過去話・ジュード編・1
その日、グラム・アルフィアは久方振りに風の国ミストラルにある自宅に帰ろうとしていた。
山の麓にある村に足を踏み入れると、村の住人が親しげに声を掛けてくる。グラムにとってこの村の住人は皆、友人のようなものだ。
久し振り、お帰り。と様々に掛かる声にグラムは眦を和らげて笑う。
大きな街と違って何処までも暖かく、人情味溢れる村の雰囲気はいつだってグラムの気持ちを落ち着かせ、喜びさえ与えてくれた。
談笑もそこそこに、取り敢えずは身を休ませる為に商売道具の入った鞄を担ぎ直し、山道に足を踏み入れる。
山道と言っても、そう険しいものではない。緩やかな坂が続くだけである。坂を登っていった先に、グラムが建てた簡素な家が居を構えているのだ。
鍛冶屋として生計を立てる彼にとって、人様への騒音は頭を悩ませるもの。
剣を打てば音は外に響いてしまうし、グラム自身も人の気配や音、声が聞こえてくると集中力を削がれることが多々ある。
だからこそ、グラムは四十に片足を突っ込みつつある今も、妻子を持たずに独身を貫いているのだ。家庭を持てば嫌でも人と関わることになる。子供が出来れば、剣に割く時間が確実に減ってしまう。
特に『子供』と言う存在はグラムが苦手とする一番の存在だ。魔物よりも苦手と言って良い。
子供の泣き声は集中力を打ち砕いてくれるものであるし、落ち着きがなく何をするか定かではない。そんな『子供』と言う生き物がグラムは何よりも苦手であった。
しかし、この日。
そんな子供嫌いのグラムに、ある出逢いが降ってきたのである。
「……ん?」
山道を登るグラムの耳に、一つ微かな声が聞こえてきた。
それは魔物や動物のものとは異なる、人間のものだ。それも、泣き声と思われた。
出所を探してみても辺りには木々が背比べでもするように立ち並び、聳えているだけ。グラムの眼が近くに人の姿を捉えることはなかった。
僅かばかりの逡巡の末、耳を欹てて声の出所を探った。
「……森からか? やれやれ、一体どうしたのやら……」
女性の声にも聞こえないことはないが、単純に女性と言うよりはやや幼さが残るような声だ。
グラムは鞄を背負ったまま、声に導かれるようにして森の方へと足を向ける。この森は陽光が射し込み、明るい森である。視界も利く為、魔物が出ればすぐに対処は出来るだろう。
だが、それでも森は森だ。そんな場所で人が泣いていると言うのはどうにも落ち着かない。
辺りを見回しながら、グラムは森の奥へと進んでいく。ふと、これまでとは多少なりとも異なる雰囲気を感じながら。
惜しみなく陽光が降り注ぐ森は、普段から明るく長閑な印象を与えてくる。グラム自身も仕事に行き詰まった時や休息が必要になった時は、この森に足を運ぶことが多い。
日向ぼっこがてら森をゆっくりと散歩することで、気持ちも随分と落ち着くのである。
しかし、そんな森にこれまでとはやや異なる雰囲気が漂っていた。強いて言うのであれば、何処か荘厳なもの。長閑で庶民的な雰囲気ではなく、威厳さえ感じるような。
そして、グラムは見つけた。
森の最奥に、声の出所となっていた人の姿を。
「子供……こんな場所にか?」
森の奥地には、一人の子供がいた。
赤茶色の髪をした子供。襟足部分がやや長く、一見すると少女のようにも見えるが、恐らくは男児と思われる。
身に纏う白い衣服はボロボロで、肩や袖部分には引き裂かれたような痕跡さえ残っていた。年齢は五、六歳――もしくは七歳になるかならないか程度の幼い子供だ。
子供は泣いていた。まるで、この世の全てを呪うように、空を、天を仰ぎながら声を張り上げて泣いていた。
子供の泣き声など、グラムが特に嫌うものの一つだ。
だが、壊れてしまいそうなほどに泣き喚く様子にグラムは声もなく、ただただ佇む。ひび割れた硝子細工でも見ているような印象だった。
走った亀裂から壊れてしまうのではないか、そんな莫迦げたことを思いながら、グラムは程なくして子供へと歩み寄る。極力怖がらせないようにゆっくりと。
「……坊や、そんなに泣いてどうしたんだい?」
子供がこのような森にいるのは色々とおかしい。
