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マリエル・クララックの婚約  作者: 桃 春花
マリエル・クララックの婚約
2/27

2 遅すぎる春

 私の婚約者を一言で表すならば、「変」だ。




「申し訳ありません、お待たせして」

 ひっきりなしに話しかけてくる人々をどうにかさばいて戻ってくると、マリエルは壁際に一人で腰かけていた。

 長い間放っておかれたというのに不満そうな顔を見せることもなく、静かに微笑んで私を迎える。私をねぎらい、気にかける言葉を口にして、自身の側に起きたことは何も言わない。

 彼女は彼女で、ついさっきまでいろんな人間に声をかけられていたのだが。

 離れながらも時折は確認していた。私と婚約したことで一躍注目を浴びるようになったマリエルは、これまで縁のなかった妬みや中傷を受けるようになった。さきほどもさんざんに嫌がらせをされたり言われたりしていたのだろう。

 それをおくびにも出さず、何も問題はなかったという顔で泰然と私を待っている。普通ならばよくできた娘だと感心し、婚約者として満足する場面なのだが……。

「マリエル?」

 彼女が私に向けてくるまなざしに、異様な輝きがある。表情はとりつくろっても、好奇心と何か得体の知れない情熱を含んだ視線までは隠せない。この地味でおとなしそうな娘が、今脳内でどんな妄想を繰りひろげているのか、知りたくもないけれど無視するには漂ってくる気配が不気味すぎた。

 婚約者へ向ける親愛のまなざし? 恋する相手に夢中な娘? ――そんな可愛らしいものか。

 ちがう。これは絶対に違う、そんなものではない。

 傍目にはそう見える光景だっただろうが、まったくの誤解だと私は確信を持って断言できた。

「はい?」

 可愛らしく首をかしげ、何も考えていませんと言わんばかりのとぼけた表情で返してくるマリエル。いかにも無害そうな、特徴を上げるのが難しいほどに平凡な見た目の娘が、実はどんな人物なのか。

 私が知っていることを、彼女自身もまだ知るまい。




 彼女をはじめて見かけたのは、今から数年前。今夜と同じく王宮で開かれた夜会でのことだった。喧騒を離れ、人気のない場所で一息つこうと歩いていた時、複数の女性の声が聞こえてきた。

 静かな場所へ来たつもりだったのにと、内心舌打ちする。声からして若い娘たちだ。見つかると面倒くさいことになる。他へ行こうとした時、気になる言葉が聞こえてきた。

「そもそも、あなたのようなみっともない方が王宮に出入りすること自体、恥知らずなふるまいではなくて?」

 ずいぶんと刺々しい口調だ。見下す調子も含まれている。どうやら仲間同士で盛り上がっているのではなく、けんかでもしているらしい。やれやれと思いながらも私は足を止めた。

 女性は姿かたちばかりは華やかに美しいが、水面下での対立や嫌がらせはあきれるほどにえげつない。正直関わりたくない世界だ。しかし近衛騎士として、もめごとが起きているなら無視するわけにもいかない。ただの口げんかでおさまる程度ならば放ってもおこうが、怪我人が出るような事態にならないか、確認だけはしておかねばならない。

 大きな柱の陰からそっと覗けば、休憩用の小さな中庭に五、六人の少女が集まっていた。どうも、全員でひとりを囲んでいるらしい。

 囲まれているのが誰か、ドレスが邪魔でよく見えない。かろうじて、淡い青紫のドレスがちらりと見えた。

 取り囲んでいる令嬢たちの顔を確認すれば、見覚えがある。カヴェニャック侯爵令嬢の取り巻きだ。着飾った娘たちの中心に、ひときわ華やかな少女がいることも確認できた。

 オレリア嬢は光沢のある淡い青紫のドレスを着ていた。

 ……どうやら、ドレスの色が同じだったことで、難癖をつけているらしい。あれこれと投げつけられる言葉からもそれがうかがえる。オレリア嬢と同じ色を着るなど身の程知らずの厚かましい女、というのが彼女たちの認識らしかった。

 まったくもって、ばかばかしい。女というものは、どうしてそんな些末なことを気にするのか。ドレスの色など何色でもいいではないか。そもそも何百人と人が集まっているのに、全員がまったく違う色を着ることなど不可能だ。どうしたってかぶる相手が現れる。当たり前の話なのに、なぜそれが許せないのか理解できなかった。

 心の底からうんざりする。とりあえず文句を言うだけで手を出すようすはないので、踏み込まず見守りだけにとどめておいた。

 オレリア嬢とその取り巻きは、さんざん言いたいだけ悪態をまき散らし、最後に侮蔑もあらわな笑い声を上げながら立ち去っていった。その場に残されたのは、茶色い髪の娘ひとりになった。

 うつむいた顔を髪が隠している。かすかに震えているのは、泣いているのか。よってたかってあれだけ言われたのだから当然だな。色は同じでも、ドレスの質は明らかにオレリア嬢のものより劣っていた。それほど高位の貴族ではないのだろう。色だけ真似てもみっともないと、そこもオレリア嬢たちが攻撃する材料になっていた。精一杯おしゃれしてきたのだろうに馬鹿にされて、さぞかし傷ついただろう。

 原因はくだらないとしか言いようがないが、いじめられて泣いている令嬢を気の毒に思う気持ちくらいはあった。出ていってなぐさめるべきか、その場でしばし迷う。

 下手に親切にするとなつかれて、その後大変面倒くさいことになる場合がある。基本的に、若い娘が相手の場合はこちらからは声をかけないようにしている。私と親しげにしているとまたオレリア嬢たちから目をつけられるだろうし、彼女のためにも距離は取っておいた方がいい。

 だが、ここで無視して立ち去るのも、可哀相ではある。

 どうしたものか……。

 悩んでいると、小さな声が聞こえた。中庭の令嬢が漏らした声だ。嗚咽をこらえきれなかったのか。しかたない、なつかれない程度に軽くなぐさめるかと、あきらめて彼女へ足を向けかけた時、さらにはっきりと声が聞こえてきた。

「ふふ……うふふ……うふっ」

 ――なんだ?

 泣いているにしては妙な声だった。嗚咽というよりも、あれは笑い声ではないのか?

