第十五話・悪化する戦況
「うう……頭が痛い、二日酔いじゃ……」
翌日、ジュード達が朝食を摂っていると、げっそりとした様子のメンフィスがやってきた。片手で額の辺りを押さえて青い顔をしている。非常に具合が悪そうだ。昨夜の宴の席で、兵士達に勧められて随分と酒を飲んでいたように見える。その影響だろう。
ジュードの横に腰を落ち着かせたメンフィスは、彼の肩に頭を預けて深く吐息を洩らす。正直ジュードにとっては堪ったものではない。
「メンフィスさん、酒臭いんですが……」
「我慢せい……」
「は、はあ……」
ジュードの養父であるグラムも結構な大酒飲みだ。酔っ払いの相手も、翌日の二日酔いの相手も慣れてはいる。しかし、今は食事中なのだ。
大丈夫だろうかと、ジュードは食事の手を止めるとカミラに目を向ける。すると、すぐに察してくれたらしくカミラは近くにあったグラスに水を注いでくれた。「ありがとう」と一つ礼を向けてからグラスを受け取ると、それをメンフィスに差し出す。
「はい、……飲めますか?」
「ああ、すまんな……流石に昨日は飲みすぎたわい」
グラスを受け取ると、メンフィスは一気にそれを飲み干す。冷水が渇いた喉に染み渡るような感覚に、僅かながら気分も浮上を始めるらしい。グラスが空になると、メンフィスは一つ満足そうな声を洩らしてようやくジュードの肩から身を離した。
「大丈夫なんですか? 今日はガルディオンまで戻るんですよね?」
「ああ、一応な。基地の状況は把握出来た、陛下に報告して援軍を要請した方が良いだろう。必要であれば都の守りは他に任せてワシも出る」
心配そうなマナの声にメンフィスは一度小さく頷き、グラスをテーブルに置いた。
完成した武具を届けると言う任務は終えたのだ。取り敢えず、水の魔力を秘めた武器は魔物に対し非常に有効であった。それが分かっただけでも素晴らしい進歩と言えるだろう。今後も同じような武器を造っていけばまだ充分に盛り返せる。
これからは、上手くいけば死傷者も減るかもしれない。そう考えると、ジュード達の気分も驚くほどに浮上した。世間的にはまだ『子供』に分類される自分達が少しでも役に立てるのだから当然だ。
今の前線基地にはクリフがいる。彼は攻守共に長けた騎士であるし、昨日の勝利と新たな武具の到着で兵士や傭兵達の士気も上がっている。まだ小さな灯火ではあるが、希望は繋がりつつあるのだ。昨日は武器だけしか実戦投入に間に合わなかったが、彼らであれば充分に防具も使いこなしてくれるだろう。
ルルーナはスプーンを置くと、マナの隣に腰掛けるリュートに一瞥を向ける。
「それはそうと、アンタ吟遊詩人だってんなら基地の人達の為に一曲くらい奏でてやったらどうなの?」
「え、必要ですか? みなさんもう落ち込んでないし、必要ないでしょう」
「そんなことはないと思いますけど……」
ルルーナの言葉に、仲間の視線は一斉にリュートに向いた。
片手で後頭部を掻きながら苦笑い混じりに応える彼に対し、カミラが眉尻を下げて小さく呟く。戦況が変わりつつあるとは言え、これまで戦い続きだった兵士達ならば喜ぶ者も多い筈だ。娯楽などもう随分長いこと楽しんでいないだろう。
だが、リュートは首を縦には振らなかった。それどころか隣に座るマナに親しげな視線を投げ掛け、そして至極当然のことのように口を開く。
「僕、出来ればマナさんの為に曲を奏でたいんです。射止めるって宣言しましたからね」
「え?」
「な――っ!」
リュートの突然の言葉に、その場に居合わせた一同は目を丸くさせた。その中でも、ウィルとマナは思わず表情を顰めてほぼ同時に立ち上がる。
マナとしては、仲間には知られたくないようなことだった。ウィルにとっては、マナは現在進行形で想いを寄せる対象であるからだ。そんなウィルの気持ちを知っているジュードも当然複雑な表情をしている。
「勝手なこと言わないでよ! あたしは……!」
マナはマナで、仲間に知られたくなかったと言うのももちろんあるが、やはり想い人であるジュードの耳には入れたくなかったのだ。
だが、リュートは何処吹く風と言った様子で柔らかく笑うばかり。しかし、ほんの一瞬のみウィルと視線がかち合った際――まるで挑発するかの如く蔑むような目を向けた。それがまた、余計にウィルの神経を逆撫でする。
――だが、そんな時。不意に外が騒がしくなったのである。
「……むう、どうやら発つ前にもう一戦と言ったところだな」
それまで状況を静観していたメンフィスが、外の騒ぎの理由を逸早く察知する。
また魔物が攻め込んできたのだ。そして、程なくして一人の兵士が慌てたように食堂に駆け込んできた。
「メンフィス様、メンフィス様! また魔物の群れが!」
