第四十五話・謎の旅人
「ウィル、ちょっと待ってよ!」
「待っていられるか! マナは平気なのかよ!」
ウィル達は、痛む身体を動かして小屋へと戻って来ていた。
少しの間この簡素な小屋の中で暖まってはいたのだが、やがて壁伝いに立ち上がったウィルを見てマナも慌てたように腰を上げる。
見るからにフラフラだ、出血多量の所為だろう。マナは慌てて座るように促すのだが、ウィルは珍しく声を上げて即座に返答する。
「平気な訳ないじゃない! でも、無理して行ったら遭難するだけよ!」
マナの言うことは尤もである。満足に動けない身で雪の中を歩き回ろうなどと自殺行為に近い。特に朝夕は冷え込みも厳しく、容赦なく体温を奪っていく。血が足りず体温が下がりがちな身にはあまりにも酷だ。
暫くウィルとマナの様子をカミラは黙って見つめていたが、程なくして静かに立ち上がった。
「ウィルは休んでて、わたしが行ってくるから」
「カミラちゃんまで何を言ってるの? 無茶よ、今はまず夜が明けるまで……」
「ううん、わたしは大丈夫。ウィルやリンファさんみたいに出血するような怪我はしてないもの。それに――」
傍らに座していたルルーナが、ふと心配そうにカミラを見上げる。ウィルとマナに至っても同じだ、
カミラとて消耗しているのだから。
「……行かなきゃいけないの。わたしが役に立てなかったから、ジュードが……」
「カミラ様、そのようなことは……」
カミラは魔族に対抗出来る光魔法の使い手である。
しかし、アグレアスとヴィネアには彼女の光魔法が全くと言って良いほど効かなかったのだ。多少のダメージはあったが、あれでは効いた内に入らない。カミラは悔しそうに衣服の裾を握り締める。そんな彼女を見て、横になっていたリンファは静かに彼女に視線を向けた。
「……大丈夫。わたし、行ってくるね。ちゃんとジュードを見つけて帰って来るから」
「カミラ、待ってよ。あたしも……」
「マナはウィルの傍にいてあげて、大丈夫だから」
その言葉に、ウィルはようやく平静を取り戻した。可愛い弟分が行方不明になったからと言っても、想い人であるマナに当たってしまったことに気付いたのだ。
カミラはそっと笑うと、小屋を出て行く。外には、また静かに粉雪が舞い降りてきていた。
* * *
ふと、ジュードは重たい四肢を感じて意識を浮上させる。身体が異様に重い。そしてだるい。
そう感じながら、ゆっくりと静かに双眸を開いた。
「…………」
いつものことではあるのだが、寝起きで鈍い思考回路そのままに、暫しジュードは真っ直ぐに見える天井を見つめる。薄暗く、天井自体がハッキリと見えない。
やや暫くそのままで留まっていたが、身に感じる肌寒さに徐々に頭と目が覚めていく。むず痒いような感覚を感じて、ジュードは軽く眉を寄せ――
「……っくし!」
一つクシャミを洩らした。
静かに身を起こして軽く辺りを見回す、身体を動かす度に身のあちこちに鈍痛が走った。が、取り敢えず折れている箇所はないらしい。それよりも……
「……なんでオレ、また裸なんだ。最近こんなのばっかだな……」
目が覚めたジュードは、裸だった。
分厚い毛布に包まって眠っていたらしく、底冷えしたような感覚はないが毛布の下の身は裸だ。衣服がない。
改めて辺りを見回してみると、古びた小屋の中だった。鉱山を出てから仲間と共に暖まった小屋かと思いはしたが、多少なりとも造りが異なる。
自分はどうしたんだったか。そう考えてジュードは意識を飛ばす前の記憶を辿る。
だが、すぐに内側から込み上げてくる嘔吐感にも似た嫌悪に身を軽く震わせた。
――真紅の巨大な、そして不気味な目玉が脳裏を過ぎる。
何の生き物か理解出来ない、様々な生物が結合したような気味の悪い生き物。周囲にいた男と少女に『サタン』と呼ばれていた。あれは一体なんだったのか。
夢に見た光景が現実となり、夢と同じくジュードは彼らに『贄』と呼ばれた。分からないことだらけである。
アグレアスと名乗った男、ヴィネアと呼ばれた少女。魔族であるとカミラとウィルが話していたのが微かに聞こえた。
