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マリエル・クララックの婚約  作者: 桃 春花
マリエル・クララックの邂逅
19/27




 詳細は聞かされなかったが内密に行動すべき任務であると認識し、シメオンは王宮から目的地までの行動にずいぶん気を遣った。

 いったん自宅へ寄って愛馬から馬車に乗り換える。紋章の入っていない、いちばん地味なものを選んだが、天下のフロベール伯爵家所有の馬車だ。どこから見ても高級馬車であり、このまま市街地へ出向けば目立つとわかっていた。なので彼は途中で辻馬車に乗り換え、それも目的地より大分離れた場所で降りた。

 直接乗り付ければ馭者の記憶に残る。街の人込みにまぎれて歩き、さり気なく訪問するのがよい。そう考えて服装も地味なものに着替えてきた。帽子で金髪を隠しステッキを持ち、反対の腕には預かってきた封筒を。どこかの商人にでも見えるだろうか。

 ――と、本人は大真面目に努力しているが、事情を知る者が見たら笑うしかない状況だった。


 上官から受けた密命がじつはいたずらであるとも知らず、懸命に遂行する姿は愚かであり、憐れでもある。鍛えられた長身と姿勢のよさに、きびきびした歩調、並外れた美貌ときては人込みの中にあってもひときわ目を引く。どんなに頑張っても目立たずにはいられないのだが、そのことにいまひとつ自覚が足りないシメオンだった。

 自身の容姿を知らないわけではないが、男が美しいからといってどれほどの価値なのかというのが彼の認識だ。周りの女性に注目されても、幼い頃からそれが日常だったため気に留めないくせがついてしまっている。くわえて身を置くのが筋肉自慢ばかりな軍であるため、そこではたしかに目立たず、立っているだけで風景から浮くという認識は薄かった。

 シメオンにとって、不審のまなざしを受けなければ成功なのである。すれ違う女という女が振り返っても問題には当たらない。

 真面目すぎて馬鹿だった。のちに智略家と讃えられることになる彼だが、成長には上官の心優しき教育(イタズラ)も少なからず貢献していた。


 さて、そんなシメオンが気持ちだけはひそやかに、商業街から歓楽街へ向かう道にさしかかる。大通りと大通りをつなぐ道で、左右には商店よりも事業所の方が多い。外回りの仕事らしき通行人が多い中を彼も歩いていると、建物の間の細い路地から人が飛び出してきた。

 騒々しい足音にもちろん早くから気付いていたシメオンは、衝突を回避しようと身をかわす。ところが飛び出してきた男はぶつかると勘違いしてあわて、逆に彼が移動した方へ身体を向けた。


「うわぁっ!」


 悲鳴を上げながら突進してくる男にシメオンは眉を寄せる。これが老人や女性なら抱きとめたが、太った若い男(推定二十代なかば)となると親切心が起きない。持ち前の反射神経でさらに足を引き、きわどいところでかわしたが、封筒を持つ手が相手の手とぶつかった。


「あっ!」


 向こうも封筒を持っていたようで、シメオンの封筒と一緒に跳ねて路上に落ちる。必死の形相で男は飛びつき、拾い上げるやふたたび大あわてで駆け去った。シメオンに謝るどころか、一瞥すらも寄越さなかった。

 不愉快な気分をため息とともに吐き出し、シメオンは封筒を拾おうと膝を折る。仕事の約束に遅刻でもしていたのだろうか。あわてすぎて今度は馬車にでもぶつからなければよいがと思いながら封筒に手を伸ばす背後で、またやかましい足音が響いた。


「ブリス! 待ちやがれ!」

「サ、サティさん足早すぎっ……ブリスさんも意外に駿足ねっ」

「ですからお嬢様! 一緒に走らなくても!」


 嵐のようななにかが背後を駆け抜けていき、封筒を拾った彼が振り向いた時には遠ざかる背中が見えただけだった。

 遅刻ではなく鬼ごっこか? 庶民のすることはよくわからない。

 封筒についた汚れを払いながら立ち上がったシメオンだったが、そこで異常に気付いた。手の中の封筒は、彼が持っていたものと同じ色で大きさも厚みも変わらない。しかし糊付けされていたはずの口は開いており、糊のかわりに紐で結んで閉じられていた。表側の下部には出版社の社名が印刷されている。

