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マリエル・クララックの婚約  作者: 桃 春花
マリエル・クララックの婚約
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1 噂の婚約者

 十五で社交界に出てから三年、とうとうわたしにも縁談がやってきた。

 年頃の令嬢たち子息たちが社交界に出る目的は、ほとんどが結婚相手さがしだから、三年間まったくそういう話に縁のなかったわたしは珍しい方だった。

 そこからわかるとおり、自力で見つけた相手ではない。お父様があらゆるツテやコネを駆使して獲得してくれた話だ。そうしないとこの子は一生独り身だというお言葉、否定はしません。自分でもそう思っていたからね。

 うちは特別羽振りがよくもなければ悪くもない、きれいに真ん中あたりの家柄。お父様とお兄様は役人としてお城で働いている。お二人とも順調に出世しているようだ。世渡り上手と周りからは揶揄まじりに評価されている。

 そんなお父様が見つけてきたお相手は、わたしにはもったいないほどの特上物件だった。

「はじめまして、マリエル嬢。シメオン・フロベールと申します」

 顔合わせの日、儀礼にのっとって挨拶をしてくださった方に、わたしはただおどろくばかりだった。

 近衛騎士団副団長、シメオン・フロベール様。そのお名前とお姿を知らない者なんて、宮廷社会に一人たりとも存在しないだろう。端麗な容姿はもとより、建国来続くという由緒あるフロベール家のご嫡男、そして騎士としての優秀さ、あらゆる面で注目される方だ。お歳はたしか今年二十七歳だったかしら? 同年代の子息たちにはない、大人の落ち着きが素敵だった。

 どうにかご挨拶を返しながらも、わたしはまだまだおどろきから立ち直れていなかった。

 お父様……本当にシメオン様を連れてきたのね。てっきり冗談だと思っていたわ。だって、わたしの結婚相手にこんなすごい方が出てくるとは思わないじゃない。いったいどんな手を使って釣り上げたのかしら。間違いなくお父様の生涯最高の大金星よね。

 彼との婚約は、周りの令嬢たちからそれはうらやましがられ、そして妬まれた。皮肉や厭味も山ほど聞かされた。当然だ、そこそこうまくやっているとはいえ、特別な家柄でもなく、わたし自身は地味で目立たない常に壁の花。あまりに不釣り合いな縁組を、素直に祝福してくれる人の方が珍しい。なんであんな娘を選んだのだと疑問を抱く気持ちも、並ぶと見劣りして可哀相と嘲る気持ちも、ようく理解できた。

 わたしがいちばんそう思っているもの。お父様がどんな交渉をしたのか知らないけれど、シメオン様もよくこんな縁談に乗ったものだ。もっといいお相手がいくらでもいたでしょうに、決め手は何だったのかとっても気になる。いずれ聞く機会があるかしら。

 もちろんわたしは、あまりに分不相応な縁談だからと尻込みすることは、まったくなかった。この幸運を心からよろこんだ。

 だってシメオン様よ! あのシメオン・フロベール様! 近衛騎士団最凶の頭脳、微笑む刃、獲物を惑わせておびき寄せ、鋭い刺で仕留める毒花と評判の、シメオン様なのだから!

 ……あら、わたしはちゃんと賛美しているつもりよ? お美しく、すぐれた頭脳の持ち主と言っているでしょう?

 シメオン様はとても物腰柔らかな、優雅なお方だ。言葉づかいは常にていねいで、微笑みを絶やさない。優しく温和な方という見た目の印象だけで判断しあなどったお馬鹿さんたちが、さんざん痛い目に遇わされたという話は枚挙にいとまがない。

 剛の団長を補佐する、柔の副長。策略に長けた知性派。王道中の王道ね! いい……! この、腹黒臭ただよう曲者っぷりがたまらない! わたしの萌えツボど真ん中よ!

 お父様ありがとう! こんな大好物を一生そばで観察できるなんて、マリエルは幸せです!

「申し訳ありません、お待たせして」

 あちこちの知り合いから声をかけられ、長い間つかまっていたシメオン様が、ようやく切り上げてわたしの元へ戻ってきた。夜会の最中婚約者に放置されていたわたしは、ついさっきまで令嬢たちの聞こえよがしな陰口にさらされていた。これまでは存在に気付かれないまま帰ることも珍しくなかったのに、いまやどこへ行っても注目の的だ。令嬢どころか立派なおじさまにまでからまれた。きっと自分の娘を売り込みたかった人なのだろう。

「いいえ、お気遣いなく。シメオン様はお付き合いが多いですから、わたしのようにのんびり楽しむわけにはいきませんものね。もうご挨拶はよろしいのですか?」

 来る途中で取ってきてくれた飲み物のグラスを、お礼を言って受け取る。待っている間三杯も飲んだので、そろそろおなかがタプタプだ。ちょっと控えておけばよかったな。

「ええ、必要な相手には済ませましたから。婚約の話を口実になんだかんだと話しかけられて、さすがに疲れました」

「ふふ、人気者は大変ですね」

「あなたもでしょう? けっこういろんな方と話してらしたようですが」

 穏やかな微笑みにちょっぴりいたずらっ気をのぞかせながら、シメオン様はわたしの隣に腰を下ろした。あら、気付いてらしたのね。こちらのことも一応は見ていたのか。

 死角はないというわけですね! さすがです、副長!

