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二十三歳の若き編集者ポール・サティ氏は、かねてからの不満が爆発寸前であった。
彼が勤める出版社は、ラグランジュ王国でも名の知れた大手企業だ。雑誌や小説だけでなく、学術書なども発行している。経営は順調、社員の給料もよい。ここに勤めているというだけで社会的信用を得られるほどで、ポールも採用が決まった時は己の幸運を喜んだものだった。
しかしそれから数年、日々ままならないものを噛みしめている。
この日も懸命にまとめた企画案を罵倒とともに編集長から突き返され、憤懣やるかたない気分で靴音も荒く階段を下りていた。まだ勤務時間内だが、とてもおとなしく自分の机に戻る気にはなれない。適当な用事を口実に職場を抜け出し、行きつけのカフェで気分転換でもしてこようと思っていたところだった。
「お願いします、一度見ていただくだけでも」
一階まで下りてきた時、受付からやけに必死な女の声が聞こえてきた。もめごとの気配に、視線がそちらへ向かう。おとなしい紺色のドレスと、帽子の下から流れ落ちるまっすぐな茶色の髪が目に入る。声や背格好からして、かなり若い女だろう。追い返そうとする事務員に、懸命に食い下がっていた。
「だから、うちはそういうのやってないって」
「いいえ、わたし募集の記事を見ました。持ち込み随時受付中と書いてありましたもの」
「いや、だからね」
受付の男は見るからにうんざりした顔で、横柄に言い返す。
「ちゃんと紹介状持ってこないと。いきなり来られても困るんだよ」
「紹介状が必要とは書いてありませんでしたが……どういった方からの紹介が必要なのでしょう」
相手にまるで取り合う気がないのはわかるだろうに、娘は諦めず問い返す。事務員は聞こえよがしに舌打ちし、警備員に目配せして呼び寄せた。
「さあほら、もう出てって。仕事の邪魔だよ」
「待ってください、わたしもお仕事のお話を」
「子供の遊びに付き合ってらんないんだよ。警察呼ばれたくなきゃ、さっさと出ていきな」
相手が女ということで警備員も手加減はしているが、それでも強引に腕をつかみ受付から引き剥がす。力のない娘はあっさり引きずられて玄関へ連れて行かれ、無情に外へ放り出された。
「……やあケヴィン、お疲れ様」
騒ぎが落ち着いたのを見計らって、ポールは受付へ歩く。事務員は彼を見て、ようやく表情をやわらげた。
「ポールか。これから外回りかい?」
「まあ、ちょっとね。さっきのは? 持ち込みって聞こえたけど」
ああ、と苦笑しながら事務員は肩をすくめる。
「自作の小説を売り込みに来たのさ」
「なんで取り次がなかったんだ? 紹介状なんて俺も初耳だぞ」
小説といえば、まさにポールの所属する編集部の担当だ。持ち込み歓迎の募集記事を作成したのは他ならぬポール自身である。もちろん紹介状など必要ない。
だが事務員は当たり前の口調で返す。
「そうとでも言わなきゃ引き下がらないからさ。断っても断ってもしつこく食い下がってきて、まいったよ」
「だから、断る必要はないだろう? 使えるかどうか判断するのはこっちの仕事だ。普通に取り次いでやりゃよかったじゃないか」
「お前……ああ、そうか」
事務員の顔に侮蔑がまじる。それはさきほどの娘に対してだけでなく、ポール自身にも向けられたものだった。
「そういうこと言ってるから給料上がらないんだぜ。普通に考えて、女からの持ち込みなんて受け付けられるわけないだろ? 女にまともな小説なんて書けるわけないんだからさ。相手をするだけ時間の無駄だよ。下手に取り次いだらロランさんにどやされる」
編集長の名前を出され、ポールは反論を呑み込んだ。まさにその男とついさっき、似たような問題で口論してきたばかりだ。そしてポールの意見はかけらも受け入れられなかった。