「ふ……ふふふふふ……」

 うつむいた令嬢はまだ肩を震わせている。しかし聞こえてくるのは明らかに笑い声だ。私は気味が悪くなって踏み出しかけた足を止めた。

 まさか気が触れたか? あの程度のいじめで錯乱するなど、弱いにもほどがあるのでは。

 さきほどとは違う理由でためらっていると、別な声が響いた。

「マリエル!」

 年若い――幼いと言ってもいい年頃の娘が駆けてくる。知らない顔だ。おそらく社交界に出たばかりなのだろう。黒髪の少女は、中庭の娘を目指してやってきた。

 呼ばれた娘がようやく顔を上げた。そちらもやはり幼かった。大きな眼鏡をかけた顔は、見るからにうれしそうに頬を紅潮させていた。

「ジュリエンヌー! すっごかったー! もう絵に描いたような集団イビリ! 典型的な意地悪お嬢様! 臨場感満喫よ、ゾクゾクしちゃった!」

 ……おい。

「囲まれるってあんな感じなのね! 周囲がドレスの壁でけっこうな迫力よ。いいわあ、オレリア様サイコー。惚れちゃいそう」

「……まあ、心配はいらないと思っていたけど」

 ジュリエンヌと呼ばれた黒髪の少女は、呆れた顔で肩をすくめた。

 こっちも呆れている。なんだその全開の笑顔は。あれほどひどい悪態を投げつけられ馬鹿にされて、なぜそうも喜ぶ。

「ああっ、忘れないうちに書き留めないと! ありとあらゆる言葉を駆使して罵ってくださったのよ。よくあれだけいろんな言い回しが出てくるなって感心しちゃったわ。さすがみなさん教養にあふれて、語彙が豊富でいらっしゃるのねえ。見習わなくっちゃ」

 マリエルというらしい令嬢は、手提げから何か取り出した。小さな手帳と、ペン?

「あれだけ聞かされたらほとんど考える必要がなくて助かるわ。悪口辞典が作れそう。また来てくださらないかな。いろいろ参考になりそうでぜひ今後ともお付き合い願いたいんだけど」

「どうかしら。オレリア様からしたら、わたしたちなんて気にするほどの存在でもないと思うわよ」

「そうねえ。今夜はたまたまドレスの色がかぶったから目をつけてもらえたけど、毎回そう上手くはいかないわよねえ」

 上手くいくって何だ。いびられて何が「上手い」んだ。

「意地悪令嬢に目の敵にされるには、それなりの特徴が必要よね。物語のヒロインは美人とか優れた特技があるとか、何かしら理由があっていじめられるもの。ヒロインになれるだけの資質ってものが必要なのよ。わたしじゃ無理よね……誰かそういう人いないかしら。密着取材をさせてほしいわ」

 話しながらもマリエル嬢はせっせとペンを動かす。慣れているのか、ジュリエンヌ嬢は向かいに座って見守るだけだ。

 どうやら心配はまったく必要なかったらしいとわかった。しかし別な意味で理解できない。物陰から女性の会話を盗み聞きするなど近衛騎士として誉められた行為ではないが、マリエル嬢の異様さが気になって私はその場を立ち去れずにいた。

「これでもかといじめられる薄幸の美人が、素敵な男性と出会い、最後には幸せになって周りを見返す。読者はやっぱりそういうのが好きなのよね。でも見せ場を際立たせるためには、それに至るまでの展開が大事よ。いじめ描写が薄っぺらじゃ白けちゃう。いかに読者を物語の世界に引き込むかが難しいのよねえ。ヒーロー以上に悪役が輝かないといけないのよ」

 読者……物語……悪役……なるほど。

 調子よく続くマリエル嬢の言葉を聞いているうちに、なんとなくわかってきた。どうやら小説のことを言っているらしい。彼女は小説を書くのか? さきほどのオレリア嬢たちからのいじめを、参考にできると喜んでいるのか。

 そういうことかと、ようやく理解できた。奇怪としか言えない反応に脳の病を心配したが、いちおう理由があってのことと知り安心した。

 ――しかし納得はできない。

 あの状況で小説の参考になることしか考えないなど、普通の少女の反応か?

 人目につかない場所に連れ込まれ、集団から攻撃されながら、小説のネタにできると喜ぶか? 自分に向けられた悪意と侮蔑に満ちた言葉の数々を、ありがたく聞いて手帳に書き付けるなど、絶対に普通の行動ではないだろう。

 いったい彼女はどういう人物なのか。おそらく社交界に出てきたばかりの、まだ子供っぽさが目立つ娘に、私は不可解さを覚えずにはいられなかった。

 その後も夜会や園遊会などに出席するたび、彼女の姿を見かけた。マリエル嬢は人が集まる場所に出てくるのが、好きらしい。

 職業柄人の顔や特徴を覚えるのが身についていることと、彼女が常に眼鏡をかけていることから判別できたが、実を言うとマリエル嬢は存在を見つけ出すのが難しい。特別な美貌もなければ、反対に目を引くほどの醜女でもない。髪はありふれた茶色。中肉中背で、十人並みという言葉を体現している人物だ。

 どこにでもいそうな、人混みの中にまぎれるとすぐにわからなくなる娘。何かに似ていると考えて、あれだと思い出す。そう、野生生物が周囲の風景に溶け込んで姿をくらます、保護色だ。

 木の葉そっくりの虫や、身体の色を変えるトカゲなど。人混みの中からマリエル嬢を見つけ出すのは、森の中で擬態して身を隠す生き物たちを見つける作業に似ていた。

 見つけた時はひそかに達成感を覚えたものだ。ここにいたかと声を上げそうになる。森で虫を追いかけた幼い日のように、マリエル嬢を探し出すのがいつしか習慣になっていた。

 そして見つけるたびに、彼女は変だった。

 集まりには積極的に出てくるくせに、人と話をすることもなくたいてい一人でいる。自分から声をかけられない内気な性格なのかと思ったが、そういう娘ならば誰かに気付いてもらうことを期待しているものだ。集団の隅にくっついたり、目につくような場所をうろうろしたり……私の周りにもよくそういう令嬢が現れるので、違いがはっきりわかる。マリエル嬢は注目されることを望んでいない。それははっきりと確信できた。

 そういう目で見ていると、彼女があえて目立たないようにふるまっていることもわかってきた。

 容姿だけのせいではない。身なりも人目を引かないように、常に無難なものにまとめられている。若い娘ならば少しでも目立つように、他の娘よりも美しくなるように、装いには工夫を凝らすものだろう。それがマリエル嬢にはない。いつもおとなしい装いで――さりとて地味すぎて逆に目立つこともなく、絶妙に平凡な、可もなく不可もなくといった装いばかりを選んでいる。毎回それだと、わざとやっているとしか思えない。あそこまで目立たないよう無難さを維持するには、実はけっこう努力が必要なはずだ。

 なぜそんなことをする? ――それも、観察していればわかった。

 自ら話すことはないが、人の話は聞きたがる。盛り上がっている人々のそばにさり気なく近寄っていって、風景に擬態して気付かれないままじっと聞き耳を立てている。相手は老若男女おかまいなしだ。あちこちにまぎれ込んでは人の話を拾いまくっている。誰も彼女の存在を気にしないのがすごいが、もともと大勢が集まっている場だ。これといって特徴のない娘が近くにいても、風景のひとつと流してしまうのだろう。自分とて、あの夜のできごとがなければ、彼女の存在に気付いていたかどうか自信がなかった。