 きっと騎士団の皆様も、日々シメオン様のさり気なくも鋭い視線にチェックされているのね。さぞ気が抜けないことでしょう。なんて素敵。

「わたしの場合は、ほとんどシメオン様がらみですよ。皆様とてもご興味があるようで」

 うふふと笑うわたしに、シメオン様も優しく微笑み返す。傍から見ていれば仲良く談笑する婚約者同士だろう。女の方がまるで釣り合わない地味な眼鏡娘ということで、不満を持つ人も多かろう。

 眼鏡をはずしても行動できないわけじゃないのよね。ただ、それだと離れたところの人が誰だかわからなくなっちゃって、ちょっぴり不都合なのだ。わたしは見た目より実を取る。人間観察ができなければ、夜会に出ている意味がない。

「こちらも同様ですよ。ある程度予想はしていましたが、婚約というのはこれほどに人の関心を引くものなのですね」

「シメオン様だからですよ。どんなお相手を選ばれるのかと、今までも興味を持たれていたと思いますよ」

「私的な話にそうまで好奇心をむき出しにされるのも、正直困ります」

 呆れた調子で息を吐き、シメオン様は眼鏡を直した。

 ええ、実はシメオン様も眼鏡の人。でもわたしと違って、それは彼の魅力を少しも損なわないどころかますます素敵に見せている。眼鏡の奥の目がふと細められた瞬間、微笑んでいるのになんともいえない冷たさがただよい、思わずハァハァしたくなる。人を変態的にさせてしまうほどハマっている眼鏡! もう完璧です! これほどわたしの理想を体現した人はいない! ちょっと小道具に鞭でも持ってくださいませんか! ああでもそんな姿を見たら鼻血出そう!

「……マリエル?」

 おっとり微笑んでいるつもりだったのに、内心の叫びが漏れ出してしまったのだろうか。シメオン様が軽く身をかがめてわたしをのぞき込んだ。あらやだ、気持ち悪さを感じちゃいました? そんな迫力満点の笑顔で無言の問いを向けないでくださいな。ますますハァハァしちゃうじゃないですか。

「これはまた、睦まじいことだ」

 緊張と興奮を隠して見つめ合っていたら、突然横から声をかけられた。若く張りのある美声に、わたしたちは姿勢を戻して顔を向ける。こちらへ歩いてくる姿を見るや、すかさずシメオン様が立ち上がった。遅れじとわたしも急ぎ立ち上がる。

「まるで以前から想い合っていた恋人同士のようだな。よもやシメオンがそのようになるとは、驚きと言うしかないな」

 からかう調子で言って笑う人に、私は深々とおじぎをした。シメオン様は苦笑していた。

「殿下、あなたまで冷やかさないでください。もう今日はさんざんに言われて参っているんですから」

「幸せ者の義務だ。独り者からのやっかみは甘んじて受けるんだな」

「よくもおっしゃる。それなら殿下もさっさとお相手を決められればよろしいでしょうに。なんだかんだと文句をつけては断って、陛下も困っておいでですよ」

「私の場合は好みだけで簡単に選ぶわけにはいかないからな。自由なお前がうらやましいよ」

 シメオン様と親しげに会話なさるこのお方は、王太子のセヴラン様。お歳はシメオン様と同じ二十七歳。同年のお二人は気も合うようで、普段から親しく付き合っているらしい。もちろんシメオン様がそれだけ信頼されているからということだろうが、それだけでないたしかな友情が存在するのを感じた。

 これも、わたしがやっかまれる大きな理由のひとつなのよね。次期国王から信頼され親しくしている人なんて、将来重臣コース間違いなし。国いちばんの出世株。そりゃあ誰だって狙うだろう。

 本当に、お父様どうやってこんな人確保したの。何かネタつかんで脅したりしていないでしょうね。シメオン様相手にそんな真似したら、家ごとつぶされるわよ。

 まさかとは思うけれど、あとでいちおう確認しておこう。いくら萌えシチュでも我が身で経験したくない。

 会場入りしてすぐに、セヴラン殿下にはご挨拶にうかがっているので、この場でわたしが話をする必要はない。わたしは出しゃばらず、お二人の会話をだまって聞いていた。邪魔にならないよう空気になっていないとね。そろっと数歩あとずさって距離を取る。

 本来なら、わたしは殿下のおそばにも近寄れない身だ。勘違いしてなれなれしくふるまってはならない。これはあくまでも、シメオン様がいらっしゃるからなのだ。

 それに、お二人の会話に割り込むだなんて、そんな馬鹿げた真似をする気にはなれなかった。

 黒髪に黒い瞳、男らしく精悍なセヴラン殿下と、淡い金髪に水色の瞳、柔和でありながらどこか鋭いシメオン様。対照的な魅力を持つ美青年ふたりが並んでいると、まるで絵のような眺めだ。ええ、その筋の本にはこういう挿絵が載っていますとも。まんま物語の主人公たちよね。わたしは男女の恋愛物が好きで、そっち系はあまり読まないのだけれど、特に苦手意識もない。そっち系が大好物な友人もいるので、理解はあるつもりだ。何冊か借りて読んだこともあるし、けっこう詳しいと自負している。

 一見すると殿下が攻めでシメオン様が受けに見えるけど、実はこういう組み合わせってシメオン様攻めが王道なのよね。普段俺様な王子に、穏やかな部下がある時は強気押せ押せの上位に成り代わる……いわゆる下剋上カップリング。主従ものの王道です。

 きっと友人はこの会場のどこかで今鼻血をこらえている。多分けっこう近い場所で。彼女のためにも、わたしがお二人の間に割って入るなんて不粋な真似はしたくなかった。

 カミングアウトできないだけで、そういう趣味を持つお嬢様奥様がたは多いと思うのだ。そんな皆様も、ぜひ一緒にこのうるわしき光景を愛でましょう!

