「ねえ母さん、いいでしょ? 昼間だけ玄関開け放って本を売るの。出入りは裏からもできるし、そんなに不都合はないでしょ」

「そうだねえ……ちょっと手狭だけど、まあ売る本は一種類だけだから特に問題ないかしらね」

「そうよ。それこそ本屋さんみたいにたくさん本を並べる必要はないもの。取り扱う本は一種類だけ。買いにくる人もそれだけを目当てにするんだから、狭くたって問題ないわ」

「うんうん、在庫は奥の部屋に置いて、足りなくなったら取ってくればいいわね」

「ねえ? われながらいい考えじゃない? だってほら、本屋さんだってタダで売ってくれるわけじゃないでしょ。手数料っての? 本屋さんの取り分もあるんでしょ? 本屋さんに置いてもらえばそれだけ儲けが減るわけよ。でも自分で売ればその経費はなし! 丸儲け!」

「いや丸儲けとはいかんが……」


 思わず言い返しつつ、ポールも考えた。グレースの提案は悪くないように思えた。彼女の言うとおり、書店に依託すれば経費がかかる。自分で売ればその分が浮く。場所代を払うとしても、いくつもの書店と契約するよりはずっと安上がりだろう。

 両隣をアパルトマンに挟まれた、谷間のような小さな家。だが個人の持ち家だ。玄関先で販売をしようと住人の自由である。他から文句を言われることはない。


「……いいのか? かなり迷惑かけることになるが」


 とはいえ、玄関先に花壇を作ろうなどという話とは違う。それなりに面倒が多いだろうし、懸念されているいやがらせの問題もある。幼児のいる家庭にそういった騒動を持ち込んでよいのかためらった。


「状況しだいね。ぜんぜんお客が来なくて閑古鳥かもしれないし? だったら暇なだけよね。売れ残った在庫をどうするかは責任持って考えてもらうわ」

「それはもちろん」

「逆に売れて忙しくなっても、まあ一時的なものでしょ。店を開ける時間を決めて他は受け付けないってしたら、それほど生活に支障はないと思うし」

「もし変な人たちが来たら、ポールが頑張って追い返してちょうだい。無理そうなら警官を呼んであげる」

「場合によってはマルセルをどこかに預けてもいいわね。そうだ、男爵様のお屋敷で預かってもらえないかしら。そのくらい頼んでもいいわよね、作者なんだから」

「おい勝手にそんな……まあいざとなったら頼むか」


 ミレーヌなら快く引き受けてくれるだろう。夫の男爵も温和な人物だったから大丈夫なはずだ。などと先のことまで考え出す自分に気付き、ポールは苦笑した。さすがに先走りすぎだ。


「自分でか……そうだよな、そのとおりだ」


 手元に視線を落とし、考える。出版社で働いていたせいか、すっかり固定観念に囚われてしまっていた。なにも書店に依託せずとも、本などどこででも売れる。置いてもらえないのなら、自分で売ればよいのだ。

 印刷所に発注した本の数は一千冊。商業で考えるなら笑うしかない、儲けも出ない発行数だ。だがいちかばちかの自費出版では、これが精いっぱいだった。そしてこの小さな家に持ち込むことを考えても精いっぱいだ。当分家中が本に埋めつくされる覚悟をしなければならない。あまりに売れないようならどこかの倉庫を借りられるよう、それもさがしておこうと予定表に書き込む。また高揚する気分がポールを襲っていた。


 一つ一つ、確実に夢が実現に近付いている。最後に残った問題は売れるかどうか、それだけだ。

 だが売ってみせる。ポールは強く誓った。自己満足だけで終わらせてなるものか。これで終わりではない、この先にもつなげられるよう、かならず成功させなければ。

 次の日からポールは書店めぐりをやめ、かわりに広告の作成と手配に腐心したのだった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 楽しくイッキ読みさせていただきました! [気になる点] 過去編ですけど、「ビル」「警察」「弁護士」だのと現代社会になったかのような単語がチラホラ出てくるのが少し気になりました。 印刷技術に…
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