 しまった――と、彼はまた振り返った。落とした封筒を間違って持っていかれたのは明白だった。


「なんということだ」


 男たちの駆けていった方へシメオンも走り出した。極秘書類(と彼は思っている)を紛失するなど、あってはならない事態だ。なにがなんでも追いついて取り戻さねばならなかった。

 訓練で鍛えた脚でもって全力を出せばまだ追いつける。シメオンは飛びそうになった帽子を押さえながら、向かいの路地に飛び込んだ。






 時間を少し遡り、ポールとマリエルたちがカフェで話していた頃に戻る。

 盗まれた原稿の行方に見当がついたとはいえ、確定したわけではない。原稿が捨てられた可能性も考慮して、まずは焼却炉を見にいくことになった。

 ポールは自分一人で調べるつもりだったのだが、なぜかマリエルが一緒についてきた。となるとナタリーもお供する。さすがにビドー男爵が野次馬根性を見せることはなかったが、孫娘を止めようともしなかった。


「あまり遅くならないうちに帰るのだぞ。ナタリー、しっかり監視を頼むぞ」

「かしこまりました、男爵様」


 いやそこは止めるべきじゃないのかと呆れるポールを置き去りに、彼らだけでさっさと話をまとめて別れてしまう。変わった令嬢の祖父はやはり変わっている。普通の貴族なら絶対に許さない場面だろうに、マリエルはじつに自由奔放だった。


「早めに見つかるとよいですね。お祖母様お手製のタルトが待っているので、お茶の時間に間に合うよう解決したいものですわ。昨年仕込んだ果物のリキュール漬けと濃厚なショコラクリームが絶品ですのよ。サティさんは甘いものはお好き? でしたらきっとお気に召しますわよ」

「いやなに普通に俺まで誘われてるかな。お貴族様のお茶席に庶民が割り込めるわけないだろ」


 少女二人を連れてポールは別の道から出版社へ戻る。今度用があるのは裏の焼却炉だから、社員の目につかないようこっそり近付く必要があった。


「大丈夫です、お祖父様もお祖母様もそんなこと気にされませんから。普段から研究者の方が出入りしていますし、貴族といってもそれはそれはささやかな暮らしぶりですもの。庶民の方とさほど変わりませんわ」

「んなわけねえだろ。サン=テール大学の学長つったら、給料もそこそこあると思うが」

「でも屋敷の維持だけでもけっこうお金がかかりますからね。お祖父様の研究にもお金をつぎ込んできたようですし。領地といっても猫の額ほどで、そこからの収入も本当にささやかですから、うち以上に質素な生活ですわ。でも折々のお祝いや贈り物は忘れずにくださるんです。今回も大人の仲間入りをする節目だからと言ってくださって。だから、いつかわたしの書いた小説で本を出せたら、まずお祖父様とお祖母様にお礼をしたいと思っていますの」

「そりゃあいい心がけだ」


 その日が本当に訪れるとよいのだが。ポールは笑う。マリエルの目指す道はポールの希望とも一致する。できればこの少女を、本当に一人前の作家にしてやりたかった。


「お祝いってなに買ってもらったんだ?」

「万年筆と手帳です!」


 子供の相手をする気分で尋ねたら予想外の答えが返り、ポールは一瞬反応に迷った。万年筆と手帳――入学祝いとかならふさわしいだろうが、年頃になった令嬢が社交界デビューするにあたっての贈り物としては、どうなのだろう。


「……それって、男爵様が選ばれたのか?」


 学者のじい様ならしかたないかと思って聞けば、マリエルは首を振る。


「いいえ、わたしがお願いして買っていただきました。ほら、これ」


 ナタリーの持つ鞄からきれいに包装されたものを取り出して見せてくる。そのうれしそうな顔を見れば、祖父をかばっているわけではないとわかる。


「なんでまた。社交界つったら、着飾ったお嬢様やかっこいい若様が集まるんだろ? よく知らんが、独身者にとっては結婚相手をさがす場所だって聞いたぞ。首飾りとか髪飾りとか、おしゃれ系のものにしてもらえばよかったんじゃないのか」