「マリエル?」

 あら、どうしたのでしょう。またシメオン様の迫力スマイルがこちらを向いているわ。何か察知したのかしら。さすが副長は鋭いこと、素敵です。

「お前の婚約者はおとなしいな。あまりに静かで存在を忘れそうになる」

 セヴラン殿下のお言葉に、わたしはくすりと笑うだけで返した。ええ、そうです。それこそがわたしの特技。誰からも注目されない、地味で存在感のない己を最大限利用して人間観察に励み、人の会話に耳を澄ませている。それによって得られる成果はけっこう大きいのだ。個人的趣味と実益のために活動しているが、時々情報をお父様たちに流したりもする。お仕事に役立ててもらえば、結果的にわたしの生活が潤うからね。

 でも、最近はそれも難しくなってきた。シメオン様との婚約以来、すっかり耳目を集める立場になってしまったから、これまでのようにはいかないのだ。今後は方針を変えるべきかしら。むしろこの立場を利用して得られる情報を狙った方がいいかもね。

「失礼いたします……おお、そちらがシメオン殿の婚約者殿ですか」

 にこやかに声をかけながら、見知らぬおじ様が近寄ってきた。はて、どなただったかしら? この三年間マメに出かけては人間観察に勤しんできたから、国内の貴族はほぼ全員把握している。まったく見覚えがないということは、外国の人なのだろうか。

 四十代くらいの、立派な風采の人だった。なかなかの男前で背も高い。きちんとなでつけた鳶色の髪に少し白いものが混じっているのも、年齢相応の渋さを感じさせてよかった。

「おやファン・レール殿、あなたまで好奇心の虜に?」

 シメオン様が笑顔で迎えた。このくらいは挨拶の範疇で、相手も気を悪くするようすはない。

「いや、申し訳ない。下世話な好奇心と気を悪くなさったならお詫びします。あちこちで噂を聞かされるものですから、ついどのような方かと気になりましてね。紹介してはいただけませんかな?」

「やれやれ、あなたまで。マリエル、こちらはヒューベルト・ファン・レール殿。フィッセルの新しい大使としていらっしゃった方ですよ」

 ああ、隣国の新しい大使だったのね。そういえば交代したばかりだっけ。

 わたしはヒューベルト卿におじぎした。

「はじめまして、マリエル・クララックと申します。お目にかかれて光栄です」

「こちらこそ、お会いできてうれしいですよ。いや、なんとも初々しい、可愛らしい婚約者殿ですな。シメオン殿もすっかり骨抜きなごようすで」

「まあ、そのような」

 うふふと笑ってごまかしておく。そんなわけないでしょうが。こちらの顔も知らずにお父様との交渉だけで成立した婚約よ? シメオン様にとってわたしはクララック家の娘というだけの存在。これがずばぬけた美人とか特別な才能に恵まれた人とかなら、そこから生まれるロマンスもあったでしょうけれど、地味眼鏡のわたしではね。そんな展開露ほども期待してませんよ。

 いいの。シメオン様はちゃんと問題なく婚約者としてわたしを扱ってくださるから。それ以上のものなんて望まないし、特に興味もない。

 わたしが今興味を持つのは、むしろヒューベルト卿、あなたです。

「ほう、貴公もそう思われるか。まったく、このシメオンが女性にこうもでれでれになるとは私も驚きだ」

「日頃はそのようではなかったと?」

「ああ。こんな見た目でも、中身は辛辣な男だからな。秋波を送る女性は多かったが、にこやかにしつつもずいぶん冷淡にあしらっていたものだ」

「それはそれは。ではマリエル嬢とは運命の出会いだったというわけですな」

「そうだな、きっと神の定めたもうた運命の伴侶だったのだろう。私から見ても、ふたりは実にお似合いだ」

「おふたりとも、そのくらいにしていただけませんか。話が拡大しすぎですよ」

 彼らは冗談と社交辞令を交えつつ盛り上がる。そこから話題は次第に政治方面へと流れ、情報交換やひそかなかけひきが展開されていく。わたしはそれを、例によって数歩さがった場所から静かに観察していた。

 わたしは空気。わたしは置物。

 表面上はおとなしく控えて男同士の会話にしゃしゃり出ない、貞淑な婚約者としてふるまいつつ。

 存在を意識させず、場に溶け込んで、すべての会話に聞き耳を立てるのだ。この貴重な機会を無駄にすることのないよう、わたしは知り得た情報を全力で脳内に書き留めていた。

 ああっ! 本当ならメモを構えて聞きたいのに! 聞いた話を忘れないよう、ちゃんと全部覚えておけるかしら。けっこう知っている人名がぽろぽろ出てきて、意外なつながりが判明していく。こっ、これは美味しい。さすが国の上層部、出てくる話題が半端じゃない。こんな場所で交わす会話だからそれほど秘密の内容ではないのだろうけれど、それでもわたしにとっては最高級のお宝情報ばかりだった。

 話が一段落してヒューベルト卿が離れていくと、わたしはシメオン様たちに断って御不浄へ向かった。

 まずは大自然の摂理を解消して、その後化粧室で手提げからメモ帳を取り出す。会場でもけっして手放さない小さな手提げには、こういう時のための筆記用具がしのばせてある。わたしはせっせとペンを走らせ、聞いたばかりの話を忘れないうちに書き留めた。

