過去話・ジュード編・2
「ああ、ウチの子だよ。悪いねぇ、わざわざ」
最早、何度目になるかさえ分からない言葉にグラムは一度小さく溜息を洩らし、返事もしないまま早々に踵を返す。
それを見て憤慨するのは、当然声を掛けられた女だ。
「ちょっと! その子はウチの子だって言ってるじゃないか!」
立ち去ろうとするグラムの腕を掴み、女は必死に引き止めた。
だが、グラムはそんな女を肩越しに振り返ると冷ややかな視線を以て見返す。
その子――それは、グラムの傍らにいる小さな少年のことである。本当の名前かどうかは定かではないが、グラムは腕輪に記されていた『ジュード』と言う名を彼に与えた。本当の親が見つけ易いように、出来ることなら名前は変えたくなかったのだ。
ジュードは憤慨する女を見て、翡翠色の大きな目に涙をいっぱいに溜めた。そんな様子を見て、グラムはまた一つ溜息を零す。
「お前が母親であるなら、この子がこんな顔をするのか?」
「う……」
何度同じようなやり取りをしてきたか、既にグラムには分からなくなっていた。
自分が親だと口を揃えて言う大人の魂胆は考えなくとも理解出来る。十中八九、ジュードが持つ大層美しい金の腕輪が目当てなのだ。
売り払えば、一体どれだけの値段になるかさえ分からない。それほど見事で高価なものだと思われる。
言葉に詰まった女を見てグラムは今度こそ振り返ることはなく、ジュードの手を引いて街を後にした。
グラムが自宅近くの森でジュードを拾ってから、五日が経過していた。
麓の村では満足な情報も得られず、王都フェンベルや近隣の街、村にも足を運んではみたが、結局彼の親に関する有力な手掛かりは見つからない。
それどころか、先の女のように腕輪目当てで「自分が親だ!」とのたまう大人ばかりだ。
金に目が眩んだ大人に、こんな幼い子供を任せる訳にはいかない。どんな目に遭わされるか――想像さえしたくない程だ。
「疲れたかい?」
「だ、だいじょうぶ」
出来るだけ幼いジュードの歩調に合わせるように歩いてはいるのだが、子供にとって徒歩での旅は何かと辛いものがあるだろう。
大丈夫、と言い張るジュードを見てみれば、疲れていることは容易に分かる。既に足は震えているし、幼い風貌には疲労の色がありありと滲んでいた。
それでも大丈夫と言うのは、恐らくはグラムの足手纏いにならないように気を遣ってのことだ。
グラムはそっと小さく一息洩らすと、ジュードの身を片腕で抱き上げた。
「そうか。だが、ワシは疲れたな。今日はここまでにしておこう」
とにかく、ジュードは子供だ。無理をさせる訳にはいかない。
グラムはそう告げると、近くの林へと足を向けた。野営の準備をする為に。
本名かどうかは分からないが、ジュードはなんとも可愛らしい外見をしている。子供は基本的に可愛らしいものだが、ジュードは外見的に随分と整っているのだ。
それに、子供らしくない気遣いの出来る少年であった。グラムに見捨てられれば生きていけない、本能的にそう悟っている為かもしれないが、足を引っ張らないように必死になっているように思える。
徐々に、そんなジュードに対しグラムは情が移りつつあった。
野営の準備をしていても、グラムがやることを見て覚えたのか、小さいその身で薪を拾いに行く。
流石に危ないからとそれだけは制したが、そうなると今度は進んで食事の支度に勤しもうとする。なんとも子供らしくない子供であった。
抱き上げたその身を近くの池の傍に下ろすと、こちらを見上げるジュードにグラムは一つ言葉を向ける。
「ジュード、ワシは薪を拾いに行ってくる。いい子で待っとるんだぞ」
「……はい」
「大丈夫、すぐ戻るよ」
更に言うのであれば、ジュードは一人にされることを特に恐れる傾向にある。
親に捨てられたかもしれない、その現実が彼の幼い心にある所為と思われた。今度はグラムにも捨てられるのではないか、見捨てられるのではないか。そんな不安があるのだろう。
