第七話・水の国での邂逅
今回は一旦ジュード達はお休みです。
次話からまた彼らに戻ります。
その日、オリヴィアは兵士達の目を盗んで街の外に出ていた。
王都シトゥルスに降った雪は未だに止むことを知らず、その積雪は次第に水の国全土に広がりつつあった。
その異常気象故に彼女の父である国王は対応に追われ、母である女王は姿を見せない。元々、彼女の両親は不仲――とまではいかないが、いつからか上手くいかなくなっていた。
父である国王が妻に対し、どう接して良いのか分からなくなっているような状態だ。女王はそんな夫の様子に戸惑い、悩み、そして距離を置くまでになった。
それが何年か続き、彼女の母である女王は公に姿を見せることがなくなってしまったのだ。今では家族である国王や娘のオリヴィアとて、母の姿を見ることは少ない。オリヴィアが人に対し愛情を強く求める背景には、確かな寂しさが存在していたのである。
続く異常気象に、今度は父親までもが彼女に構わなくなった。
それどころかジュード達が水の国を発ってからと言うもの、父はオリヴィアに少々厳しく当たるようになっていたのだ。
それはもちろんオリヴィアが憎いからと言うものではなく、あくまでも彼女のことを思ってのことなのだが。大切な愛娘であるからこそ甘やかすだけではいけないのだと――土下座までしたウィルを見て、国王自身が考えを改めた結果だ。
だが、これまで甘やかされて育ってきたオリヴィアにとって、それは衝撃的なことだった。
父はもう自分を愛してくれていないのではないか、そう考えるまでになっていたのだ。だからこそ、彼女は気持ちを落ち着ける為に兵士の目を盗んで城の外に出ていた。
時刻は、深夜に日付が変わって小一時間。
気温は非常に低く、辺りには粉雪が舞っていた。黒い夜空から次々に雪が大地に降り注ぎ、辺りを真っ白に染め上げていく。
普段のオリヴィアであれば既に眠っている時間帯。だが、今の彼女の目は完全に冴えてしまっている。
自分は父にも母にも愛されていないのではないか、そんな不安が彼女を支配していた。
「はあ……こんなことなら、ジュード様について行くべきでしたわ……またいらしてくださると仰っておりましたけれど、次はいつお逢い出来るのかしら……」
そんな彼女の心に在るのは、やはりジュードの存在だ。一方的な一目惚れではあったが、ジュードは自分を無視するようなことはなく向き合ってくれる、そんな気がしていた。
だからこそオリヴィアは思った。ジュードに逢いたい、と。
しかし、それは叶わないことだとも理解はしている。ジュードが王都シトゥルスを発ってから一週間近くが経過していた。既に火の国の王都ガルディオンに到着していてもおかしくはないだろう。物理的な距離がありすぎる、今すぐに逢いに行ける存在ではない。
「はあぁ……ジュード様ぁ、オリヴィアは寂しいですわ……」
刺すような冷えた空気さえ今は気にならなかった、それほどまでに今現在のオリヴィアは精神的に弱ってしまっている。
少しでも寂しさを埋めるように黒い夜空を仰ぐ、空からは依然として白い粉雪が舞うように降ってくるばかり。そんな変わらない光景も、オリヴィアの気持ちを落胆させる一因となる。
異常気象が落ち着けば父である国王もまた、オリヴィアに構ってくれるかもしれない。そうは思うのだが、異常気象の原因さえ分かっていない今では、それがいつになるのかも定かではないのだ。
また一つ、オリヴィアの口からは溜息が零れる。それは白い吐息となり、すぐに空気に溶けて消えた。
「……?」
しかし、そんな時。
オリヴィアは、ふと何かの気配を感じた。
なんだろうと、彼女は好奇心の赴くままにそちらに足を向ける。そこは林だった。
雪の積もった林の中に足を踏み入れ、オリヴィアは気配のする方へ導かれるように足を進めていく。魔物とはどうにも異なる気配だ。
程なくして、林の中にその気配の対象を見つける。