 宮廷ロマンスに政治の話は切っても切れない関係よね。深刻なエピソードを盛り込むことで、物語はぐっと深みを増す。こういう要素は想像だけで書くのは難しい。じっさいのできごとを参考にすることで、よりそれらしい面白い話になる。

 ああ、なんて幸せ。こんな恵まれた立場になれるなんて。つくづくお父様には感謝だわ。お礼にうんと親孝行しよう。さっきの話の中には、お父様たちの世渡りに役立ちそうな情報もあったものね。

 夢中でペンを走らせ、すべてを書き留めるにはけっこうな時間がかかった。メモ帳を手提げに片付け、それからようやくわたしは正面の鏡を見た。

 凝った装飾に囲まれた鏡面には、若さだけが取り柄の凡庸な娘が映っていた。

 茶色の髪に茶色の瞳。年より少し幼く見えるのは、化粧や髪型が控えめなせいだろうか。顔の真ん中に鎮座するのは大きな眼鏡。せめてこれをはずせば、多少は可愛いと言えなくもないのだけれど。

 本当にね、皆さんが陰口を叩くのも無理はありませんよ。こんな冴えない娘がよりにもよってシメオン様の隣にいたんじゃ、不釣り合いすぎて滑稽なほどだ。ヒューベルト卿やセヴラン殿下のお世辞も、露骨に滑るくらい白々しかった。

 シメオン様はどう思っているのかしらねえ。いくらお父様との交渉に魅力を感じたとはいえ、肝心の妻になる相手がこれではさぞかしがっかりでしょうに。それとも、案外何も期待なんてしていないのかしら。やはりああいう方は条件の方を重視して、妻には貞淑できちんと家を守ることだけを求めるのかしらね。

 シメオン様がその気になれば、恋愛なんてし放題だもの。結婚は家のため、個人的な楽しみは別の相手と、という考えなのかもしれない。

 真面目に考えれば少し寂しいけれど、しかたがない。貴族社会では当たり前の話だし、嫁き後れにならないうちに相手が見つかり、ちゃんと扱ってもらえるだけで御の字なのだ。求められる役割を果たし、あとは自分の楽しみを追及しよう。それでわたしも幸せな人生を送れる。特に問題はない。

 手早く化粧直しを済ませ、わたしは立ち上がった。外へ出ようと扉に手をかけたところで、首をかしげる。

 あら? 開かないわ。鍵は内側からかけるようになっているので、施錠されているわけではない。ほんの少し隙間を作るくらいはできるから、どうやら外のノブに紐を引っかけて、どこかにしばりつけているらしいことがわかった。

 あらまあ、頑張って細工したのね。メモ書きに夢中になるあまり、いつやられたのかまったく気付かなかった。犯人はどうせどこかの令嬢だろう。こういう経験は、初めてではない。

 陰口だけで済ませる人は善良だ。実力行使で嫌がらせをしてくる人の多いこと! ええ、閉じ込めなんて軽い軽い。お気に入りのドレスを汚された時は参ったけれど、このくらいなら痛くも痒くもない。

 わたしは肩をすくめ、窓へ向かった。どういうつもりで仕掛けたのかしらね。扉をふさいだって、部屋には大きな窓もある。しかもここは一階。出入りにまったく不自由しない。

 窓を開けて外を見回せば、暗くなった庭がしんと広がるばかりだった。わかる場所には人気がない。

 本当に誰もいないのかな。窓から出ようとするところを指差して、なんてはしたないと笑うつもりかと思ったのだけれど……でもこの状況だと、それを目撃するためにひそむ方もたいがいはしたないわよね。

 それともお嬢様がたには、ドレスの裾をたくし上げて窓を乗り越えるなんて想像もつかないのかしら。扉から出られないなら、そうするしかないのにね。

 邪魔な裾を鷲掴みにし、よっこらしょと窓枠に足をかける。引っかけたり踏んづけたりしないよう気をつけつつ、わたしは夜の庭へ下り立った。

 素早く裾を直して周囲を確認する。やはり人がいるようすはない。うーん? この場では隠れたままで、あとで悪口を言いふらすつもりかしら。でもわたしも言っちゃうよ? 閉じ込められたのでしかたなく窓から出ましたって。

 多少笑われても平気だ。もともと称賛されるような身ではない。このくらいで傷つくほど繊細なら、シメオン様との婚約なんて受け入れられたものではない。

 広間へ戻るべく、わたしは庭を歩いた。どこから中へ入れるかしら。入り口をさがして建物の壁沿いに歩く。

 さすがにお城は広い。どんどん広間から離れていっちゃうんだけど、ちっとも出入り口が見つからない。反対側へ行くべきだったかしら。でもせっかくここまで歩いてきたのに、回れ右するのも迷うなあ。

 そのうち警備の騎士に出くわすのではないかと思う。そうしたらわたしは不審者としてとがめられるだろう。そこで事情を話して出入り口を教えてもらうか……希望としては、そうなる前に自力で見つけたいところだ。

 ふと、人の気配を感じた気がしてわたしは足を止めた。庭の奥に広がる植え込みから、ひそかな声と物音が聞こえる。誰かいるのなら、近くに出入り口があるのだろうか。教えてもらいに行こうか? でもこんな人気のない暗がりで何をしているのだろう。迂闊に踏み込むと大変気まずい場面に遭遇するのではないかと思った。

 わたしは植え込みの物陰に身を隠しながら、足音をしのばせてそうっと気配のする方へ近付いた。気付かないふりで立ち去るなんてしない。誰かが秘密の逢い引きをしているなら、しっかりばっちり確認しますとも。別に言いふらすためではない。単にひとつの情報として確保するためだ。得られる機会は逃さない。どんな話が、どこで役に立つかわからないのだから。

 押し殺した声が近付いてくる。どちらも男性の声だ。え、逢い引きは逢い引きでも、そっち系? きれいな挿絵つきの物語なら抵抗ないけど、現実で見るのはちょっときついかなあ。

 たじろぎながらもわたしは逃げなかった。なんだか気配が殺気立っているように感じたのも気になったからだ。

「話がちがう!」

 どうやらもめているようす。これは痴情のもつれか。別れ話がこじれたか。しかも興奮した声と物音は、二人分より多かった。ええ? 三角関係ですか?