魔物の狂暴化が始まってからと言うもの、子供が一人で街や村の外に出ることはほとんどなくなったのだ。
それなのに、この子供はたった一人で森の中――それも最奥にいる。更に言うのなら、ズタボロの格好で。
グラムが声を掛けると、子供――少年はビクリと小さな肩を跳ねさせて恐る恐る見上げてきた。その瞳や表情は恐怖一色に染まっていて、なんとも痛々しい。
しかし、まるで宝石のような大層美しい双眸をしている。例えるならエメラルドのような。
その美しさにグラムは一時の間、見惚れた。
「……パパやママとはぐれたのかな?」
だが、今はそんな状況ではない。こんな、いつ魔物が飛び出してくるか分からないような場所だ、事情を聞いて親元に届ける必要がある。
グラムは子供と視線の高さを合わせるように、その傍らに片膝をついて屈む。怖がらせないよう、表情にはぎこちない笑みさえ作って。
しかし、グラムの問い掛けに答えは返らない。ひっく、と何度もしゃくり上げて、子供はただグラムを見つめ返すだけだ。
ただでさえ子供の扱いにはあまり慣れていないのがグラムと言う男である。困ったように眉尻を下げつつ、そして改めて口を開いた。
「ワシは、グラムと言うんだ。坊やの名前は?」
そう問い掛けてみても、やはり子供は答えない。
それでも、耳が聞こえないだとか無視しているとか、そう言った類いではないらしい。グラムが自らの名を名乗り尋ねると子供は静かに視線を下げ、ややあってから力なく頭を左右に揺らした。
知らない、分からない。その意思表示に見える――寧ろ、そのようにしか見えない。
初見で確認したように、子供が身に纏う衣服はズタボロだ。一応は衣服の役目を果たしてはいるが、何か暴力でも働かれたような姿に見える。恐らく、何か余程のことがあったのだろう。嫌でもグラムはそう考えた。
親は一体何処にいるのか、何処から来たのか、名はなんと言うのか。それら全ては、彼の身に起きた「何か」が原因で記憶から消えてしまっているのではないかと予想出来る。
辺りを見回してみても、親らしい人影はない。気配さえ感じられなかった。
それどころか、人がこの場に立ち入ったような痕跡も見られない。
そのボロボロの衣服を見る限り、親か何かに酷い目に遭わされたのではないか――そんな考えに行き着くのは容易であった。
グラムは彼に手を差し伸べると、ゆったりとその頭を手の平で撫で付ける。
「……可哀想に。何かとても怖い思いをしたのだろうな」
それが何なのかは分からない。
だが、全て失ってしまうような余程のことが、この幼い子供の身に起きてしまったのだろう。
自分の頭を撫で付けるグラムに子供は目を丸くさせると、不思議そうに見上げる。泣き腫らして真っ赤になった目元が酷く痛々しい。
可愛らしい外見をしているが、男児であることに間違いはないと思われる。
「……ん? 坊や、随分と綺麗なものを持っているね」
そんな中で、グラムはふと少年の片手にあるものに気が付いた。
ボロボロの身なりをした子供には、どうにも不釣合いな金細工。陽光を受けて淡くも光を抱くそれは、金で造られた腕輪だった。
少年は腕輪とグラムを何度か交互に眺めてから、手に持っているその腕輪を差し出す。見てもいいよ、そう言っているようだ。
ありがとう、と一言礼を向けてから、グラムは差し出された腕輪を受け取り、しっかりと眺めた。
複雑な紋様が描かれた大層美しい腕輪だ。その紋様はグラムに見覚えはない。
腕輪や装飾品には、多少なりとも国の特徴が出るものである。紋様などもそうだ、国ごとに何らかの癖があり、様々なものを見てきたグラムにはある程度その癖を見抜く目があった。
だが、その彼にも全く覚えのない紋様なのだ。風の国ミストラルで造られたものとは異なる、水や火の国、地の国とも似通わない。ヴェリア王国のものとも違う。
更に腕輪の中央部には透き通る蒼い宝珠が鎮座している。これもグラムには見覚えのないものであった。
どうしたものか、とグラムは困ったように眉尻を下げて腕輪を観察する。
だが、その刹那。腕輪の内側部分に微かに何かが彫られているのを見つけた。