「分かった、すぐに行く」
メンフィスは兵士に一言そう伝えると、静かに席を立つ。魔物が攻めてきたと聞いても慌てることのないその姿に、兵士の表情にはほんの僅かにも笑みが滲んだ。彼らにとって騎士団長であるメンフィスの存在は何よりも心強いものなのである。
兵士は一度しっかり敬礼すると、槍を片手に早々に戦場へと向かって行った。
そして、当然ながら魔物の襲撃と聞いてジュード達が黙っている筈もない。
「メンフィスさん、オレ達も行きます!」
「ああ、すまん。……あいつらを助けてやってくれ。だが、お前達も決して無理はせんようにな」
特に強い反対が返らないことに対し、ジュードは一つ安堵を洩らすと一度仲間へと視線を向ける。
カミラとリンファ、ルルーナはしっかりと頷き、先程まで一触即発に近い雰囲気を醸し出していたマナやウィルも、一拍遅れはしたが言葉もなく静かに首を縦に振る。しかし、メンフィスは静かに双眸を細めた。大丈夫なのかと心配しているのだ。
前線基地に攻めてくる魔物は、これまで戦ってきた魔物達とは訳が違う。昨日は万全のコンディションで臨めたが、今はそうではない。多少の気の乱れが思わぬ事態を引き起こすこともある。これまで様々な戦場に身を置いてきたメンフィスだからこそ、痛いほどにそれを理解していた。
「……気をつけてな」
ジュード達はその言葉に改めて一つ頷く。ちびは逸早く食堂の出入り口に駆け寄ると、普段は垂れて寝ていることも多い耳を欹てて、低く唸っていた。
「……ちび? ……どうしたんだ?」
「ウウウゥ……ッ、グルルル……!」
それは、普段ジュードと戯れるちびの姿からは到底想像出来ない様子であった。
まさに野生の獣の如く、牙を剥き出しにして鬼の形相で外を睨み付けている。身体は、微かにも震えていた。
「……ちびがそうまで過剰に反応する敵がいるんだろう。魔物は動物みたいに敏感だろうから、分かるんじゃないか?」
「そうか……昨日みたいにはいかないってことだな」
そこは、やはり纏め役である。
つい先程までリュートの思わぬ言葉に動揺していたウィルであったが、それでも持ち前の冷静さで平常心を取り戻したらしい。
そんな彼の説明にジュードは改めてちびを見下ろすと、そっとその背中を撫で付けた。そして改めて気を引き締め、口を開く。
「――よし、行くぞ!」
ジュードのその声に仲間達は一斉に返事を返すと、勢い良く食堂から飛び出していく。
リュートだけは食堂に残り、そんな彼らの背中を無表情に見送っていた。
* * *
そして、外に出てジュード達はすぐに理解した。なぜ、ちびがあれほどまでに唸っていたのかを。
昨日のようにはいかない、誰もがそう思ってはいた。だが、外の光景は皆の予想の遥か上を行っていたのだ。
「……嘘だろ……」
辺りからは兵士達の悲鳴が上がっている。
昨日戦闘を行っていた最前線は、既に火の海だ。周囲からは火の手が上がり、止むことなく爆発に近い轟音が響き渡る。
上空には、あの赤黒い竜が羽ばたいていた。
問題はその数だ。昨日は一匹だけだったが、現在上空で羽ばたく竜の数は――優に十は越えている。二十はいるだろう。平和だった蒼い空を、今はあの赤黒い竜が埋め尽くしていた。
仲間の敵討ちとでも言うかのように、竜達は上空から炎を吐き散らして基地の至る所を焼いていたのだ。投入されたばかりの防具とて、立て続けに攻撃を受ければ持ち堪えられる筈がない。
兵士達は逃げ惑うばかり。空からは竜の炎が、地上からは昨日とほぼ同じ種類の凶悪な魔物達が攻めてきている。繋がりかけた希望が、打ち砕かれつつあった。あれほど高まっていた兵士達の士気は再び下がり、彼らは絶望的なこの光景を前に戦意を失いかけていた――否、戦意を失っていた。完全に。
「メンフィス様! お逃げください、お早く!」
そこへ、クリフが大声を張り上げながら駆け寄ってきた。辺りに響き渡る爆音の所為で大声を出さないと声が届かないのである。
クリフは既に左肩を負傷していた。白銀の肩当ては砕け、その下の肩には深い裂傷が走る。魔物の爪で砕かれたものだろう。肩部分の衣服までもが裂け、皮膚の下の肉部分が見えていた。
「クリフさん……! その怪我!」
「坊主、お前らもだ。ここはもう保たない、早く逃げろ」
それはつまり、前線基地はこれで終わりと言うことである。確かに目の前に広がる光景を見れば誰もがそう思うだろう。今現在、この場には絶望しかない。
しかし、この前線基地が壊滅してしまえば魔物達は火の国を制圧し、更に世界各地に広がっていくだろう。魔物の巣窟が近くにあるとされるこの基地をなくしてしまう訳にはいかないのも、また事実だ。
「けど、ここが落ちたら……それに他の人達は……!」
