第二十話・深まる謎
前線基地の、外観が随分とボロボロになった休憩所に一つ嬉しそうな声が洩れる。
「わうっ!」と言う、人ではない犬のような鳴き声、もちろんちびだ。その声を聞いて、ウィルとリンファは武器を持つ手を下ろす。彼らと真正面から対峙していたメンフィスやクリフも、それに倣いそれぞれ武器を下ろしてそちらに視線を投じた。
料理を作っていたマナやカミラ、ルルーナも作業の手を止める。次いだ瞬間、早々に厨房を出て行った。
そして、鳴き声を上げたちびはと言うと。
「……ちび、おはよう」
「わうっ、わうわうっ!」
寝台に寄り添う形で、ジュードの様子を窺っていた。
開いた翡翠色の双眸が自分を捉えると、嬉しそうに尾を揺らし始める。そしてまた一つ、嬉しそうな鳴き声を洩らした。
ジュードはそんなちびを寝台に寝転がったまま眺めて、そっと笑う。緩慢な所作で片手を伸ばしてちびの頬を撫で付けると、その柔らかさに目を細めた。
「……ずっと、傍に付いててくれたんだな」
ジュードは暫しそうしてちびを撫でていたが、程なくして彼の耳にけたたましい足音が幾つも届いてくる。考えなくとも理解出来る、恐らくは仲間のものだ。
それを聞いて、横たえていた身を静かに起こした。頭の奥がぼんやりとするような――微かな浮遊感に近い感覚を覚えはするが、熱を出した翌日のようないつもの眩暈はない。それだけでも随分と楽に感じる。
「ジュード!」
真っ先に駆け込んできたのは、カミラやマナであった。各々息を切らせて飛び込んできたかと思いきや、身を起こしているジュードの姿を視界に捉えて目に見えた安堵を表情へ滲ませる。その後にルルーナも続き、一拍遅れて顔を覗かせた。
「やっと起きたのね、ジュード。丸一日眠ってたのよ」
「……悪い。オレ、また倒れたんだっけ……?」
「精神力を使い果たして倒れたんだよ」
いつものことではあるが、寝起きのジュードは頭の回転が鈍い。
あやふやになっている記憶のまま幾分申し訳なさそうに呟く彼に対し、カミラが返答を向けた。
ジュードは昨日のイヴリースとの戦闘後、精神力を完全に使い果たして眠りに落ちたのである。
精神力とは、魔法を扱う者にとっては何よりも大切なもの。魔法は個人個人が持つ精神力を消費することで使用が可能だからだ。つまりマナのように魔法をメインに扱う者にとっては、なくてはならないもの。それが精神力だ。
ジュードはシヴァと交信状態になり、自らが持つ精神力を全て使い果たしてしまったのであった。その結果、押し寄せる疲労感や睡魔に勝てず、吸い込まれるように意識を飛ばして眠りについたのである。
そこで、ようやく思い出したらしい。
ジュードは身を乗り出すと慌てたように口を開いた。
「――そうだ! シヴァさんやイスキアさんは?」
「う、うん……それがね……」
そこへ、ウィル達も遅れて駆け付けた。
だが、その矢先にジュードから上がった声に思わずウィルとリンファは一度足を止める。
「……え、えええええぇっ!?」
何の話をしていたのかは分からないが、取り敢えずジュードが目を覚ましていることにウィルは小さく安堵を洩らす。そしてリンファと共に寝台の傍らに並んだ。
見たところ、おかしいような部分はない。寝起きだと言うのに、非常に元気だ。申し訳なさそうに胸の前で両手の指先を絡ませるカミラと、そんな彼女の後ろに立ち両肩に手を添えるマナ。その二人を半ば呆然とした様子で眺めるジュード。
怒りと驚愕が織り交ざったような声を上げた張本人であると言うのに、ジュードは口を半開きにして呆然――否、愕然としている。
「お、おいおい、どうしたんだ?」
「ウィル! シヴァさんとイスキアさんがもう行っちゃったって、本当……なのか?」
声を掛けても良いものかどうか悩みながらウィルが控え目に声を掛けると、ジュードは勢い良く彼を振り返る。
恐る恐ると問うてくる様子とその内容に「ああ」とウィルは今思い出したように呑気に声を洩らすが、ジュードにとっては楽観視出来るようなことではなかったらしい。ウィルの両肩を掴んだかと思いきや、やや乱雑にその身を前後に揺さぶり始めた。
「ああ、じゃない! 終わったら色々聞くって言っといたのに!」
「ちょ、おち、つけっ」
「あ、悪い……」
ジュードにとっては分からないことばかりである。
言われるままに戦い、謎ばかりが膨らんで。いざ目を覚ましたかと思えば、謎を生み出した張本人は既にこの場には残っていない。彼の中の疑問は深まる一方だ。しかし、だからと言ってウィルに当たっても仕方がない。完全にとばっちりである。
だが、疑問はウィル達も同じであった。
魔法を受け付けない筈のジュードが、魔法と思われる力を使って魔族と戦闘を繰り広げていたのだから。なぜなのか、彼らの疑問はジュードと同じように深まっていた。
メンフィスは一度小さく溜息を洩らすと、彼ら同様に寝台に歩み寄りジュードの肩を軽く撫で叩く。
「ワシらが気付いた時には既にこの場を発った後だったようでな。すまん、ジュード。気を配っておくべきだった」
