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商業街の一角で一人の青年が理不尽に職を追われていた頃、郊外の王宮にある近衛騎士団官舎においても、一人の若き士官が辞令を前にしていた。
――シメオン・フロベール大尉を、少佐へ昇級させるものとする。
こちらは出世であり、喜んで受けるべきものである。しかし告知された青年は理知的に整った顔をぴくりとも動かさず、いたって淡々と事務的に拝命した。
「士官学校を出て五年足らずで少佐か。たいしたものだ」
辞令を伝えた上官は、白けた口調で皮肉を混ぜる。あまりおおっぴらに罵ることはできないが、気に入らないという態度は隠していなかった。
それはなにも彼にかぎった話ではない。軍に在籍する者なら誰でもこの人事に疑問を抱くだろう。士官学校卒業と同時に少尉の階級を得たところまでは他と同じでも、普通ならばようやく中尉になれるかといった年数ですでに少佐である。殉死による二階級特進でもなければありえない。なにがあってそんな――と該当者の名前を知り、そこで納得するのだ。国内外に知られた名門フロベール伯爵家の嫡男、そして王太子の腹心ときては、特別な配慮が働いていることは疑いようもなかった。
それゆえシメオンへ向けられる目は厳しいものが多い。近衛騎士団には貴族出身者が多いが、ここまで特別扱いされているのはシメオンだけだ。平民出身の軍人たちの不満はもとより、同じ貴族階級でありながら明確な差をつけられておさまらない連中が、あちらこちらで批判を口にする。中には面と向かって悪態をついてくる者もいたが、それらすべてに対し、シメオンは反論も言い訳もせず淡々と受け流していた。
言われるのは当然である。「えこひいき」で出世しているのはまぎれもなく事実なのだから。どんなに批判されても腹を立てる権利はない。「ずるい」のだと自分でも思っている。
シメオンは己の出世が名誉にあたらないことを認めている。認めた上で、受け入れていた。周りには申し訳ないと思うが、必要なことなのだ。無二の主君と思い定めた王太子のためには、できるだけ早く地位を上げ多くの権力を手に入れなければならない。馬鹿正直に時間をかけていられない。
こうした考えを意外な柔軟さと取るか、忠義ゆえ泥をかぶる愚直さと取るかは、意見の分かれるところだろう。当の本人はどのような評価をされようと意に介さず、日々鍛練と業務遂行にはげむばかりだった。
「よう、おめでとう、フロベール『少佐』」
団長室を出たところで待ち構えていたように声をかけられた。花形職にふさわしい見栄えのする制服を、わざとだらしなく着崩した中年男がニヤニヤしながらやってくる。なれなれしくシメオンの肩を抱き、女性たちからは「素敵なおじ様」と噂される髭面を寄せてきた。
「いやあ、早いねえ、もう少佐かあ。そのうち俺なんか追い越して、あっという間に元帥になりそうだな」
「副長、気を抜きすぎでは? 勤務中は『私』ではないのですか」
冷淡な表情が少しばかり崩れ、シメオンはうっとうしそうに眉を寄せる。団長の前では見せなかった素顔がかいま見え、からんできた副団長を楽しませた。
「あー、そうだなあ。堅っ苦しくて面倒臭いが、立場にふさわしい言動をしろとお偉いさんがうるさいからな。やー本当に面倒臭い」
「ついでにその制服もちゃんと着ていただけたら、誰もうるさく言わないと思いますが」
「やだね、陛下もいないのに窮屈な格好したくない」
子供みたいに言い返す上官に呆れた息をつき、シメオンは歩きだす。ポワソン副団長も当たり前の顔で隣を歩いた。
庶民じみたふるまいをするが、こう見えて彼も貴族出身である。フロベール家ほど格の高い家ではなく、また家督を継げない次男だが、貴公子と呼ばれるにふさわしい生まれだ。ところがこの不良中年ときたら、ことさらに反発してグレた思春期のごときふるまいをする。顔を見るたびに団長が青筋立てて叱責するも、どこ吹く風だ。規律と命令が絶対な軍隊において、よくこんな人物が野放しになっているものだとシメオンは思う。
そのままシメオンはポワソンに引っ張られ、彼の執務室へ連れて行かれた。
「で、進捗は?」
扉を閉じて周りの目と耳を遠ざけると、ポワソンは口調と表情をがらりと変えた。席につく彼の前に立ってシメオンは答える。
