7
太っているわりにブリスは身軽に走ったが、脚力でも持久力でもポールの方が勝っていた。二人の距離は次第に詰められていく。ブリスも狭い路地に飛び込み、辺りのゴミ箱を倒したり角を曲がったりしてポールをまこうと必死に頑張っていたが、無駄な抵抗なのは明らかだった。
それでもすぐに追いつけなかったのは、ポールが通行人にぶつかるたび律儀に謝っていたせいだ。ブリスの分まで文句を言われて頭を下げる場面もあった。後ろからヒイヒイ言いながら追いかけてくるマリエルたちにも、「いいから帰ってろ!」と声をかけるなど気をつかっていたために、近付いてはまた距離が開きという状況をくり返していた。
それでもようやく追いつけそうだと見えた時、またブリスが人とぶつかった。今度は数人の集団で、ブリスの体当たりをくらった者がひっくり返り、荷物が地面に落ちて散乱しと、ひどい事態になってしまった。たちまち悲鳴と呪いの声が上がるが、もちろんブリスは謝る余裕もない。毬が転がったのかと感心するような動きで跳ね起きて、振り返りもせずにまた駆けだした。
「おい貴様!」
後続のポールが仲間と思われて、腕をつかんで引き止められる。心から申し訳なく思いながらも、ポールはその手を振り払った。
「すまない、泥棒を追いかけてるんだ! 苦情はデジール出版社のロラン編集長へ!」
もうクビになったものだからおかまいなしとばかり、勝手に編集長の責任にしてブリスを追う。路地を飛び出したところは公園の目の前だった。
あえぎながらブリスが公園へ入っていく。もうろくに周りが見えていないようだ。どこを走っているのかも認識できていないだろう。ポールは最後の力で追いつき、ブリスに後ろから飛びついて地面に押し倒した。のどかな散策を楽しんでいた人々が、なにごとかと驚いていた。
「ったく、どっちが往生際が悪いんだか……これは返してもらうぞ」
ポールも肩で息をしながら封筒を取り上げる。ブリスは突っ伏したまま荒い呼吸をくり返すばかりだ。悪態をつく力も残っていない。立ち上がったポールは息を整えながら見下ろし、このまま立ち去るか、その前になにか言ってやるかと少し迷った。
言いたいことは山ほどある。しかし今さらだ。主犯は編集長なのだし、ここでブリス相手に文句を並べてなにになるだろう。ともあれ原稿は取り戻した。それでいいかと最後に大きく息を吐き出した。
「じゃあな。こんなしょうもないことに努力するより、いい作品書いてもらえるよう努力しろよな」
踵を返して歩きだそうとする。その時、あえぐばかりだったブリスが言い返してきた。
「お、お前に……お前になにがわかる……っ」
土のついた顔がポールを見上げる。ほんの少し前は優越感を浮かべてせせら笑っていた男が、傷ついた表情でにらんできた。
「編集長とけんかばかりしてたくせに、馬鹿みたいな夢物語ばかり口にしてたくせに、なんの努力もしないで簡単に結果を出して……お前みたいな天才に俺の気持ちなんて……っ」
「誰が天才だ。そんな簡単にできれば苦労しないよ」
服についた土を払いながらポールは言い返す。ブリスにはそう見えていたのか。だがとんでもない思い違いだ。
「俺がなんの努力もしていないって? お前だけじゃなくみんなからそう思われていたのなら、残念な話だ。俺だってどうすれば売れるか、いろいろ考えて調べてたよ。あちこちの本屋に足を運んだし、読者の意見も聞いて回った。世間が関心を持っていそうなことを調べ上げて、それを作品に取り込めないか作家と頭つき合わせて考えたさ。お前と違う点があるとすれば、押しつけはしなかった。案は出すが話を考えるのは作家だ。俺は作品が独りよがりなものにならないよう、読者をちゃんと楽しませられるよう、必要な修正を頼んだだけで、作家の個性はできるだけ活かそうとした。お前はその逆だったな。これが売れるから書けと、頭から作家に押しつけていただろう。そんなの楽しんで書けるはずがないし、いやいや書いたものが面白くなるわけもない。もっと作家の希望を尊重してやれって何度も言っただろうが」
