第十四話・穏やかな夜
太陽も沈み、夜の闇が辺りを支配し始めた頃。
前線基地には久方振りに明るい笑い声が響いていた。
「カンパーイ!!」
クリフは酒の入ったジョッキを片手に持ち、それを高々と掲げる。そんな彼に倣い多くの兵や傭兵達も心底嬉しそうに笑顔でグラスを掲げた。
皆、非常に嬉しそうだ。抑え切れない喜びが表情に滲み出ている。ジョッキを呷り、クリフは喉を鳴らして酒を飲み干すと、腹の底から満足そうな声を洩らして逆手の甲で口元を拭う。
「っかぁー! 勝利の酒はやっぱウマいなあ!」
そんな様子を傍らで見ていたウィルは、思わず眉尻を下げて苦笑いを浮かべる。
ウィルはもちろんのこと、ジュード達一行はいずれも未成年だ。酒の感想についてはまだよく分からない。
クリフはそんなウィルに気付くと、親しげに肩など組みながら双眸を細めて絡んだ。タチの悪い酔っ払いの如く。
仕方ない、この死と隣り合わせの前線基地で久方振りの勝利を収めたのだ。余程嬉しいのだろう。そして更に言うのなら、クリフは初対面だからと人見知りも遠慮もしない男なのだ。
「なんだなんだ、テンション低いなぁ!」
「い、いや、俺達は今日ここに来たばっかりなんで……いつもこんな感じじゃないんですか?」
「まさか。最近は負け戦がほとんどで、とても酒なんか楽しむ気にはなれなかったんだよ」
ウィルは己に絡んでくるクリフを横目に見遣りながら問い掛ける。前線基地の戦況については多少なりとも聞いてはいたが、実際のところはどうなのか彼らには分からなかった。
だが、至極当然のように返る返答に噂は嘘ではなかったのだと即座に理解する。クリフだけではない、周囲の兵達も心底嬉しそうだ。それだけ毎日の戦いは過酷なものだったのだろう。そんな言葉一つでは表しきれないほどに。
そこで、ふとクリフは表情に笑みを浮かべる。何処までも優しい、慈しむような表情だった。彼自身、この前線基地に配属になってから敵の親玉を叩く作戦は考えてはいたのだが、如何せん機動力に難がある。多くの魔物達の中を駆け抜けて奥にいる親玉を叩きに行くなど、普通は出来ない。ただの自殺行為だ。ジュードが無謀なのか、それとも彼が仲間を信頼している証なのか。そこは定かではないが、クリフはジュードに純粋に感謝をすべく、彼へ視線を向けた。
「ま、今日の勝利は坊主の活躍あってこそ、ってな。ありがとな坊主、お前のお陰――」
「ちびー!」
「わううぅ!」
――が、当のジュード本人はブラシを片手に相棒のちびと満面の笑みで戯れている真っ最中だ。当然クリフの言葉など聞こえている筈もない。
それを見てクリフは双眸を半眼に細めると、言葉もなくウィルを振り返る。古びた機械人形の如く首が動く際にギギギ、と音が聞こえてきそうなほどだ。
「すんません、本当にすんません。あいつのああいうところだけは俺達も手に負えないんです」
「ったく、人が折角マジメな話してるってのに……」
ウィルはそんなクリフから視線を外すと、胸の前辺りに両手を上げて緩く左右に揺らしてみせた。彼らのやり取りを見て、その近くに座り料理をつついていたマナやルルーナが声を立てて笑う。
今日の勝利は、多くの者達に笑顔を与えてくれた。傷付き倒れた者も確かに多かったが、それでも普段より多く生き残れたことは希望に繋がる。
続いてクリフは、ルルーナの横で疲れたような顔をするカミラに目を向けた。
「お嬢ちゃん、大丈夫か? ありがとな、お嬢ちゃんのお陰で今日はいつもより死傷者が少なかったんだぜ」
「そ、そんな。わたしはただ……自分に出来ることを、と思って……」
「やっぱり治癒魔法は必要だよなぁ、水の国からも色々と送り込まれてきたみたいなんだが、……もうほとんど残ってなくてな」
カミラは戦線には加わらず、戦闘の間中ずっと負傷者の治療に当たっていた。そのお陰か死者はほとんどなく、怪我人も彼女の治癒魔法ですっかり元気になったのである。だからこその酒盛りだ。
脅威であった赤黒い竜を倒せたこと、久方振りに勝利で収められたこと、メンフィスが合流したこと。そして、彼らにとって希望となる新しい武具の到着。
勝利への希望を抱くには、充分過ぎる贈り物だ。
まだまだやれる、これなら勝てる。前線基地の兵達は誰もがそう思い始めていた。
「クリフさん!」
「お、なんだよ坊主。やっと人の話を聞く気に……」
「お風呂ってあるかな?」