 そうやって人の会話を集めた後、物陰でこっそり手帳に書きつけている姿もよく目にした。そういう時は実に楽しそうな表情になっていた。またいいネタが手に入ったのだろう。いったいどんな小説を書くつもりなのやら。呆れながら見ているうちに、おかしくもなってきた。

 若い娘が社交界に出てくる目的は、ほとんどが結婚相手を得るためだ。自分を売り込み、少しでも条件のいい相手を見つけようと躍起になっている。そんな場所で目立たないことを第一に心がけ、ひたすら小説のネタを集めるマリエル嬢――何しに来てるんだと、つっこみたくてたまらない。

 そんなふうに、仕事や社交のかたわら奇妙な少女を観察する日々が数年間続いた。

「シメオン、お前は結婚しないのか?」

 視察のお供をしている最中、セヴラン殿下が脈絡もなく問いかけてきた。私は軽く眉を上げただけで済ませた。

「そのお言葉、そっくりそのままお返しいたしますが」

「私は相手を吟味しているだけだ。独身主義を宣言した覚えはない」

 部下たちも周りにいる中で、いったい何の話かと私は息をつく。

「私も独身主義を主張した覚えはありませんよ」

「ならばなぜ結婚せぬ。相手をさがそうともせんではないか。もうじき三十になるというのに女っ気がまるでないと、あらぬ勘繰りを受けるぞ」

「ご心配なく。そんな勘繰りをされるとしたら、間違いなく相方は殿下になりますから」

「それが心配だから言っているんだ! 私のためにも結婚しろ!」

 すでに何か言われたのだろうか。やけにむきになって殿下は指を突きつけてきた。

「お前の母親も心配しているぞ。跡取り息子がいつまでも独身ではまずいだろう。なんなら私が相手をさがしてやってもいい。見合いしろ。さっさとしろ」

「見合いですか……そうですねえ」

 殿下の懸念はともかく、結婚については考えないでもなかった。

 ここ最近両親、特に母からしきりにせっつかれているのだ。女性ほど急ぐ必要はないとはいえ、二十七で婚約も決まっていないのでは不安がらせてもしかたがない。私もそろそろ本気で考えるべきかとは思っていた。

 別に結婚したくないとか、女に興味がないとかいうわけではないのだ。単に仕事優先で後回しになっていたのと、これぞと思う相手がいなかっただけの話で。

 しかし見合いは気が進まなかった。どんな令嬢が出てくるのか不安だ。オレリア嬢のような、うわべは完璧でも中身に問題のある人物だとたまったものではない。人柄優先で紹介してほしいが、女性というものは本性を隠すのが上手い。気立てのいい品行方正な娘という触れ込みで紹介されたのが、実は陰湿な性根を隠し持っている可能性も少なくなかった。

 多くは望まない。人として安心して付き合える相手がいい。

 そう答えると、殿下はひどく困った顔をされていた。殿下ご自身も妃選びに苦労しておられるから、私の言い分に共感されるはずだ。理想どおりの相手が見つかったら、私に紹介する前にご自分が求婚されることだろう。

 難しいものだ。

 どうしたものかと思ううち、マリエル嬢の父親であるクララック子爵と話をする機会があった。

 彼は娘の結婚相手を紹介してもらえないかと頼んできた。

「部下の方々の中に、ちょうどよさそうな方はいらっしゃいませんかねえ。娘は今年十八でして……まあ、お世辞にも美人という評価はできませんが、頭は悪くありません。賢く立ち回って、果たすべき役目はきちんと果たします。そのあたりはちゃんと躾けておりますので、自信を持って嫁に出せます。ただ、どうにもおとなしい娘でして、なかなか男性の目に留まることができませんでね。華やかな近衛の皆さんから見ると物足りなく思われるかもしれませんが、結婚相手としては悪くないはずなんですよ。妻と恋人は違います。家を預ける相手には、貞淑と堅実さが必要です。娘はその点お買い得ですよ――と言ってですね、どなたかに声をかけてはいただけませんか」

 人のよさそうな顔をした子爵は、なかなかに上手い言い方をした。マリエル嬢に美しさや華やかさは求められないことを認めつつも、結婚相手としては十分な資質をそなえていると主張する。見かけによらず世渡り上手で、着実に出世している彼らしい戦略だ。そういう売り込み方をすれば、話に乗ってくる男もいるだろう。

 だが、少しばかり正直ではない。

 マリエル嬢の一面を説明してはいるが、肝心な部分が抜けている。あの、他に類を見ない奇矯さは、結婚相手にとってささいなことと切り捨てられない重要な要素だろうに。

 ありのままに言ったら見つかる話も見つからない。伏せた事情はわかる。しかし当人を知っている私としては、そのまま部下に話を持っていくのはためらわれた。

 途中で本性がばれて破談になどなれば、さすがのマリエル嬢も傷つくだろう。社交界に噂が流れれば、今後の相手さがしにも影響する。ただでさえ縁がなさそうな彼女にとっては、致命的な傷になりかねない。

 ……いや、彼女ならその状況すら喜んでネタにするか? ありそうだ。

 喜色満面で手帳に向かうマリエル嬢の姿が容易に想像できて、ため息が出てきた。あの娘には、たしかに誰かがいい縁を紹介してやる必要があるだろう。自力では絶対に相手を見つけられまい。

 彼女の趣味を理解しつつ受け入れてくれる男がいればいいのだが……と考えて、一人いることに気付いた。

 そうだな。別に部下に話を回さなくても、私が受ければいいのではないか? 

 私は隠された彼女の趣味を知っている。ちょっとおかしな性格であることも知っている。だが嫌ってはいない。今では楽しんで観察しているくらいだ。

 マリエル嬢は、間違いなく奇矯な人物ではあるが、性悪ではなかった。噂を集めるのに熱心でも、それを言いふらすことはしない。彼女の行動はあくまでも小説の参考にするためであって、他人の噂そのものに関心を持ち面白おかしく吹聴することはない。なにかと噂話で盛り上がる社交界の中では、得難い存在と言えるかもしれなかった。

 行動原理が常に小説のためというあたり、素直に美点と称賛しきれないものもあるが……悪くないのではなかろうか?