「お祖父様もそうおっしゃいましたわ」


 ならやらえらそうな顔でマリエルはうなずく。


「でもわたしにとって、いちばん必要なのはこれなのです。そう! 社交界といえば老若男女、あらゆる紳士淑女の集う場所! きっとそこではさまざまな人間模様が繰り広げられていることでしょう。子供には見られない大人の世界! 恋人たちだけではありません。かけひきや根回し、反目に対立。家同士の関係が複雑に入り組む世界です。それを間近に見られるようになるのです! お母様やお兄様にねだってお話を聞かせていただくばかりではなくなります。直接この目で人々の生きざまを観察できるのです。ああ、胸がときめく……いっぱいいっぱい取材して、もっともっと面白い話が書けるようになりたい。早くデビューしたい……!」


 熱く語るマリエルの後ろで、ナタリーが処置なしという顔になっている。ポールも脱力して笑うしかなかった。なにに胸をときめかせているのだ。普通は素敵な恋人とめぐり会う夢にときめくものだろうに。


「いや、でも、結婚相手をさがさないといけないだろ? 取材もいいけどさ」

「そこは考えていませんわ」


 夢を語る時とは反対に、マリエルは幼い顔に似合わない冷めた反応を見せた。


「だって、このわたしが頑張ったところで殿方に相手されると思います? さきほどサティさんもおっしゃったように、社交界には美しく華やかな令嬢がたくさん集まるのです。殿方はみんなそちらへ行って、わたしなどには目もくれませんわ」

「いや、そんなことは……」

「結婚に関しては、自分で努力しても無駄だと思います。それよりわたしは取材したいです。結婚相手はそのうち、お父様が適当な方を見つけてくださると思いますわ」

「さみしいこと言うなよ。自分の人生だぜ、それでいいのかよ」

「さみしくなどありませんわ。自分でよいご縁を見つけられれば最高ですけど、たいていは親の用意した縁談を受け入れるものですよ。社交界へ出るのは、顔見せのためですね。どういう娘がいるのか周知させるのが目的です。そして親同士が話し合って、あるいは知人の(つて)などで縁談がまとまるのです。みずから人脈作りに働くようになるのは結婚してからです。独身の娘があまり積極的に動き回るのは慎みがないと、逆に眉をひそめられますわ」


 説明するマリエルの顔にはいじけた表情もなげやりになっているようすもない。冷めた割り切りがあるだけだった。なるほど、貴族とはそういうものなのか。庶民の場合でも親が結婚相手を決めることは多々あるから理解できない話ではない。自由を許されているようでも、やはり彼女はお姫様だ。恋愛よりも家同士のつながりのための結婚を念頭に置いているのだろう。


「そんなもんか……」

「ええ。恋愛結婚がまったくないわけではありませんが、少数派ですね。だからこそ、皆様夢にあふれたお話を求めているのです。素敵な殿方と運命的な出会いをして激しい恋に落ちる。現実にはなかなかかなえられない夢を、物語の中で堪能したいのです。わたしはそんな夢いっぱいのお話を書きたいのです」


 現実をわきまえているからこその夢なのか、恋を知らないがゆえの夢なのか。どちらであるのかポールにはわからないが、マリエルは楽しそうだった。彼女から預かった原稿を思い出せば、たしかに女性の夢が詰まっていた。かなり現実ばなれしたおとぎ話に近い内容だったが、案外需要はあるのかもしれない。


「けど顔見せならなおのこと、目立つ必要があるだろうが。流行りのドレスとか髪形とかで誰より目立って、いい縁談が来るようにしなきゃいけないんじゃないのか」

「わたしがおしゃれしても限度がありますわ。どう頑張っても目立ちはしないでしょう。似合わない華やかな装いで悪目立ちすることならあるかもしれませんが、それは逆効果ですし恥ずかしくていやです」