 どきどきしていたら、突然「ギャアッ」と悲鳴が上がった。物陰でわたしはびくりと飛び上がった。な、なに? 刃傷沙汰にまで発展した?

「早くしろ! 警備兵が来る!」

「くそっ、ちょこまかと!」

「やめろ……っ、ヒィッ!」

 ど、どうしよう。今わたしのすぐそばで、殺人が行われそうになっている。さすがにこれを傍観しているのは人の道に反する。でも飛び込んで助ける力なんてわたしにはない。下手したら巻き込まれて一緒に殺される。

 私は素早くその場を退避し、建物に近付いたところで地面から手頃な大きさの石を拾いあげた。えいっと力を込めて手近な窓に投げつける。

 ガッシャンと派手な音を立てて、窓の硝子が割れた。おまけにもういっちょ。またまたガッシャン。たちまち音を聞きつけた警備の騎士が駆けつけてきた。

「なにごとだ!」

「そこで何をしている!」

 いちばんにやってきた騎士に、わたしはすがりついた。

「わぁぁん、怖かった……っ! なんだかわからないけど、いきなり暗がりから人が飛び出してきて。あっちに逃げました!」

 訴えながら、さきほどの植え込みの方を指差す。もめていた人たちは、息をひそめるか逃げるかしているだろう。殺人は断念したと思いたい。どうか間に合っていますように。

 騎士たちが植え込みを調べに行く。わたしは保護および監視されつつ、建物のそばで待機。そうしていると、名前を呼ばれた。

「マリエル!」

 シメオン様がこちらへ駆けてくる。まあ、なんて素早い現場到着。さすがです副長。

「シメオン様!」

 救いが現れたとばかり、わたしは彼に飛びついた。ここでわたしが不審者だと疑われてはかなわない。無関係な通りすがりだと周りに認識してもらわねば。

「いったい、こんなところで何をしていたのです。なかなか戻ってこないからさがしていたら」

 あら、お手数をおかけしましたか。それは申し訳ありません。

「ごめんなさい、化粧室に閉じ込められて、どうにか窓から出たのです。でも入り口がわからなくて迷っているうちに、おかしな騒ぎにでくわしてしまって」

「ええ、閉じ込められたことは確認しています。化粧室の扉が外から封じられていました」

 あら、それもご存じでしたか。

「騒ぎというのは」

「よくわかりません……急に物音がして、暗がりから誰か飛び出してきたと思ったら窓が割れて。びっくりしているうちに逃げていきました」

 もう突然のことで、何がなんだかわけがわからなくて。そう主張して、わたしは事情もわからない通りすがりだと強調する。全体的には嘘ではない。結局何が起きていたのか、わからないままなのだから。

 調べに行っていた騎士のひとりがシメオン様に気付いて、報告にやってきた。人は発見できなかったが、真新しい血痕を見つけたらしい。ということは、襲われていた方も逃げたのね。よかったよかった、殺人は防げた。ついでにわたしの無実も証明された。これで何も見つからなかったら、わたしがひとりで騒いでいたことにされてしまう。少なくとも窓を割ったことはきつく咎められるだろう。

 その後さらに質問されて、何があったのかと問われたが、とにかく突然のことなのでさっぱりわからないで通した。今ここで、どこまで話していいのか判断できなかったからだ。わたしは巻き込まれただけの不運な令嬢ということで、それほど長く拘束されることもなく広間へ戻った。心配してくれていた友人がすぐにやってきて、わたしがひとりにならないことを見届けたシメオン様は、王太子殿下へ報告に向かった。結局そのまま調査に関わることになったので、わたしは友人とともに会場を出、ひとりで帰宅した。

 お父様とお兄様には、翌日説明した。わたしが知り得るかぎりのことを伝えると、その後うまい具合に処理してくれた。結局あれは何だったのかというと、汚職の隠蔽に協力していた役人が、仲間割れの果てに口封じされそうになっていたという話だった。残念ながら痴情のもつれではなかった。

 姿は見なかったけれど、声で誰だか察しがついたのよね。襲われていた人は、お兄様の同僚だった。一度はわたしの相手候補として紹介されたこともあったのだ。あちらがお断りしてきて縁談にまでは発展しなかった。でも顔と声はしっかり記憶に残しておいた。

 襲っていた方も多分あの方……くらいの察しはついたけれど、こちらは確信が持てなかったので、判断はお父様たちにゆだねた。証拠のない不確かな推測だけで迂闊に追及するわけにはいかないからね。でもわたしの推測は間違っていなかった。やはりその人で、汚職が発覚して罪に問われることになった。

 宮廷全体から見ればささやかな事件。でもわたしには、なかなか刺激的な経験だった。

「やっぱりお城はネタの宝庫ね! どろどろした人間関係に政治と陰謀! うわべは華やかで、陰では事件が日常という、素晴らしい舞台! ああ、楽しいったらないわ! 最高!」