 こちらも結婚相手をさがしていたところだ。ちょうどいいと思い、子爵に私が名乗りを上げると伝えたところ、大変に驚かれた。

「いやあ、それは実に光栄なお言葉ですが……正直なところ、釣り合いが取れないのでは? 我が家とフロベール家では家格が違いますし、シメオン殿ほどの方でしたらもっと条件のいい令嬢がいくらでも見つかりましょう。年も少々離れておりますし……」

 話に飛びつかず、むしろ懸念を示すあたりに、彼が見た目どおりの呑気な男ではないことがうかがえる。目の前にごちそうをぶら下げられてもすぐに食いつかない、罠を用心する賢さが彼にはある。

 子爵が何を警戒したのか、私にはわかった。クララック家と釣り合う程度の男が相手であれば、マリエル嬢の本性がばれても上手くとりなすことで押し切れる。ちょっと変わった趣味を持っているだけだと、適当にごまかすつもりだろう。私が相手だとそれは通用しない。もとから力関係が不均衡なので、文句をつけられれば対抗できない。欲を出して飛びついても結局大損をしかねないので、避けるべきと判断したか。

 おそらく子爵は、私に何か問題がある可能性も考えたのだろう。だからこんな釣り合わない縁談に名乗りを上げたのではないかと警戒している。賢いことだ。

「そうですね、たしかに十八の令嬢から見れば、私などおじさんでしょうが」

「いや、いや、シメオン殿を見てそう思う女性はいますまい。まあ九歳やそこらの差など、よくある話ですが」

「ええ、うちの両親も八歳違いです。なので、私がお願いしてもよいかと思ったのですが、エミール卿は気乗りなさいませんか」

「いや、そういうわけではありませんが」

 穏やかな笑顔でおっとり受け答えしつつも、脳内では忙しく検討しているのだろう。彼の苦労を察し、私は顔には出さず笑った。

 慎重な人間は、時に考えすぎて余計な気苦労をしてしまう。私も同じ系統の人間なので馬鹿にすることはできない。子爵がためらう気持ちはよくわかる。実のところまったくの取り越し苦労なのだと、どうすればわかってもらえるだろうか。

 ……別にわかってもらえなくてもいいかな。このまま話を進めるのも面白そうだ。

 どうあってもマリエル嬢と結婚したいわけではない。断られるなら、それはそれでかまわない。私は子爵がどう対処するかの方に興味を持って、種明かしをしないまま話を続けることにした。

「こちらにとっては身に余る素晴らしいお話ですが……そちらのご両親はどう思われますかな? あまりに格下の家が相手では、難色を示されるのではないでしょうか」

「そのように卑下されずとも。クララック家とて、それなりに長く続く家柄ではありませんか。派手に目立つことはなくとも、代々誠実に王に仕え、一定の評価を得ているはずです。あなたやご子息も有能な仕事ぶりで認められていらっしゃいますし」

「いや、ははは、そんな持ち上げられるほどのものでは」

「当家は伯爵、そちらは子爵、釣り合いに問題はないと思いますが」

「はあ、そうですかねえ……」

 ふふ、脂汗がにじみそうな雰囲気だな。それでも表情には出さないのだから大したものだ。

「いやあ、しかし娘は、なんと申しますか、地味な子でして。伯爵家の奥方として表に顔を出すには、不足が多いかと」

「家をまかせる人物として問題はないと、おっしゃったではありませんか。私はまさにそういう女性をさがしていたのです。流行や噂話にばかり熱心で、ろくに家にいない妻では困ります。必要な社交ができるだけでいい。特別華やかでなくとも、きちんと家を守ってくれる人を望んでいるのです」

「ほう、意外と保守的な考えでいらっしゃる」

「うぬぼれと思われそうですが、寄ってくる女性は多いのでね。華やかなだけの女性には、もう辟易しています。生涯の伴侶として付き合っていく相手なのですから、うわべよりも中身の方を重視したい。落ち着いた、堅実な女性と結婚したいのですよ」

「ふむ……」

 この言葉には心が動いたのか、子爵は考える顔になった。遊び人ほど結婚相手は地味だったりするものだ。いろんな女を見ているだけに、本当に価値のある人物をちゃんと見極める。そうした事例を思い出したのだろう、笑いでごまかすのをやめてさぐるように尋ねてきた。

「……本当に、見た目はまったくもって地味のひとことですよ?」

「なんら問題ありません」

「おとなしいばかりで、面白味に欠けますが」

 いや、面白いだろう。あんなに面白い人間は、そうそういない。

「物静かな人にも、その人なりの魅力があるかと」

「……昔から物語を読むのが好きな子でしてね、そのせいか少々夢見がちな、現実ばなれしたところもありますが」

 ものは言いようだな。少々どころか非常にかっ飛んでいる。夢見がちなどという可愛い言葉で表現できる範囲かどうか疑わしいものだ。

「それは、感受性が豊かということでは?」

「そのようにも言えますか……」

 嘘にはならないだろう。周囲の人々からネタを拾い集めているのを、ちょっとばかり美化して表現しただけだ。

 そうですねえ、と子爵は息をついた。

「では、とりあえず一度会ってやっていただけますかな。じっさいに見て、お気に召さなければはっきり言っていただいてけっこうです。本人抜きで話しているばかりでは伝わらない部分もありましょう。ぜひ直接お確かめになってください」

 とうとう子爵の了承が得られ、マリエル嬢と顔合わせをすることになった。本人を見れば私も気を変えるだろうと、彼は考えたようだ。もちろんそんなはずもない。私はクララック家を訪問し、はじめてマリエル嬢と言葉を交わし、その場で正式に婚姻を申し入れたのだった。




 私が見込んだとおり、マリエルは陰湿さのない明るい人柄だった。常に控えめにふるまい、出しゃばることをしないが、話をすれば案外気の利いた受け答えが返ってくる。エミール卿の言うとおり頭はいいようだ。物語をたくさん読み、ついでに自分でも書いているだけあって、要領よくまとめて話すことが上手い。知性的な相手との会話は余計な苛立ちを感じることもなく、いい相手を見つけられたことに私は満足している。

 母は、少しばかり違う意見を持っていたようだが。

「シメオン、本当にあのお嬢さんでいいの?」

 両家の顔合わせの後、不満と疑問をないまぜにした、非常に複雑な表情で聞かれた。

「ええ。いいと思ったから求婚したんです。母上は気に入りませんか?」

「そういうわけではないけれど……」

 母は困った顔をする。

「落ち着いた、きちんとした方だということはわかりましたよ。教養もあるようですし、問題があるというわけではないのだけれど」

 問題はない。ただ、非常に地味なだけで。

 うっかり存在を忘れそうになるほど、周囲の風景に溶け込みすぎるだけで。

 評価に困るほど存在感の希薄な、保護色をまとった生き物に、母が物足りない思いを感じていることはよくわかった。もっとわかりやすい美しさや愛らしさがほしいのだろう。

 マリエルは奇矯な性格を完璧に隠し、どこから見ても平々凡々な、まるで特徴のない令嬢を演じきっていた。私にも隙は見せない。貞淑と言えば聞こえのよい、空気のような存在になりきっている。