「お前はバカか? 目の前の敵の数を見てみろよ、戦って死ぬより逃げて対抗策を考えろ。……ガキを守るのは大人の役目だ」
「バカはお前さんだ、自分より若いモンが進んで死に逝くのを黙って見ていられるほどワシは人間が出来ておらん。お前さんが残るくらいならワシが残るわい」
クリフは、既に死を覚悟しているのだ。仲間を置いて逃げると言う選択肢を選べない男であるからこその覚悟でもある。逃げ出すくらいならば一匹でも多くの敵を道連れにする、クリフはそういう男だ。
しかし、そんなことをメンフィスが許す筈もない。彼は魔物に息子を奪われたことで、自分より歳若い者が戦って死ぬことを特に嫌う。
だが、このまま言い合っていても何も解決しない。寧ろ状況は悪くなるばかりである。
――そしてそれは、一瞬の出来事であった。
ジュード達は次いだ瞬間、不意に吹き飛ばされたのだ。
一匹の竜が吐き出した炎が、彼らのいた場所を直撃したのである。それはまるで弾丸のように大地を抉り、爆発を引き起こした。
彼らの身は容易く吹き飛ばされ、近くの壁や瓦礫に身体を打ち付けた。カミラは背を強打し、小さく苦悶を洩らす。しかし、すぐに身を起こして同じく吹き飛ばされた仲間達の安否を確認すべく、視線を辺りに巡らせた。
ジュード達へ放たれた炎は辺りの木片に引火し、周囲を火の海に変えていく。少しでも早くこの場を離れなければ本格的にマズい。誰もがそう思った。
幸いにも、皆の意識はしっかりしている、各々立ち上がり仲間の安否確認を始めた。
「早く、ここを離れないと……! ジュード、クリフさん?」
「……あそこだ」
カミラの傍にはメンフィスが飛ばされてきたらしく、剣を支えに立ち上がる彼を手伝いながら、つい今し方まで話をしていた二人の姿を探した。ジュードとクリフ、どちらの姿も見えない。周囲で燃え盛る炎が視界を遮っていた。じりじりと肌に感じる猛烈な熱が、余計に焦りを生んでいく。
程なくして、メンフィスがカミラに声を掛ける。彼の視線の先には、辛うじて二人の姿が見えた。どうやら近くにあった壁に身を強打したらしい。更にクリフは、足を負傷してしまっていた。
「クリフさん、クリフさん!」
ジュードは身を強打はしたが、今はそんなことに気を配ってはいられなかった。自分と共に吹き飛ばされたクリフが、重い傷を負っていたからだ。
同じように吹き飛んだ瓦礫が彼の右太股に突き刺さり、深い傷を刻んだのである。これでは、もう走ることさえ難しい。ジュードが慌ててその身を抱き起こすと、クリフは一度表情を苦悶に染めつつも、薄く笑ってみせた。
「早く、逃げろって……逃げて、生き延びて……あいつらをぶっ倒す方法を……見つけて、くれ……ここで、死んでいった奴らの、為にも……」
向けられる言葉は、当然理解出来る。だが、それでもジュードの身体は動かなかった、動けなかったのだ。まるで、自分の身ではないかのように。
逃げなければとは思うのだが、クリフを置いていくことが出来なかった。涙で霞む視界はそのままに何か言葉を紡ごうとしても、それは全く言葉にならない。何を言えば良いのかさえ既に分からなくなっていた。
頭上からは、竜の唸るような声と羽ばたく音が聞こえてくる。また、こちらに炎を吐こうと言うのだろう。周囲に燃え広がる火柱が容赦なく熱を与えても来る、今逃げなければ間違いなく退路を失う。
だが、竜が羽ばたく音、唸り声。それらの音に混ざって一つ涼しい声がジュードの耳に届いた。
「――――お前は甘いな、小僧」
「え……」
その刹那。
周囲の炎が一瞬の内に消え去ったのである。
立ち上る炎の代わりにそこに残されたのは、大地に張り巡らされた氷だ。まるで凍て付いてしまったかのように、分厚い氷が大地を覆い尽くしていた。炎は、この氷によって一瞬で封じ込まれてしまったのである。
突然のその現象に驚いたのは、無論ジュードだけではない。メンフィスの身を支えていたカミラも、当のメンフィス本人も、そしてウィル達も。その場に居合わせた全員が目を丸くさせて不可解な現象に驚愕していた。
そして、ジュードはふと傍らに気配を感じ、そちらへ目を向ける。
そこには、水の国で遭遇した――あの謎の旅人が立っていた。上空で羽ばたく竜達を無表情に見上げて。
青み掛かった白銀の髪に、見る者へ冷たい印象を与えるアイスブルーの瞳。忘れもしない、ジュードにとっての命の恩人だ。
「シヴァ、さん……?」
確認するように洩れるジュードの声に、シヴァは静かに視線を彼に下ろす。
相変わらずの無表情だが、本人で間違いはない。シヴァはクリフを一瞥した後に、再び目線はジュードに合わせる。そして静かに口を開いた。
「小僧、俺は――何をすれば良い?」