 お見舞いと称して訪ねてきてくれた友人と、ひとしきり盛り上がる。

「マリエルったらあんなことがあったのに元気ねえ。下手をしたら巻き込まれていたかもしれないのよ」

「そうねえ、ちょっとくらいはスリリングな展開があってもよかったかしら? でも怪我はしたくないし、あれでよかったのかしらね」

「当たり前よ。お嬢様たちの意地悪とは話がちがうのよ」

 呆れた顔でお説教してくるジュリエンヌだって、実は興味津々。わたしから詳しく話を聞きたがり、その前の閉じ込めの件も全部話してあげた。

「それ、多分オレリア様たちよ。あなたのあとを追うように会場を出ていったもの。あなたのことだから多分大丈夫と思っていたのだけど」

「ええ、全然問題なかったわ。結局何をしたかったのかしらね? 扉を封じただけで窓は普通に開けられたし」

「それは、窓を乗り越えて外へ出るなんて発想がなかったからよ。あの方たちならぜったいにそんな真似はしないもの」

「ごめんなさいねえ、はしたないじゃじゃ馬娘で。閉じ込められたわーっておろおろしてても仕方がないじゃない。出られる場所があるんだから、出ないと」

「オレリア様たちも、まさか相手がこんなに図太いとは思わなかったでしょうね」

 ジュリエンヌは笑って肩をすくめる。どれだけ皮肉を言われようと嫌がらせをされようと、わたしがまったく堪えていないことを知っているから、彼女もそれほど心配しなかった。

「オレリア様たちにはむしろ感謝よ。こういう嫌がらせはお約束だけど、形式どおりに書くだけではただのありがち展開でつまらないもの。じっさいの経験をふまえて書いた方が、真に迫った内容にできるじゃない。取材させてくださったのだから、お礼を言いたいくらいよ。もちろん、シメオン様にも!」

 わたしも笑う。シメオン様との婚約以来あの手この手で攻撃してくるお嬢様たちに、実は毎回喜んでいるなんて人に知られたら変態と思われるかしら? 他の相手ではこうはいかない。婚約者がシメオン様だからこそだ。どちらにも大感謝です。

「今回のこともネタにするつもり?」

 手元の本をパラパラとめくりながらジュリエンヌは尋ねた。出版社から届いたばかりの新刊だ。

「もちろん。でもあれだけじゃ大した事件でもないから、もっと大きな事件に仕立てるわ。そうね、巻き込まれた令嬢はそのままさらわれるなんてどう? それをヒーローが助けに行くの。お約束のロマンスよ」

「あなたがヒロインでなければ、そのとおりね。普通の令嬢は閉じ込められても窓から出たりしないのよ。そこはどうするつもり?」

「うーん……じゃあ、火事でも起こす? このままでは焼け死ぬとなれば、いくらおしとやかな令嬢だって窓くらい乗り越えるでしょう」

 話をしながらわたしは新作の構想を練る。恋愛だけの話はもう飽きた。次はハラハラドキドキの、事件の連続にしよう。その中で燃え上がる恋! せっかく仕入れた情報を無駄にはしない。もちろんそのまま書くわけにはいかないけれど、元ネタがわからないようアレンジしつつ盛り込んでいくつもりだ。

「ところでシメオン様は、それについてご存じなの? お仕事のこと、もう話した?」

 ジュリエンヌに問われて、わたしは首を振った。

「いいえ、まだよ。どうしようかとは思っているけど、まだ言える段階ではないわ」

「そうねえ。流行小説の作家なんて、良家の令嬢がするべきことではないというのが一般認識だし」

 わたしのひそかな職業。それは小説家。上流から中流の女性たちに広く親しまれる、恋愛物語を書くのがお仕事だ。

 この実益を兼ねた趣味があるからわたしは毎日満たされている。現実でどれだけもてない地味女でも、物語の世界ではめくるめく恋も冒険も楽しめる。むしろ現実より物語の世界の方がきれいだし楽しい。ありえない超展開だって思いのまま。萌えひとつで生きていける。だから結婚が家のための政略でもぜんぜんかまわない。よっぽどひどい相手でなければ、多くは望まない。

 と思っていたら、ひどいどころか相手はあのシメオン様! あらゆる物語、あらゆる登場人物の中でも、もっともわたしが好物とする見た目温和な腹黒参謀系! ああ、現実でも萌えが堪能できます! 多くは望まないどころか恵まれすぎです!

 二度とない破格の幸運。これを逃さないためには、執筆活動は極力秘密にした方がいい。

 そう考えると、政略結婚というのもむしろ都合がいいかもしれなかった。相手がわたしに関心を持たないのなら、隠すことは容易になる。家の中でこそこそ書いていたって、お仕事に出かける旦那様にはわからない。実家と出版社に協力を頼めば、秘密は守り通せる。やってみせる。

 次回作には自分好みの男性を登場させてほしいというお願いを残して、ジュリエンヌは帰っていった。わたしの読者は基本ノーマル好きだから、あからさまなものは書けないけれど、それとなく匂わすくらいならできるだろう。ジュリエンヌが喜びそうな美青年同士のからみもたくさん書こう。まかせて! モデルはすぐ近くにいるから!

 まんま黒髪と金髪じゃ誰が元ネタかわかってしまうから、俺様系の見た目を金髪にしようかな。でもってお相手はやさしい栗色。うん、和み系の雰囲気で、でも中身は鬼畜とかね! うふふん、考えるだけで楽しい! 早く書きたい!

