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ポールもはじめから女性作家にこだわっていたわけではない。彼の父親はそれほど頭の固い人ではなかったから、激しい差別感情とは無縁だったが、特別女の肩を持っていたわけでもない。子供の頃には近所の女の子をいじめて泣かせたこともあるし(そのあと親から拳骨をくらった)、今も別に女性の地位全般の向上を目指しているわけではない。多くの少年同様、女はどうしたところで男にかなわないのだという意識で育ってきた。
そんなポールの価値観を大きく変えたのは、もう十年も前に出会った本だ。史実と実在の人物を扱い、そこにさりげなくオリジナル要素と架空の人物を混ぜて、歴史の中で翻弄されながら懸命に生きる主人公の姿が描かれていた。
人々の生き生きとした描写や歴史的な大事件がポール少年の心を躍らせたが、なにより珍しいと感じたのは、それが女性の目線を中心に書かれた物語であったことだ。しかも貴族や王族といった特権階級ではなく、田舎から都へ働きに出てきた貧しい少女である。そういった人物を主人公に据えながらも動乱の時代をしっかり描き、歴史上の有名人たちも活躍させている。非常に筆力のある作者だった。少なくとも、当初は世間も高く評価していた。迫力ある戦場描写や叙情的な心情描写も読み手を強く惹きつけ、全九巻という大作になった。
最終巻では主人公が夫と死別し、ふたたび一人で立ち上がるところで終わっている。それはそれで一段落ではあるが、いささかもの足りない印象も残る。九という数も中途半端だ。おそらくあと一冊書いて、真の結末へ向かうのであろうと思われた。
しかし、その後十巻が出ることはなかった。
九巻が発行された少しあとに、アンドレ・ルグランという名前しか知られていなかった謎の作者の正体を、とある新聞記者がついにあばき、じつはミレーヌ・フェリエという女性であったことが発覚したからだ。
そこで世間の評価は一気にひっくり返った。
男性が書いた小説だと思われていた時はさんざん誉めておきながら、女性が書いたと知るやけなしはじめたのだ。いわく、現実離れした夢見がちなおとぎ話だの、いかにも女らしく細かいことにばかりこだわっているだの、歴史の大きなできごとを台所規模で書いた駄作だのと、言いたい放題である。たしかに、農村出身の無学で貧しい娘が貴族の次男坊に見初められて結婚する、という筋書きはいささか荒唐無稽だが、史書ではなく小説なのだから多少現実離れしていてもよいではないか。女にとって都合のよい展開だと言うが、男が書けば男にとって都合のよい話になる。お互い様だ。物語を面白くする要素であるなら問題ないはずだとポールは思う。じっさいそういった作品は多いのに、この小説だけが叩かれる。理由は先に述べたとおり、作者が女だからだ。
もちろんそうした酷評をしているのはほとんどが男だった。彼らにとって、男より下であるはずの女にすぐれた作品を生み出す力があるなど、けっして認めてはならないことだったのだ。
女性読者の多くは支持を続けたが、本を作るのも売るのも男たちである。結果、幻の十巻はついぞ世に現れることはなく、作者のフェリエ女史もその後どうなったのか不明なままだ。
そうした騒ぎを目の当たりにしたポール少年は、大人はじつにくだらないことにこだわると呆れた。作者が誰であろうと、本など面白ければそれでよいではないか。あと少しで完結しそうだったのに、寸前で放り出された読者はどうすればよいのだ。なんてよけいなことをしてくれたのかと、元凶になった新聞記者に対して真剣に怒りを覚えたものだ。
以来、ポールには目標ができた。いずれひとかどの編集者になり、フェリエ女史を見つけ出してかならずあの作品の続きを書いてもらうのだ。自分の手で最終巻を世に送り出したい。声の大きな連中に押しやられ黙らざるをえないでいる、同好の士は多いはずだ。みんなで一緒に楽しみたかった。