「まさか、戻ってこないとは思わなかったもんね……」
ジュードを寝台に寝かせたあの後。
シヴァとイスキアはすぐに、この前線基地を離れてしまったようであった。ジュードを助けに来たように見えたが、その彼が眠っている間に早々に退散してしまったのはなぜなのか。やはりウィル達の疑問は尽きない。
彼らのお陰で前線基地は守られたが、その動向は不明だ。
ジュードは片手で自らの額辺りを押さえると、がっくりと頭を垂れて項垂れた。
「マジかよ……結局リンクだのアクセスだの、なんだったんだ……」
「……? なんだ、それ?」
「シヴァさんが言ったんだよ、ええと……俺とリンクしろ、とかなんとか……」
ウィルは近くの壁に背を預けて寄り掛かると、片手を顎の辺りに添える。そのまま視線を中空へと投げ一つ間延びする声を洩らした。
「あー……リンクってことは、何か繋ぐってことだよな」
「ウィル、分かるのか?」
「言葉通りの意味なら、そういうことだろ。何と何を繋ぐのかは分からないけどな」
ウィルは何かと頭の回転の速い男である。オマケに色々な知識を持っている。
ジュードは一度こそ彼に期待するような視線を投げはしたが、続いて返る返答には軽く眉尻を下げた。やはり、シヴァやイスキアでなければ分からないことだ。
「やっぱり、逃げられたのは痛いわね。あの二人、絶対に何か知ってると思うわ」
「そうね、話したくなくてさっさと行っちゃったのかしら」
ルルーナが呟くと、マナがそれに対して相槌を打つ。
依然として母の言葉が謎のまま残っているルルーナにとっても、ジュードのことは他人事ではない。彼がなんなのか、それを知ることが母の思惑に繋がっているのではないか、そう思っているのである。
彼女の母であるネレイナの言葉は、娘のルルーナにも理解出来ないものだ。ジュードを連れて戻れば、何年も前に出て行った父が戻ってくると言う。しかし、ジュードと父がどのように繋がるのかは全く分からない。二人に接点などない筈なのだから。
だが、ふとそこへクリフがやってきた。普段着込んでいる鎧も脱いで、朝らしいラフな装いだ。いつも鎧の下に身に着けている藤色のシャツと下は白のスラックス姿である。
「よお、坊主。具合はどうだ?」
「あ、クリフさん。全然大丈夫だよ、クリフさんの方こそ……怪我は?」
「お陰さまで好調だよ。あとな、俺の知り合いの兵士が、あの美人のオネェからお前に荷物預かってたんだとよ」
そう言いながら寝台に歩み寄るクリフの小脇には、一つの小箱があった。そう大きいようなものでも――立派でもないそれは、本当にただの箱だ。普通サイズのメロン一個分程度の大きさと言える。
不思議そうに双眸を丸くさせるジュードに対し、クリフは一度肩を疎めてみせた。中身が気になるのは彼も同じらしい。そしてそれは、周囲にいるウィル達も同じだ。
「お前が起きたら渡すように、って言われてたみたいだぜ。確実にお前宛て」
「中身、何かな……」
「気をつけてよ、ジュード。何が出てくるか分からないわ」
クリフは片手で小箱を持つと、それをジュードの膝の上へと置いた。それに倣いカミラとマナがジュードの両脇に移動して軽く身構える。
中身がなんなのか分からない以上、必要最低限の警戒は必要だ。ウィルも背中を預けていた壁から身を離し、神妙な面持ちで箱を凝視する。メンフィスはちびを一瞥した。
見たところ、ちびが唸るような様子はない。至って普通――落ち着いている。何か危険なものが潜んでいる、と言うことはなさそうだ。ちびは野生の勘を持っている為か、危険には何かと敏感である。昨日の竜達の襲来の際も、誰よりも先にその危機を感じ取っていた。
「わ、分かってる……じゃあ、開けるよ」
シヴァもイスキアも、ジュードに害を為そうとするような様子は見受けられなかった。もし敵であるのなら水の国で遭遇した時、助ける筈がないのだ。
それに今回も。甘いと言いながら、それでもシヴァは助けてくれた。負傷したクリフを見捨てられなかったジュードのことを。
冷たいのか優しいのか如何にも分からないが、いずれも敵意の類は感じられなかったのである。手紙か何かが入っているのだろうか。ジュードはそう思った。
妙な緊張を感じながら箱の蓋に手を掛けた時。
「うわあああッ!?」
「きゃああああっ!」
ガタガタッ。
と、箱が独りでに右左にと蠢いたのである。無論ジュードの膝の上で。
閉じられたままの箱の中からは、何かが動くような微かな物音さえ聞こえてくる。
――何かが、箱の中にいる。
それは、口に出さなくとも誰もが理解出来た。
それと同時にウィルとクリフ、リンファはそれぞれ武器に片手を添え、マナとカミラはしっかりとジュードの肩を掴む。何かあった時に彼の身を守ろう――と言うよりは、反射的だ。彼女達も中身は気になるが興味半分、怖さ半分なのである。取り敢えず何かにしがみついていれば怖さも和らぐのだろう。
ジュードは固唾を呑む。そして今度こそ、箱を開けるべく蓋に手を伸ばした。