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マリエル・クララックの婚約  作者: 桃 春花
マリエル・クララックの邂逅
22/27




 大手出版社を経営するオーバン・デジール氏は、頭の痛い問題に直面していた。

 先日一人の社員が不祥事を起こして解雇になった――というできごとが、じつはその上役による冤罪であったらしい。該当社員を追い出したいがあまりに作家から預かった原稿を盗み出し、あまつさえ他の作家に盗作させようとまでしていたという。真に不祥事を起こしたのは上役の方であった。

 しかもそれを彼に知らせたのは社内の人間でなく取り引き先の一人、ビドー男爵だった。たまたま問題の現場に居合わせ事情を知ることになり、大いに問題視して社長のデジール氏に直接知らせてきたのである。

 男爵はこのような横暴や不正を行う出版社には信用がおけないとし、自身の本の出版を差し止めてきた。今後もデジール出版社からは本を出さないと言う。高潔な教育者らしい厳しい反応だった。


 ことが男爵との取り引きだけにとどまるなら、デジール氏もそう悩みはしない。専門的な学術書など需要はかぎられており、社の売り上げにおける割合は微々たるものだ。そういう本も発行することで会社の格を上げる、ようは箔付けのためなので、取り引きを失ったところで業績に影響はなかった。

 だが問題はそこではない。ビドー男爵の口から他へも悪評が伝わることがまずいのである。

 わざわざ言いふらすような人物ではないが、無理に口をつぐむこともしないだろう。必要に応じて事情を明かすに違いない。貴族としての地位は低く財力もないが、サン=テール国立大学の学長として尊敬と信頼を受ける人物である。男爵が言えば多くの人がそれを信じ、彼にならうだろう。そしてそんな騒ぎがあれば耳ざとい新聞記者がほうってはおかない。あれこれ書き立てられてデジール出版社は大きく評判を落としてしまう。それはたやすく業績の悪化につながる。けして楽観視できない事態であった。


 そう悩んでいた最中にも、取り引きのある作家たちから抗議が殺到した。被害を受けた作家から話が伝わってしまったのだ。一人二人ならともかく大勢の――売れっ子も含まれた作家たちにそっぽを向かれたのではやっていけない。どうにかして彼らをなだめる必要があった。ビドー男爵にも誠意ある対応を示し、あくまでも問題は一社員によるものであって、社としては不正を許さないと宣言しなければならない。

 デジール氏は問題を引き起こした社員の処分を決定した。編集長という役職から降ろし、まったく別の部署に異動させる。今後は裏方業務で出版作業には関わらせない。子飼いの編集部員は命令に従っていただけなので所属はそのままにし、三ヶ月間の減給処分とした。

 そうする一方で不当解雇された社員を呼び戻そうとしたのだが、これは本人から丁重に辞退された。復職のかわりに慰謝料込みで少しばかり退職金に上乗せしてほしいと言うので、ビドー男爵にとりなすことを条件にデジール氏は受け入れた。今回は被害者だったとはいえ、騒動の種になるような面倒くさい社員には違いなかったのだ。望んで辞めてくれるならけっこうな話だった。


 こうした一連のできごとがすべて解決するまでには一月近くの時間がかかったのだが、その間にもまたいろいろなことが起きている。デジール氏が「面倒」で片付けた元社員が、その後みずから出版社を立ち上げることになり、やがて無視できない存在になっていくのを今のデジール氏が知るよしもなかった。






 約束の日、いつものカフェで待ち合わせたマリエルに、ポールは作品の感想を語って聞かせた。


「文章力はまずまずだった。今でそれだけ書けるんだから問題ないと言っていいな。技術的なことは努力でいくらでも向上できる。そこは合格だ」


 相手は本職の作家ではないし、まだ十四歳の少女だ。いきなりきついことを言ってへこませないよう、まず誉めるところから入った。


「構成も悪くなかったよ。起承転結がきちんとしていて配分もいい。ちょっと盛り上がり部分の力が弱いとは感じたがな。真相が明らかになって主役二人が気持ちを確かめ合うところ、するっと上手くいきすぎて肩すかしな印象がある。あそこはもっと劇的な場面に描くべきだな」