「癒着と不正の事例一覧、関係者一覧、まとめて保管してあります。証拠と証人も押さえました。すぐにでも告発できるだけの材料が揃っています」
満足げにうなずきながらも、少しばかりポワソンは眉を上げる。
「ずいぶん順調だな? 証拠はともかく、証人はそう簡単につかまらんと思ったが」
「団長のやり口に不満を抱く人間が、それだけ多かったということですよ。これまで黙っていたことで共犯者とみなされるのを恐れ消極的になっていましたが、証人として立てば処罰されないよう保護すると約束しました。無罪にはできない者たちにもどのみち逮捕されることを教えた上で、減刑を望むならば協力するよう説得しました。もちろん逃亡を防ぐべく監視させております」
「それは脅したと言わんか?」
「事実を伝えたまでです。副長や陛下の許可を待たず独断で交渉しましたが、いずれの者も罪は軽微です。そんなものを細かく追及するよりは、取り引き条件にして見逃してやった方が利は多いかと」
正しい意見だとポワソンも認める。独断と言うが、相談されてもうなずく以外の選択肢はない。シメオンは単に手間を省いただけで、彼や国王の意向に逆らったわけではなかった。答えのわかりきった質問をわざわざしなかっただけだ。
まったく有能な男だと顔には出さず感心する。名門伯爵家のボンボンなど、さぞうっとうしくも面倒なお荷物になるだろうと思っていたのに、顔を合わせてみれば正反対。頭がよく訓練にも熱心で、骨惜しみせず働き、常に要求以上の結果を出してくる。現団長とその一派を排除するための材料を集めろという密命にも、難しそうな顔を見せずあっさり応じてしまった。かつて海軍司令官を務めた先代フロベール伯爵から、そうとうな英才教育を受けたのだろう。
人柄もおおむね問題なかった。生真面目がすぎていささかとっつきにくいところはあるが、相手の身分や階級に関係なく誰とでも誠実につきあう好青年だ。ただ、とにかく堅い。若者らしい遊びなどまったくしないし、はめを外すこともない。可愛い女の子が通りかかってもその後ろのお年寄りを気にする始末だ。いや、それはそれで大変けっこうな心構えだが、二十三歳の男としてはもう少し人生を楽しむべきではないのだろうか。若い時期などあっという間に失われるというのに、おっさんになってから悔やんでも遅いのだぞと老婆心ならぬおっさん心で思う。
「そろそろ次の段階に入るべきかと。いつでも行動に移せますが、公表のタイミングはどうしますか」
優しい上官の心配など知らぬ若者は、今日の予定を確認するような調子で言う。次の行動とはすなわち、弾劾を開始するということだ。近衛騎士団の団長を告発し罷免へと導く計画は軍や王宮を騒がせるだろうが、そんな大がかりな仕掛けをしている興奮も緊張も見せない。するべき仕事の一つでしかないと言わんばかりだった。
ポワソンは引き出しを開け、大きな封筒を取り出した。大量の書類が入っていると一目でわかる厚みであり、重さだ。中身が飛び出さないよう糊付けして閉じたものをシメオンにさし出した。
「その前に、最後の仕事だ。これをとある場所へ届けてほしい」
「はい、どちらへ?」
シメオンは素直に手を出して受け取る。中身を気にするようすはない。なにが入っているのかとも尋ねなかった。
しかし届け先を聞くと、さすがに困惑が秀麗な顔に浮かんだ。
「は……?」
「あそこがどんな顧客を抱えているかくらいは、知っているだろう? 客の事情は一切漏らさんし、基本個室だから人の目につくことも少ない。極秘の取り引きにもってこいなのだ」
ポワソンは内心を隠していかめしい顔を装う。
「とはいえ、何度も通っていると噂になるおそれがある。私はしばらく控えた方がいいんで、お前に頼みたい。これからすぐに行ってきてくれ」
「は……承知しました」
もっともらしいことを言ってやると、すぐにシメオンは納得した。可愛らしくも愚かだ。どんなに信頼する相手の言うことであっても、無条件に頭から信じ込むものではない。
そう、これは上官からの愛を込めた教育だ。団長が罷免されポワソンがその後釜につけば、シメオンを副団長にしたいと考えている。時には団長代理も担う役職につくのだから、ただ真面目なだけでは困るのだ。
