第二話・二つの想い
自宅に帰り着いたジュード達は、久方振りになるグラムとの再会を喜んだ。
普段より騒がしく――賑やかな夕食の時間を楽しむ。手料理はマナがいつものように担当し、初めて訪れたリンファは幾分緊張した面持ちで室内を見回していた。
そんなリンファに対し、ウィルは家のあらゆる場所を説明していく。仲の良い兄妹のような雰囲気にグラムもメンフィスも表情を和らげた。
「では、魔族が現れたのか」
「はい、吸血鬼と……あとはゴツい男と幼女が」
「とんでもない強さを持ってました、あたし達じゃ全然歯が立たなくて……生きてるのが不思議なくらいですよ」
ウィルとマナの言葉に、グラムは顎に片手を添えて小さく唸る。彼とて、今まで魔族と戦った経験はない。そしてそれはメンフィスも同じであった。
「ジュード、本当に何も覚えてはおらんのか?」
グラムからの問い掛けに、グラスの水を呷っていたジュードは困ったような表情を浮かべて小さく頷く。魔族を退けたのが自分なのだと言われても、彼自身が一番信じられずにいるのである。記憶には全く残っていないのだから。
「うん、……覚えてない」
「ジュードのアレがいつでも出せるモンなら良いんだけどな」
これまで魔族と戦った際のジュードの強さは、仲間であるウィル達の目から見ても異常なものであった。いつも追い詰められた時にあの変化が起きるのだが、キッカケが何であるのかは定かではない。
そして、あの力が何なのかも全く分かっていないのだ。
ジュードは自分の手の平を見つめて、複雑そうに表情を顰める。自分は覚えていないのに、仲間達は自分が知らない自分を知っている。妙な怖さのようなものがあった。
ジュードの隣に座るカミラは、そんな彼を心配そうに見つめていた。
* * *
「グラム、ジュードが心配か?」
子供達が各々解散し、部屋へ休みに戻ったところでメンフィスはグラムに一言声を掛けた。時刻は夜の十時、大人の酒盛りはこれからが本番である。
酒の入ったグラスを軽く回し、氷が小気味好い音を奏でるのを楽しみながらグラムは一つ唸る。血の繋がりがないとは言え、ジュードはグラムにとって大切な息子だ。心配になるのは当然である。
グラムは向かい合って座るメンフィスを一瞥し、また低く、そして小さく唸る。そんな様子を見てメンフィスは薄く笑った。
「ふふ、愚問だったな。……ワシも心配だよ、離れている間に随分と色々なことがあったようだ」
そう穏やかに語るメンフィスの声を聞きながら、グラムはふと昔を思い出していた。
それは、グラムが初めてジュードと出逢った時のこと。そして、それからの生活。
グラスの中身を呷り、また一つ小さく唸りを洩らす。
「……ジュードはな、覚えていないんだよ」
「ん?」
空になったグラスにまた酒を注いでいきながら、ふとグラムは口を開いた。突然語り始めた親友にメンフィスはやや赤ら顔で疑問の声を洩らす、既に多少なりとも酔いが回っているらしい。
そんなメンフィスの持つグラスにも酒を注いでやりながら、グラムはまた改めて口を開いた。
「ワシに拾われるまでのことだ」
「……グラム?」
「どこで何をしていたのか、どこから来たのか……あの子は何一つ覚えておらんのだよ」
グラムがジュードを拾ったのは、今から大体十年ほど前になる。
当時のジュードはまだ幼く、医者は六歳か七歳に成り立てだろうと言った。
六歳、七歳ともなればある程度の記憶があってもおかしくはない。何処から来たのか、親がどのような人であったのか、自分の名前は何なのか。
しかし、幼いジュードにはそれらの記憶が全くなかったのである。そして、その記憶は今もまだ戻っていない。
「……余程のことがあったのか何なのか、魔族があの子を狙うのは……ジュードが忘れてしまっている記憶に関係があるのかもしれんな」
ジュードが何処で生まれて、それまで何処で生活していたのか。その手掛かりになるものは彼が持っていた腕輪くらいしかない。
そのジュードが、一体なんだと言うのか。魔族にとってどのような意味を持つのか。グラムにもメンフィスにも当然分からないことである。
