8
警察での説明にずいぶんと時間がかかり、お茶の時間にも遅いくらいになったので、ともかく今日は帰れとマリエルを追い返した。次に会うのは明後日だ。ポールはもう無職で出版への伝にはなれないが、それでもかまわない、感想と助言を聞かせてほしいとマリエルは希望した。あらためて約束し馬車に乗るまで見送ってやる。取り戻した原稿を作者のところへ返しにいくのは明日にした。事情を説明して今後について相談するのは、もっと気力を回復させてからにしたい。今日の自分にはいい案が出せそうにない。
そうして身体はともかく気分的には疲れきって下宿へ帰ると、玄関扉を開けるなり飛びついてくるものがあった。
「お帰りポール!」
「ようマルセル、元気そうだな。もう熱は下がったのか?」
母親によく似た丸い顔が期待に満ちて見上げてくる。大家一家の最年少は、ポールの上着の裾をつかんで揺らした。
「元気だよ、もう平気! ねえお菓子は? 買ってきてくれた?」
「――あ」
きれいさっぱり忘れていた約束を思い出し、ポールは額に手を当てた。そうだった、朝調子よく約束したのに、その後の騒ぎですっかり頭から吹き飛んでいた。
彼の反応に答えを察して、幼児の顔がとたんに曇った。
「……ポール?」
「ご、ごめん! 今日はちょっと忙しくて。ごめんな、明日かならず……」
言い終わるより早く泣き声が上がる。ついさっき太陽のように輝いていた顔がくしゃりとゆがみ、べそをかきだした。あわててポールは言い直した。
「わかった! 今から買いに行ってくる! いや、一緒に行くか? ほしいの自分で選ぶか?」
「……本当?」
抗議のべそはたいてい声だけで涙などほとんど出ない。ポールの言葉にまたころりときげんが変わりかけたが、後ろからグレースが待ったをかけた。
「もうじき日が暮れるわよ。今日は我慢なさい」
「やだ!」
母親にくるりと向き直ってマルセルが文句を言う。なれた調子でそれをあしらい、グレースはポールに言った。
「気にしなくていいわよ、お昼にクレープを食べたんだから。今から買いに行っても今日は食べさせないわ」
「いやでも、俺から言い出した約束だから」
「我慢の練習も必要だわ、協力して。それにお客さんが来てるのよ。一時間も前から待ってるの。早く入って、ほら」
急かされてポールは居間へ向かった。この家には応接間などというしゃれたものはない。家族が使う部屋で身を縮めていた客人は、入ってきたポールを見るなりはじかれたように立ち上がった。
「……テオ」
朝の騒動で別れたきりの同僚だった。彼の訪れはまったく予想しておらず、ポールも少し驚く。立ち上がったテオはなにかを言いかけたが口を開いたきり言葉が出てこない。何度かむなしく口を動かしたあと、さきほどのマルセルのように顔をゆがめた。
「……ごめん……ごめん、ポール……」
こちらは本物の泣き顔だ。たちまち涙があふれ出て彼の顔を濡らす。テオは丸めた背を揺らしながら何度も謝った。
「ごめん……」
目の前で泣きじゃくる男に、ポールもどう言ったものかと迷った。見捨てられたと思った時には腹立たしさも感じたが、こうして謝りに来られてはなにも言えない。テオもすすんで編集長に従ったわけではないのだと、それははじめからわかっていた。
「おじちゃん、泣いてるの?」
気まずく向き合う二人の間に可愛らしい声が割って入る。マルセルがテオの足元へ歩いていき、泣く大人を不思議そうに見上げた。
「おじちゃんも約束忘れたの?」
「マルセル、邪魔しないの!」
台所からグレースが叱るが気にせず言う。
「泣いちゃだめだよ、おじちゃん大人なんだから」
「……マルセル、おじちゃんじゃない、お兄ちゃんだ。テオも俺もまだ若いんだぞ」
「えー」
訂正を入れたポールは、ものすごく不満かつ疑問そうな声を上げられて少しばかり傷ついた。五歳児から見れば大人はみんなおじさんだろうが、わかっていてもそう呼ばれたくはない。
息をつき、ポールはテオの前まで歩いた。
「ごめ……っ、本当に、ごめん……」
