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なじみのカフェでコーヒーを注文し、マリエルと名乗った少女にはケーキもおまけして、ポールはずしりと重みのある封筒を受け取った。これはなかなかの長編だ。今ここで全部読むことは無理だろう。
「読みにくかったら申し訳ございません。どういう書き方をすればよいのか、わかりませんでしたので……」
マリエルはそう言ったが、字はきれいに整っている。使われている紙には罫線が入っており、それに沿って書かれているから行の間隔も揃っていた。じつに読みやすい。
「こりゃいいな、こんな紙どこで手に入れたんだ?」
大きくした便箋みたいだ。小説の原稿はもとより、事務仕事にも使えそうな品である。編集部の連中に見せれば飛びつくだろう。
「うちで使う便箋を印刷してもらっているところへ特注して、作ってもらいました」
「……ほー」
市販品ではなかったのか。それでは導入が難しい。
ポールは指で紙をなで、上質な手ざわりをたしかめた。
この品質を当たり前に使うのか。専用の便箋をわざわざ作るとか、並大抵の家ではなさそうだ。いや、金持ちなのは最初からわかっているが、それにしても。
ちらりとマリエルへ目を向ければ、期待と緊張を浮かべてポールを見守っている。カチコチな姿におかしくなって、笑いがこぼれた。
「お茶が冷めるぜ。ケーキも食べなよ」
「あ、はい。ありがとうございます、いただきます」
うながしてやると目の前にあるものを思い出して、ようやく手を伸ばす。フォークで切り分けたケーキを楚々と口元へ運び、美味しそうに顔をほころばせる。次にカップを取り上げ、お茶を飲むしぐさもまったく上品だった。
まいったな、とポールは声に出さずつぶやいた。これはかなり深窓の令嬢だ。金持ちは金持ちでも、そこらの成金とは違う。ポールの知っている「お嬢様」たちは、上品な自分というものを意識して演出していた。美しく装い、品や教養があるところを見せつけて、一般の娘とは違うのだと誇示している。そんな意識を持つことじたいが、本物になりきれていない証だ。
ここにいる少女はまぎれもなく「本物」だった。けして華やかな身なりではなく、本人もいたって地味な外見だ。しかし身にまとう雰囲気やふるまいは洗練され、しぐさの一つ一つが自然と品をそなえていた。これみよがしな気負いがない。マリエルにとっては当たり前のことで、他人に誇示するようなものではないのだろう。
どう考えても一人で街中をうろつくような娘ではなかった。このあとどうすればよいのかと、手にした原稿以外のことが気になってしまう。ここではいサヨナラと放り出すのはあまりに心配だ。といって、仕事中に家まで送り届けるわけにもいかない。あまり長く社を開けると、そのまま自分の席がなくなりそうだ。ただでさえ編集長から嫌われているのだから。
ため息を隠しながらポールは原稿に目を走らせる。最初の数枚だけをざっと読んで、あとは見ずに封筒へ戻した。
それを誤解したようで、マリエルの表情がしおれた。
ポールはまた笑い、自分のコーヒーを口に運んだ。
「これだけの長さだ、今全部読むことはできない。持ち帰ってじっくり読ませてもらっていいかな?」
「――はいっ? は、はい! もちろんです! ありがとうございます!」
しょげたり喜んだり、忙しいことだ。くるくる変わる表情が楽しい。たちまち元気を取り戻したマリエルに、ポールは言った。
「返却と感想は後日ということになるが、また出てこられるかい? 親御さんに内緒でないのなら、俺がそっちの家へ行ってもいいんだが」
「とりたてて秘密というわけではありませんが、わざわざ足を運んでいただくのは申し訳ありませんわ。大丈夫です、出てきます」
「……本当に大丈夫なのかい」
「はい!」
いい笑顔で大きくうなずくのが、かえって不安を煽る。ポールはカップを置いて表情を引き締めた。
「今日はどうやって帰る気だ?」
「え? 普通に辻馬車を使いますけど」
「馬車を使うほど遠いわけか。それでなんだって一人で出てきたんだ? あんたは付き添いなしに出歩くような立場じゃないはずだろう。家の人は承知してるのかい。黙って抜け出してきたんじゃないのか。だとしたら、次の約束なんてできないぞ」
真正面から叱られて、マリエルは驚いた顔になる。少し首をすくめ、上目づかいになって言い訳しだした。
「その……一応出かけることは言ってきましたが……行き先は言いませんでしたので、家の者は近所を散歩していると思っているかも」
「それを抜け出したって言うんだよ!」
「大丈夫です! わたしが歩いていても、誰も注目しませんから! 人込みにまぎれるのは得意です。風景の一部になって存在に気付かれず、誰の記憶にも残らない自信があります!」
