第七話・出逢い
「えーと、今日でアウラの街を越えて……渓谷前で野宿かなぁ、馬車があればいいんだけど」
その日、ジュードは一人荷物を背負ってどこまでも広がる平原を歩いていた。
左手には地図を持ち、ぶつぶつと独り言を呟きながら歩いていく。
現在彼がいるのは、麓の村から随分と南下した場所。この先には一つの森と、その森を抜けた先にはアウラという名の街がある。あまり大きくはないが、長閑でよい街だとジュードは気に入っていた。
なぜ彼が一人でそんな場所にいるのかというと、南に位置する火の国エンプレスへと向かう途中だからだ。彼らの自宅に届けられた王族からの、助けを請う手紙に応えるためである。
本来ならば指名されたグラム本人が向かうべきなのだが、彼は現在ケガをしており、とてもではないが狂暴な魔物が数多く生息する場所になど向かえない。更に不運なことにウィルとマナは仕事のため、動けないのだ。
それゆえに、ジュードが単身で火の国に向かうことになったのである。――とはいえ、ルルーナからの猛烈な求愛に困り果てていた彼にとっては喜ぶべきこと。久方ぶりに訪れた自由を満喫しながら、エンプレスへと向かう道中なのである。
* * *
程なくして森に着いたジュードは辺りを軽く見回す。馬車でも通れば捕まえて街まで乗せて行ってもらうのだが、生憎それらしい影は見えなかった。
馬車が通る時間は決まっている訳ではないのだから、仕方がない。魔物が狂暴化してからは、馬車を利用したい者は街から乗ることがほとんどだし、こんな場所から乗ろうとする方が愚かしいのだ。
運よく遭遇すれば儲けもの程度にしか考えていなかったこともあり、ジュードは特に落胆することもなく森へ足を踏み入れた。
この森はそう長くも深くもない、陽光が森を照らし木々の間からその輝きが大地に降り注いでいる。明るく見晴らしもよい森であった。特にジュードは幼い頃からの山育ち、耳も目も常人より秀でている。
これならば魔物が奇襲を仕掛けてきても即座に対処ができるはずだ。
森を抜ければ正午を過ぎて小一時間といったところだろう。夜通し歩けば渓谷を越えることはできそうだが、夜は魔物が活動的になる。それなりに戦い慣れしているとはいえ、危険であることに変わりはない。
流石にそれは無謀に近いと判断した。
街に馬車がいればよいのだが、エンプレス方面に行く馬車が果たしてあるかどうかが問題である。
火の国エンプレスには、風の国ミストラルとは違い凶悪な魔物も多数存在すると聞いている、そんな中を馬車が走ってくれるかどうか。
「……ん?」
しかし、そんな時。
不意に、草木をかき分けるような音がジュードの耳に届いた。早速魔物でも現れたかと思えば気分も重くなっていく。腰裏の得物へ手を触れさせるが、続いて野太い男たち数人の声が聞こえたことでジュードは警戒するように出処を探る。傭兵や魔物狩りが、魔物と戦っているのかもしれないと思ったからだ。
だが、辺りを見回すジュードの視線は一人の少女の姿を捉えた。
木々の合間から駆けていくのが見える。長く蒼い、柔らかそうな髪の少女だった。距離があって少女と称するに相応しいかどうか、その風貌は窺えないが。
そして彼女の後を数人の男たちが追いけていく様はジュードの表情を自然と歪ませる。「追え、逃がすな」と叫ぶ野太い声が次第に遠退き、ジュードは今の光景を頭の中で反芻した。
見過ごせない、見過ごせるはずがない。そう思い頭を振ったジュードは、しかしそこで己の左腕に視線を向ける。
そこには複雑な紋様が描かれた大層美しい金の腕輪が填められていた、中央に鎮座する蒼色をした宝玉はどこまでも深い色をしている。一目見て高価なものだと分かるその腕輪は、ジュードがグラムに拾われた時に持っていた唯一の品だ。
恐らくは親か、それに関係する誰かが持たせてくれたものだろうと――グラムはジュードに決して肌身離さぬよういつも言い聞かせていた。
見たところ今の男たちは傭兵というよりは暴漢にしか見えなかった。金目の物を狙われては、と捲り上げていた袖を下ろし、腕輪を隠してからジュードは地を蹴り少女や男達が駆けていった方へ駆け出した。
* * *
暫し進んだところで、改めて男たちの声が聞こえてきた。その声を頼りに、ジュードは足を速めてそちらに向かう。
すると先ほどの少女が男たちに追い詰められていた。細い道はそこで終点となっており、彼女の先に広がるのは獣道だ。行き止まりにぶつかってしまったらしい。困ったように、他の道を探すべく慌てて辺りを見回す少女に対し、男たちが下卑た笑い声を洩らしながら歩み寄る。
「(いかにも悪って感じだな、よし……)」
それを見てジュードは足元にあった石を拾った。小振りのミカンほどのサイズだ。ミカンならば柔らかいが、硬度を持つ石となればこの大きさでも充分である。あとは致命傷にならない程度の箇所にぶつければいい。