「なになに? ……これは、名前か?」
しっかりと彫られたものではない、掠れていて辛うじて読める程度だ。
慌てていたのか、急いで彫られたような印象を受ける文字であった。グラムはそこに彫られた綴りを、目を細めてしっかりと見つめる。
「……ジュ、……ジュー、ド……?」
それは、恐らくは名前と思われた。
その腕輪が果たして自分のものなのかどうかさえ理解していないように見える少年に、グラムは暫し黙り込む。
何処かから盗み出してきたもの、とも違うような気がした。グラムには見覚えのない紋様と石。ミストラルの何処かから盗んできたのであれば、紋様や細工に特徴を見つけられてもおかしくはない。
だが、その特徴がこの腕輪には全くないのだ。
それに盗んできたものであれば、こうも簡単にグラムに見せたりはしないだろう。
「ジュード、これは君の名前かな?」
「……わかんない」
落ち着いたのか、そこで少年はようやく口を開く。子供特有のなんとも可愛らしい声であった。どうやら、喋れないと言う訳ではないようだ。
グラムは少年に腕輪を返すと、改めてその小さな頭をやんわりと撫で付ける。
このくらいの年齢であれば、自分の名前を理解していても不思議ではない。寧ろ、理解していない方がおかしいのである。やはり、少年には何かがあったのだろう。
「パパやママは、一緒ではないのかな?」
「わかんない……」
「何処から来たのか、とかは?」
「……」
グラムの問い掛けに少年はまた同じように呟くが、程なくして眉尻が下がり、翡翠色の双眸が再び涙を溜め始める。それを見てグラムは慌てた。
「あ、ああ、すまない。泣かなくていい、大丈夫だよ」
両手を伸ばして少年の小さな身を抱き上げると、慰めるようにゆったりと揺らす。まるで揺り籠のように。
どうやら、少年は何も覚えていないようだ。覚えていないのか、ただ分からないのかは定かではないが。
衣服はボロボロで、肌には多少なりとも傷がある。あまり考えたくはないことだが、親に捨てられた可能性は高い。
風の国ミストラルではあまりないことだが、魔物の狂暴化に伴い、子供を捨てる親は増えつつある。それは、自分達の生活を守る為に子供が邪魔になったケースだ。自分達が生きていく為に、食べていく為に。働けない『子供』と言う存在を捨てるのである。
この少年も、その親の身勝手に巻き込まれた存在である可能性があった。だが、そうであるのならこのように高価そうな腕輪を持たせるのは聊か矛盾しているし、疑問も残る。
分からないことだらけだと、グラムはそう思った。
「(取り敢えず、麓の村で聞いてみるか)」
まずは近場からが一番だ。
麓の村に、この少年を知っている者がいるかもしれない。しかし、それよりも先にまずは傷の手当てが先か。
見なかったことにする、見捨てる。などと言う選択肢は、グラムの中には存在しなかった。子供が苦手とは言え、生きている命を捨てるような真似が出来る筈もない。
グラムは頭の中で今後の予定、やるべきことを組み立てていきながら、少年が落ち着くのを待つ。
しかし、なんとはなしに周囲に目を向け、グラムは見つけてしまった。
奥地にある岩に刻まれた真新しい爪跡を。
「な……なんだ、これは……!?」
その爪跡は、グラムには見覚えがない。
ウルフやオーガのものとは違う――否、比べものにさえならない。巨大で、見るだけで鋭利なものであると想定出来るほどの爪跡であった。
グラムが以前訪れた時には、こんな爪跡は刻まれてはいなかったのである。一体、彼が家を離れていた間にこの場で何があったと言うのか。
争ったような痕跡はない、不自然な草木の乱れも、血痕も。ただ、岩に刻まれた爪跡が残っているだけ。
少年は、グラムの腕の中で泣きながら震えていた。まるで、何かに酷く怯えるように。
抱き上げたその身の小ささと細さに、グラムは驚いた。常日頃からハンマーや大剣を振り回すグラムが力を入れれば、容易く折れてしまいそうだったからだ。
それが、余計に庇護欲を煽っていく。自分が守ってやらねば、と。
壊れ物のような少年の身をしっかりと腕に抱いて、グラムは天を仰いだ。