「あの子は、ワシが見つけた時はボロボロだった。ボロボロで、何も思い出せなくて、不安で恐ろしくて……壊れるくらい泣いておった」
「…………」
「そんなあの子が、なぜ魔族に目を付けられねばならん! ジュードが一体なんだと言うのだ!」
グラムは片手で拳を作り、その手でテーブルを叩く。抑え切れない憤りを隠すことなく、そのままに表している。
メンフィスはそんな親友の姿を珍しく無言で眺めた。子供達の前では決して見せることのない、怒りを露にした様子だ。気心知れたメンフィスの前だから見せるものであるとは彼自身も理解している。
そして、心の底からジュードのことを心配している為でもある。
既にジュードは怪我をしている。それが魔族によって負わされた傷であるのだとも、彼らから聞いた。
だからこそ、グラムは心配で仕方がないのだ。これからも彼が、ジュードが危険に巻き込まれるのではないか、また傷を負うのではないかと。
「メンフィス」
「なんだ」
「ワシに何かあったら、あの子達を頼むぞ」
「おいおい、お前ワシより酔っておらんか?」
「酔ってなどおらん」
そうは言いながらも、メンフィスに負けず劣らずグラムも赤ら顔である。それでもまだ飲もうと言うのか、グラスに酒を注いでいく。
だが、手元は既に危なっかしい。酔いは充分に回ってしまっているようだ。
メンフィスは小さく吐息を洩らすと、片手で軽く後頭部を掻いた。
一方で、風呂から上がったジュードは気晴らしにと外に出て星空を眺めていた。考えることは様々にある。
魔族のこと、テルメースと言う女性のこと、地の国のこと、ヴェリア大陸のこと、そして――自分自身のこと。
水の国で、魔族とは二度戦った。
だが、そのどちらもジュードは途中から全く覚えていないのである。
一思いに殺さず、自分を『贄』と呼んだ魔族のことも気になる。サタンと呼ばれていた、あの気味の悪い生き物のことも。
考えても分からないことばかりである。元々ジュードは頭を使うのは苦手ではあるが、今回ばかりは誰がどれだけ考えても答えなど出そうにない。
はあ、と。一つ重苦しい溜息を零してジュードは足を進めた。
辺りは既に夜の闇に支配されている。
僅かにも冷たさを孕んだ風がジュードの頬を撫でて、流れていく。風の国ミストラルの気候は比較的温暖ではあるが、夜は多少なりとも冷え込むことはある。それでも、水の国に比べれば暖かいのだが。
頭が勝手にあれこれ考え始めるのを止めるように、ジュードは自分自身の頭を冷やすべく神護の森の方へと足を向けた。
大地を照らす柔らかい月の光を頼りに暗い夜道を歩きながら、静かに天を仰ぐ。黒い夜空には淡い光を湛える月が浮かび、辺りにはそれぞれ輝きを持つ星々が散っている。良い夜だと言うのに、考えることが多過ぎてどうにもジュードの気分は晴れない。旅立つ前はよくこの道を歩いて神護の森に通っていたと言うのに、これまでと違ってあの森の空気に触れても気持ちが落ち着いてくれるかどうかは定かではなかった。
魔族に囚われる不安や恐怖はほとんどない、あるのは自分自身の存在についての不安や疑問だ。
一体、自分は何なのか。
魔族が求める理由は何なのか、仲間達が言う突然の変貌はどういうことなのか。
まるで自分が自分ではなくなっていくような錯覚さえ覚えて、ジュードはらしくもなく多少の恐怖を感じていた。
神護の森は、いつもと変わらずジュードを優しく出迎えてくれる。
夜と言う時間帯であるにも拘らず、不気味さは全く感じない。寧ろ、天から射し込む月の光が神秘的な光景さえ創り出していた。
月明かりに照らされる森は大層美しい。澄んだ空気がジュードの身を包み、慰めるように穏やかな風が吹く。
ジュードは何度か深呼吸を繰り返し、全身に神護の森の神聖な空気を取り込む。すると、先程までの複雑な思考回路は幾分か落ち着き、やや気分が上向いたような感覚を覚えた。
やはり神護の森は、いつでもジュードの気持ちを落ち着かせてくれる場所であるらしい。
今日は久し振りに少し奥の方へ行ってみようかと思い、しかし足を止める。
なぜなら、人の姿が見えたからだ。