だが世の中そう簡単にはいかないものだと、大人になって思い知らされた。大手出版社に就職し念願の編集者になれたまではよかったが、周りはやはり女を認めない男ばかりだ。ポールの考えなどまったく理解されない。女に肩入れし女の本を出したがるおかしな男、じつは女性化願望があるのではないか、などと嘲笑されるばかりだ。出版に関わる者ならば、たとえおおっぴらに公言できずとも、あの作品の価値は理解しているだろうと思ったのに、専門家であるはずの小説編集部ですら世間と同じことを言う。ポールは深く失望していた。
それでもどうにか突破口を作ろうと、いくつもの企画を提案してきた。小説雑誌に少しずつ、小さな記事でもいい、女性向けのものを掲載し間口を広げようと。今も女性の読者がいないではないが、大半は男性読者だ。まだまだ開拓の余地は大きい。もっと売り上げを伸ばすことができると言って編集長を説得しようとした。そんなところから男にも慣れさせて、いずれ女性作家の本を――と考えたのだが、やはり見込みが甘かった。
編集長にはすっかり嫌われ、今やろくでなしの役立たず扱いだ。本来の業務もきちんとこなし、編集部内の誰よりも売り上げに貢献しているというのに、嫌味を言われない日はない。
ポールにもいいかげんわかっていた。この出版社では、ポールの理想はかなえられない。彼らは理解していないというより、理解したくないのだ。古い価値観からはみ出して波風立てるのを忌避している。女性作家を売り出したり女性向けの記事を載せたりすれば、反発する男性読者も多いだろう。そこへあえて挑戦し、世間をひっくり返してやろうという意欲などない。今のまま手堅い商売を続けていればよいと考え、ポールの説得から目を背け、耳をふさいでいる。
どこかで、見切りをつけねばならなかった。このままではポールも周りも不快なままだ。だが退社したとして、その後どこへ行くのか。どこでなら目的をはたせるのか。そのあてもないまま収入を絶つことはできないと考える程度には、ポールも夢ばかりで生きられない大人になっていた。
少し夜更かししたせいで、眠い朝になった。
ポールはあくびをしながら階段を下りる。集合住宅ばかりなサン=テール市中心部に埋もれるようにして残る、もはや絶滅寸前というべき一戸建ての三階にある部屋が今の住まいだ。両隣にはアパルトマンが建ち、隙間に取り残された小さな家は今さら売ることもできない。母親と出戻りの娘が身を寄せ合い、亡くなった父親の遺産で慎ましく暮らしていた。
都会での暮らしはなにかと不安も多いということで、母娘はポールの下宿を歓迎してくれた。父と故人が知己であったという縁からだが、赤の他人の男には違いない。女二人と幼児だけの家に入れるのは抵抗もあっただろうに、快く住まわせ合い鍵まで持たせてくれた。食事の世話はもちろん、洗濯までしてくれる。それでいて家賃は格安だ。そうなるとポールとしても、彼女たちの親切にできるだけ報いたいという気持ちになる。仕事柄帰りが遅くなることもあるが、可能なかぎり早めに帰宅して、用心棒はもちろんのこと家の用事も手伝うようにしていた。
「おはよう、ポール。ゆうべは遅くまで起きていたようね」
台所兼食堂へ入れば、娘の方のグレースがエプロンをかけて働いていた。肉付きのよい身体をきびきび動かすのが気持ちよい。酒癖が悪く金遣いも荒い夫に愛想を尽かし、五歳になったばかりの息子を連れて出戻ってきたわけだが、いつも元気でほがらかな、いじけたところのない人物だった。
ポールより七つも年上なだけに、異性として意識されることはあまりないようだ。いいところ弟だろう。いや、もう一人の息子くらいに見られているかもしれない。変に意識されないのは気が楽でよいが、五歳の幼児と同列に扱うのは勘弁してくれと思うポールだった。
「あー、ちょっとな。おっ母さんは?」
「マルセルが熱出しちゃったんで、見てもらってるわ」
「ひどいのか?」