 内面を知らなければ、あれを評価するのは難しいだろうな。私もどこを誉めればいいのか少々考える。通り一遍の、お世辞のような言葉しか出てこない。彼女が意図してそういうふうにふるまっているので、注目すべき部分が見つからないのだ。

 さっさと本性を暴露して婚約破棄されてはならぬと、用心しているのだろう。無駄な努力だったと知った時、どんな顔をするだろうな? 面白そうなので、もっとも効果的な瞬間を待って、私はまだ彼女に何も告げていない。だまされたふりで調子を合わせている。

 驚く顔を想像すると笑いがこみあげた。その反面、複雑な気分にもなった。隠すということは、私に気を許していないということだ。婚約者とはいえ、私達の関係はまだ形だけのものでしかない。

 それがなんとなく不満でもあった。

「副長、婚約者の方がいらっしゃいました」

 庭に出ていた私のところまで、部下が取り次ぎにやってきた。約束の時間ぴったりに、マリエルが到着したようだ。馬の世話を係の者にまかせ、私は表へ向かった。

 これまで一度もわがままやおねだりをしたことのないマリエルが、先日珍しく願い事を言ってきたのだ。

「できましたら、一度近衛騎士団を見学させていただきたいのですけど……」

 言われた瞬間は妙なことを望むと思ったが、おそらくこれも小説のネタ集めだろうと理解した。団員に身内がいるとかでもなければ、騎士団の本部など女性には覗けない世界だ。未知の領域を開拓しようと乗り出したか。

 婚約してから知ったことだが、彼女の小説は趣味ではなく仕事として本格的に取り組んでいるものだった。ちゃんと正規の出版社から何冊も発行されている。

 従姉から押しつけられた小説を読んだら、どこかで聞いたことのある話がちりばめられていたのだ。宮廷を舞台にした恋愛模様や、ちょっとした事件など、元ネタを知っている者が読めば何を参考にしたのかがすぐにわかる。それゆえ作者は貴族の女性ではないかという噂があるそうだ。アニエス・ヴィヴィエというのは執筆用の名前で本名ではないだろう。正体は誰かと、読者の間で興味をもって取り沙汰されているらしい。

 ……私にはわかる。きっと彼女だ。この、実にいきいきと描写されている敵役の令嬢はオレリア嬢だろう。ドレスの色がかぶって難癖をつけてくるって、あの夜のまんまではないか。

 さしずめ、次の物語のヒーローは近衛騎士といったところか。婚約の影響か? まさか私がネタにされるのではないだろうな。

 ……ありそうだ。

「お邪魔になるようでしたら無理は申しません。ただ、聞いたところによりますと、団員の家族が届け物をしたり上役の方に面会したりと、案外部外者も出入りしているそうですね? もし、お許しがいただけるのでしたら、シメオン様が働いていらっしゃる場所を見てみたいのです」

 知らない者が見れば婚約者のことを知りたがる娘と、微笑ましく受け取っただろう。控えめに願い出るマリエルに、私は呆れるべきか笑うべきか迷いながらうなずいた。

 まあ、見学くらいならよかろう。せいぜい次作に役立ててくれ。ただし私が参考にされたとわかるような書き方はしないでくれよ。

 貴族の娘らしく小間使いを供に連れて、マリエルは玄関前で待っていた。中へ通さなかったのかと部下に問えば、ここで待つと言われたのだと返ってきた。

「マリエル」

 声をかけるとこちらに気付いてふりかえる。その瞬間、何に驚いたのかマリエルは目を瞠った。

 手で口元を押さえ、食い入るように私を見つめてくる。何かおかしなところがあるか? 私は自分の姿をあらためた。

 ……別に、普通だと思うが。

「お嬢様、鼻血が!?」

「い、いえ、大丈夫よ。だいじょうぶ、なんとか堪えたわ……くっ、なんという破壊力。想像以上よ……!」

「眼福ですよね! お気持ちはわかります!」

 こちらに背を向けて小間使いとこそこそやり合っている。鼻血と聞こえた気がするが、具合でも悪いのか?

「どうしました? どこか具合を悪くしましたか?」

 震える肩に手を置いてのぞき込めば、あわてて表情をとりつくろって顔を上げた。

 ……元気そうだな。頬は上気しているし、目がきらきらと――ギラギラと輝いている。

「いえ、おかまいなく。少々日射しが強くて、目がくらんだだけです。もうまぶしくって」

 たしかに今日は晴天だな。だが太陽はそっちの背中側だぞ。

 あの異様な熱のこもったまなざしで、マリエルは私を見る。上から下まで、舐めるようにじっくりと。そしてほう、と息をついた。うん、言葉で説明すると婚約者に見とれてうっとりする娘だな。しかし何かちがうものを感じる。本当にそれだけか? 別の感情が混じっていないか?

「では中へ入りましょう。訓練場などはのちほど回ることにして、先にお茶をさしあげます」

 私は従者に乗馬鞭を預け、マリエルをうながした――ら、その瞬間彼女は大変にがっかりした顔になった。なんだ!?

 視線が私を通り越して、従者の方へ向かっている。あっちが目当てだったのか?

 ちらりと従者を確認する。入隊したばかりの少年だ。マリエルよりも年下の、見習い坊やである。彼女の気を引くような、目立つところがあるとも思えないが……。

 と、そこまで考えて、マリエルの視線が従者の顔ではなく手元に向かっていることに気付いた。持っているのは、私から受け取った鞭だ。

 ……あれに、どんな関心が?

 追及してはならない気がして、私は少々強引にマリエルを移動させた。行き合う隊員たちが興味津々の目を向けてくる。私の婚約者ということで誰もが関心を持ち、そしてマリエルの姿を見るといぶかしげな顔になった。牛肉だと思って食べた料理が鶏肉だったような、悪くはないけどこれじゃない感がどの顔にも浮かんでいた。

 女の価値は容姿だけではないぞ。ならばマリエルにどんな価値があるのかと、問われても困るが。

 応接間に通し、あたりさわりのない話をしながら一服していると、話を聞きつけたらしい上司が覗きにきた。

「おお、そちらがシメオンの婚約者殿か! お邪魔してかまいませんかな?」

 口先だけ遠慮するようなことを言いながら、すでに私の隣まで来ている。野次馬根性を隠しもしない中年男の登場に、マリエルは驚くこともなく立ち上がっておじぎした。

「はじめまして、マリエル・クララックです。今日は厚かましいお願いをして申し訳ございません。ぜひ一度、騎士団のようすや団員の皆様を拝見したかったものですから」

「ようこそ、団長のアルベール・ポワソンです。なんのなんの、こちらこそお会いできて光栄ですよ。むさくるしいところにこんな可愛らしい令嬢をお迎えできるなど、うれしい話です」

