第九話・恋心
「はああ……」
メンフィスが用意してくれた屋敷にある作業場の中、ふとマナが小さく溜息を洩らす。
そんな彼女に気付いたウィルは何事かと、一旦読んでいた本から顔を上げてそちらへと視線を投じた。
「どうしたんだよ、マナ。らしくもなく溜息なんか吐いちゃって」
「らしくなくて悪かったわね、そりゃ溜息も吐きたくなるわよ」
そう言ってマナが視線を向けた先には、ジュードの姿があった。
正確に言うのであれば、ジュードだけではない。彼と楽しげに会話をするカミラも一緒だ。
その光景に、マナは胸が痛むのを感じる。彼女はもうずっと昔からジュードに淡い恋心を抱いているのだから。想い人が自分以外の女と楽しげに会話をしていると言うのは決して嬉しいものではない。
そして、また一つ溜息が洩れた。
「……マナ」
ジュードが火の国エンプレスから戻ってきた時に、ふと嫌な予感はしていたのだ。
その時には既に、ジュードの態度は変わっていた。
もちろん、自分達に対しての態度が変わったとかではない。マナやウィルに対してはこれまでと変わらず、普通に優しいし色々なことを話す。
だが、カミラに対してだけは違うのだ。マナには見せなかった姿や表情も、カミラには見せる。心底嬉しそうな顔だとか、照れた姿だとか、本当に色々と。
ジュードのそんな一面を、マナは見たことがない。
「(……純粋に、ルルーナみたいな嫌な女なら良かったのに。普通に嫌いになれるから)」
以前も確かに思ったようなことを考えながら、マナは思う。
だが、すぐに改めるべく一度思考を止めた。緩く頭を振って、また溜息を一つ。
「(……いや、違うか。ルルーナはただの嫌な女じゃないのよね……)」
彼女と初対面の時は確かに強引で高飛車で、マナにとって非常に嫌な女であった。
だが、最近のルルーナは随分と態度が違う。未だにマナに突っ掛かってくることはあるが、以前のような刺々しさがなくなったのだ。今ではただの喧嘩友達のような関係を築けている。
だからこそ、ただの嫌な女と認識するのも違う気がしていた。以前と比べて、今はしっかりと歩み寄りが出来ているのだから。
カミラも当然そうだ。
彼女は初めて逢った時から非常に友好的であるし、人に慣れていないのか、話をする時は何かと必死さも垣間見える。友達だと言えば本当に嬉しそうに笑うし、見るからに幸せそうだ。
「(はあ、一番嫌な女って結局あたしじゃないの)」
そこまで考えて、マナはまた一度溜息を洩らした。今日は溜息のオンパレードである。
そんなマナを、ウィルは心配そうに見つめていた。
疲れが溜まっているのではないか。そう声を掛けようとしたのだが、それは不意に横から聞こえてきた言葉と声により阻まれる。
「マナさん、大丈夫ですか?」
「……え? ああ、リュート。大丈夫よ」
「そうでしょうか、今日はなんだかお元気がないように見えますよ」
心配そうな面持ちでリュートが歩み寄ってきたのだ。
マナはそんな彼に対し軽く眉尻を下げ、そして愛想笑いなど浮かべてみせる。
しかし、リュートは引き下がらなかった。依然として表情には心配そうな色を滲ませたまま、片手を己の胸の辺りに添えて痛ましそうに眉尻を下げる。
「心配です、少し気晴らしにでも行きませんか?」
「気晴らし?」
「はい、散歩なんてどうです? ずっとお屋敷に篭っていらっしゃるから気分が塞いでしまうんですよ。今は休憩中でしょう?」
確かに今は休憩中だ、だからこそジュードもカミラと楽しげに談笑しているのである。
カミラも一度昼食を食べに神殿から帰ってきているのだ。また時間になれば、彼女は負傷者の治療の為に神殿へ戻ることになっている。
マナは暫し考え込むような間を空けてから、静かに頷いた。
「……そうね、確かにそうかも。じゃあ、気晴らしの散歩にでも行こうかな」
「ええ、そうです! 僕、お供しますよ!」