 一言も聞き漏らすまいとポールを見つめ返すマリエルの横で、お供のナタリーまでが緊張した顔で聞き入っているのがおかしい。ポールは真面目な顔を保つのに努力しなければならなかった。


「女性を対象に書いた話だと思うから、女性にも読んでもらったよ。三十路の子持ちだけどな。すごく喜んでた。こういう女の理想や願望をかなえてくれる話が読みたかったってさ。もっとも恋愛を本当には知らない人間が夢だけ見て書いたものだろうとも看破していた。今の状態では『面白い素人小説』どまりだから、まず現実の恋愛ってものを学ぶべきだってな。そこは俺も同感だ」

「…………」

「恋愛にかぎらず、物語ってのは人と人との間に生まれるものだ。悲劇も、喜劇も、現実を踏まえた上で書かれるからこそ人の心を動かす。共感ってやつだな。現実ばなれした展開が悪いってんじゃない、それを活かすためにも土台の部分をしっかり作らないといけないんだ。登場人物にどれだけ存在感を持たせられるか、展開にどれだけ説得力を持たせられるかは大事な部分だ。たくさん現実の人間関係を見て、人はどういう時にどんなふうに心を動かすのか、たくさん学んでいってくれ」


 原稿の入った封筒に書類を重ねてマリエルに返却する。


「細かい部分の指摘や修正案はそこに書いておいた。参考にしてくれ」


 受け取ったマリエルは無言で書類に目を落とす。コーヒーを口に運んで一息ついたポールは、真剣な顔をしていた彼女が急にポロポロと涙をこぼしはじめたのでぎょっとなった。


「えっ、な、なんだ?」


 そんなに厳しいことを言ったか? ものすごく気を遣って優しく言ったし書いたのだが。これが付き合いのある作家(男)相手だったら「空飛ぶ夢見て寝ぼけたまま書いたもん寄越すんじゃねえ、地面に降りてきてから出直しやがれ!」と言って叩き返していたところだ。そのくらい、本当はつっこみたいところが多かった。だがマリエルにいきなりそんなきつい指摘は必要ない。今はやる気を出させ向上心を煽るべきだ。そのつもりで話したのだが……。

 あわてて身を乗り出すポールに、マリエルは泣きながら首を振った。


「ちが、違いっ……ふ……申し訳ありません、うれしいのです。こんなにきっちり、いっぱい書いてくださって……わたしの書いた話を、本当に全部読んで、真面目に感想を言ってくださったのですね……ありがとうございます」


 泣き笑いで顔を上げる。横からナタリーが涙を拭いてやった。


「正直、ここまで丁寧に答えていただけるとは思っておりませんでした。しょせん女の書いた話……それも小娘がと、頭から馬鹿にされることを覚悟していました。サティさんはそんな人ではないとわかっていましたが、でも本職の編集さんから見ればあまりに拙い作品でしょう。真面目に取り合う気など起きないのではないかと思っていました」

「…………」

「女性が書いたものはなかなか認めてもらえないと、わたしも知っています。そもそも女は、本を読むことすらあまりよく思われないのです。おとぎ話や恋愛詩集、あるいは淑女の心得のような……よき妻よき母となるためのものしか認められません。歴史や地理、政治に経済、異文化や哲学……そんな本を読んでいると可愛げがないと嫌われ、女のくせにと馬鹿にされます。幸いわたしの親族はあまりそういった偏見を持たず好きにさせてくれますが、外では言わないよう釘を刺されます。いろんな本をたくさん読みたくて外国語も学ばせてもらいましたが、理由は社交のためだと言うよう命じられました。そうしないとわたしが世間から奇異の目で見られ、つまはじきにされるからです。両親や兄はわたしのやりたいことを許してくれますが、一般の人々がどう反応するかはちゃんと知っていました」