それは、夜の闇に紛れる人の姿であった。青み掛かった銀色の長い――そして柔らかそうな髪を持つ人の姿がそこに在ったのである。
何を見ているのか、もしくは何も見ていないのか。その人物は林の奥の闇にただただ視線を投じていた。密かにその視線を辿ってみてもオリヴィアの目は何も捉えない。
男なのか女なのか、背中側である以上どうにも判断し難い。
だが、その疑問もすぐに解決する。
「……何か用か?」
オリヴィアの存在には既に気付いていたらしく、唐突に言葉を発したかと思いきや静かに――何処までも緩慢な所作で彼女を振り返ったのだ。低いその声は、性別が男性であることを教えてくれた。
それには流石にオリヴィアも驚いたのか、ビクリと肩を跳ねさせる。
振り返った男の顔は驚くほどに整っていて、ルルーナに「男好き」と称されるオリヴィアでさえ言葉を失ってしまうほど。
切れ長の双眸は透き通るような水色をしており、気難しい性格でも表すように眦はややつり上がった形。長めの前髪は整えられた様子はなく、顎の下辺りまで伸びている。その髪から覗く瞳は何処までも澄んでいた。
後ろ髪は腰よりも下――更に言うなら、地面に届きそうなほど長い。しかし、こちらも整えられたような様子はなく、無造作に伸びっぱなしにしている様子が見受けられた。
「あ、あの……このような場所で、一体何を……?」
「…………」
オリヴィアはそんな男に純粋に興味が湧いた。ただ寂しかっただけ、と言うのもある。
こんな人の気配さえない森で、たった一人佇んでいる男に親近感が湧いたのだ。彼も自分と同じように誰も傍にいてくれないのではないか、と。
だが、オリヴィアの問い掛けに男は答えなかった。答えることなく、再び夜の闇の中へと視線を投じる。
しかし、完全に無視した訳ではないらしい。やがて静かに口を開いた。
「……見ていた」
「え? 何を、ですか?」
「空気を、……感情の流れを」
その言葉に、オリヴィアは疑問符を浮かべた。それほど男の言うことは不可解だったのである。
空気や感情の流れを、一体どう目視すると言うのか。
そんなオリヴィアの疑問は理解しているらしく、男はまた改めて彼女を振り返ると目を細めて言葉を連ねる。何処となく苦しそうに、そして痛ましそうに。
「……この辺りの空気は、毒のようなものだ」
「毒……?」
「生物を、自然を……蝕んでいく、人間が……私が少し離れていた間に、既にこんなにも……」
その言葉は、やはりオリヴィアには理解の出来ないことではあった。
だが、男は今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべている。そんな様子を見てオリヴィアは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
異常なほどに胸が高鳴っている。心拍数が上がって、雪の降る真っ只中だと言うのに全身が熱を持っているような錯覚さえ感じていたのだ。
彼の憂いを、悲しみを。少しでも良いから取り除いてあげたい――そんな想いさえ抱いてしまった。
「人間が? どういうことですの?」
「……人間の負の感情が、生物を蝕み苦しめていく。大地を、水を……風を腐らせ、灯火さえ消してしまう……」
そこでオリヴィアは、先日森で遭遇した魔族の少女――ヴィネアの言葉を思い出していた。
彼女は、姫巫女が張った結界を人間が消してしまった、と言っていたのだ。今現在、目の前の男が言っていることは、それに似通ってはいないだろうか、と。
しかし、彼女は男の言葉を完全に理解は出来ていない。
「わたくしの感情も、その原因の一つになっているのでしょうか?」
自分が抱えている様々な感情。
それらを考えて、ふとオリヴィアは小さく呟いた。
「お父様もお母様も、最近わたくしに全く構ってくれないんですのよ。お慕いしている男性も、わたくしを置いて行ってしまいましたわ」