マナから返る返答に、リュートは表情を輝かせてそれはそれは嬉しそうに笑った。
そこで、口を挟んだのは当然ながらウィルである。彼はマナに想いを寄せている、他の男と二人きりにするなど冗談ではない。
ましてや、リュートは非常に女好きなのだから。
「ちょ、ちょっと待った!」
「どうしたんですか、ウィルさん?」
「(コイツ、女がいないとこじゃ俺やジュードのことなんて呼び捨てのクセに……っ!)」
そして、女性がいないところでは問答無用でタメ口であり、敬語など間違っても使わない。
それが今は、無害そうなキョトンとした表情でウィルを見つめてくる。腸が煮えくり返りそうだとさえ思った。どうにも好意的に見れない。
「お……俺も、行こうか?」
だが、マナに元気がないのは事実だ。ウィルには当然ながらその理由は分かっているのだが、どうにも口に出せない。
苦し紛れに無理矢理に笑みなど作ってみせて一言向けると、マナは悪気なく笑って――返答を一つ。
「ウィルは休んでなさいよ、色々と作業して疲れてるでしょ。あたし、リュートと行ってくるわ」
マナに決して悪気はない。ジュードのことを鈍い鈍いと言う彼女ではあるが、マナ自身もとことん鈍いのだ。未だにウィルの気持ちに全く気付いていない。
悪びれなくそう断られてしまえば、もう何も言えなかった。
内心で密かに涙しながら、がっくりと頭を垂れて――蚊が鳴くような小さな声で返事を洩らす。
「…………ハイ」
止めたい、なんとか止めたいのに。
あまりしつこく迫っては、自分の気持ちに気付かれてしまう。そう考えると動くに動けず、ウィルは奥歯を噛み締めた。
マナは、ジュードが好きなのだ。自分のこんな気持ちは迷惑に決まっている、困らせるだけだ。そんな想いがあるからこそ、ウィルはマナに対して表立った働きかけはしないようにしていた。時折、思わず本音が洩れてしまうようなことはあったが。
マナはリュートを伴い、作業場を出て行く。
その去り際、振り返ったリュートが勝ち誇ったような――そして見下すような嘲笑を浮かべてくるのを目撃して、ウィルは忌々しそうに拳を握り締めた。
「あの野郎……っ!」
* * *
屋敷を後にすると、マナは両手を天へ向けて一度大きく身を伸ばす。
リュートの言うように、ずっと屋敷の中に篭っていた為か凝り固まった筋肉を解すように。
「っああ~~……やっぱり、たまには外に出ないとダメねぇ」
「そうですよ、マナさんはまだまだお若いんですから、ずっと屋敷の中にいるなんて勿体ないです」
「そうは言っても、仕事だからね」
マナはジュードやウィルのように、自分の仕事に確かなプライドを持っている。女だから、などと言う理由で怠けたりする気はない。彼女自身、鍛冶屋としての仕事は好きなのだ。
ジュードやウィルとは幼い頃から共に育ってきた家族であり、仲間でもある。一言で言い表せるような簡単な絆でもない。
また溜息を洩らしそうになって、マナはなんとか堪えた。
だが、そこにリュートが不意打ち気味に問いを投げ掛ける。
「マナさんって」
「ん?」
「ジュード君のこと、好きなんですか?」
「――ぶッ!」
特に行くアテもなく街の中をゆっくりとした歩調で歩きながら、辺りを行き交う通行人に視線を向けていたマナは、そのあまりの唐突な問い掛けに思わず吹き出した。
彼女自身には別に隠すつもりもないのだが、そうも簡単に分かってしまうものなのかと、マナは足を止めて一歩後ろを歩くリュートを複雑な面持ちで振り返る。リュートはそんな彼女を見て、そっと柔らかく笑ってみせた。
「その反応、図星ですね」
「はあ、そうよ。ご明察」
隠すだけ無駄だろうことは、マナとて理解している。自分が隠しごとの類はあまり得意ではないことも。
両手を後ろで緩く組みながら再び足を進め始める彼女に対し、リュートは歩みを多少速めてそんなマナの傍らに並んだ。