「む、むむ……」


 どう言えばいいのか、ポールは困ってナタリーに目を向ける。いつも聞かされているのだろう、苦笑が返ってきた。


「うちのお嬢様はおしゃれを頑張ろうというお気持ちがないのです」

「変わってんな……女の子ってのはきれいな服着たがって、可愛くなりたいと思うもんじゃないのか。俺の知ってるお嬢様たちは――いや貴族じゃなくて庶民の金持ちだけどな、他の誰よりおしゃれして目立ちたいってのばっかだったぞ」

「貴族のお嬢様もだいたいそんな感じみたいですね。でもうちのお嬢様は例外なので」

「例外か……」


 二人から目を向けられて、マリエルは子供っぽく頬をふくらませる。


「別に、きれいなものも可愛いものも好きですよ。デビュー用のドレスはわたしの好きなスミレの刺繍が入っていて、レースやリボンで可愛いものにしていただきました。流行も取り入れています。でも、あくまでもわたしに似合う範囲です。それでよいのです」


 幼さと大人びた部分を同居させて、マリエルは持論を主張する。今はそう考えていてもいざ華やかな人々を目にすれば、自分も目立ちたいと思うようになるかもしれない。ここで議論する必要もないかとポールは肩をすくめた。


「まあ、あんたには結婚とかまだ早いしな。当分は好きなように頑張ってくれ――けど男側からいちおう意見を言っておくと、あんたはそう捨てたもんじゃないと思うぞ。見た目はたしかに普通というか、ちょっと印象が薄いけどな、こうして話をすれば可愛いと感じるよ。人はまず見た目につられるからそこも馬鹿にはできんが、次に惹かれるのは人柄だ。知性や愛嬌は外見より大事じゃないかな。最初から投げ出さずに自分でもいい相手をさがしてみろよ。あんたはけっこうもてそうな予感がするぞ」


 年長者としての助言を軽い気持ちで口にしただけだが、予想外にマリエルは大きな反応を見せた。驚いた顔になって足を止めてしまう。どうしたのかとポールも立ち止まって振り返れば、なぜかナタリーにまで同じ顔をされていた。


「なんだよ」


 まじまじとポールを見つめていたマリエルは、おもむろにナタリーに顔を寄せてささやいた。


「ねえ、サティさんってもしかしてけっこう女たらしかしら」

「かもしれません。お嬢様、気を許してはいけませんよ」

「聞こえてんぞ。なんで今のでそうなるんだよ」


 抗議すれば少女たちはじっとりと不審のまなざしを向けてくる。


「お上手を言おうとしたのではなく素でおっしゃったのなら、なおさら要注意ですわ。天然、そう、天然というものですね!」

「はぁ?」

「サティさんこそけっこうもてそうな男ぶりでいらっしゃいますし、じつは女泣かせとか」

「失礼なこと言うなよ! 人がせっかくはげましてやってんのによ!」

「ふふ、ありがとうございます」


 さっきまでにらんでいたかと思えば、急に笑いだす。少女にからかわれたと知ってポールは口元を曲げた。小娘のくせにやってくれる。

 鼻息をついて前に向き直れば、ちょうどその時近くの扉が開き、建物から人が出てきた。

 もう出版社の裏手まで来ていた。目的の焼却炉は塀の向こうだ。通用口から出てきたのは若い小太りの男だった。

 互いの姿に同時に気付く。これから作家のところへでも向かうのか、ブリスは鞄と大きな封筒を持っていた。


「……なんだ、まだこの辺をうろついてるのか」


 一瞬の驚きから立ち直り、ブリスは嘲りの言葉を投げかけてきた。


「まさか裏口から侵入しようとでもしていたのか? 往生際の悪いやつだな。いいかげんに諦めろよ、もうお前の居場所はないって言ってんだよ。ちょっと成績がいいからって思い上がってたみたいだが、お前のかわりなんていくらでもいるんだ。自分は特別みたいに考えるのはやめるんだな」


 せせら笑う男にマリエルが腹を立てた顔で踏み出そうとする。それを止めてポールは無言でブリスを見返していた。


「自分がどれだけ嫌われていたか、思い知っただろうが。みんなお前にはうんざりしていたんだ。やっといなくなったって喜んでるんだよ。そこへ無理やり戻ろうとしてどうすんだ? これだけ迷惑がられてまだ居座ろうと思えるのがすごいな。どんだけ図太くなりゃそんな真似ができるんだ」