「……そいつは、上流の悩みだな。庶民の貧乏人ならそもそも読み書きができない人間も珍しくない。自分の名前や商品の値段とか、簡単な字しか知らないもんだ。出版社が相手にしてるのはある程度金があって子供に教育を受けさせる余裕のある連中さ」


 苦笑まじりにポールが言うと、マリエルもくすりと笑った。


「そうですね、とても贅沢な不満なのだと思います。わたしはなに不自由なく育てられて、たくさん教育も受けてきました。明日のパンを買うために働く必要などなく、ナタリーが着せてくれたドレスでダンスの練習をしたり作法を教わったり……本当に、恵まれた人間です。でも、そこで満足できなかったのです。もっとたくさんのことを知りたい、そしてみずから物語を生み出したい。そう思うことを止められませんでした」

「うん」

「女の権利をどうこうと声高に主張するつもりはありません。でももっと、みんなが自分の好きなものを自由に求められるようになればよいなと思います。そのためにも、わたしは作家になりたい。女だって小説が好きだし、読むだけでなく書きたい人もいます。いつかそれが当たり前の認識になるといいなと思って……」


 最後に小さくすんと鼻を鳴らす。子供の世話をするように優しくナタリーが寄り添い、それにありがとうと微笑みを向ける。少女らしい純粋でまっすぐな願いだった。

 単純な願いだが実現にはたくさんの障害がある。世の中の風潮に真っ向から逆らうわけだから、簡単にはかなわないとマリエルもわかっているだろう。それでも諦めず挑戦するのは、まだ幼く己の可能性を信じていられるからか。何度も頭を打たれ挫折をくり返して大人になるうちに、人は高みの輝きを諦め手に届く範囲での幸福を求めるようになる。

 いずれ、マリエルもそうなるのかもしれない。貴族の娘らしくどこかの貴公子に嫁いで、平凡だが恵まれた人生を送る、それも悪くはない。だがかなうことなら、今のまま希望を捨てずに頑張り続けてほしかった。

 マリエルの願いはポールの願いだ。誰もが好きな本を好きなように読める。そんな時代を作りたくて出版の世界に入ったのだ。

 ポールは姿勢をあらためて口を開いた。


「知ってのとおり俺は会社をクビになり、今は無職の身だ。当分は金を貯めるためになんでも仕事をしなけりゃいけないが、いずれ自分の会社を立ち上げたいと思っている。その時にあんたの本を売り出せるよう、これから一緒に頑張らないか? もっとたくさん書いてくれ。何度でも見せてくれ。あんたが一人前の作家になれるよう、俺も全力で指導していく。どうだ?」


 彼の申し出に、マリエルは眼鏡の中の茶色い目を大きく瞠った。


「わたしを、一人前の作家に……そこまで指導してくださるのですか」

「お上品な家庭教師のようにはいかないがな。俺のやり方でよければ」

「……わたし、作家になれますか?」

「やる気と努力が続けばなれるさ。その後売れるかは別として」


 そこは別の問題だとポールは釘を刺す。作家になることより作家であり続けることの方が難しいのだと、この少女にはまだわからない話だろう。


「――と言っても、まあ会社を作るまでに十年くらいはかかりそうだけどな。なんせ先立つものがなくてね。けど十年後でもあんたは二十四歳だ。遅すぎるってことはないだろう」


 はあ、とマリエルは曖昧にうなずく。大人にとっては十年などあっという間だが、十四歳の少女にはおそろしく遠く感じるのだろう。


「お金ですか……あの、うちの父から借りるというのは? 説明すれば援助してくれると思います」


 お嬢様らしい提案にポールは首を振る。


「それはだめだ。あんたは作家になりたいんであって、実業家になりたいわけじゃないんだろ? だったら金の問題には関わるな」

「わたしは物知らずですが、お父様やお兄様はお城で役人をしているくらいですから、事業についてもわかっているはずで」

「そうじゃない。そっちの心配じゃないよ。あんたが作家になった時、よけいなことにわずらわされないようにだ。下手に金を出したりしてたら贔屓で優遇されてると言われることもあるだろう。実力ではなくコネで本を出したなんて言われたらくやしくないか? あんた自身不安になるかもしれないぜ。編集と作家は対等でないといけない。でも援助という関係があると、対等は難しくなる。あんたが作家として筆一本で頑張っていきたいなら、金の問題には口出しすべきじゃない」