 女好きの団長はマリエルのような地味な娘にも愛想をふりまいた。容姿で評価して馬鹿にすることがないのはよいが、いささか軽薄すぎるのがこの上司の欠点だ。これで仕事もきちんとしない無能だったら、とっとと追い落としているところだぞ。

 団員の家族や知人が訪ねてくることなど珍しくもないのに、私の婚約者というだけでそうも好奇心を持つのが面倒くさい。扉の外には他にもいるようだ。隙間からこそこそと覗く気配がする。

 どいつもこいつも、暇を持て余しているようだな。あとでちゃんと仕事を割り振ってやろう。

「いや、ついにシメオンが婚約したということで、皆興味を持っておりましてな。マリエル嬢にはうっとうしく思われるかもしれませんが、許してやってください」

「いいえ、思ったより和気藹々とした雰囲気で、うらやましゅうございます。女のわたしは家にいるばかりですから、仲間と仲良くお仕事をするという光景に、少しばかり憧れます」

「ははは、まあ楽しい面もありますが、男ばかりの集団なぞむさいだけですよ。こいつもこんな顔をしていますが、男相手には容赦なくてね。部下たちがいつも悲鳴を上げとります」

「ふふ、団長様はおおらかでいらっしゃるようですね。ちょうど釣り合いが取れているのではありません?」

「たしかに、私に足りんところをよく補ってくれますので、ありがたいと思っておりますよ」

 誰がおおらかだ。この親父はそう見せかけているだけだ。陽気で人がいいばかりの男に騎士団の長など勤まるものか。

 対外的には私が参謀的な立場と見られているようだが、団長は必要な時には悪どくもしたたかにもなれる人物だ。私を隠れ蓑に使っているあたりに、彼の人の悪さがうかがえる。

 好奇心で乗り込んできたような顔をしつつ、マリエルのことを値踏みする目的もあったのだろう。わかっていたが、私は放っておいた。多分、マリエルに心配は無用だ。

 ふたりは妙に気が合うようすで盛り上がる。互いに、私のことをどう見ているか探り合っているようだ。団長がそこを気にするのはわかるが、マリエルは何が知りたいんだ?

 そのうち覗き見だけで我慢できなくなった部下たちが乱入してきた。一気に応接室が人でいっぱいになる。誰もがはじめはマリエルに興味を持っていろいろ尋ねたが、そのうち自然と話題は私のことになった。詳しく知りたいと思わせるところがマリエルになく、じきに興味がそがれるのだろう。だが、それだけではないと見ていて気付いた。

 控えめに無難な受け答えをしながら、マリエルはさり気なく話題を誘導していく。自分のことから私の話に移るよう、うまく水を向けている。私が騎士団でどんなふうに過ごしているか、周りからどのように見られているのか――婚約者として興味を持ちつつ気づかう姿を装いつつ、知りたい情報を着実に入手している。

 ……常々思っていたが、マリエルには諜報の才能がありそうだな。自分に関心を持たせることなく、聞きたいことを聞き出す手管に長けている。これが男ならなかなか怖い人物だっただろう――いや、彼女の兄も似たような人物ではなかったか?

 父親といい、あの家の人間はどうも一筋縄ではいかない印象だ。

 その後もずっと周りが騒々しく、最後まで野次馬されまくりだったが、マリエルは少しも機嫌を損ねることなく満足した顔で帰って行った。どう見ても婚約者との時間を邪魔された娘の態度ではない。あの達成感に満ちた、充実した顔! 私との約束は、彼女にとってはあくまでもネタ集めの手段にすぎないというわけか。わかっていたが、本当に小説のことしか考えていないな。

 職務放棄して雑談に興じていた部下たちに、夜までたっぷり働けるよう仕事を与えてやった後、執務室へ戻る私のあとをなぜか団長がついてきた。

「なかなか、お前に似合いのお嬢さんじゃないか」

 冷やかしてくるのを、つめたく見返してやる。

「そうですか、団長にそう言っていただけるとはうれしいですね」

「あれは見た目どおりの凡庸な娘ではないな。頭がよさそうだし、抜け目もなさそうだ。利を狙う狡賢いばかりの女なら、フロベール家の花嫁にはふさわしくないんじゃないかと言うつもりだったが……なにか、違うな」

 どさりと椅子に腰を落として団長は首をひねる。

「単純にお前のことを知りたいだけに見えた。いや、婚約者として正しい姿だ。何も悪くはないんだが……お前に惚れたからではなく、もっと現実的な理由があるように思えてな」

 さすがに団長は、あのやりとりの中でちゃんとマリエルの本質を見抜いていた。だが彼女の思考や行動の原点がどこにあるかまでは思い至らないようだ。それで普通だ。気付く人間がいたら、きっと彼女の同類だ。

 わかった上で婚約したのだし、問題視しているわけでもない。私は流行小説を低俗なものと一括りに見下すつもりはない。彼女の作品にはどれもちゃんとテーマがあって読者の心に訴えかけてくる。最初に従姉から押しつけられた本だけでなく、これまでに発行されたものすべてを読んだ。作者自身が楽しんで書いていることがありありとうかがえつつも、何かが心に残る作品ばかりだった。マリエルは人を観察することも、描くことも好きなのだろう。つまり人間という生き物が好きなのだ。それは立派に長所ではないかと思う。

 ――なのに、最近妙にすっきりしない気分を感じる。私はどこに不満を感じているのだろう? 彼女が妻としての役割をきちんと果たしてくれるなら、少々変わった趣味を持っていても容認するつもりだったのに。

「お前には、理由の心当たりがあるのか?」

 団長の問いに、私はうなずいた。

「ええ。心配するようなものではありませんよ。ごく私的な目的ですから、何も問題ありません」

「それにしては不満そうだな」

 はっきりと指摘され、私は束の間沈黙した。

「……そのように見えますか?」

「ちゃんと彼女と話をしているか? 形だけでなく、本音でだぞ。そんな作り笑いでごまかしてばかりいないで、互いを理解し合う努力をしろよ。家族になって一生付き合う相手なんだから、素で向き合えた方がよかろうが。夫婦なのに表面をとりつくろうだけの関係だなどと、冷たすぎて泣けてくる。恋愛結婚じゃないからって、ことさらによそよそしくせずともいいだろう。もっと仲良くなれ」

「…………」

 私がどれだけ表面をとりつくろおうと、あっさり見抜いてくる団長に言葉を失う。ちゃんと仲良くしているつもりだったが……言われてみればたしかに、形だけのものだ。私たちは問題なく付き合っているようでいて、心を許し合っているとは言えなかった。互いに本性を隠している。体裁を整えているだけだと言われても、否定できなかった。