編集長だけが偏屈なのではない。この出版社全体に共通する認識であり、もっと言えば社会全体に共通するものでもある。世界を主導する先進国の一つラグランジュの、さらに首都。文化の都と呼ばれるサン=テールにおいても女性の地位は低く、働ける職種はかぎられていた。裁判官や弁護士、会計士などにはまずなれないし、新聞社や出版社も完全なる男社会だ。
彼らが口を揃えて言うのは、女には論理的理性的に考える能力がないというものだった。たしかにそういう女も少なくないが、男にだってだめなやつはたくさんいる。一概に性別だけで分けられるものではないだろうというポールの考えは、変わり者のたわごとと一蹴されるのが常だった。
ここで事務員相手に同じ口論をしても意味がない。それこそ時間の無駄だ。ポールはカウンターを叩くと、受付に背を向けて足早に玄関へ向かった。そんな彼を見送る人々は、やはり呆れたまなざしと嘲笑で肩をすくめるばかりだ。
ポールは外の通りへ出て、さきほどの娘をさがした。十階建ての立派な社屋は大通りに面していて、周囲を歩く人の数は多い。目立つような服装でもなかったし、もう遠くへ行ってしまったなら見つけられないか――と思ったが、あっさり見つかった。紺色のドレスと地味な帽子が、まだすぐ近くでしょんぼり立ち尽くしていた。
「失礼――ええと、お嬢さん。ちょっといいかい」
ポールは娘に駆け寄って声をかけた。聞こえていないかのように娘が振り返らないので、軽く肩を叩く。それでようやく反応があり、細い肩がびくりと跳ねた。
「えっ、わたしですか? なにかご用でしょうか」
振り返った顔は、予想以上に若かった。間近で見て、ポールは納得する。性別だけの問題ではなかったわけだ。子供だから、なおさら相手にされなかったのだろう。
帽子の下にある顔は、まだ十五にもなっていないのではと思わせる少女のものだった。髪と同じく落ち着いた茶色の瞳を、大きな眼鏡が覆っている。可愛いと言えなくもないが、まあ普通の容姿だ。多分次に行き会っても気付かないだろう。これといって特徴のない、じつに平凡な印象の娘だった。
「うちの受付がずいぶん失礼な態度で悪かったね。腕、痛くしてないかい?」
ポールの言葉に眼鏡の向こうで目がまばたく。追い出された出版社の社員と悟り、期待や失望のまじった複雑な表情が浮かんだ。
「いえ、大丈夫です。ごていねいにありがとうございます」
きちんと答えるようすに、ポールはおや、と思う。あらためて少女の姿をよく見て、一見目立たない地味なドレスや帽子がかなり上等なものであることに気付いた。容姿はともかく、髪も肌もよく手入れされて整っている。言葉づかいも上品で、きれいな発音だった。胸の前で大きな封筒をしっかり抱える手は美しく、労働も家事もしたことがないと窺わせる。どうやらそうとう裕福な家の娘のようだ。
「……一人かな? 誰か、お供の人はいないの」
いい家の、年端もいかない娘となれば、一人歩きなどしないものだ。家庭教師かせめて小間使いの一人くらいは付き添うのが普通だが、周りにそれらしい人物は見当たらない。尋ねれば娘は「はい」とうなずいた。
「わたし一人です」
「いいとこのお嬢さんだろうに、不用心だな」
ポールは呆れて腰に手を置いた。いくら昼間で人通りの多い場所とはいえ、金持ちのお嬢様が一人でうろつくものではない。掏摸だっているし、普通の通行人の顔をしながらよからぬことを企む者も多いのだ。
「まさか家出してきたとか言わないよな」
「まあ、とんでもない。ちゃんと帰ります。……あの、ご用件はそれだけ、ですか?」
呼び止められたことで期待をしたものの、ポールが謝罪と小言しか口にしないので落胆したようだ。少女の眉がさみしそうに下がる。「ああ、すまない」とポールは軽く手を振った。
「もちろん本題は君の持ち込み原稿についてだけど……そうだな、時間があるならカフェにでも行かないか? さっきのお詫びにおごるよ」