 大人にはすぐわかる問題も、少女には目から鱗の指摘だったらしい。なるほどと大げさなまでに感心している。無邪気な反応におかしくなったが、先に笑ったのはマリエルの方だった。


「ねえ、ナタリー? サティさんってとってもお人好しね?」

「ここでお金を借りられたらご本人は楽ですのにね。お嬢様のために辞退なさるなんて本当にお人好しです」


 目の前で少女たちにくすくす笑われ、ポールはむっと口を曲げた。せっかく教えてやったのにとむくれる彼に、マリエルはほがらかに言った。


「わたし、人とのご縁には特に恵まれているのです。家族も親族ものんびりした優しい人たちですし、使用人もみんな優しくて働き者です。たまたま出会ったのがサティさんで、また運のよさを発揮しましたわ」

「そりゃどうも」


 肩をすくめるポールに、さらに勢いを増してマリエルは言った。


「サティさんの提案、乗りました! ぜひよろしくお願いいたします。わたし精いっぱい頑張ります!」

「ああ、こちらこそ」


 元気な言葉に笑いながらポールは手をさし出す。マリエルもおすまし顔で手を出し、ポールの手の上にちょんと乗せてきた。

 ――握手ではなく淑女への挨拶と認識したらしい。つまりポールは、この小さな手に口づけを落とすべきなのだろうか。そういうことが自然にできるお育ちではないし、子供相手にやっていられるかという気分もある。ポールはいささか強引にマリエルの手を握って向きを変えさせた。はじめは不思議そうにしていたマリエルだったが、握手も面白かったようで、にこにこしながら手を振っていた。


「今日からわたしたちはお友達ですね。いえ、同盟……同志? うん、同志サティ! さっそく提案があります!」

「はいはい、なんですかね同志マリエル」


 話に合わせてやれば、うれしそうにはしゃぐ。


「他にも会っていただきたい人がいるのです。今日ご予定がなければ、このあともう少しおつき合い願えません?」

「そいつはかまわないが……」


 どうやら作家志望のお嬢様が他にもいるらしい。会うだけなら別に問題はない。ただ今すぐ出版にこぎつけることは無理だと、あらためて釘を刺しておいた。今のポールにできるのは指導のみだ。それ以上のことが約束できる状況ではない。

 それはマリエルもちゃんとわかっていたようで、すんなりうなずいて席を立つ。彼女に連れられてポールは郊外の貴族街へ向かうことになった。


 北へ向かうほどに風景がのどかになっていき、建物は豪華になっていく。サン=テール市中心部は集合住宅や商店、事業所などがひしめき合ってどこにも隙間がない印象だが、このあたりは逆にゆったりとした空間が広がっていた。道幅は広く、周囲に並ぶ屋敷はいずれも広大な敷地を有している。さまざまに趣向を凝らした庭園の向こうに、庶民から見ればお城のような豪邸がドンとかまえているのだ。はじめて訪れるわけではないが、ポールには場違いとしか思えない地域だった。


「ほんのちょっと郊外へ出ただけで、こうも変わるんだな……」


 馬車の窓から風景を眺め、ポールは独りごちる。向かいに座るマリエルが首をかしげた。


「なにがですか?」

「――いや、たいしたことじゃない。街中とは全然景色が違うなって。どこもきれいでのびのびしてて、さすがお貴族様の街だと思ってさ」

「はあ。市民の方に言わせれば、お店もなにもない不便な田舎だそうですが」


 謙遜でも嫌味でもなく返された言葉に、ポールは軽く噴き出した。それはたしかに事実ではあるが、口にする連中の大半は金持ちに対する反感やひがみからわざと悪く言うのだ。そもそも貴族はみずから店へ足を運ぶことなどほとんどない。使用人を行かせるか、もしくは屋敷に店員を呼びつけるものだ。商業街から離れていることを不便に思う者はいないだろう。