「作家の好き勝手にさせたんじゃだめだって、編集長も!」
「だから、好きにさせていい部分と、手綱を引かなきゃいけない部分があるっての。ずっと手綱を引っ張り続けてたら馬は歩けないだろうが」
ため息をついてポールは身をかがめ、泣きそうな顔のブリスに手をさしのべた。まだ腹立たしい気分も残ってはいるが、それ以上にこの男が憐れに見えてどうしようもなかった。
ブリスも上手くいかないことが続いて鬱屈を溜めていたのだろう。ポールがままならない思いを苦く噛みしめていたように、彼も悩んでいたのだ。編集者になったばかりの頃は盗作をそそのかそうなどと考えもしなかっただろう。彼なりに夢を持って働いていたはずなのに、思うように結果を出せないことで焦りばかりがつのっていった。そこで選んだ道は間違いとしか言えないが、壁にぶつかりもがいていた気持ちはポールにもよくわかる。
みんな、同じようなことで悩んでいるのだ。簡単に結果が出せる仕事なんてない。努力して、失敗して、悩みながらまた努力するしかないのだ。
「まず、お前がどんな話を読みたいか、ふり出しに戻って思い出してみろよ。どんな話に胸が躍る? どんな話に涙する? 売れ線とかいったん忘れて、お前が好きだった話を思い出せ。その気持ちを大切にして作家と向き合えよ――そら立て」
腕をつかんで引っ張れば、抵抗はなくノロノロとブリスが起き上がる。くってかかる気力も失いうなだれる男の服を軽く払ってやり、今度こそポールは背を向けた。
そこで颯爽と立ち去ることができれば格好がついたのだが、またもポールは足を止めねばならなかった。振り向いた視界に二人を追いかけてきたとわかる男たちが映る。こちらへ突進してくる形相は、思わず腰が引けるほど剣呑だった。
「あっ……ほら見ろ、お前があちこちぶつかって迷惑まき散らすから」
「えっ、お、俺のせいなのかよ」
「他に誰がいるよ」
「お前だって!」
ブリスと言い合ううちにも彼らはやってくる。進み出たのはごく普通の会社員に見える男だったが、後ろに連れている連中はいささか柄が悪そうだった。いずれもポールたちとそう年の変わらない若者で、よく見ればなんということだろうか、すでにナイフを手にした者までいる。そこまで怒るかとポールはたじろいだ。
「あ、どうも、こいつがすみませんでしたね。とんだ失礼を……」
なにやら厄介なのを引っかけてしまったらしい。早々に頭を下げて許してもらおうとポールは謝りかけたが、相手は聞く気もないようすで詰め寄ってきた。
「それを返せ!」
「え?」
伸びてきた手がポールから封筒を取り上げようとする。とっさにポールは身を引いてかわした。
「ちょっ、なにすんだよ」
「てめえらサツの回し者かよ。なんで俺たちのことがわかった」
「な、なんの話だ……」
あとずさるポールの背中にブリスが隠れる。ポールは元同僚をにらんだ。
「人を盾にするなよ。お前がぶつかったせいだろうが」
「いや待てよ、サツって警察のことだろ。そいつら、やばい連中なんじゃないのか」
文句を言えば怯えた言葉が返ってくる。言われなくてもやばいのはわかっていると、ポールはこれみよがしにチラつかせてくるナイフに目を戻した。
サン=テール市は大都会だけあって犯罪も多い。下町へ行けば強盗や恐喝も珍しくないが、ここはそう柄の悪い地域でもないのにとポールは内心でぼやいた。
「ちょっと落ち着いてくれ。わかったよ、金なら出す。けどたいして持ってないぜ。少ないからって怒って刺さないでくれよ」