何処か不安そうな表情を浮かべるジュードに対し、グラムはそっと微笑むと大きな手の平で彼の小さな頭を撫で付けた。
小さく返事を返したジュードに何度か頷いてから、森の方へと足を向かわせる。この辺りの森は他の地方に比べて比較的浅いものがほとんどだ。迷ってしまうようなこともない、薪拾いであればそう時間も掛からない。グラムはこの辺りの地理には特に詳しいのだから。
近くの森に足を踏み入れると、辺りを軽く見回す。
既に太陽は沈みつつある、モタモタしているとすぐに辺りは闇に支配されてしまうだろう。そんな中、幼いジュードを一人にしておくのは抵抗がある。急いだ方がいい、グラムはそう思った。
ジュードは、グラムから見れば妙な子供だった。
子供らしくない部分はもちろんなのだが、グラムがおかしいと思うのはそれだけではない。
それは、魔物に関することが一番であった。
五日間も一緒にいれば、当然外で魔物に遭遇することも多かった。風の国ミストラルの魔物は他の国とは異なり比較的穏やかではあるが、それでも全く襲ってこない訳ではない。
遭遇してしまった際、当然ながらグラムは自らとジュードを守る為に戦闘を行った。
――が、グラムが魔物を殺すと、ジュードは壊れたようにわんわんと泣くのだ。
『かわいそう、痛い』と、そんなことを言いながら。
グラムには全く分からないが、それからは魔物と遭遇しても極力戦闘は避けている。
同じ子供でも、ジュードのように魔物が傷付くことで泣くような存在は珍しい。魔物は危険な存在なのだと、子供のほとんどが親から教えられている為だ。
魔物は悪であり、人間を襲う悪いものなのだと。
ジュードは親に可愛がられていなかったのか――それを理解していないのか。グラムが親のように、魔物は危険なのだと教えても頑なに否定する。
痛い、悲しい、怖い。だから人を襲うのだと。
そんなことを思い出しながら、グラムは森の中を進む。
なぜあの森にいたのか、なぜ魔物のことに心を割くのか。ジュードに関しては分からないことばかりである。
必要なだけの木の枝を拾い集めると、グラムは足早にジュードの元へと戻っていく。既に辺りは暗くなっている。早めに戻らなければ、と多少の焦りを感じていた。
だが、そんなグラムは森を出て――目を疑った。
「……ジュード、……ジュード?」
戻った先に、ジュードの姿が見えなかったのだ。
林の傍にある池付近に置いた荷物はそのまま。しかし、その場所にはジュードはいない。グラムは慌ててそちらに駆け寄り、その姿を探して周囲を見回してはみるが、やはりジュードは何処にもいない。
近くには他に林や森はない、あるのは平原ばかり。幾ら暗くなり始めているとは言え、見落とす筈もないのだ。
――ならば。そう思って、グラムはつい今まで自分がいた森を振り返る。
そして嫌な予感を覚え、薪を放るなり改めて森の方へと駆け出した。
一方、当のジュードは必死に森の中を走っていた。
頭の中に、耳鳴りのような音が響く。それと共に助けを求めるような、恐怖に染まった声らしきものも。
――たすけて、たすけて、こわい。
そんな声だった。
聞き間違いかと一度は思ったが、それでもジュードはその声を放ってはおけなかったのである。
その声が、森の中から聞こえてきたのだ。だからこそ、ジュードはグラムの帰りを待たずに森の中に飛び込んでいた。
「はあ、はあ……っ、どこだろう、確か……こっちの方から……」
ジュードは必死に必死に走っていた。声の出所は不思議と分かる。
何処で呼んでいるのか、何処に声の主がいるのか。
そして、程なくしてジュードは人の声が聞こえてくるのを聞いた。
「オラ、もう逃げられねぇぞ!」
「ったく、ザコはザコらしく刀の錆になれよ」
それは二人組の大人――そして傭兵であった。
ジュードは男二人の声を聞きながら、そっと木の陰からそちらを覗き込む。しかし、すぐに大きな翡翠色の双眸を見開いた。