森の奥に続く道に佇む人影、辺りを軽く見回しては落胆するように頭を垂れている。夜の闇に紛れてはいるが、その姿は既に見慣れていた。他でもない、カミラのものだ。
ジュードは彼女の元に歩み寄ると、驚かせてしまわないようにと極力穏やかに声を掛けた。
「……カミラさん、どうしたの? こんなところで……」
「――! あ……ジュード……」
それでも、やはり驚かせてしまったようだ。
カミラはビクリと大きく肩を跳ねさせ、弾かれたようにジュードを振り返った。だが、すぐに安堵したかの如く表情を綻ばせる様子を見て、ジュードも緩く眦を和らげて彼女を眺める。
辺りを見回していたことを考えれば、何か落し物でもしたのだろうか。
「帰り道が分からなくなった、……ってことはないよね」
「う、うん。それは大丈夫」
それはそうだ。カミラは確かに好奇心旺盛な少女ではあるが、何も方向音痴と言う訳ではない。
では、一体何をしていたのか。ジュードのその疑問は、当然ながらカミラに伝わっているらしい。
彼女は身体ごとジュードに向き直ると両手を腰の後ろ辺りに回して視線を下げ、暫し緩く身を右左にと軽く揺らす。誤魔化したいような話したいような、考えあぐねていると思われる様子、仕種。可愛い、と純粋にジュードは思った。
そんな彼の心情も露知らず、カミラはややあってから顔を上げると何処か不安そうな面持ちで口を開く。
「あ、あのね」
「うん」
「わたし、水の国のあの森でね、あの人の声を聞いたの」
唐突な言葉に、ジュードは疑問符を浮かべる。
水の国で森に立ち寄ったと言えば、鉱石を手に入れた後だ。ウィルとリンファを待つ為に鉱山近くの小屋で身を休めた時。漂う険悪な雰囲気に耐え切れず、薪拾いに行ったカミラを探して奥地に足を向けたことを記憶している。
そして、その森でジュードは魔族と邂逅を果たしたのだ。ほとんど、夢と変わらない状況で。
「あの人、って……まさか」
「うん、ヴェリアの第二王子さま」
カミラから返る肯定に、ジュードは複雑な心境に陥った。
以前この神護の森でカミラの抱える痛みや傷を聞いて、ジュードは思った。彼女のその傷が、少しずつでも癒えていけば良いと。
しかし、声が聞こえたと言うことはヴェリアの第二王子は生きていると言うことだろう。
「……王子様、生きてたの?」
「分からないの、声だけしか聞こえなかった……会話は出来たんだけど、呼び掛けても姿は見せてくれなくて……」
と言うことは、姿を見せない理由こそ定かではないが、王子は生きている。
ヴェリアの第二王子と言えばカミラの初恋相手である。更に言うなら、今でも大切に想っている存在で、彼女にとって特別な男性だろう。
死んだと思っていた初恋相手が実は生きていて、カミラと再会して結ばれる。なんともロマンチックな話だ。
そこまで考えてジュードは腹の中に石でも詰め込まれたような、胸が重くなる錯覚を覚えた。素直に喜べないのである。
カミラにとって何より大切で特別な王子が生きていたとなれば、当然彼女は王子を愛するだろう。そこに他者が入り込む余地は――恐らく存在しない。現在進行形でカミラに想いを寄せるジュードにとっては、なんとも辛い現実だ。しかし、ジュードは一度目を伏せてすぐに小さく頭を左右に振った、余計な考えを振り払うように。
「(何を考えてるんだ、オレは……カミラさんが喜んでるんだ、それで良いじゃないか)」
その複雑な感情が嫉妬であることに、当然ながらジュードは気付いている。だからこそ深い自己嫌悪の念を抱いた。
いつの間にこんなに欲深くなったのだろう、そう思いながら。
「あの人が言ったの、もうすぐ魔族がやって来るから仲間を連れて早く森を出るように……って。それでわたし、小屋に戻ろうとしたらジュードの声が聞こえて……」
「(しかも好青年なのか)」
どうやら、王子は間接的にでもジュード達を守ろうと――助けようとしてくれていたらしい。結局魔族との邂逅は果たしてしまったが、それでもその姿勢は恋敵になるジュード自身でさえ好感を覚える。現在進行形で嫉妬している自分とは大違いだと、言葉には出さないがそう思った。
「でも、あれ以来……声が聞こえないの。この森は故郷の森に似てるから、ここならもしかしたらと思ったんだけど……」