「金じゃない、その封筒だ! そいつを返せっつってんだよ!」
「は?」
言われたことがすぐには理解できなくて、ポールもブリスも間抜け面をさらしてしまう。なぜ強盗が原稿をほしがるのだ。思わず二人で顔を見合わせる。そんな反応にしびれを切らせて、また男たちが詰め寄ってきた。
刺されるのをのんびり待っているわけにはいかないが、倍以上の人数相手にけんかをしても勝ち目はない。こうなれば逃げるしかないとポールはブリスの腕をつかみ、引っ張りながら身をひるがえした。
「逃がすかよ!」
「かまわねえ、バラしちまえ!」
おそろしい声が追いかけてくる。青ざめた二人は必死に足を動かし、同時に救いを求めて周囲に視線をめぐらせた。危険を察知した通行人たちは早くも逃げ出している。誰かが警官を呼んでくれればありがたいのだが、と期待した時、後ろで妙な声が上がった。
「うわっ」
「ぎゃあっ」
「なっ……がぁっ!」
ポールたちを襲おうとしていた強盗の方が悲鳴を上げている。なにが起きたのか見ずにいられなくて、つい振り向いたポールはまたも理解できない状況を目の当たりにした。
ほんの今しがたポールたちを襲おうとしていた連中が一人残らず地面に倒れ伏している。起き上がれずうめいている者もいれば完全に気を失っているらしい者もいる。なにが起きたのか、ポールにもブリスにもわからなかった。
「このような場所で……意外にこの辺りも治安が悪いのか?」
大の男たちがゴロゴロと伸びる中、一人超然と立つ姿がある。強盗たちの仲間ではもちろんない。すらりと背が高く見ほれるほどに均整の取れた体格の、おそらく若い男だった。
帽子を目深にかぶって極力顔を見せないようにしているのがちとあやしい。隠しきれない頬より下を見るに、色白でかなり整った顔立ちらしいことがうかがえた。
ポールたちが襲われているのを見て助けにきてくれた、勇敢にして親切なる通行人だろうか。それにしても一人でこの人数をのしたというのか? あのごくわずかな間に? ポールもブリスも信じがたい気分で棒立ちになり、馬鹿のようにぽかんと眺めていた。
二人の視線に気付いた救い主は、長い脚で強盗たちの身体をまたぎ越してこちらへやってきた。
「失礼、先ほどぶつかった時に互いの持ち物が入れ替わったようです。この封筒はそちらのものでしょう?」
きびきびと歩いてきてはっきりした発音でしゃべるのが、どことなく軍人くさい。が、そんなことよりも、さし出された封筒にポールは目を丸くした。それはたしかにポールがさがしていた原稿の封筒だった。社名の横に目印のスタンプもある。ではこちらはと手元を見下ろせば、明らかに違う封筒だった。社名も入っていなければ封のしかたも違う。まさか入れ替わっていたとは思わず、取り戻すことにばかり必死でろくにたしかめていなかった。
「うわ――すみません、とんだご迷惑を」
あわてて封筒をさし出し、相手の持つものと交換する。向こうも戻ってきた自分の封筒に安堵したようで、きれいな口元をかすかにほころばせた。
「本当に申し訳ありませんでした。それと、ええと、助けてもらったんですか、ね? ありがとう、ございました……」
まだ少し信じきれない気分のまま礼を言えば、相手は「いえ」と短く済ませる。
「結果的によかったのかもしれませんね。白昼このような場所で強盗を働く者がいるとは、いささか驚きました」
そう言いながらも背後で身を起こし殴りかかろうとしてきた強盗を、ろくに振り返りもせず撃退する。今なにやった? とポールとブリスは目をしばたかせた。腕と脚が同時に動いたように見えたが、速すぎてよくわからなかった。無防備な背中を狙ったはずの強盗があっさり吹っ飛び、また地面に伸びて今度こそ動けなくなったことだけを理解した。