「……」
そんなことはなかった。クリフはそう思う。
ちびを背中に貼り付けたジュードが、ふとクリフの元へとやってきたのだ。まるで羽交い絞めにでもされているような状態である。
ちびは前脚をジュードの肩に、そして顎を彼の頭に乗せて至極ご満悦そうだ。うっとりと目を細めて「きゅううぅん」と甘えた声を洩らしている。その姿は火の国で生きてきたクリフにとってやはり衝撃的だ、魔物と人間が共存しているなど普通は考えられない。
唐突な問い掛けにウィルはまさかと思い、半ば恐る恐ると言った様子でジュードに一言問いを投げ掛けた。
「ジュード、お前まさか……ちびを風呂に、いや湯船にぶち込む気じゃないだろうな」
「え? そのつもりだけど。ちゃんと街で動物用の石鹸とか蒸し袋も買ってあるんだ」
「もうどこからツッコミを入れれば良いのか分かんねーよ!」
いつも以上に、ウィルは頭を抱えた。
なんだろう、ちびが加入してからジュードのお馬鹿加減が悪化しているような気がする。あれ、おかしいな。
ちびを湯船に入れようものなら大量の毛が湯に浮いてしまうし、動物用の石鹸と言ってもちびは動物じゃない。更に言うなら蒸し袋とは一体なんなのか。全く予想がつかない。
ウィルは暫しの思案の末、片手で顔面を押さえて一つ口を開く。
「……蒸し袋ってなんだよ」
考えた末に、出た問い掛けはそれであった。なぜって、それが一番疑問だったからだ。
すると、ジュードは両手を腰に添えて胸を張った。いい加減その背中に貼り付いたちびをなんとかしろ、とはどうにも言えない雰囲気。
「石鹸で泡まみれになったとこを蒸し袋で包むんだよ。暫く時間を置いてから洗い流せば、翌日には高級な羽毛布団みたいにほわほわになってるんだってさ」
「お前それ騙されてんだよおおおぉ! どこで買ったんだ、そんな怪しげなもの!」
自信満々に言ってのけるジュードに対し、ウィルは即座にツッコミを入れた。頭を抱えながら。
女性が髪を整える特殊な液体を付けて暫く蒸す、と言うのはウィルとて聞いたことはある。しかし、石鹸一つでは難しいのではないか。誰でも思うことだ。大体、蒸したらちびが暑いだろう。ここは特に暖かい国、火の国エンプレスなのだからいっそ拷問に近い。
しかし、そんなジュードとウィルのやり取りを見て、ふとリンファが笑った。小さく声すら立てながら。
その様子にはウィルやジュードだけではなく、その場に居合わせた仲間全員が目を丸くさせて彼女を見つめた。
「す、すみません……ジュード様とウィル様は、本当に仲がよろしいのですね」
「振り回されてるだけだけどな」
「え? そ、そう?」
「自覚ないのかよ!」
間髪入れずに返るジュードの言葉に、改めてウィルはツッコミを入れた。だが、ジュードはすぐにそんな彼の肩を宥めるように軽く叩く。
「冗談だって、ウィルにはいつも感謝してるよ」
「……お前の冗談は分かり難いんだよ」
それでも、そう言われてしまえばそれ以上強く言えないウィルもウィルである。ジュードの片手を軽く引くと、必要以上にとやかく言うことはせずに一言だけ言葉を向けた。
「……まあ、リンファが笑ったから許す」
その一言に、ジュードは眉尻を下げて薄く苦笑いを洩らす。
リュートは、そんな仲間の様子を多少なりとも離れた場所で無表情に見つめていた。
* * *
「マナさん」
勝利の宴と称された食事会も終わり、片付けを手伝ったマナが割り当てられた部屋に戻ろうとした時、不意に彼女を呼び止める声が聞こえた。
他でもない、リュートだ。厨房とは呼べそうもないボロボロの中から彼女が出てくるのを待っていたらしい。彼の姿を視界に捉えると、マナは軽く眉尻を下げる。
「……なに?」
「そろそろ、お返事を聞かせていただけないでしょうか」
唐突な言葉に、マナは一度朱色の双眸を丸くさせた。リュートが言う『返事』と言えば、一つしか思い当たることはない。
王都ガルディオンでのことだ、彼女はリュートに突然の告白を受けた。結局その時は返事をせずに保留にしてしまったのだが。と言うよりは、あまりにも突然のことであの時は彼女の思考が全く追いついてこなかった、どうやって屋敷に戻ったのかさえ満足に記憶に残っていない。覚えているのは、ただ返事を返さなかったと言うことだけである。
マナは小さく溜息を洩らすと、小さく頭を左右に揺らした。