 彼女に言うべきだろうか? ずっと以前から知っていたと。あなたの趣味も知っていると。

 そうすれば彼女も本音で向き合ってくれるだろうか。だが先日言外に匂わせて反応をたしかめるような真似をしてしまった。あれで警戒されているはずだ。いきなり切り出せば、逆に関係を悪くしかねない。

 どうしたものか……。

 悩みを隠し持ちながら近衛の仕事を続ける。セヴラン殿下にお供して公爵家の夜会に向かった先で、あまり相手をしたくない女性につかまってしまった。

「今夜はおひとりですのね。婚約者の方はお連れではありませんの?」

 深い真紅のドレスに身を包んだオレリア嬢が、自信をたたえた笑顔で話しかけてくる。例によってとりまきの令嬢たちもくっついていた。女たちの視線を浴びると、獲物として狙われた動物の気分になってくる。

 みんな、マリエルに負けず劣らず目が輝いているな。ああ、そうだ。こういう目を向けられることには慣れている。以前からそうだった。……だが、マリエルの視線は何かちがうと感じたのだ。

 こもる熱意は誰にも引けをとらないのに、受ける印象が違う。何が違うのだろうと、疑問に思う。

「殿下の護衛としてお供してきましたので。仕事で来ているのですよ」

 その殿下の元へさっさと戻りたかった。護衛なのに長く離れてはいられない。しかしこのまま行くと間違いなくオレリア嬢はついてくる。私が婚約して以来、彼女は狙いを殿下一人に定めたようだ。とうの昔に除外されているとも知らず、近付く機会を狙っている。殿下をわずらわせるわけにはいかないので、どうやって追い払おうかと私は悩んだ。

「ああ、そうですわね。最近は婚約者の方とご一緒のお姿ばかりお見かけしていましたから、失念していましたわ。そうですわよね、殿下の方が大切ですよね」

 くすくすと令嬢たちから笑いがあがる。何かあると感じ取り、私は素早く会場に視線をめぐらせた。

 ……ああ、そういうことか。

 遠くにマリエルの姿が見えた。来ていたのか。今日は仕事だからと当然誘わなかったし、向こうからも何も言われなかったので、来ないものと思い込んでいた。婚約者同士が同じ会場へ向かうのに、まったく別々に来たのではなにごとかと思われただろうな。

 オレリア嬢たちに視線を戻せば、とりつくろった表情の下から好奇心や嘲笑が見え隠れしていた。きっと私に声をかけるより前にマリエルの方へ行き、いろいろ言ってきたのだろう。

 マリエルはどう思っただろうか。オレリア嬢たちからの嫌がらせなど、平気どころか喜んで聞いただろう。そこは心配していない。だが私が同じ場所へ行くのに誘わなかったことは気にしたのではなかろうか。

 急にすべてがわずらわしくなり、オレリア嬢たちを素っ気なく振り切ってその場を離れた。変に反感を持たれるのも面倒だからと、いつも適当に相手をしてきたが、今はそんな気になれなかった。

 まっすぐマリエルのもとへ向かうと、彼女も私に気付いて眼鏡の奥の目をまたたいた。

「こんばんは、シメオン様」

 拗ねるようすも不安がるようすも見せず、いつもの笑顔で挨拶してくる。落ち着きはらった態度が、やけに神経に障った。

「あなたもいらっしゃるとは思いませんでした。申し訳ありません、殿下のお供で来ると、先にちゃんと話しておくべきでしたね」

「まあ、おかまいなく。わたし、存じておりましたよ? 先日部下の方からうかがいましたから。もちろんお仕事の方が大事です。気になさらないでくださいな」

 いつの間に、誰から聞いたんだ。私の知らないうちに、部下たちとうちとけているようだな?

「殿下のおそばへ行かれなくてよろしいのですか? 早く戻らないと、お叱りを受けるのでは」

 おまけにさっさと追い払おうとする。私がいるとネタ集めの邪魔だとでも言いたいのか。

「あなたもおいでなさい。出席しているのなら、ご挨拶をすべきでしょう。これまでとは違って、私の婚約者という立場なのですから」

「ええ、それはもちろん……ですが、今はたくさんの方とお話をされていて、お忙しそうですから。ご挨拶はもう少しあとにした方がよいのではと思っておりました」

 けっして出しゃばらず、分をわきまえたふるまいは誉めてしかるべきだ。彼女は何も間違ったことは言っていない。正しいことを言っている。

 頭ではそう理解できるのに、無性に腹立たしかった。

「そんなことを言っていたらいつまで経ってもご挨拶できませんよ。殿下の周りから人がいなくなることなどないのですから。いらっしゃい」

 強引にマリエルを連れて殿下のもとへと歩く。少しとまどったようすを見せつつも、マリエルはそれ以上私に逆らうことをせずおとなしくついてきて、そしてそつなく殿下に挨拶を済ませ、さっさと離れていった。

 ずいぶんと素っ気ないな。オレリア嬢たちと大違いじゃないか。向こうはなんとかして自分に注目されようと、機会があれば飛びついてくるのに。あの半分ほども熱意が持てないか? 私と殿下を、やはり熱のこもった目で見ていたくせに。

 ……だが、オレリア嬢たちの目とはちがう。くらべて、はっきりわかった。

 マリエルの目には異性への好意や関心というものがない。そこにあるのは、人間という生き物に対する興味だけだ。

 彼女は恋をしていない。

 とうにわかりきった話のはずなのに、なぜかその事実に衝撃を覚え、妙に気落ちしてしまった。

 私は本当に、何が不満なのだ。彼女との交流もなく、父親との話だけで決めた婚約だ。恋愛感情が存在しないのは当たり前で、そんなものを求めてもいなかったのに。

 私はただ、安心して妻に迎えられる相手を求めていただけだ。マリエルがちょうどいいと思っただけで。

 それだけの、はずなのに。

「辛気臭い顔をするな。そんなに気になるならさっさとマリエル嬢を追いかけろ」

 殿下が顔をしかめておっしゃる。態度に出てしまっていたかと、私は気を引き締めた。

「いいえ、職務を放棄して私事に走れません。彼女もそれは望んでおりませんから」

「苛々しながらそばにいられると私もうっとうしいのだ。許すから、行け」

「別に、苛ついてなど……」

「いつになく感情が漏れていることにも気付かないのか? さっきどんな目で彼女を追いかけていたのか、解説してやろうか? 気になっているのだろう」

「…………」

 そうもあからさまだったのだろうか。己をとりつくろうこともできていなかったのかと、そこにも衝撃を受けてしまう。

 だが、言われるままに婚約者のもとへ走るなど、できるはずがなかった。殿下が許してくださろうとも、それはだめだ。職務はそう軽々しく放棄すべきではないし、殿下から離れるのもよろしくない。いかに周りに人があふれていようと――否、人混みにまぎれて害意を持った者が近付いてくる可能性も十分にありうる。マリエルの方には何ものっぴきならない事情などないのだから、後日あらためて会えばいい。