「見ていただけるのですか?」
たちまち茶色の瞳にぱっと光が浮かぶ。話をしてみるとけっこう表情豊かで可愛らしいなと、ポールは認識をあらためた。黙って立っているとうっかり風景の一部として見逃してしまいそうだが、冴えない地味な姿は表面的なものにすぎないようだ。虫や動物が身を守るための、擬態や保護色に似ている。動き出せば風景から抜け出し、個性が見えてくる。
「よければ見せてもらいたい。ただ、先に断っておかないといけないんだが、多分うちでは使えない。作品の出来が問題じゃないんだ。上も下も頭の固い連中ばかりでね、女性と仕事をする気がないんだよ。他を紹介してやろうにも、多分どこもご同様だとは思うが……」
「やはり、そうなのですね……」
少女は肩を落とす。またしょんぼりしおれるかと思ったが、すぐに顔を上げてまっすぐにポールを見上げてきた。
「でも、あなたは読んでくださるのですね?」
「問題点を指摘する程度になるが、それでもよければ」
「ええ、けっこうです。わたし、専門家に読んでいただいて、ご指導いただきたかったのです。これまでは家族や友人くらいにしか読んでもらえなくて、みんな普通に感想を言ってくれるだけで、どこをどう直すべきかとか、そんな専門的なことはわかりませんもの。ええと――そう、『その筋』の方からのご意見を伺いたかったのです」
「あ、うん」
「ぜひ忌憚のないご意見をお願いします! 容赦なくこき下ろしてくださってけっこうです。どういう点がよくないのか、それを知らねば上は目指せませんもの」
上を目指したいのか。少女の勢いにいささか引きながらも、ポールはおかしくなった。ついさっき、けんもほろろに追い返されたばかりなのに、少しもめげていない。読むだけで使えない、他の出版社でも相手にされないだろうと前置きしても、まだ諦めない。なかなかしぶとい根性に好感を抱いた。そうだ、ちょっと断られたくらいですぐ諦めるなら、そいつはそこまでの人間だ。どうしても諦められない、続けたいという熱意が結果を出すのだ。女にとって難しい道を目指すならば、そのくらいでなければならない。
「じゃあ行こうか。すぐそこの店だから。ああ、俺はポール・サティと言う。一応小説部門の編集だけど、上司には役立たずと怒鳴られてばかりさ」
皮肉と自嘲をまぜて名乗れば、少女も表情をあらためた。
「失礼いたしました、わたしはマリエル・クララックと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
腰を落として上品におじぎする。まったく自然な、板についたカーテシーだった。少々元気よく跳ねた印象はあるが、見様見真似などではなく、幼い頃から叩き込まれたものであろうとわかる。ポールはいろんな人間と接してきたから、裕福な中産階級の娘も知っている。彼女たちも同じようにおじぎしていた。だがそれらの記憶と、今目の前にいる娘は、似ているようで重ならない。
「……クララック嬢ね」
「おかまいなく。どうぞマリエルとお呼びくださいませ」
気取るわけでなく、緊張もなく、ただ当たり前に挨拶をしただけ。そんな顔で少女は微笑む。美しいとは言えない、野暮ったい見た目の娘だが、品のよさは本物だ。ポールの胸にいやな予感がわき上がった。
まさか、貴族とか言わないよな。
そんなはずはない。いくらなんでも貴族のお姫様が、こんなところを一人で歩いているわけがない。ありえないと、己の考えを否定する。そう、ありえない話だった。普通ならば。
だが物事には常に例外が存在する。女性蔑視が常識扱いされている社内で一人反抗しているポールのように、貴族の中にも変わり者がいるのである。さほど時間をかけず、ポールはそれを思い知ることになるのだった。
11/2(土)に6巻が発売されます。