 萌え萌えしながら紙に構想を書き留めていると、執事が来客を告げにきた。約束はしていなかったけれど、シメオン様が来たらしい。わたしはいちおう身なりを確認してから、急いで応接間へ向かった。

「申し訳ありません、急にお邪魔をして」

 今日もシメオン様はお美しい。白い近衛の制服がこのうえなくお似合いです。

「いいえ、先日のお話の続きですか?」

 彼にソファを勧めながら、わたしはずばりと尋ねた。彼が制服のままで来たことと、約束のない訪問から答はそこにしか行き着かない。不意に婚約者の顔を見たくなったからなんて、物語みたいな流れはあり得ません。

「ええ、まあ」

 苦笑しながらシメオン様は座った。向かいにわたしも腰かけ、女中のもってきてくれたお茶を飲みながら話をする。

「あの時あなたは、突然のことで何がなんだかわからず、誰がいたのかもわからなかったと言いましたが……」

「ええ、申し訳ありません。あの時に気付いていれば、もっと早く解決しましたのにね。あの場では混乱するばかりで。家に戻って落ち着いてから、ようやく気付いたのです」

 彼の言葉の先を読み取り、わたしはしおらしく謝った。暗がりでもめていた人たちの心当たりを挙げたことを隠すと、事件の解決が難しくなる。だからお父様たちは、わたしからの情報だと明らかにしていた。そうすれば当然、重要な証言をなぜあの場で言わなかったのか追及される。この展開は覚悟していた。

 用意した言い訳は先のとおり。突然のことですからね? 暗い夜の話ですからね? それまでにも意地悪されて閉じ込められて、精神的に参っていたところへのできごとでしたからね? おびえた令嬢がまともな証言なんてできなくても当然ですよね?

 隠してごめんなさいなんて態度は見せない。あの場でさっさと思い出さず面倒かけてごめんなさいだ。

 先手を打ったわたしにそれ以上追及できず、シメオン様は一旦口を閉じた。一見すると優雅にお茶を飲んでいるだけな態度の裏で、きっといろいろ考えているのだろう。

「彼らから事情聴取をしたのですが、窓を割ったことには心当たりがないと言うのです。誰がしたことか、あなたにはわかりますか?」

「……さあ。わたしは、てっきりあの人たちのやったことだと……ちがうと言うのなら、いったいどういうことなのでしょうね。わたしの他にも、どなたかがあの場にいらっしゃったのでしょうか」

 なんだかお見通しだぞと言われているような気がするけれど、困惑した顔ですっとぼけた。今となってははじめから正直に言っておけばよかったという話だが、一度ごまかした以上嘘を通すしかない。窓を割ったのはわたしではありません。

 だってあの時はどこまで言っていいかわからなかったんだもの! もし騎士たちが何も痕跡を見つけられなかったら、わたしがひとりで騒いで無駄に窓を割ったことになってしまう。騒ぐだけならまだしも器物損壊はよろしくない。そんなことで咎められたくなかったので、知らぬ存ぜぬを通したのだ。

 血痕が見つかったことでわたしの話が嘘ではないと信じてもらえ、その後犯人たちも検挙されたからよかったものの、一歩間違えればわたしはとんでもない問題児として大恥をかくところだったのだ。とてもではないが、最初からぶちまけられる話ではない。

 ジュリエンヌやうちの家族なら証拠が見つからなくてもわたしの言うことを信じてくれただろうけれど、シメオン様には期待できない。わたしはそこまで彼を信用していない。彼からそこまで信頼されているとは思っていない、と言った方が正しいか。

「それはわかりません。いちおう調査中ですが」

「お役に立てなくて申し訳ありません」

 いかにも役立たずな自分を恥じるようすで、わたしは身を小さくした。婚約者の役に立っていいところを見せたいのに、全然ダメな子でごめんなさい。愛想尽かされたらどうしよう。

 ――なんてね。

 普通ならそういう場面なので、わたしの態度は不自然ではないだろう。シメオン様はしばらく黙っていたが、納得したのかあきらめたのか、軽く息を吐いただけでそれ以上つっこんではこなかった。

「まあ、これ以上あなたに危険がおよぶことはないと思いますが、しばらくは注意してください。夜会などへ出かける予定があるなら、私にも言ってください。他にもいろいろと、問題があるようですし」

 違う話へ流したシメオン様に、わたしはちょっと首をかしげた。他の問題?

「どうも、ああいう場であなたをひとりにするのはよくないとわかりました。陰口くらいならよくあることですから、あなたが平気そうにしているうちは大丈夫と思っていましたが、あそこまで悪質な真似をされたのでは放置しておけません」

 あ、令嬢たちからの嫌がらせのことか。そういえば、化粧室に閉じ込められたことは確認済みだっけ?

「扉が封じられていたとおっしゃいましたよね? 誰かがシメオン様に知らせてくれたのですか?」

「いえ。あなたをさがしに出て化粧室に向かったところ、発見したのです」

 あらまあ。そこまでしてくださったんですか。それはどうもありがとうございます。

「……あの、シメオン様は軽蔑なさいます? 窓から出るなんて、はしたない真似を……」

 とりあえず一般的な令嬢が気にしそうなことを尋ねてみる。このくらいで婚約破棄はないと思うけど、普通は気にするよね?