虫でも追い払ったかのように、目の前の人物は平然としている。つとよそへ顔を向けるのでつられて見れば、通報を受けたらしい警官隊がようやくおでましになるところだった。
駆けつけた警官にあとをまかせ、救い主は颯爽と立ち去る。いや本当に何者だよとポールは感心半分呆れ半分で見送った。まあ十中八九軍人だろう。間違いない。たまたまぶつかり封筒を取り違えた相手が軍人だったのは幸運と言うべきか。しかしいくら軍人でも、普通あそこまで強くはない気がする。
強盗たちも警官に連行されていく。それと入れ違いに少女たちの姿が現れた。
「ああ、やっと追いついた。もうサティさんもブリスさんも元気すぎます」
息を乱しながら走ってくる少女に、ポールは笑うしかなかった。結局最後まで追いかけてきたのか。貴族のお姫様のくせに、そちらこそ元気すぎやしないか。
そばまでやってきたものの、マリエルはしばらく息を整えるしかできなかった。忠義者のナタリーがハンカチを取り出し、彼女の額に浮いた汗を拭いてやる。髪やドレスも手早く直し、マリエルがぜいぜい言っている間に元のきちんとした姿に戻していた。ポールは少々感心する。ナタリー自身は走ってきたことにさほど疲れたようすもなく、てきぱきと職務をはたしている。真面目で有能らしいことに加え、お嬢様を大切にしているようすが伝わってきた。好もしい女性だと感じる。まだ十代の少女だが、もう少し大人になれば食事に誘いたいくらいだ。
「原稿は……取り戻せたのですね」
ようやく落ち着いたマリエルが尋ねかけ、ポールの手元にあるものに気付く。ほっと顔をほころばぜ、しかしすぐに首をかしげた。
「それはサティさんが取り戻されましたの? あの人は関係なかったのかしら?」
「あの人?」
「誰だかわかりませんけど、ものすごい速さで後ろから追いかけてきて一瞬で追い越していった人がいましたの。てっきりサティさんたちを追いかけているのだと思ったのですが」
「ああ、そりゃ多分、ブリスがぶつかった相手だ。似たような封筒を持っていたものだから取り違えちまって、他人の封筒持って逃げてたんだよ、こいつは」
肩をすくめながらちょっとブリスを振り返れば、むくれた顔で目をそらす。もう笑うしかないポールと悪態もつかずそっぽを向くだけのブリスを不思議そうに眺め、マリエルはなにかを納得したようにうなずいた。
「わたしがモタモタしている間に決着したようですね。ともあれ、原稿が戻ってきてようございました。では、これからどうします?」
「そうだなあ。まずはこれを作者のところへ返してくるか」
「本になるはずだった原稿を返されたら、作者さんがっかりなさらないかしら」
「といって、デジール出版に戻すわけにはいかないからな。それじゃ取り戻した意味がない。どこか他へ持ち込めればいいんだが……」
「おい、なに勝手なこと言ってる。うちで依頼した原稿だぞ」
「それを盗んで他の作家に盗作させようとしていたのは誰だよ」
ブリスが口を挟んできて、またポールと険悪な雰囲気になる。にらみ合う二人にあわてるマリエルの後ろで、ナタリーが「あら?」と声を上げた。
「なあに、ナタリー」
「あの、あそこにも封筒がありますが。あれは?」
彼女が示す方へ全員が目を向ける。少し離れた植え込みの近くに、たしかに同じような封筒が落ちていた。マリエルはポールの手元を覗き込み、落ちている封筒と見比べる。
「こちらが原稿入り、ですよね?」
「そのはずだが……うん、俺の目印ついてるしな」
「ではあれは、誰かの落とし物?」
「いや……おいブリス?」
まずい予感を覚えてブリスを振り返れば、さっきまでにらんできた顔がまたうろたえてそらされる。
「そ、その……ぶつかった時、同じような封筒が二つあって、どっちかすぐにわからなくて……とっさに両方拾って」