 マリエルもナタリーも憤慨を隠さずにブリスをにらんでいる。しかしポールは冷静だった。

 追い出された直後であったなら、ブリスの言葉にさらに傷ついていただろう。落ち込むか頭に血を上らせてくってかかるかしていたに違いない。だがマリエルと再会し話をするうちに、そういう段階は通りすぎてしまった。彼女ののんきな明るさとビドー男爵の客観的な指摘がポールを救ってくれた。もうすべてを冷静に見つめることができる。ブリスの言葉には真実も含まれており、ポールにとって苦い話ではあるが認めて乗り越えなければならない。そして今なにより重要なのは言葉の内容ではなかった。


「あんまりしつこくしてると警察を呼ぶぞ。もうお前は部外者なんだ、勝手に押し込めば十分警察沙汰に」

「今日はよくしゃべるんだな」


 ポールは続く悪態を遮った。


「俺と口を利くのもいやだって態度だったくせに、今日はずいぶん愛想よくしてくれるじゃないか。お前がそんなにたくさん話しかけてくれたのははじめてじゃないか?」


 笑みも浮かべてみせれば、ブリスは鼻白んだ顔になって口を閉じる。


「フン――どいてくれ。無職になったお前と違って俺は忙しいんでね」


 ポールを押し退けて通りすぎようとする。ポールは邪魔をせず行かせ、通用口の扉を自分の背後に回した。ブリスが社内に逃げ込めないよう道を断った上で呼び止める。


「そりゃ悪かったね。失礼ついでに一つだけ聞かせてくれないか」

「あぁ?」


 苛立たしげにブリスが振り返る。ポールは彼が持つ封筒を指さした。


「それはどこから持ってきたんだ?」

「……なにを言ってる。これは」

「気がついていないのか? 馬鹿だな、せめて他の封筒に入れ換えるくらいしとけよ。みんな同じもの使ってるから間違える可能性があるだろ。だから俺はいつも、自分のだとわかるよう印を入れていたんだ」

「なっ!?」


 ブリスがあわてて手の中の封筒を見る。その隙にポールは一気に詰め寄り、彼の手から強引に封筒を奪い取った。


「あっ――貴様!」

「なんだ? 今の態度で白状したのと同じだろうが。ちなみに嘘じゃないぞ、ほらここに小さいがちゃんと印があるだろう」


 社名が印刷された部分をポールは示す。その横に押された「P」のスタンプは、わかって見ないと気付きにくいだろう。社用の封筒だからと油断してそのまま使っていたのが彼らの失敗だった。

 ポールとしても近くで見ないとわからないためはったりで言ったのだが、当たりで幸いだ。勝ち誇った態度とは裏腹にやけにしっかり封筒を抱えていたから、おそらく間違いではないだろうと踏んでのことだったが。

 引っかけられたと気付いたブリスは顔を紅潮させ、くやしそうに歯ぎしりした。

 

「で、こいつはどこから持ってきた? お前が俺の机から盗んだのか?」


 ポールは笑顔を消し、剣呑にブリスをにらんだ。


「お、俺は盗んでなんか」

「じゃあ誰が盗んだ? それをなぜお前が持っている?」

「…………」


 目に見えてうろたえはじめたブリスはせわしなく周囲に視線をめぐらせる。ポールの背後にも目を向けた。逃げ込むことは許さないとポールは仁王立ちで阻む。舌打ちを漏らしたブリスは、なにを思ったかいきなりマリエルへ向かって鞄を振り上げた。


「お嬢様!」

「馬鹿野郎なにをする!?」


 悲鳴が上がり、とっさにポールは二人の間に飛び込んだ。腕を上げて鞄を防ごうとしたが、それを狙っての行動だと気付いた時にはもう封筒を取り返されていた。


「ブリス!」


 鞄を放り出した男は鈍重そうな見た目に反して素早く身を翻す。追い詰められた者の必死さが力を与えたのか、ブリスは猛然と走り出した。


「この……っ、待ちやがれ!」


 逃がすものかとポールも地面を蹴る。そのあとをマリエルも追って走り出し、あわててナタリーがついてくるという大追跡がはじまったのだった。


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