ジュードの善からぬ思惑に当然ながら気づいていない男たちは少女ににじり寄ると、女性特有のその細い腕を力任せに引いた。
「ようやく追い詰めたぜ、お嬢ちゃん。もう逃げらんねーな」
「あんたが困ってるようだったから力になるって言ってんのに、逃げるなんてヒドいねぇ」
角度的に少女の表情や風貌こそ窺えないが、嫌がっているのは明白だった。
そもそも逃げていたことから友好的ではないとすぐに理解できる。嫌々と頭を振る少女に対し、手を引く男は不自然なほどに顔を近づけ舌舐めずりをした――と、同時。
辺りに乾いた音が響き渡った。少女が半ば反射的に男の頬を逆手で打ったのだ。だが、それは男の神経を逆撫でする行為でしかない。
――次の瞬間、お返しだとばかりに今度は男が片手で少女の頬を打った。
短く、そして小さく洩れた少女の悲痛な声。長い柔らかそうな髪が叩かれた衝撃で宙を舞う。少女は受け身も取れず、地面へと倒れ込んだ。その一連の光景を目の当たりにして、ジュードは目の前が真っ赤に染まるような錯覚を覚えた。
「あんたが俺たちと遊んでくれるなら連れてってやるって言ってるだろ、そう嫌がるなよ」
少女を殴った男は口元に笑みを刻み、倒れ込む彼女の身に跨った。
――が、それと同時に側頭部に走った鈍痛に男は苦悶の声を洩らす。目の前に星が散り、衝撃を受けた箇所がジリジリと熱を持つ。脈打つのに合わせ痛みを訴えるそこを片手で押さえながら男は地面を見下ろし、自分の頭に当たったと思われる石を拾って周囲を見回した。
それはジュードが咄嗟に投げつけた石だった。逃げる気も隠れる気もないジュードは茂みを片手でかき分けて、そちらに足を向ける。当然ながらそれに気づいた男たちは一斉に彼を見遣り、怒りと嘲笑を込めて厭らしく笑った。
「一人の女の子相手に大の大人が寄ってたかって、恥ずかしくないのかよ!」
「テメェか、ふざけたことしやがったのは……!」
「勇敢なボウヤだねぇ、少し痛い目を見ないとわからないみたいだな――やっちまえ!」
お楽しみを邪魔された、暴漢たちの顔にはそう書いてあるかのように不快感と怒りが滲んでいる。しかし、それはジュードとしても似たようなものだ。
ジュードは女性に乱暴を働く男が大嫌いである。それは男は女を守るもの、と固く認識しているからという以外に、母というものを知らないジュードにとって女性とは特別な存在なのだ。
男たちは一斉にジュード目がけて駆け出す。
一人の男の突撃を横に飛び退くことで回避したあと、素早く真横に回り込む痩せ型の男の顔面を肩に担ぐ鞄で強打し叩き伏せる。身軽なジュードを捕まえて殴ろうと、少女を打った大柄な男は正面に回り、抱き潰す勢いで太い両腕を伸ばしてきた。
それを身を低くすることで避けると、ジュードは地面に片手をつき身を支えながら男の両足へ勢いよく足払いを叩き込む。すると大柄な男は呆気なく後ろにひっくり返った。
次に最初にいなされた男がいきり立ち、躍起になって再び彼へ向き直る。顔面を押さえて苦悶していた痩せ型の男も徐々にダメージから復活してきたらしく、ジュードを睨みつけながら腰から短剣を引き抜いた。
お楽しみを邪魔する生意気な小僧にちょっとお仕置き、程度の考えだったのだろう。男たちの表情からは先ほどまでの優越はすっかり消え失せ、怒りと共に僅かな焦りが滲んでいた。
屈んだ反動を活かし、ジュードはそこから飛び退いて少女を庇うように立つ。そうして愛用の短剣を引き抜き目を細めた。できれば致命傷を負わせるようなことはしたくない、相手はどれだけ嫌いな人種でも同じ人間なのだ。
ならば、とジュードはにじり寄る男たちを見据え、短剣を持つ手を横真一文字に凪ぐ。
すると――その刹那。
短剣に鎮座する蒼水晶が呼応するように輝き、男たちへ向けて無数の氷柱が飛んでいく。大きさこそ疎らだが、刺さればそれなりの傷になるだろう。
暴漢たちは目を見開き「ぎゃあ! ひぃ!」などと情けない声を上げながら、飛んでくる氷柱を慌てて避けた。
「さぁ、まだやんの!? やるなら加減しないよ!」
「く……っ、くそ! 覚えてやがれ!」
一度こそ男たちも応戦しようとはしたが、辺りに飛散した氷柱を見ると数拍の思案の末に舌を打つ。足払いを喰らい倒れた際に打ち所が悪かったのか、目を回している大柄な男を二人がかりで引きずり、そして逃げて行った。
ジュードは男たちが逃げていった方を暫し眺めていたが、戻ってくるような気配もないことを確認すると、短剣を鞘に戻す。それから少女を振り返り――そして、固まった。
なぜって、その少女を見た瞬間、彼の心臓が大きく跳ねるような錯覚を覚えたからだ。
――人はそれを、一目惚れと呼ぶ。