「いらねえよそんな自信! たしかにそんな感じだけどな!」
ついマリエルにつられて声を高めてしまい、ポールは咳払いして姿勢を戻した。驚いて目を向けてくる店員に、なんでもないと手を振る。
「次はちゃんとお供を連れてきな。それなら会うと約束してやる」
「ええー……一人でないと風景に同化できないのですが」
「しなくていいだろう別に」
どうにも調子が狂う。深窓の令嬢が浮世離れしているのは当然だろうが、この娘はまたなにかが違う気がする。
どうにかマリエルに承諾させて、ポールはコーヒーを飲み干した。
「じゃあ……そうだな、三日後はどうだ? 仕事が休みなんで、ゆっくり時間が取れる」
「わざわざお休みの日によろしいのですか?」
「仕事でやるには、上の理解がないと無理なんでね。あんたが男ならなにも問題なかったが、女の子と話をするって言っても仕事扱いはしてもらえない」
「……申し訳ございません」
「あんたが謝ることじゃないよ」
ポールは明るく笑い、預かった封筒を指ではじいた。
「俺がやりたくてやってることさ。ざっと見た感じ、なかなか上手い文章だし導入のしかたもいい。とりあえず先を読もうって気になる原稿だ。これをどう展開させて、どう話をたたむのか、それは読んでみないとわからないが、その年でこれだけ書けるのは立派だと思うよ。って、そういえば聞いてなかったな、何歳なんだい?」
今さら気付いて尋ねると、マリエルはなにやら姿勢を正し、すまし顔になった。
「来月十五になります。大人の仲間入りをしますの」
「いや、十五で大人と言われても」
苦笑すれば、むっと頬をふくらませて反論してくる。
「まあっ、だってわたし、この春から社交界にデビューしますのよ。国王様や王妃様に拝謁できるようになるのです。最初のご挨拶だけですけど……多分即座に忘れられるでしょうけど」
「ははは、そりゃあすごい――って本当にすごいな!? まさかと思っちゃいたが、やっぱり貴族かよ!?」
「あ」
つっこまれてようやくマリエルは口を押さえる。視線をそらし、おほほとわざとらしく笑った。
「いえまあ、貴族にも色々おりますから。わが家は地位も歴史も財産もなく、絵に描いたような中流ですので、銀行家のフォーレ氏や不動産王のドルリュー氏などの方が、はるかにお金持ちで権力もお持ちですわ」
「詳しいな!? じゃなくてごまかすな。ったく、お姫様がよく一人で街まで出てきたもんだ。なんか慣れてそうだし、多分はじめてじゃないよな?」
「先に申しましたように、わたしが一人で歩いていたら、誰の目にも留まりませんもの。存在を認識されなければ誘拐にも強盗にも遭いません。家族もそれを知っていますから、あまり気にしないのです。サティさんはよくわたしを見つけられましたね?」
「いや、そりゃあ出て行った直後だったし、すぐ近くにいたし」
「多分、三日後にお会いしても気付かれないと思いますわ。なんなら賭けてみます?」
真面目に提案されて、ポールは深々とため息をついた。見た目は地味だが、中身はとんでもない娘だ。貴族とはみんなこうなのだろうか。いや、違うはずだ。知らないが、多分これは貴族の中でも変わり者のはずだ。こんなのが標準だとか言わないでほしい。
まあ、変わり者で行動力があるからこそ、出版社に持ち込みをしようなどと決意したのだろうが。
貴族なら使用人でも使って届けさせるのが普通だろう。いや、自分の屋敷に編集を呼びつけるかもしれない。断られることなど考えず、出版されて当然だと信じていてもおかしくない。世間知らずのお嬢様ならなおのこと、無邪気に傲慢なものだろう。
マリエルは自分の足で歩いて出版社を訪れた。断られても命じるのではなく、懸命に頼み込んでいた。それだけで好感が持てる。そして思いつきの遊びではなく、真剣に小説を書いたのだと悟らせる。
ポールはあらためて手元の封筒を見下ろした。貴族だろうとなんだろうと、真面目な熱意にはこちらも真面目に応えたい。もし、この原稿が出版できる水準のものであったなら――編集部に持ち込んでもまず取り合ってはもらえないだろうが、なんとか連中を黙らせて出版する方法はないものだろうか。
一つ、手がないわけではない。ただ、それは危険と隣り合わせだ。失敗した時にどうなるか、ポールはよく知っている。安易に使うことはできなかった。
その後二人は三日後の細かい約束をしてカフェを出た。ポールはマリエルが辻馬車に乗るところまで付き添い、見送ってやった。一抹の不安は残るが、よほど運が悪くないかぎりこれで無事に帰れるだろう。次はちゃんとお供を連れてくるよう重ねて言い聞かせたが、今日のできごとを正直に報告したらさすがに親に叱られて外出を禁じられるかもしれない。名刺を渡しておいたので、そうなったら手紙でも寄越してほしいものだ。