「……ごめんなさい、よ。ジュードのことが、って言うのはもちろんあるけど……知り合ってまだ間もないような人と付き合えるほど、あたしって器用じゃないの」
「そうですか……」
それは飾るでもない、誤魔化すでもないマナの本心だ。彼女自身、恋愛経験など全くない。
初恋はジュードであったし、今も現在進行形で彼に想いを寄せている。その為、男性と付き合った経験はないのだ。
リュートはマナの返答にそれ以上余計な言葉を掛けたりはせず、柔らかく笑って踵を返した。
「分かりました。でも、僕は諦めませんからね、あなたを必ず射止めてみせます」
「…………」
それだけを言い残し、リュートはボロボロの基地から外へと出て行く。マナは暫くその後をぼんやりと眺めていた。
マナは、ジュードが好きだ。もうずっと昔から。だが、それが叶わないものだとも最近は思っている。
「(……いっそ、他の恋に目を向けた方が良いのかしら……)」
ルルーナが突然現れてジュードに求愛を始めた時は猛烈な嫌悪を覚えたものである。ずっと想い続けてきた彼を、いきなり現れたヨソの――しかも何処までも高慢ちきな女に渡すなど、冗談ではなかった。ジュード自身が困っていたと言うこともあり、彼女と反発し合うことでジュードを守っているような、そんな気になっていたのだ。
しかし、彼がカミラを連れて来てからジュードは本当に良い表情をするようになった。背伸びしない、飾らない。非常に自然な表情を。
マナでは、ジュードにそんな表情をさせられなかった。しかし、カミラにはそれが出来る。それにカミラ自身ジュードのことが好きなのは傍から見れば一目瞭然だ。そこまで考えて、マナはまた一つ溜息を洩らす。
「どう考えたって両想いじゃない、ったく……」
そしてそれだけ呟いて、今度こそ自室に戻るべく足を踏み出した。余計な考えを頭から振り払うように。
一方、すっかり人の気配もなくなった浴場では、ジュードがブラシを片手にちびの身を洗っていた。
片手でちびの毛を撫でるように洗い、逆手に持つちび専用のブラシで毛並みを整えていく。当のちびはと言えば余程気持ちが良いのか、幸せそうに目を細めている。
「どうだ、ちび。気持ち良いか?」
「わふ……」
ジュードの呼び掛けにちびは小さく――本当に小さく鳴いた。
ちびの身体は、既に泡まみれだ。泡立てた石鹸でちびの全身を洗っていきながら、ジュードはその感触を楽しむ。
「蒸し袋はウィルに取られちゃったから包めないけど、明日はふわふわだぞ、ちび」
結局あの後、ちびが可哀想だからやめろ、とウィルは力業でジュードから蒸し袋とやらを強奪していた。随分とゴネたが、結局返却はされなかったのである。
それでも、ちびは嬉しそうだ。何処までも幸せそうに目を細めて、時折喉を鳴らす。
しかし、全身を洗い終えてお湯を汲もうとジュードが立ち上がるとちびは目を開き、そんな彼に圧し掛かる。
「うわっ、わわ!」
「ぎゃうぎゃうっ、きゅーん」
ちびは相変わらず上機嫌だ。ずっと、こうやって戯れる機会を窺っていたのだろう。悪戯が成功した子供のようなものである。
圧し掛かられたジュードは突然のことに反応も出来ず、うつ伏せに倒れ込んでいた。ちびはそんな彼の背中に腹這いで乗り上げている。ジュード自身は全て終わらせてから湯に浸かる予定だった為に当然ながら衣服を着込んでいるが、既に全身が濡れ鼠だ。
ジュードはちびの戯れに笑い声を上げながら肩越しに振り返る。すると、ちびは軽く身を起こした。
「ふふ……っははは、ちびは甘えん坊だなぁ」
そのままジュードは身を反転させて仰向けになると、自分の身に乗り上げるちびに片手を伸ばして、泡まみれの身体を擦るように撫で付ける。
気持ち良さそうに目を細めるちびの様子を見守りながら、ジュードもまた表情を綻ばせた。頭に浮かぶのは――先の戦闘で絶命した竜の顔。
「……ちび、なんで魔物と人間って上手くいかないんだろうな」
「ぎゃううぅ」
「……ん、そうか。そうだな、オレとちびは上手くいってるもんな」
周囲から見れば全く分からない会話だ。しかし、ジュードにはちびが言っている言葉が理解出来ている。この場合「自分達は上手くいっている」とちびが訴えたものと思われた。
そうだ、そうなのだ。魔物と人間は上手くいかない、そんな筈がない。実際にジュードはちびと分かり合えたのだから。
そう改めて認識して、ジュードは相棒の身をしっかりと抱き締めた。