「そのまま逃げたってか!? お前それはぶつかった相手の封筒まで取ったって――あああ!」
いきなり上がった大声に、マリエルがぴょんと跳ねる。
「な、なんですか?」
「さっきの強盗! 封筒を寄越せとか言ってたのはこれのことかよ! なんてこった、強盗じゃなくて無実の善良な市民か? 巻き添えで迷惑かけただけの被害者か? 警官に引き渡しちまったぞ!」
「えっ、えっ、なにがどうなって」
「ブリス、お前のせいで――責任取って警察に謝りに行ってこい!」
「なっ、いや待てよ、だってあいつらナイフまで持ち出して俺たちを襲ってきたんだぞ! 殺せとか言ってたじゃないか、どう考えても善良な市民じゃないぞ!」
「そ、それもそうか……いやでも、だったらなにか? あの中には犯罪に関係するような、やばいものが入っていると……」
ポールの言葉にざっと青ざめたブリスは、くるりと身をひるがえしてまた逃げだした。
「お、俺はもう知らん! 関係ない封筒なんだから、知らないからな!」
「こら待てお前が元凶だろうが――!」
怒鳴るポールに言い返すこともなく、ブリスはとっとと逃げていく。ポールは盛大にため息をつき、がしがしと頭をかいた。
「ったくあの馬鹿は……」
「犯罪……あの封筒の中に危険ななにかが? まあ、どうしましょう、わたし胸がときめいてきました」
「ときめくなよあんたも! なんでここでときめくよ!」
マリエルのおかしな反応にもつっこんでしまう。怒鳴られてもどこ吹く風で、マリエルはうきうきと植え込みへ駆け寄った。手前に落ちた封筒を拾い上げ、土埃を払う。裏、表とたしかめ、ためらいなく封を解きはじめた。
好奇心の塊だなとポールは呆れるしかない。そんな彼にナタリーが苦笑してみせた。
「お嬢様は創作のネタになりそうなものがあれば飛びつかずにいられないんです。犯罪がらみの品なんて滅多に見られるものではありませんから、なおさらですね。猫にネズミを見せるようなものです」
「作家志望としちゃたのもしいが、犯罪に嬉々として関わるのはよろしくないな」
首を振りながらポールたちもマリエルのもとへ向かう。彼女が取り出した封筒の中身を、一緒になって覗き込んだ。
「……なんでしょう、難しそうな書類がいっぱい」
マリエルがこぼしたように、出てきたのはなにかの書類だった。一つ一つに目を通し、ポールも首をかしげる。
「土地の権利書に、誰かの身元調査報告、か? それに遺言書……どっかの金持ちの相続問題か? アンベール・バリエ……なんか聞いたことあるような……」
遺言書に記された名前に引っかかりを覚えてポールは記憶をさぐる。彼が思い出すより早く、マリエルがさらりと答えた。
「先日亡くなった資産家ですわ。いくつも会社を経営されていた方で、息子さんも三人いらっしゃいますが、皆さんお母様が別々で遺産を誰がどう受け継ぐかで係争中です。バリエ氏は遺言を残していらっしゃらなかったため、後継者が決まっていなかったのです」
「あ、そうそう、新聞で見た――って、なんでそんなに詳しいんだよ?」
貴族間の問題ならともかく、庶民の相続問題をなんだって子爵家の令嬢が知っているのだ。いぶかしむポールに、マリエルはまたもない胸を張ってみせた。
「すべての新聞に目を通して日々情報収集に務めておりますの。お悔やみ欄から家庭欄まで一文字残さず読んでいます。警視総監のお宅の猫に近所の野良猫が懸想してついに子供が産まれたことも知っていますわ」
「立派だが『ラ・モーム』はゴシップまみれのほぼ捏造記事だらけだからな。丸ごと真に受けるなよ」
「あら、サティさんもあの記事読まれましたのね? 微笑ましいお話ですよね」
「溺愛している飼い猫に手出しされて総監は激怒らしいがな。それより、なんでバリエ氏の遺言書がこんなとこにあるんだよ。たしか遺言が残されていなかったからもめているはずで」