それからは担当の作家を訪問して原稿を受け取ってきた。ポールをクビにしたくてたまらない編集長は、いやがらせで売れない作家ばかりを担当させる。売り上げが悪いのはポールの腕が悪いせいだと言って、クビに持ち込みたいのだ。しかしポールが担当する作家は次々売れだし、会社に利益をもたらすようになった。その評判を聞いて、自分も担当してほしいと願う作家が続出するほどだ。編集長はけしてポールを有能と認めず査定もわざと低くするが、明確な実績があるため苦々しい顔をしながらもクビにできずにいるのだった。
「ようやくお戻りか。ずいぶん時間をかけて、どこまで取りに行っていたんだ? ラビアか?」
編集部へ戻れば、さっそく上司の嫌味が飛んできた。隣の国まで行ってきたのかと言われ、ポールは「その向こうのイーズデイルですよ」と返す。編集長はフンと鼻を鳴らした。
「女の尻を追いかけて行ったそうじゃないか。仕事中にいい度胸だな」
「おや、ご存じないんですか? イーズデイルの元首は女王ですよ」
「ほおう、女王陛下に拝謁してきたのか」
「ええ、気さくで愉快なお方でしたよ」
また鳴らされる鼻も舌打ちも無視して、自分の席につく。マリエルから預かった原稿は鞄にしまい、出版予定の決まっている原稿の確認をはじめた。それが終わると、印刷の手配や広告の検討だ。作家が頑張って良作を書いても、それだけで売れるとはかぎらない。世間に周知し購買意欲をかきたてるのは出版社の手腕にかかっている。他の編集も力を入れる部分だが、ポールの考える宣伝は効果があって実績に一役買っていた。
上がりの時間が近づくと、同僚が早くも机を片付けて寄ってきた。
「ポール、今夜の予定は?」
「まっすぐ帰宅」
「つまらんやつだなあ。独り暮らしだろ? 恋人もいないんだよな?」
「ほっといてくれ。大家さんのシチューは絶品なんだよ。なにがなんでも今夜は帰る」
時計を確認し、ポールも帰り支度をはじめる。
「シチューもいいが、飲みに行かないか? 可愛い子のいる店を見つけたんだよ」
「悪いな、急いで読みたいものがあるんだ」
また今度にしてくれと言うと、同僚は意外そうに眉を上げた。
「まだ原稿できあがってないのか? そろそろ印刷に回さないとまずいだろう」
「いや、仕事とは別で。これはもう次の工程へ回すよ」
仕事の原稿は鍵のついた引き出しにしまい、鞄を持って立ち上がる。明日から印刷工程だ。装丁の指定などは別の部署が担当するので、ポールの仕事は一段落である。
「仕事以外の原稿って……そういや、今日若い女が持ち込みに来たって聞いたけど、まさかそれか? お前まだ女の作家を生み出そうなんて考えてんのか。無理だってば」
呆れた調子で言ってから、同僚は編集長のようすを窺い、声をひそめてささやいた。
「そりゃ、中には器用な女もいるかもしれないぜ? けど女の書いたものなんて売れるわけないだろ。読む前に駄作だって決めつけられて、見向きもされないのがオチだ。だからボスも反対するんじゃないか。出来不出来に関係なく、絶対に上が許可を出さないよ。いいかげん諦めろよ。いつまでもこだわってると、いくら実績があったってしまいにゃクビになるぜ」
この男は社内でいちばんポールと仲がよく、心配して言ってくれているのはわかる。悪意もなく、ポールの考えをある程度理解もしてくれる。だが言うことはこれだ。努力するのは無駄だと、最初から決めつけている。ポールは首を振って同僚に背を向けた
。
「じっさいに売れた過去があるんだがな」
「知ってるよ。けど売れたのは男の名前で出してたからだ。じつは作者は女だったって発覚したらどうなった? あっという間に世間の評価はひっくり返って、続きなんか出せなくなった。それが答えだよ。女の書いたものは売れない。俺たちのやってることは商売なんだ、売れないものを扱うことはできないよ」
編集長が怒った声で同僚を呼んだ。こちらの話が聞こえたわけではないだろうが、ポールと話し込んでいるのが気に入らないのだろう。八つ当たり気味に仕事を言いつけられて、同僚が飲みに行けるのはもう少しあとになった。少しだけ申し訳なく思いながら、こちらにも攻撃が来ないうちにポールはさっさと逃げ出す。外へ出れば夕焼け空が広がっていた。
少し前までは同じ時間に出ても真っ暗だったのに、ずいぶん日が伸びたものだ。三月もなかばとなれば重たいコートも不要になるが、夜はまだ寒い。ポールは冷えないうちに下宿への道を急いだ。
同じように家路をたどる人々の中を歩きながら、同僚の言葉を反芻する。彼の言ったことこそが、ポールが編集者を志すきっかけであった。
女であることを隠し、男の名前で出版する。それが現状、唯一の抜け道だ。作品の出来さえよければ、それで売ることができる。だがもし、女だとばれたら――
もう十年も昔の騒ぎを、今でもはっきり覚えている。けして忘れられない、そして諦められないできごとだった。