なぜなら、そこにはウルフの親子がいたからだ。
小さな二匹の子ウルフは、その腹部から大量の血を流し力なく横たわっていた。大柄な――母親と思わしきウルフは、残った一匹の子供を守ろうと四足をしっかりと大地に張り、威嚇するように牙を剥き出しに唸る。
だが、戦い慣れた傭兵が、それで怯むことはない。
――――たすけて、こわい。
その声が発せられるのは、母ウルフの後ろで震える子ウルフからであった。
「ギャウウウゥッ!!」
その矢先、無情にも傭兵の男は刃を振るい――至極当然のように、母ウルフの身を切り裂いたのだ。
男の刃に斬られ、母ウルフが力なく地面に倒れ込む様。その様子はジュードの目にスローモーションのように映った。
母ウルフは、それでも必死に立ち上がって残った一匹の子ウルフを守ろうと、逃がそうとする。だが、傭兵達は魔物相手に容赦というものをしない。人間から見て魔物は悪なのだから、当然だ。
必死に立ち上がる母ウルフに傭兵達は何度も剣を振るい、傷付いたその身を更に嬲る。何度も何度も、既に息絶えようと。
そして動かなくなって、ようやく満足するのだ。
だが、そこで終わることはない。次に男達は残った一匹の子ウルフに向き直る。
「こんなの倒したって、足しにもならねぇだろうけどな」
「まあ、魔物なんか生きてたって何の役にも立たないんだからよ。正義の味方よろしく駆逐しとこうぜ」
そんな傭兵二人を見て、子ウルフは小さな身を震わせながら必死に母ウルフに呼び掛ける。周辺に広がる血の海、その中央に倒れた母の腹部を何度も舐め上げて覚醒を促していた。
だが、その時既に母ウルフは息絶えていた。当然何の反応も返らない。大切な我が子を守りたくても、何も出来なかったのだ。
たすけて、たすけて、こわい。
その言葉と、眩暈がするほどの恐怖の感情が不意にジュードの中に流れ込んできた。
だからこそ、咄嗟にジュードは木の陰から飛び出し、傭兵達に声を向ける。
「――――やめろ!!」
すると、当然ながら傭兵二人はジュードの方を振り返った。一度こそ驚いたように目を丸くさせたが、すぐに薄笑みを浮かばせて、緩慢な足取りでジュードの正面へと歩み寄ってくる。
「……なんだぁ?」
「ボウヤ、迷子かい?」
一人の男はジュードに歩み寄り、手を伸ばして乱雑にその頭を撫で回しながら揶揄を向ける。だが、もう一人の男は剣の刃についた鮮血を舌で舐め上げ――次に子ウルフに視線を遣った。
「まあ、迷子の相手する前にさっさとこっち片付けちまおうぜ」
そんな様を見て、子ウルフはまた怯えたように小さな身を震わせる。ジュードは頭を撫でる男の手を振り払い、そちらに駆け出した。
子ウルフを狙う男の片足にしがみつき、必死に声を上げる。
「やめろ、やめろったら! その子、すごく怯えてるじゃないか!」
「はあぁ? ボク、何言ってんの? アタマ大丈夫?」
男は煩わしそうに表情を顰めると足にしがみつくジュードの襟首を掴み、乱暴に放る。しかし、その程度ではジュードは諦めない。
尻餅をついて痛む臀部を摩りながら、それでもすぐに立ち上がって同じように男の足にしがみついたのだ。それには、流石に男も苛立ったのか眉を寄せてジュードの胸倉を掴み上げた。
「んぐっ」
「オマエさぁ、なんなの? 魔物なんか庇うなんて、お前も魔物の仲間か何かか?」
そう言って、男は逆手でジュードの頬を思い切り殴り付けた。小さな身はいとも簡単に吹き飛び、今度は地面に背中を打ち付ける。
幸い、子供は柔らかい。成長しきっていない身は、やや高い位置から落下しても致命的な負傷にはならない。痛みは確かにあるのだが。
傭兵達は武器の切っ先を、今度はジュードに向ける。
「変なガキだぜ、本気で魔物か何かなんじゃないのか? 魔物を庇うガキなんざ聞いたことがねぇや」
「こんなガキ一匹、死んだって何でもねーだろ。やっちまうか」