「……」
「それに、わたくしではなくリンファを連れて行くだなんて……ジュード様達のお考えは理解が出来ませんわ」
「…………なに?」
オリヴィアの中で、まだリンファの一件は完全に消化しきれていないものであった。
ウィルが公の場で土下座までして頼み込み、その結果リンファを連れて行ったのは当然オリヴィアにしてみれば面白いことではない。父がその頼みを受け入れたのも、彼女にとっては面白くない要素の一つだ。
だが、思いのままに不平不満を洩らす最中、男はふと小さく――本当に小さく口を開いた。それを見て、オリヴィアは不思議そうに目を丸くさせる。何か言っただろうか、そんな様子で。
「……そうか。ジュード、な……」
「え? ジュード様のこと、ご存知ですの?」
男は薄く笑って、その問い掛けには答えずに早々に踵を返す。長い髪が宙をふわりと舞い、まるで尾のように背中から垂れた。
「あ……待って、お待ちくださいませ!」
その場から立ち去ろうとする男を見て、オリヴィアは慌ててその後を追い掛ける。現在進行形で孤独を感じていた彼女にとって、ほんの僅かな間であっても時間を共有した存在と言うものに対し、親近感を抱いたのである。
だが、男は緩慢な足取りで林を出るべく歩みを進めていく。オリヴィアを待つでも、突き放すでもない。どっちでもいい、そんな様子だ。
程なくして林を出ると、オリヴィアは自らの胸の辺りに片手を添えて恐る恐る男の背中へ声を掛けた。
「わたくし――……わたくしは、オリヴィア・シトゥルスと申しますわ、あなたは……?」
「……」
オリヴィアは必死だった。
確かに彼女は男に弱い、ジュードのことも単純に一目惚れであった。
しかし、今回は相手が男性と言うだけではなく――彼女にとってほんの僅かな時間であれ、自分の孤独を埋めてくれた存在として一方的にだが親近感を抱いたのだ。叶うのならまた逢いたい、彼女にそう思わせるのは容易であった。例え、何かしら実りのある会話をした訳ではなくても。誰かが傍にいてくれれば、それだけで彼女が抱く孤独は消えていくのである。
男はオリヴィアに背中を向けたまま暫し黙り込んでいたが、ややあってから静かに彼女を肩越しに振り返った。
「……ス」
「えっ?」
「――水の、フォルネウス」
男――フォルネウスはそれだけを告げると、地を蹴り空高く跳び上がる。
今度こそ、オリヴィアが止めても待つことはなかった。
ふわりと空へ浮かび、冷えて澄んだ空気を一度しっかりと吸い込む。
アルシエル直属の部下、ブラック・エレメンツに所属するフォルネウスは水の扱いに秀でた存在だ。そんな彼にとって、冷えた空気というのは生命の源のようなものである。
静かに一つ吐息を洩らして、フォルネウスは辺りを見渡した。彼の視界には、雪により真っ白に染まった大地が映る。辺り一面が銀世界だ。そこに月の柔らかな光が加わり、なんとも幻想的な雰囲気を創り出していた。
まるで、ここだけが現実ではないような。
「……この世界は、愚かな人間達によって穢されている……やはり私は間違ってはいない。人間を粛清し、この世界を根本から創り直す……その為に私は――」
その先は、言葉にならなかった。
彼の目には、世界は何より美しいものとして映る。
だが、人間はその美しい世界を我が物顔で穢していくのだ。フォルネウスはそんな人間達を許せない。
だからこそ、この世界の行く末を憂えている。それ故にアルシエルに協力しているのだ。――例え、最愛の兄と袂を分かつことになろうと。
「……あなたが間違っているのだ、兄上。世界はこんなにも美しい。人間はそれを当たり前のように穢し、破壊していく。世界の為に……私は贄をサタンに捧げ、人間共を粛清する」
改めて固く誓うようにフォルネウスは天を仰ぎ、誰に言うでもなくそう言葉を連ねた。
遠く離れた兄に自分の決意が届けば良いと――そう願いながら。