「制服は脱いで行けよ。それとお前には言うまでもないだろうが、勝手に封を開けて中を見ないようにな。向こうで一緒に見る分にはかまわんが、先に開封すると相手の信用を失う。そのままの状態で持っていくんだぞ」
「承知しました」
「店の者に俺の名前を伝えれば案内してくれる。お前はとりあえず、目立たないように行くことだけ考えればいい。相手とは特に交渉する必要はない、それを渡すだけだ。なにか要求されたなら、お前の判断で応じてかまわん」
「はっ、では行ってまいります」
「おう、頼んだぞ」
敬礼する若者を送り出し、一人になってようやくポワソンはにやりと笑った。さて、明日どんな顔で出てくるやら。想像すると楽しくてしかたない。くそ真面目なやつだからこそ、つつくと色々面白い。
部下思いの不良中年は明日の楽しい予想をしながら席を立つ。ひそかな共犯者たる主君にこの件も含めて首尾を報告すべく、彼もまた部屋を出ていったのだった。
力ずくで放り出され路面に尻餅をついたままの状態で、ポールはうずくまっていた。
腹の中は煮えくり返っているし、この格好が周りからはさぞ憐れで滑稽に見えるだろうことも自覚している。あちこちからの視線も感じていた。すぐに立ち上がり、なんでもない顔をして場所を移すべきだ。みっともない姿をさらしたくなければ、そうするべきだった。
だが、立ち上がることができなかった。
ポールの中に渦巻くのは怒りだけではなかった。こんな状況を予想することもできず、まんまとはめられた自分が情けなくてたまらない。編集長と衝突し嫌われても、仕事はきちんと頑張っていれば問題ないと思っていた。部内の誰よりもいい成績を出して社に貢献しているのだから、ちょっと面倒な変わり者というくらいの扱いで済むと思っていた。
なんて甘かったのだろうか。たとえ成績がよくても、追い出されることはあるのだ。ポールを嫌っていたのは編集長だけではなかった。騒ぎの最中、彼に向けられた目はどれも冷たくとげとげしいものばかりだった。テオだけは違ったが――しかし結局テオからも見捨てられた。誰一人、ポールの味方はいなかった。
そこまで嫌われきっていたことに気付かずにいた自分が、あまりにおめでたく馬鹿にもほどがあって情けない。なんて間抜けな男だろうか。仕事ができると、それなりに有能なつもりでいたのが笑うしかない。自分で自分を追い詰め孤立していったことに気付かず、みすみすこんな事態を招いてしまうなど。
馬鹿だ――自分は、本当に馬鹿だ。
情けなさに涙がにじみそうになる。
立ち上がる気力も出せずその場にへたり込んだままでいるポールの前を、足早に人が通りすぎていく。おかしな人間に関わり合わないよう、みんな彼を無視していく。浮浪者のように道端にうずくまり、無視され続けて、どれくらいしただろうか。
「……あのう、サティさん?」
通りすぎて行かず、彼の前で立ち止まる人がいた。
名を呼んだのは若い女の声だった。ポールはのろのろと顔を上げる。見覚えのない少女が心配そうに覗き込んでいて、彼と目が合うとうれしそうに顔をほころばせた。
「あ、やっぱりサティさんでしたね。こんにちは。どうかなさいましたか? お加減でも?」
誰だったろうかと、ポールはぼんやり見上げた。かなり身なりのよい娘だ。仕事で関わったことのある、どこかのお嬢様だろうか。しかしこんな娘と会っただろうか。多分十二、三歳くらいの、あまり美人とも言えない地味な少女だ。ポールの記憶にあるお嬢様たちは、どれも華やかな雰囲気の娘ばかりだったが……。
「サティさん? 大丈夫ですか?」
「……ああ、いや、失礼……ええと、すみません、お名前が出てこなくて」
忘れてしまったと正直に答えると、なぜか少女は怒るどころかうれしそうに破顔した。
「でしょうね! ほら、言ったとおりでしょう? 次にお会いしても気付かれないって。わたしの勝ちですわね」
「へ?」
忘れられたと知ってなぜ勝ち誇るのだ。よくわからない反応にポールは気の抜けた声しか出せない。少女はえらそうに胸を張って(そんな格好をするとない胸がますます平らになる。頑張って育ててほしい)名乗った。
「マリエル・クララックです。昨日お会いしたばかりの。顔は忘れても名前はまだ覚えてくださってますよね?」
あ――とポールの口が大きく開く。眼鏡の中の茶色い瞳が、いたずらっぽくきらきら輝いていた。
6巻が発売になりました。