 貴族街の中でもさらに格があり、北へ行くほどに高級住宅地となる。王宮に近くなるからだ。今走っているあたりはまだまだ南の端だった。

 さてどこまで進むのかと思ったが、ポールたちを乗せた馬車はさほど長く走らず、とある屋敷の門をくぐった。そこはポールの目から見てもささやかな、他の屋敷よりずっと小さく質素な雰囲気だった。

 先にナタリーが降りて玄関へ向かう。待っている間ポールは、外からは見えなかった庭のようすを観察した。ささやかと言っても他にくらべればの話で、そもそも庭など持てない庶民からすれば十分な面積である。手入れもさぞ大変だろう。庭師を何人も雇う余裕がないのか、単に住人が気にしない性格なのか、端の方には雑草が繁っていた。


 取り次ぎが済んでナタリーが戻ってくる。ポールはマリエルとともに馬車を降り、玄関へ向かった。

 ポールよりはるかに身なりのよい使用人に案内されて、一行は屋敷の中に踏み込む。マリエルは何度も訪れているらしく慣れたようすだ。使用人の方も彼女とは顔なじみの気安さを見せ、おかげで連れのポールにもなぜこんな庶民がといった不審げな目は向けられなかった。


「どうぞ、皆様お待ちかねです」


 開いた扉の前で使用人がポールたちをうながす。皆様? と内心首をかしげながらマリエルのあとに続いて入ったポールは、そこに並ぶ顔の多さに目を丸くした。


「いらっしゃい、マリエルさん。お待ちしていたわ」

「遅くなりまして申し訳ございません」


 室内にいた人の数は十人を超す。いずれも女性だった。マリエルと変わらない年の少女からすでに中年にさしかかった婦人まで、年の頃はまちまちだ。その中から最年長らしき婦人が席を立ってマリエルを迎えた。


「そちらが例の?」

「ええ、ポール・サティさんです。とても優秀な編集員でいらっしゃいます」


 紹介されて、わけがわからないままとりあえずポールは会釈する。婦人は鷹揚に微笑み、使用人をねぎらって下がらせた。どうやら彼女がこの屋敷の主らしい。


「わざわざ足をお運びいただきまして、ありがとうございます。歓迎いたしますわ、サティさん」

「はあ、どうも……」


 いったいどういうことだと、ポールは横目にマリエルをにらむ。この口ぶりからして、彼が連れてこられることはあらかじめ承知していたらしい。他の女性陣も驚くようすはなく、ただ好奇心だけを浮かべてポールに注目している。自分だけが事情を知らされていない状況はじつに居心地が悪く、さっさと説明しろと視線でうながした。

 ひるむこともなく、マリエルは笑顔で受け止める。いたずらを成功させたような満足そうな顔で胸を張った。


「こちらの夫人もわたしたちの同志です。そして向こうにいらっしゃる皆様も。本が大好きな女性の集まりなのです」

「あー、うん」

「街で少しお話ししましたように、女が堅い本を読むことはあまりよく思われませんので。自分の家ではなかなか読めない人のために、夫人が場所と本を提供してくださっているのです。そこからさらに発展して、書きたい人も集まって」