「だな、不気味で仕方ねぇよ」
ジュードが身を起こすと、男二人は剣を片手に歩み寄ってくる。その表情には確かな愉悦が滲み出ていた。弱者を甚振り、嬲ることに確かな楽しみと優越感を感じているのだ。
ジュードはそんな男達を見上げても、怯んだりはしなかった。
男は浮かべる笑みを深いものへと変えながら剣を振り上げ、その手を振り下ろすべく目を細める。
だが、そんな時。
「――――ジュード! 貴様ら、何をやっている!」
「なに!? ま、まさか、グラム・アルフィア!?」
グラムは、腕の良い鍛冶屋として世界中に知れ渡りつつある存在ではあるが、買われているのは鍛冶屋の腕だけではない。優秀な剣士としても傭兵や魔物狩りの間では知られている。
そんなグラムと、真っ向からやり合おうとする者はそうそういない。
傭兵二人は駆け付けたグラムの姿に双眸を見開き、我先にと慌てて逃げ出していったのである。
それを確認して、グラムはそっと一つ吐息を洩らす。ジュードは大丈夫かとそちらに視線を向けて、然し――グラムは咄嗟に声を上げた。
「ジュード、やめなさい!」
なぜなら、ジュードは自分の身にも構わずに子ウルフに歩み寄っていたからだ。子供とは言え魔物であり、ウルフだ。牙こそまだ成長過程にあるが、それでも子供の身を喰らうことは出来る。
しかし、ジュードはそのまま怯える子ウルフに近寄ると、そっと傍らに屈んだ。子ウルフは、先程の母のように威嚇すべく唸り声を洩らしながら、小さなその身を恐怖に震わせてジュードを睨み上げていた。
「……もう、だいじょうぶだよ」
ジュードは子ウルフに優しく声を掛け、安心させるように手を伸ばす。頭を撫でようと言うのだ。
しかし、その矢先だった。
子ウルフは大きく口を開け、伸ばされたジュードの手に思い切り咬み付いたのである。
「――――ジュード!!」
それを見てグラムは息を呑み、思わずそちらに駆け出した。
子ウルフは低く唸り、ジュードの手に咬み付いたまま離そうとしない。このまま力任せに捻られれば、彼の細い腕など簡単に千切られてしまう可能性が高い。
ジュードは咬み付かれた際にその痛みから表情こそ顰めたしたが、やはり怯えるようなことはなかった。
低く唸る子ウルフに、それでも優しく微笑み掛けて、そっと逆手でふわふわのウルフの頭を撫で付ける。
「……大丈夫、大丈夫だよ。こわくないからね」
グラムはジュードの傍らに駆け寄りウルフの身を斬ろうとはしたのだが、小さく――しっかりと呟かれた言葉に、躊躇う。
そしてグラムを驚かせたのは、その数拍後にウルフがそっとジュードの手から口を離したことだ。それだけでなく、自分が咬み付いて傷になったそこを、そっと舌で舐め始めたのである。ごめんなさい、とでも言うように。
ジュードはそんなウルフの様子に、不意に涙した。ふわふわの毛に覆われた子ウルフの身を抱き締めて、静かに目を伏せる。
「……ごめんね、ごめんね……おかあさん、守ってあげられなくて、……ごめんね」
きゅうぅん、と。
子ウルフはジュードの言葉に応えるかの如くか細く鳴き――そんな彼の肩口に鼻先を埋めて甘えるように身を委ねたのである。
グラムはそんな光景を見て、言葉を失っていた。
「(この子は、まさか……魔物と心を通わせると言うのか……!?)」
そんな例は、今までになかった。
魔物と人は相容れない存在であると幅広く世界に知れ渡っていたし、人を襲い生活を脅かす魔物はいつだって「悪」なのだから。
しかし、ジュードはそんな「当たり前」をいとも簡単に乗り越えて魔物と心を通わせたのだ。
グラムは、ただただ驚くしかなかった。
しかし、純粋に興味を持ったのもまた、事実である。
子ウルフの頭や背を優しく撫で付けるジュードを見下ろして、グラムは一つ言葉を向けた。
「……ジュード、親が見つかるまでワシと一緒に暮らさんか?」
その誘いに、ジュードはグラムを見上げて不思議そうに目を丸くさせた。