古い椅子を引いて座るポールの前に、ベーコンと卵の皿が出される。少し硬くなったパンは昨夜の残りのシチューにつけて食べれば、十分に美味しい朝食だ。
「大丈夫よ、よくあることだから。半日も寝てれば落ち着くと思うけど、昼になってもだめならブルトン医師に診てもらうわ。今日は遅くなりそう?」
「どうかな。早めに帰れそうならマルセルに飴でも買ってきてやるよ。遅くなったらいつもどおりしっかり鍵かけて、先に寝ててくれ」
「ありがとう。それ聞いたら速攻元気になりそうね」
コーヒーを注ぐグレースは、やはり明るい笑顔だ。ポールも笑って受け取り、かたわらに置いた封筒を思い出した。
「そうだ、よかったらこれを読んでやってくれないか。単純に読者目線の感想がほしい」
マリエルから預かった原稿の封筒を押し出すと、グレースは少し意外そうに尋ねた。
「部外者に見せちゃっていいの?」
「これは仕事の原稿じゃない。持ち込みに来たやつから預かったんだ。俺も読んだが、女性の感想を聞く必要があると思うんでね。世辞も気遣いもいらんから、読んで思ったままを聞かせてくれないか」
重ねて頼めば、グレースはうなずいて封筒を取り上げた。
「わかったわ。急ぐ?」
「そうだな、明後日に会う約束してるんで、できればそれまでに」
「いいわよ、ただで読めるなんてありがたいし」
庶民にとって本は贅沢品だ。立派な装丁の単行本となると値も張るので、裕福な者しか買えない。比較的安価な雑誌や新聞を買って連載小説を読むか、貸本屋で借りるのが一般的だった。
そのあたりにも、新しい商売の道があるのではとポールは考える。金持ち向けの本ばかりでなく、もっと気軽に買える本を作るべきだ。安くて面白い本がたくさん出れば、文字を覚えたいと思う者も増えるだろう。識字率の向上は出版社にとって願ってもない話なのに、そういった検討が社でなされることはない。貧乏人相手の商売を考えるより、貴族や富裕層に向けた商品を売り出す方が稼げるというのだ。
それも一つの経営戦略として、間違ってはいないのだろう。だがポールは、本とは人を楽しませるために存在するものだと思っている。あるいは知識を与え、または救いとなり。読み手の心に訴えかける力を持つものだ。なによりも大切なのは内容であって、金持ちが財力をひけらかすための小道具ではないと言いたい。
「昨日の新聞に大きな詐欺事件のことが載ってたけど、ポールのとこじゃそういうの調べないの?」
「俺たちが売ってるのは新聞じゃなくて小説だぜ」
「知ってるけど。雑誌にはそういう記事も載せるんでしょ?」
「どうだろうな。編集長の気分次第かな」
コーヒーを飲み干してポールは立ち上がる。その編集長と今日もまた顔を合わせなければならないと考えると、爽やかな朝も一気に憂鬱になった。だがぐずぐずしていられない。手早く支度を済ませると、彼は勤勉なる社員として仕事場へ向かった。
いつものように挨拶をしながら自分の席へ向かう。荷物を置いてまず手を伸ばしたのは、昨日原稿をしまった引き出しだ。今日から印刷の段取りに入る。まずはどういった体裁で本にするのか、すべてのレイアウトを指定する必要がある。その担当者に渡すため、引き出しから取り出そうとした。
「……?」
引き出しの鍵を開けようとして、ポールは眉を寄せた。鍵を回せない。昨日しっかり施錠して帰ったはずなのに、鍵は開いていた。
かけたつもりで、忘れていたのか? いいや、たしかにきちんと鍵を回した。覚えている。同僚と話をしながらだったが、鍵のかけ忘れなどしていない。引き出しに手をかけて、確認までしたのだ。間違いない。
どういうことなのかわからないまま、引き出しを開ける。不安は明らかな形になって現れた。そこに入っているはずの封筒がなくなっていたのだ。
馬鹿な、とポールはあわてて他の引き出しも次々引っ張った。鍵のない普通の引き出しには、筆記具や書類など、仕事道具が詰まっている。原稿を入れるはずがなく、引っ掻き回してさがしても当然出てこなかった。
どうなっているのだ。まさか、盗まれたのか?