「もういい、落ち着け。お前は悪くないってわかってる」
「ごめん……お、俺、どうしても会社辞められなくて……」
「ああ、お前のとこは親父さんが亡くなってるんだったな」
彼の家庭事情を思い出してポールはうなずく。ポールの肩を持って一緒にクビになることができない事情がテオにはあったのだ。そうでなくとも収入は簡単に手放せるものではない。自分の事情ならまだしも他人のために辞められるものか。
「編集長に脅されたんだな?」
「……お、弟が大学に入れるんだ。俺と違って頭がよくて母さんも期待してる。あいつに勉強させてやりたいんだ。それに母さんの面倒も見ないと……」
「わかった、もういい」
ポールはテオの身体に腕を回して抱きしめた。丸めた背中を叩いてなだめてやる。腕の中で子供のようにすすり泣く男は、もういいと言うのに何度もごめんとくり返した。
ポールもあまり多くは言わず、テオが落ち着くまで泣かせてやった。どれくらいそうしていたか、ようやく嗚咽が聞こえなくなったのを見計らったのだろう、台所から年配の婦人が顔を出した。
「夕食の用意ができてるわよ。コルニュさんもおなかが空いたでしょ。たいしたものはお出しできないけど、量だけはあるから遠慮なく食べて行ってね」
家主のメランション夫人だ。事情も聞かず鷹揚な笑顔で二人をうながす。彼女の気遣いに感謝しつつ、ポールはテオから腕を放した。
「そういや俺昼抜きだったんだよ、もう死にそうに腹ぺこだ。あのあともいろいろあってな。食べながら聞いてくれよ。本当に呆れるくらい、いろいろあったから」
「……あの」
「ああ原稿は無事取り戻したから心配するな。って、もしかしてもう知ってるか? ブリスのやつ編集長にどう報告したんだろうな」
強引にテオを連れて食卓につかせる。原稿を取り戻したと聞いてテオも安堵したようだ。すすめられるまま、どうにか食事に手をつけた。
来客に興奮する幼児がいる食卓はにぎやかなものになり、テオを浮上させるにはちょうどよかった。最後には笑みも浮かぶようになり、グレースがマルセルを寝室へ連れて行ったあと、ポールとテオはまた居間に戻ってコーヒーを飲みながら話を続けた。
「これから、どうするんだ」
テオは手ぶらで訪問したのではなく、ポールが社内に残したままだった荷物も持ってきていた。ありがたく受け取り、ポールはそうだなあと答える。
「とりあえずは原稿を返しに行かないとな」
「そうじゃなくて、お前の今後だよ」
「わかってるよ。なにも考えてないわけじゃないんだが、難しいな」
椅子に深くもたれ、ポールは腕を組む。
「どうにかして他の出版社にもぐり込めても、多分同じことのくり返しだろう。俺はどこへ行ってもはみ出し者だ」
「…………」
「といって出版の仕事を諦める気にもなれないんで、そうなるともう自分で会社を立ち上げるしかないよな」
そう言い出すことを少しは予想していたのだろうか、テオはさほど驚かなかった。なにか言いたげな顔になり、けれどためらって口ごもる。友人の反応にポールは軽く笑った。
「簡単にできることじゃないってんだろ? その通りだ。デジール出版の社員としてなら印刷会社も書店も普通に取り引きしてくれるが、ポール・サティ個人が相手だと厳しいだろうな。それになにより、先立つものがない。いつかは独立したいと思って貯金していたが、俺の予定では十年以上先だった。目標の十分の一も貯まってない。まあ、だから、当分は他の仕事で稼ぐしかないだろうな」
「……そうか」
それしかない状況だった。ポールが現実をきちんと理解し受け入れていると聞いて、テオは安心したようでもあり、残念そうでもあった。ポールの出版にかける情熱を彼も知っている。優秀な編集者がこの先何年、もしかしたら何十年も、出版から離れなければならないというのはつらい。その事実を親身に憂えてくれているのがうれしかった。
彼の気持ちに感謝し、自身を奮い立たせるためにも、ポールはあえて明るい声を出した。