「うん、あんたは後者だな」


 なるほど、つまりマリエル同様原稿を見てほしい女性がこの中にいるわけか。


「わたしだけではありませんわ。なにより、この秘密の会の主催者――夫人こそがいちばんの書き手なのです」

「はあ、なるほど?」


 まだなにか隠しているらしいマリエルの意味ありげな笑いが面倒くさい。真っ先に紹介すべき夫人の名前がなかなか出てこないのが、その仕掛けに関わっているのだろう。

 いいからさっさと言ってくれとポールは息を吐く。女同士のこういうやりとりは、男にとっては面倒としか感じられない。


「もう、サティさんてば。そんな態度だとばちが当たりますよ。あなたはわたしに感謝すべきなんですからね」

「はいはい、どんなすごいネタがあるんですかねお姫様」


 夫人の横に立ってマリエルは腰に手を置き、さらにそっくり返る。その姿勢、ない胸を強調するだけだからやめるよう教えてやるべきだろうか。


「この方のお名前はミレーヌ・モンテ様です。このモンテ男爵家の奥方様でいらっしゃいます」

「モンテ男爵夫人……」


 そう聞かされてもまだポールにはぴんとこない。首をひねる彼に夫人が補足した。


「十年前はミレーヌ・フェリエと名乗っていました。フェリエは母の旧姓です。わたしがまだ十代の頃に両親が離婚し、わたしは母方の実家で育てられたのです」

「ミレーヌ・フェリエ……」

「二十歳の時に一度結婚しましたが、夫や姑たちとうまくいかずわたしも離婚しまして。長い間出戻りの独り身でしたの。そのまま一人で老いていくのだろうと思っていたところ、思いがけず今の旦那様と出会い、ありがたいことにこうしてまた主婦をしております」

「フェリエ……ミレーヌ・フェリエ……」


 聞いた名前が頭に浸透するほどに、ポールは上手くものが言えなくなる。その名前には大いに聞き覚えがあった。まさか、と否定したくなる。にわかには信じられず、同姓同名の他人ではないかと疑いたくなった。

 そんな彼の反応をマリエルがしてやったりな顔で見ている。ポールは目線でマリエルに尋ねた。本当に本当なのか。目の前の彼女が、この男爵夫人が、ずっとポールが憧れ求めていたあのフェリエ女史なのか。


「……『路傍に咲く』を書かれた?」

「ええ」

「アンドレ・ルグランという名前で」

「はい。女の名前では出せませんでしたので」

「九巻までしか出せず」

「本当は十巻で終わらせる予定でした」


 ポールは奇声を上げて目の前の夫人に飛びつきたくなるのを、必死にこらえた。それはまずい、無礼がすぎる。しかしもう表情をとりつくろう余裕はない。まさかこんなところで、こんな簡単に、さがし求めていた人物に出会えるなんて。

 これは本当に現実なのだろうか。馬車の中で居眠りして夢を見ているのではないか。それともたちの悪いいたずらにだまされているだけなのか。

 望外の幸運が幻と消え去るのをおそれ、なかなかポールは現実を認められない。そんな彼に焦れたマリエルが後ろにたむろしている女性たちのもとへ走り、なにかを受け取って戻ってきた。


「これをごらんくださいませ! 間違いなく本当に、本物のフェリエ女史であることがわかりますわ!」


 ずいと目の前に突き出されたのは紙の束だ。辞書ほどにも厚みがあり、受け取ればずしりと重い。ばらばらにならないよう紐を通して綴じてあるが、本と呼べるような形状ではない。けれどそれを何度もめくり、読んだのか、紙は大分傷んでいた。

 受け取ったポールは先頭ページに記された題名に息を呑む。震える手でおそるおそるめくり、そのあとに続く本文に目を走らせた。


「…………」


 言葉もなく文字を追う彼を、ミレーヌ夫人は根気よく待った。マリエルもうずうずしながら、黙ってポールが顔を上げるのを待つ。しかし予想していたような喜びの表情を見ることはできなかった。

 十年間追い求め、いつか書いてもらいたいと思っていた小説の最終章をいきなり見せられたポールは、そのまま言葉もなく卒倒した。


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― 新着の感想 ―
[一言] 『恋愛にかぎらず、物語ってのは人と人との間に生まれるものだ。悲劇も、喜劇も、現実を踏まえた上で書かれるからこそ人の心を動かす。共感ってやつだな。現実ばなれした展開が悪いってんじゃない、それを…
[良い点] ポールの死因は尊死ですかね… 良かったね報われて…
[一言] 十年間追い求め、いつか書いてもらいたいと思っていた小説の最終章をいきなり見せられたポールは、そのまま言葉もなく卒倒した。 分かり味しかないw こんなん気絶すんなっつー方が無理www
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