愕然とポールは顔を上げる。ただならぬようすの彼に、周りも注目していた。ポールは隣の席にいる男にまず声をかけた。
「ブリス、昨日俺が帰ったあと誰かここで作業していたか? 引き出しを開けてるやつがいなかったか?」
「……さあ、知らないが」
小太りの編集は、迷惑そうに眉を寄せて冷たく返す。かまわずポールは次々他の編集にも尋ねて回ったが、返る言葉は同じだった。誰も知らない、異常など見ていないと言う。他に盗難が起きていないか尋ねても、それらしい痕跡はないという返答しか得られなかった。
「なにを騒いどる。原稿をなくしたのか、ポール」
騒ぎを聞きつけた編集長がやってきて、ポールを叱りつけた。
「違います、盗まれたんです。昨日ここに入れて、鍵をかけて帰ったのに、今見たら鍵が開いていたんですよ!」
「他はなにもなくなっとらんのだろうが。だったらお前の勘違いだ。もしくは、盗まれたことにしてなくしたのをごまかそうという腹か?」
「勘違いなものか! たしかにここに――テオ、お前も見たよな!? 昨日俺はここに原稿をしまっただろう!?」
いきなり尋ねられた昨日の同僚は、驚いたのかびくりと肩を揺らした。ポールと編集長の顔を見比べ、気まずげに目をそらす。
「さあ……なにか入れたのは見たけど……」
「原稿だって話をしてたじゃないか!」
「は、話はしたけど、中身は見てないし……本当に原稿だったのかどうかは、わからない……」
「……テオ?」
いつになく歯切れの悪い口調に、ようやくポールは気付いた。おかしい。彼は困惑しているのではなく、なにかを隠している。いつもなら真っ先にポールに駆け寄り心配してくれるのに、目をそらして口ごもるばかりだ。それは、うしろめたいことがあると、白状しているようなもので。
「テオ――」
「ポール!」
詰め寄ろうとしたポールを、編集長の強い声が引き止めた。
振り向く彼に、編集長は威圧的に言い放つ。
「それみろ、やっぱりお前がなくしたんだ。隠すために盗まれたふりをしているんだろうが」
「違う! なくしてなんかいない! 昨日たしかに受け取って持ち帰ったんだ!」
「作家から預かってきた大事な原稿をなくすとは、とんでもないことをしでかしたな。どう始末をつけるつもりだ?」
「だからなくしたんじゃないと――」
「よけいなことばかり考えるからこうなるんだ。真面目に自分の仕事にだけ励んでいればよいものを、誰も頼んどらんことを勝手に企画して、やるべきことをおざなりにするからいかんのだ」
「なにを言って……俺はちゃんと仕事しています! いいかげんにしたことなんかない!」
五十がらみの編集長は、ひげの口元をゆがめてせせら笑った。
「それで? いったいどうする気なんだ? もう一度書き直すよう作家に頼んでくるか? 締切は伸ばせんがな」
「そんな……」
いくら嫌いな部下相手だからといって、あまりに一方的で理不尽な言葉にポールは絶句する。個人的な失敗だけでは済まされない、彼こそ責任者としてあわてなければならない状況だ。それなのにポールの失敗を喜ぶようにニヤニヤ笑うばかりで、いったいなにを考えているのか――と思いかけて、ポールは悟った。そうじゃない、これははじめから予定されていたやりとりだ。なにが起こるかあらかじめ知っていて――いや、そもそも原稿を盗んだのは。
「…………」
およそ理解しがたい事態に、頭が白くなった。勝ち誇って笑う編集長を、ポールはただ愕然と見つめる。いくら、いくらポールが気に食わないからといって――クビにしたくてたまらないからといって――そのためになにか仕組むにしても、まさかこんな手段を取るなんて。
白くなった頭に熱が上ってくる。腹の底からも煮えたぎるものが噴き上げた。抑えることなど考えられず、ポールは踏み出していた。
「それでも編集者か……いくら俺が目障りだからって、やっていいことと悪いことがあるだろう。作家が精根込めて書き上げた原稿を、なんだと思ってるんだ!?」
「なんの話だ? お前の失態を人のせいにするんじゃない」
「ふざけるな! 何度も何度も手直しして、やっと完成させた原稿なんだぞ! 作家にとってはただの商品じゃない、自分の分身みたいなものだ。あんたも編集者なら知ってるはずだろう。よくもそれを……返せ! 原稿はどこにある!? 返せ!」
「ポール! よせ!」