「…………大丈夫、きっとまた聞こえるよ」
小さく呟いて俯くカミラがあまりにも寂しそうで、ジュードは思わずそう言葉を返していた。彼女が別の男を想って落ち込むのは面白くないが、落ち込んでいる姿は見たくないのである。
ジュードの言葉にカミラは顔を上げると、瑠璃色の双眸を丸くさせて何度か瞬き――そして、花が綻ぶようにはにかんだ。それを見てジュードの胸は一つ確かな鼓動を刻むが、共に鈍い痛みを覚える。
好きだ、と思うのだけれど。その彼女は自分ではない別の誰かを想い、愛している。想いが募れば募るほど、低温火傷の如くじわじわと焼け付くような熱と痛みをジュードに与え続ける。
「(カミラさんが幸せなら、それでいいじゃないか)」
好きな人が幸せそうに笑っているなら――幸せであるなら、それで良い筈だ。好きな人の為に身を退くのもまた、愛情の一つである。
だが、人の心と言うのはどうにも自由にならないものだ。頭では理解していても、心が駄々を連ねる。嫉妬と言う形で。
「……ジュードは、大丈夫?」
「え? な、何が?」
「さっき、とても悩んでるように見えたの。お夕飯を食べてる時。……魔族のこと、やっぱり気になる?」
夕飯時と言えば、みんなでこれまでの話を纏めていた時だ。やはり何度聞いてもジュードは自分自身の変貌を記憶してはいないのだが。
魔族のこともやはり気にはなる。まず何から考えれば良いのか、それさえ今のジュードには分からない。
魔族のこと、自分のことに加え――カミラが愛する王子のことまで悩みごとリストに加わってしまった。普段あまり使われないジュードの頭はパンク寸前である。
だが、そんなジュードの手を不意にカミラが両手で取った。
「……え、あれ。カミラ、さん?」
唐突の行動に、思考回路が停止した。
左手を両手で掴まれて、ジュードは思わず目を丸くさせて何度か忙しなく瞬く。手を掴まれる――それだけで気落ちした心が元気を取り戻しつつあるのだから、非常にゲンキンなものである。
カミラは普段のふんわりとした印象とは異なり、何処までも真剣な表情で真っ直ぐにジュードを見上げ、そしてしっかりとした口調で言葉を連ねた。
「ジュード、魔族がなぜあなたを狙うのか……それはわたしにも分からない」
「……うん」
「でも……わたし、わたしね」
カミラはヴェリア大陸からやってきた少女だ、魔族のことについて他の人間よりも詳しい。だが、その彼女であっても魔族の狙いは分からないのだ。
しかし、カミラは依然必死な様子で言葉を連ね、そしてジュードへ詰め寄った。
「わたし――あなたを守るわ。絶対に、魔族なんかに渡したりしないから」
「カミラさん……」
そう告げると、次いでカミラは徐々に自信をなくしたように視線を下げていく。小さく途切れ途切れに呟きながら、それでも思っていることだけはしっかりと言葉に乗せた。
「だから、その、わたしじゃ頼りないかもしれないけど……ちょっとでもジュードが元気になってくれると……嬉しいな」
その言葉に、ジュードは意識するよりも先に顔面に熱が募るのを感じる。
ジュードは男だ、女の子に守られて喜ぶような性格はしていない。だが、彼女のその気持ちが純粋に嬉しかった。
少しでも、元気付けようとしてくれていることが。
それと同時に胸に甘い痛みを感じる。想いが募れば、それだけ諦めるのが難しくなるのだ。
手を伸ばして、その身を思い切り抱き締めたいとジュードは思う。だが、それが出来ないことも分かっている。
カミラが好きなのは、ヴェリアの第二王子なのだから。
「(彼女が好きだ)」
「(この人が好き)」
互いに交錯する想いを抱きながら、それでもその想いを胸の奥深くに抑え込む。どちらも、決して伝えてはいけないものだと認識しているからだ。
ジュードは、彼女が本当に好きな人を真っ直ぐ見つめられるようにと。
カミラは、今以上の危険に彼を巻き込まないように。
「……ありがとう、カミラさん」
「ううん、……どういたしまして」
交わる想いでありながら、その二つの想いは両者の間にある大きな隔たりにより阻まれ、また二つに分かれて行き場を失った。