「どんなに時間がかかっても、俺はかならず自分の会社を作って出したい本を出すぞ」
「……そうだな、お前ならきっとやるだろう」
テオも笑顔を見せる。
「しつこさと諦めの悪さは人一倍だからな」
「ふん、根性と言ってくれ。なあ、いつになるかわからないけど、俺が会社を作ってなんとか儲けて、デジール出版よりいい給料出せるようになったら、一緒に仕事してくれないか?」
テオは軽く眉を上げる。ポールの言葉を強がりか、それとも冗談と受け取ったのだろうか。しかしポールは本気だった。
「なんの保証もないが、俺は絶対に成功する、いやしてみせる。断言するぞ。一等地にでっかい自社ビルを建てるくらいになってやるからな。そうしたらこっちへ来てくれよ。厚待遇で迎えるから」
「……まだ、俺にそんなこと言ってくれるのか」
「お前以外に言える相手なんかいないよ。誰もまともに取り合わなかった俺の理想を聞いてくれたのはお前だけだ。お前はちゃんと周りの空気が読めるからデジール出版じゃ無理だってわかってて、何度も忠告してきた。けど、馬鹿にしてたわけじゃない。俺の立場を心配してくれてただけだ」
「…………」
「だから、本気で誘う。何年かかるかわからない話だが、覚えておいてくれないか」
また少しテオの目が潤んだように見えた。恥じらうように顔を伏せ、彼は黙ってうなずいた。ポールがさし出した手を握り返す力は強かった。
――この約束は予想外に早く果たされることになる。厚待遇どころかまだ経営に四苦八苦しているポールのもとへデジール出版を飛び出したテオがやってきて、ともに奮闘してくれるようになるのだ。決心したいきさつやその後の苦労話などはじつに語り尽くせないほどだが、ひとまずは別の話である。
帰っていくテオを見送ったあと自分の部屋に上がろうとしていたポールを、グレースが呼び止めた。
そういえば彼女たちにもちゃんと説明しなければならない。できるだけ早く次の仕事を見つけるつもりだが、当面ポールは無職だ。家賃は貯金で出すから安心してくれと言わねば、などと考えるポールに、グレースはまったく別の話を切り出した。
「預かっていた原稿なんだけど」
彼女の手には今朝渡した封筒があった。返却されたそれを、ポールはいぶかしみながら受け取る。
「なにか問題があったか?」
「そうじゃなくて、感想聞かせるって話だったでしょ」
「もう読んだのか? 早いな」
家事と育児で忙しい彼女には、二日かけても読みきるのが大変だろうと思っていた。予想外な事態にポールは驚く。グレースは笑って肩をすくめた。
「はじめはマルセルの看病しながら読んでたんだけど、止められなくなって。家事は全部母さんに頼んじゃったわ。ねえ、それ書いたの女の人でしょ? 男じゃないわよね?」
「……ああ」
女の人というより女の子だが。ポールはうなずく。やっぱり、とグレースは娘のようにはしゃいだ。
「そうだと思った! そんなの男性に書けるわけないもの。同性でないと」
「あー、つまり共感できたというわけか」
出来不出来とは別の問題で、ポールには正直はまりきれない内容だった。とにかく甘ったるい恋愛が中心で、それもかなり現実離れした夢物語的な恋愛だったため、一歩も二歩も引いて見てしまったのだ。だからグレースにも読んでもらった。女性の夢見る恋を男が共感できないのは当然で、同性の意見が必要だと思ったのだ。それは的を射ていたようで、グレースは楽しそうに感想を語った。
「まあ出来ばえを言うなら、まだまだってとこだと思う。あたしには専門的なことはわからないけど、読者としてもそういう感想を持っちゃうんだから商業基準には達してないんでしょうね。でも下手だなーと思いながらも面白かったのよ。なんていうのかな、こういうのが読みたかったって思わせる内容だったの」
「へえ」
「面白いって、技術力とは別なんだって実感したわ。現実にこんな男いないわよって思うし、そりゃもう別れた旦那なんて正反対だった。あれはひどすぎるとしても、ここまで女に都合のいい男はいないってわかってる。でもね、そういうつっこみは野暮なのよ。女って夢を見たいの。現実的じゃないとわかっていても、こういう素敵な男性に愛されて大切にされたいって夢を持ってるのよ」