暫し互いに無言のまま歩き続けてはいたが、ややあってからマナが静かに口を開く。伏せ目がちで先程までの疲れたような様子とは異なり、何処か慈愛に満ちた――そんな優しい表情。本当に大切なものを語るような。
「……ジュードだけだったのよ」
「何が、ですか?」
「親を亡くしたあたしに、手を差し伸べてくれたのは」
今現在のマナの頭にあるのは、当時まだ幼かった自分とジュードの姿。
親を亡くし孤独になったマナを、村の者達は腫れ物にでも触るような余所余所しさを以て接していた。
まだ子供だからと食べ物を分け与えてくれる大人は多かったが、それでもマナはいつでも寂しさを感じていたのである。
当然だ、当時のマナはまだ六歳。これから七歳になろうと言う時だった。そんな幼い子供が突如として親の温もりを失ったのだから、孤独を感じるなと言う方が無理な話。
そんな時だ、マナがジュードと出逢ったのは。
「ふふ、いつも通ってる森に行こうと思って飛び出してきたのに、勢い余って村まで降りてきちゃったのよ。本当にバカよねぇ……小さい頃からそうなんだから、大きくなってからもおバカなまま変わる筈がないんだけどさ」
そう毒突きながらも、依然としてマナの表情は何処までも優しい。
リュートは彼女の話の腰を折るようなことはせず、語られていくマナの過去に耳を傾けていた。
「でもね、独りぼっちでいたあたしに……ジュードは手を差し伸べてくれたのよ。周りの大人や子供達は、みんな積極的にあたしと関わろうとしなかったってのに……」
親を亡くした孤児など、村の者からすれば厄介なだけだ。
下手に干渉して懐かれても困る、そんな認識だったのだろう。麓の村は決して裕福ではなく、地の国グランヴェルが完全に鎖国してしまってからは特に貧しくなっていった。
懐かれて、養うようなことになっては困る。恐らくは、それが当時の大人の本音だ。だから子供達も大人にキツく言われていたのだろう、あの子とは仲良くするな、と。
そんなマナの元に不意に現れて孤独から救ってくれたのが――ジュードだったのだ。
神護の森に行く為に勢い良く家を飛び出したが勢い余って道を間違え、村まで降りてきてしまったのである。
元々遊ぶことが目的であったらしく、一人で寂しそうにしていたマナへ駆け寄るなり、人見知りもせずに「遊ぼう遊ぼう」と懐いたのがキッカケだった。
共に遊んでジュードに全てを打ち明けても、当のジュード本人は首を捻るばかり。
『マナと、おともだちになってくれる?』
『え? もうトモダチでしょ?』
恐る恐るマナは問いを向けたが、ジュードはあっけらかんと――そう答えたのだ。至極当然のことのように。
そこまで思い出して、不意にマナは愉快そうに笑った。
「――ふふっ、その時にね、らしくないけど思ったのよ。この人があたしの白馬の王子様かもしれない、って」
孤独で苦しい日々の中、不意に現れた不思議な男の子。
どうも緩い雰囲気ではあったが、それでもマナがジュードに惹かれるのに時間は掛からなかった。女の子の恋は、男の子よりも早いのである。
マナにとっては、なんとも懐かしい記憶だ。それ故に今の現実は彼女にとって特に苦しい。そんな初恋相手とも言えるジュードが、他の女性に夢中なのだから。
それまで黙っていたリュートは、そこで歩みを止めると静かに口を開いた。
「……妬けますね」
「……は?」
過去の甘酸っぱい――だが幸せな思い出に浸るマナを現実に引き戻したのは、リュートのその呟きであった。
何事かと朱色の双眸を丸くさせ、改めてリュートを振り返る。
不思議そうに何度も瞬きながらマナが小首を捻ると、リュートは眉尻を下げて片手を自らの胸の辺りに添えた。
「マナさん、どうでしょう。僕があなたの本当の白馬の王子様になる、と言うのは」
「え……」
「つまり――」
僕と、真面目にお付き合いしていただけませんか?
リュートのその言葉に、マナは思わず双眸を見開いた。