 殿下は呆れた顔でため息をついた。

「そうやって自分を抑え込んで気持ちを隠すから、彼女も何も気付いてくれないのだろう。もっと正直に向き合ったらどうだ」

「隠すといって、別にそのようなつもりは」

「彼女が気になる、追いかけたい――それをそのまま伝えればよかろう」

「……気にならないと言えば嘘になりますが、追わねばならないほどの理由はありませんよ。正直、気にする必要もないと思っております」

「だが、気になるのだろう?」

「…………」

 私はあきらめてため息をついた。子供の頃から互いをよく知る関係だ。殿下に対してごまかすことはできない。

 自分でもよくわからない気持ちを、私は正直に告白することにした。

「そうですね、気になります。何が気になるのか、自分でもわからないのですが。マリエルは婚約者として申し分ない。私をわずらわせるようなふるまいをせず、文句やわがままも言わない。出しゃばらず、呼ばれるまでおとなしく待っている。今夜も私が仕事で来ていることをよく理解していて、別々に行動することをまったく気にしておりませんでした。理想的な婚約者です。どこに不満を覚える理由があるのか、自分に問いたい。彼女の何が悪いというのか」

 疲れたこみかみを軽くもみほぐす私と反対に、殿下は気が抜けた顔になった。

「お前……本気で気付いていないのか」

「何をですか」

 信じられん、と呟く殿下を私は軽くにらむ。そうも大げさに驚かなくてもよいではないか。まるで私が馬鹿みたいだ。

「みたい、ではない。馬鹿なのだ」

 抗議すると即座に言い返された。

「あー……私も馬鹿かもしれぬな。お前がこれまでさんざん女性にもてて、それをうまくあしらってきたから色恋には慣れているものと思い込んでいた。大いなる間違いだった。今認識をあらためた。お前は単に情緒が未発達だっただけだ」

「……さようですか」

「笑顔で怒るな! 事実だろうが」

 なぜか殿下は数歩あとずさった。脅したつもりはないのだが。

「なまじ女の方から寄ってくるから、自分から努力する必要もなくこれまで意識してこなかったのだな。二十七にしてようやく思春期か。微笑ましいと言うより、正直気持ち悪いな」

「気持ち悪いとはずいぶんなおっしゃりようを」

「遅めの春を微笑ましく見てもらえるのも、二十歳くらいまでだ。その歳で(うぶ)なところを見せられても気持ち悪いわ」

「先程から妙なことばかりおっしゃいますが……情緒だの初だのと、今の話にどう関わりが?」

「そう聞いてくるあたりが情緒未発達だと言うのだ。ああ、面倒くさいからはっきり教えてやる。お前の苛立ちは、マリエル嬢の気が引けないせいだ。彼女にかまってもらえない、自分に注目してもらえない、それが気に食わないのだろう」

「…………」

 なんだそれは、と思った。まるでぐずる幼児ではないか。私が幼児並みに甘えていると言うのか。

 ……だが、否定できるだろうか? なんとなく心当たるような気がして、そんな自分にまたも衝撃を受けてしまった。

「相手を気にし、自分を見てもらいたいと思う。素っ気なくされるとさみしく、腹立たしくも思う。そういう気持ちをな、人は『恋』と呼ぶのだ」

「…………」

 ……恋?

「お前はマリエル嬢に恋をしている。それが答だ」

 殿下の言葉に、私は絶句してしまった。どう反応すればいいのか、とっさには言葉が見つからなかった。

 恋だと? 私が? マリエルに?

 なぜそうなる。

「……ありがたく拝聴しておきます」

「あっ、思考停止して逃げるな! 認めろ、お前は彼女に惚れたんだよ! それ以外に何がある? これまでにも私が何度も言ってきただろうが。今までの女性への態度とはまったくちがって、驚くほどにでれでれだと! 振り返って考えてみろ。お前は常にマリエル嬢に優しい顔を見せて、大事にしていただろうが。婚約者としての義務だけには到底見えなかったぞ。そもそも、なぜ彼女と婚約した? クララック子爵に誰か紹介してくれと頼まれた時、なぜ自分が名乗り出た。普通に考えればお前と彼女では釣り合わん。フロベール家側にとって不足なだけでなく、クララック家側にとっても負担となる縁組だ。それを押し切ったのはなぜだ」

「……それは……」

 つっこまれて返答に窮する。マリエルが、私の希望にちょうどいいと思ったからで……だが、本当にそれだけだろうか。

 さがせば、他にも希望に合う女性は見つかっただろう。誰も彼もがオレリア嬢のような性悪ではない。ちゃんと釣り合う家から、問題のない花嫁を迎えることもできたはずだ。そのくらいはわかっていた。

 マリエルがいいと、思った理由は。

「実は以前から彼女のことを知っていたと言ったな。面白い娘がいると思って見ていたと。あんな地味で目立たない娘をそうも熱心に観察していた理由は何だ? ただの好奇心だけで何年も見続け、あげくに婚約までするか?」

「…………」

 殿下は大きく息を吐き、私の肩を叩いた。

「ひとつひとつを考えれば、わかるだろう。あとは素直に認めるだけだ。わかったら、明日でもいいからちゃんと彼女と話をするんだぞ」

 私はもう何も言えなかった。頭が混乱し、言葉が見つからない。表情をとりつくろうこともできず、ただ馬鹿のようにうろたえるばかりだった。

 そんな……私が、そんな……?

 そうだったのか?

 いや、まさか。そんなまさか。

 まさかと思い、なぜ否定せねばならないのかとも思う。それで何か問題か? いや問題とかそういう話でもなくて。だから――ああもう、何を考えているのかわけがわからない。

「まあ、なぜ相手がアレだったのかとは思うがな。お前を射止めるどんな魅力が彼女にあったのか、そこは大いに不思議だ。これといって目を引く特徴もなく、私は顔を覚えるのにも苦労したがなあ」

 それは表面的な話だ。彼女の内面はけっして平凡でも地味でもなく、興味を引いて当然のものだ。

 ――と、とっさに内心で反論せずにいられない自分にも気づき、私はまた混乱するのだった。

 そうなのか……? 私は、本当に……?

 認めたくないわけではない。だがあまりに衝撃的すぎて、気持ちがついていけなかった。

 その夜は動揺がおさまらず、あってはならないことに職務に集中できなかった。殿下の御身になにごとも起きなかったのがまったくもって幸いだ。

 そして私は、眠れぬ夜を過ごした。まるで、十代の少年のように。

 これが私の、あまりに遅すぎる春のはじまりだった。


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