「うん、まあ、男だって似たようなもんだ。わかる」
「そうよね、男性だって恋愛に夢を見てて、基本は同じなんだと思うけど、やっぱり願望の違いってあるじゃない。男が女に求めるものと、女が男に求めるものは完全に同じにはなれない。どうしても立場や好みの違いがあると思う」
なるほどとポールはうなずく。ポールがこの原稿に一読者としてはまりきれなかったように、世の女性たちは男の書いた恋愛には願望のずれを感じていたのだろう。
「ただまあ、夢を見すぎてるなっていう印象もあるわ。恋愛ってものをちゃんとわかってないような……多分これの作者、まだ恋をしたことないんじゃないかしら」
「ないだろうな。自分の恋愛には興味なさそうだった」
マリエルを思い浮かべながらポールは言う。まだ十四歳の箱入りお嬢様だ。やたらと行動的で規格外な娘ではあったが、社交界へ出る前の子供に男と親しく接する機会などろくになかっただろう。貴族の家では、子供は大人の世界と厳格に切り離されていると聞く。屋敷の奥で大切に育てられたあと、商品見本のように着飾って社交界で顔を売り、やがて親が選んだ相手のもとへ嫁いでいくのだとマリエルは話していた。
自身で嫁ぎ先を見つけようという意欲もなく、小説だけが楽しみであるような娘だった。あのマリエルに恋愛経験があるとは思えない。
「そこは難点よね。ぜひ恋をしてもらいたいところだけど、言ってできるものでもないし、とりあえずもっとたくさん取材するべきじゃないかしら。恋人たちを観察してできるだけ理解を深めないと『面白い素人小説』どまりね。お金を出してでも読みたいって思わせるものにはならないと思う」
「なるほどな」
手元の原稿に目を落とし、ポールは小さく笑った。この感想を聞いてマリエルはどう思うだろうか。面白かったと言いつつなかなか辛辣な評価も下されている。だが落ち込んだとしても、あの娘ならば次はもっとよいものを書こうと奮起するに違いない。社交界デビューを心待ちにするのも、大人の世界を間近に見られるようになるからだと言っていた。グレースの言うとおり取材をしようと意気込んでいる。きっと彼女は打たれ強く、努力を惜しまないだろう。
そうして華やかな貴公子たちと接するうちに、いずれ自身の恋も知るだろう。その経験を活かして物語を書けばどうなるか。
悪くなさそうだとポールは思った。技術的なことは努力で向上できる。感性という才能に頼る部分は、おそらく問題ない。下手だと言われながらも読者を楽しませたのだから。そして夢ばかりでなく現実的な要素も取り入れ、さらに共感を得られるようになれば――
絶望ではじまった一日の終わりに、ポールは新たな夢を見た。いずれ自分が立ち上げた会社で、マリエルの本を売り出したい。他にもたくさん、女性が楽しめる、女性のための本を作っていこう。もちろん男を対象外にするわけではないが、これまでの出版業界はなにごとにも男性中心で、女性向けに作られた本は実用書ばかりだった。小説という娯楽分野は未開の原野みたいなものだ。これからいかようにも伐り拓いていくことができる。ポールは最初の開拓者となるのだ。まだ誰も試していない商売はきっと成功する。させてみせる。どんなに風雨が強くても、いつかそこには豊かな畑ができあがり、黄金の作物が実るだろう。
その夢は最初の夢にもつながる。ポールが編集を志すきっかけとなった、フェリエ女史の未完の物語を完結へ導くのだ。今も続きを待っている同志たちへ、あの物語の結末を届けたい。かつて否定され追放された幻の名作を、ふたたび世に送り出すための土台を作っていこう。
自分の会社を作ることと同時に、マリエルを一人前の作家へ育て上げることもポールの目標となった。その夜ポールは遅くまで書き物にはげみ、二日後の約束にそなえたのだった。