くだんの資産家はまだ五十代と亡くなるには早すぎたため、相続の準備がなにもされていなかった。兄弟すべての母親が違うことも手続きを後回しにした理由である。ありていに言うと面倒がって、まだ急ぐ必要はないと手をつけていなかった。必要になるのは三十年くらい先だと思っていたところ早々と亡くなってしまったため、残された人々が争うことになったのだった。
「この遺言書によると、全財産はまったく別の人物が受け取ることになっていますね。もう一人明らかにされていなかった息子さんがいらっしゃるということですが、なんだかあやしいですね? サティさんたちを襲った、強盗、ですか? なぜそんな人たちが持っていたのでしょう。第四の息子さんがちょっと危ない人だとか? それとも……うん、こちらの権利書はまったく関係なさそうです。いろんな書類をまとめて入れていたということかしら」
マリエルは次々書類をたしかめ、一人で納得していく。
「この権利書にある土地も、少し前に相続されたものですね。無関係な人々の相続に関する書類を持っているなんて弁護士さんかしら? でもこんなにはっきりした遺言書があるなら、とうに出していますよね。それにこちらは名簿? なにやら見覚えのあるお名前がずらりと……お金持ちの方ばかりですね」
「ちょ、ちょっと見せてくれ」
いやな予感を覚えてポールは手を伸ばす。マリエルは素直に渡してきた。
「はい。印が書き込まれているお名前に注目してください。覚えがありません? 少し前にやはり相続問題が起きたお家です。決着したと思われましたがじつは真っ赤な偽物による詐欺事件だったという」
「――ああ!」
指摘にポールも思い出す。そうだ、今朝下宿先のグレースも言っていた事件だ。まんまと全財産を奪われて、詐欺だと気付いた時には姿をくらましていたという。土地や家財もとうに売り払われてしまい、取り戻すことができなかったと――あの事件にも関係している? では、この封筒に入っていた書類の数々は。
顔を上げたポールと視線が合い、マリエルはにっこりと微笑む。ことの重大性がわかっていないかのように、少女はほがらかに言った。
「多分サティさんを襲った強盗とやらは、詐欺の犯人でしょうね。これはその証拠書類となるのでは」
「……だからあんなに血相変えて取り戻しにきたのか」
ポールの口からはもうため息しか出てこない。予定変更だ。作家のところへ行く前に警察へ行ってこれを渡さねば。まったく今日はなんという日だろうか。朝下宿を出た時には、こんなにいろんなことが起きるとは思わなかった。
「警察へ行かれるのでしたら、ぜひわたしも同行させてくださいませ。またとない取材の機会です。お願いします」
げんなりする彼とは反対に、マリエルはいっそう生き生きと目を輝かせている。楽しそうだなと、ポールは遠い目で空を眺めた。そんな彼を気の毒そうにナタリーが眺めていた。
余談ながら、証拠書類を届けたポールは警察から心ばかりの報奨を受け取ることになる。少しはむくわれたと笑っていたところ、後日被害者の一人からたいへんに感謝され、今度はなかなかの謝礼をいただくことになった。
あやうく財産を奪われるところだった、未然に防いでくれて感謝する――そう言われても、詐欺犯を叩きのめして警察に引き渡したのは通りすがりの軍人で自分ではない。詐欺犯たちから封筒を奪ったのもブリスなのだが、とポールは複雑だ。そんな彼に、マリエルはこともなげに笑って言った。
「頑張ったサティさんに神様が幸運を授けてくださったのですよ、きっと。これからお金が必要になるのですから、ありがたくいただきましょう」
変わり者のお嬢様はなかなかにしたたかだった。そして彼女の言葉どおり、臨時収入はその後大いに役立ってくれたのだった。