編集長につかみかかったポールを、あわてて同僚が引き剥がす。編集長は鼻を鳴らし、乱れた襟元を直した。
「なんの証拠もなく人を泥棒扱いするとは、お前こそふざけとるな。鍵をかけていたというなら、誰も手出しできんはずだろうが」
「あんたなら合い鍵を持ってるだろう! なくたっていくらでも作れるさ、俺がいない時に型を取ればいいだけなんだからな!」
「はっ、そんな言いがかりが通用するならいくらでも犯人が作り出せるな。いいかげんにしろ、原稿をなくしたのはお前だ。それを他人のせいにして責任をなすりつけようとは、反省のかけらもないな。これまでさんざん反抗的な態度を取るのにも目をつぶってきてやったが、さすがにこれは見逃せん。お前はクビだ。ここで働かせることはもうできん、クビだ!」
「ああ、けっこうだ!」
ポールは同僚を振り払い、かたわらの机を拳で殴りつけた。
「俺を追い出すために原稿に手を出すようなやつの下で、これ以上働けるもんか! 編集者の誇りも良心も捨ててどんな本を作り出すつもりだ!? クビでけっこう、今すぐ出ていってやる! だがその前に原稿を返せ! あれは俺のものでもあんたのものでもない、作家の作品なんだ! 信頼して預けてくれた作家に申し訳ないと思わないのか!? 返せ!」
「――おい」
怒りをぶつけるポールにはもうかまわず、編集長は他の部下にあごをしゃくって命じた。
「追い出せ」
「原稿さえ返せば、わざわざ追い出さずとも自分から出ていってやるさ! だから原稿を――」
「ポ、ポール、もうやめろって」
「テオ、お前はこんなことを許せるのか!? 良心は痛まないのか!? ブリス、ダニエル、みんなも……っ」
ポールは室内を見回して同僚たちに訴える。だが返ってくる視線はひどく冷たいものばかりだった。
すぐそばのテオ以外、誰も動揺など見せず白けた顔で眺めている。編集長への疑いや反感を見せるどころか、ポールこそが悪いと言わんばかりの反応だ。みんなポールが原稿をなくしたと思っているのか? だとしても、少しくらいは驚き、困惑してもよさそうなものだ。こうも冷やかに、落ち着いて見物しているなど尋常ではない。怒り狂っていたポールの頭にも少しばかり冷静な思考が戻り、編集長一人が敵ではないのだと理解させた。そうではない。この編集部の全員が――テオは違うとしても、他の連中はみんな、ポールをうとましく思っていたのだ。
編集長の指示に従い、二人ばかりがポールに近付いてくる。声をかけてなだめることすらせず、問答無用で両脇から腕を抱えて引きずった。ポールの抗議など完全に無視された。
外へ連れ出されるポールに、編集長の声が楽しげに投げつけられる。
「退職金は当然出んからな。お前の不始末なんだから、作家への弁償もお前が責任を持って負担してもらおうか。申し訳ないと思ってるんだろう? 『良心』があるなら拒否なんぞせんよな? きっちり請求書を作ってやるから、金を用意して待っていろ」
「――くそったれ、この恥知らずがぁっ!!」
わめきながら引きずられるポールに驚く者、おかしそうに見物する者、さまざまな視線を集めながら連れ出される。たまたま目撃した来客が、気難しげな顔をさらにしかめた。
「あれは、なにごとかね」
一緒に廊下を歩いていたのは、この出版社の社長だ。なにごとかと聞きたいのは彼の方だった。
「いや、騒がしくて申し訳ございません。多分苦情でも言いにきたやつでしょう」
内心の焦りを隠して適当なことを口にする。こっそり部下に目配せし、調べに行かせた。
「雑誌など作っておりますと、内容に文句をつけにくるやつがたまにいるのですよ。ほとんどはただの言いがかりなんですがね」
「…………」
身なりのよい老紳士は、社長の言い訳をどう思ったのか、遠ざかる騒ぎを黙って見送る。その後社長は事情を報告されることになるのだが、詳しい調査を命じるわけでなく、もちろん編集長を叱責もしなかった。下っ端の社員一人をクビにしたと聞いたところで、いちいちかまっていられないのだ。ポールの処分は事務方に一任され、社長の頭からは早々に忘れ去られた。
外の道へ放り出されたポールに、今日持ってきた鞄だけが投げられる。机に残してきたものを取ることも許されず、目の前で音を立てて冷たく閉ざされた扉を、ポールは唇を噛んでにらむばかりだった。