「非常事態ですから仕方がないでしょう。日頃からしているとなれば、問題ですが」

「そんな、まさか! あの時だけです!」

 うん、最近はしていませんよ。十三、四歳頃まではよくやってばあやに叱られていたけどね。

「ええ、そうでしょう。あなたがとてもおとなしい方であることは、承知しています」

 そう言ってシメオン様は優しく微笑んだ。わたしをなぐさめてくださるようでいながら、無言の追及がされているように感じるのは、うしろめたいことがあるせいかしら? きっと気のせいよね。シメオン様はわたし個人のことなんて、ろくにご存じないもの。見た目通りの地味でおとなしい女だと思っているはず。

 やむを得ない行動だったけれど、貴族の娘としてはしたない真似をしたと恥じている。そういう態度で満足してくれるだろう。

 お仕事中に抜けてきたということで、シメオン様は長居しなかった。慌ただしさを詫びながら席を立ち、帰りしなにふと思い出したように言った。

「そうだ、アニエス・ヴィヴィエという名をご存じですか?」

 唐突に出てきた名前に、私の心臓は跳ね上がった。

 ご存じかって? ええご存じですよ。この世の誰より詳しいですよ。

「ええ……作家のヴィヴィエのことですよね? 知っておりますけど……」

「あなたも読んでいらっしゃる?」

「……はい。あの、シメオン様はそういうの、お嫌いですか?」

 頭の固いおじ様には、低俗な流行小説なんて読んではならんと怒る人もいる。もしやシメオン様もそういう類の価値観なのだろうか。

「いいえ。数作読んでみましたが、なかなか面白かった」

「お読みになったんですか? シメオン様が?」

 この言葉には素でおどろいた。男性が読んでなおかつ面白いと言うなんて思いもよらなかった。わたしは完全に女性を対象に書いている。はなから男性が読むとは思っていないし、読んで面白いとも思わなかった。

「従姉経由でね。婚約したなら、これで女心を学べと言われまして」

「ああ……そういうことですか」

 なるほど、納得。でもそれでよく読んだな。

「我々男が思っている以上に女性はしたたかで、けれど純粋でもあるということがよく伝わってきました。人間模様がうまく描かれていて、恋愛以外にも注目すべきところが多かった。あの作者は人を書くのがうまい。日頃からよく人間を観察しているのでしょう」

「……そうですね」

 あらぁ? なんでしょう、また微笑みに無言の迫力が漂っているような気がしますけど、気のせいかしらねえ?

「読み込んでいくと、時折妙に既視感を覚えるのです。どうやら実在の人物やできごとが話の元になっているようです。ヴィヴィエは宮廷の人々から着想を得ているらしい」

「まあ、ではあの噂は本当なのでしょうか。ヴィヴィエが貴族の女性であると……」

 わたしはなんにも知りませんよー。でもそういう噂があるのは事実だし、もちろん知っていますよー。ファンですからねー。

「かもしれませんね。もしかしたら近いうちに、夜会の最中に起きた事件が書かれるかもしれない」

「まあ」

 うふふ、冗談ですよねー。ええわかっていますよ、ここは軽く笑って流しておきますよー。

 心当たりなんてありません。わたしはただの一読者です。ヴィヴィエ先生の次回作に期待しまーす。

 微笑みのシメオン様に笑顔で対抗し、最後までしらを切り通してお見送りした。動揺はけっして見せてはならない。もしかしてさぐりを入れられているのかもしれないなんて、そんなことは考えていませんよ。だってわたしは無関係なただの一読者ですからね!

 自分の部屋に戻って、ちょっとぐったりした。シメオン様に隙を見せないのは、とても疲れる闘いだった。

 シメオン様……ひょっとして、気付いてらっしゃるの? なぜ? どこからばれた? わたしのひそかなお仕事について、彼が知る機会などなさそうなのに。

 考えすぎかしら。身にやましいことがあるから、疑われているように感じてしまうのかしら。

 書きかけの構想を、私は泣く泣くボツにした。とてもこのままでは書けない。シメオン様が読めば、きっとわたしによるものだとばれてしまう。事件についてもさることながら、ジュリエンヌサービスの美青年カップリングが誰と誰か、絶対に気付かれる!

 ああん……萌えまくってたのにぃ……。

 もう少し手を入れれば、それとわからないように書けるだろうか。いえそれよりも、シメオン様の言葉はわたしに対する牽制だと考える方が先かしら。

 作家活動を暗に非難されている……と受け取るのは、うがちすぎだろうか? でもそういう可能性もじゅうぶんにあり得るので、除外するわけにはいかない。

 わたし、もう少しシメオン様について知るべきかもね。見た目の印象や世間の噂だけでなく、騎士団内部からの声なども集めてみるべきかも。旦那様になる人がどういう人なのか、もっとしっかり詳しく把握しておかないと。

 どうやって情報を集めようかと思案する。シメオン様に疑われず、自分の趣味を続けるために。この縁談が壊れることのないように、でも自分の譲れない一線は死守したい。

 わたし、もしかしてとても厄介な人と婚約したのかも。

 そう思いながらも、わきあがる萌えを抑えられなかった。

 なんておそろしい、油断のならない人。さすがシメオン様、素敵すぎます。

 いかなるできごともネタの元。我が身の危機すら糧にしてみせる。作家魂は今日も健在です。このおびえすらいつか作品にしてみせる!

 未来の旦那様、マリエルはますます貴方に萌えています。どうかこれからも、お見捨てなくよろしくね?


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見た目温和な腹黒参謀系でメガネ…同じく好物です 創作の方も読んでみたい!!! ニヤニヤが止まらないので外では読めませんが 今から幸せな時が始まりそうです 作者さんに感謝
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