魔族が現れたと言うことは、以前カミラに聞いたヴェリア大陸の結界は解かれたと言うことになる。ヴィネアは確か、人間達が結界を解いたと言っていた筈だ。
どういうことなのか、と考えてジュードは片手で頭を抱える。やはり、分からないことだらけであった。
彼の記憶は途中で途切れている。リンファがヴィネアに甚振られている――その辺りから綺麗になくなっていた。その後どうなったのか、全く分からない。リンファは、仲間は無事なのだろうか。
「……ここ、どこなんだろう」
そこでジュードは改めて顔を上げる。
ここは一体何処なのか。見たところ小屋の中は普通だ、古びた暖炉には火も灯っている。理由こそ定かではないが、魔族はジュードを探して――と言うより、サタンに捧げようとしていた。
魔族に捕まったのならこのような場所に放置はされないだろう。ジュードはそう思い、毛布に包まったまま静かに立ち上がる。鈍痛があちこちに走るが、取り敢えずは現在地を確認しなければならない。
改めて小屋の中を見回してみると、暖炉の近くに自分の服を見つけた。
どうやら、濡れた衣服を暖炉の前で誰かが乾かしてくれたらしい。ジュードは暖炉に歩み寄ると、そこに屈む。濡れただろう衣服に触れてみると、完全ではないが随分と乾いていた。だが、流石にまだ着れるほどではない。
「水に落ちた、のか? それとも雪で濡れたのかな……」
思い出そうとしても、やはりジュードには全く覚えがない。はあ、と一つ溜息が口から洩れる。
だが、その時だった。
「……あら、目が覚めた?」
「――え?」
不意に、小屋の出入り口から聞き慣れない声が聞こえてきた。
慌てたように振り返った先には、鮮やかな緑色の髪をした人間の姿。柔らかそうな長い髪を高い位置で結い上げている。
表情には優しそうな笑みを浮かべ、真っ直ぐにジュードを見つめていた。どうやら外に出ていたらしい。扉を閉めて、肩に積もった雪を叩き払う。首や鎖骨、腕など肌が剥き出しで見るからに寒そうな装いだ。
彼女は、女性にしてはやや低めのアルトの声でジュードに一声掛けると、緩慢な足取りにて暖炉前に屈む彼の元へと歩み寄る。
それを見て、ジュードは思わず顔を朱に染めた。
「え、あ……あの……」
動く度にふわりと揺れる髪、優しそうに――労わるように細められる翡翠の瞳、間近に寄せられる顔。
しかも、その風貌は非常に美しい。
自分自身が裸と言うこともあって、思わずジュードは軽く後退した。
「あら? あらあらあら、照れちゃってるの?」
「だ、だって、お姉さん……美人、だから」
困惑したように相手から視線を外したジュードは小さく、本当に小さく呟く。よく聞いていないと聞き逃してしまいそうなほど。
すると、ジュードの様子を窺っていた彼女は翡翠色の双眸をまん丸にして、何度か忙しなく瞬きを打つ。
だが、すぐに目を細めて笑うと両腕を伸ばしてジュードに勢い良く抱き着いた。
予想だにしない行動だったか、思わずジュードは反応が遅れバランスを崩す。確かに予想していない行動ではあったのだが、それにしてはやや力が強いように感じた。
彼女はバランスを崩したのを良いことにジュードの身をその場に押し倒してしまうと、覆い被さるようにして見下ろす。
ジュードはと言えば、状況に頭が追いつかず双眸を丸くさせて彼女を見上げていた。
「え……あ、あの……!」
「うふふふ、か~わいい! 惚れちゃった?」
「そ、んなことは……!」
上に覆い被さられる体勢に、ジュードは拒否するように慌てて頭を横に振る。状況を理解して顔には段々と熱が篭り始めた。
美人に迫られるのは嫌いではないのだが、ただひたすらに困る。なぜ、ってジュードはカミラが好きなのだから。それにジュード自身、興味はあってもこういった接触はあまり好きではないのだ。
――だが、ジュードはそこで見てしまった。
自分に覆い被さる『彼女』の胸元を。
あれ? と軽くジュードは小首を捻る。デリケートな部分だ、直視するのは本来ならば躊躇われる。しかし、彼はその胸元から視線を外せなかった。
「あら。やぁだ、バレちゃった?」
「――――!!」
頭上から振る言葉に、ジュードは確信した。
彼の視界に映る胸元には女性特有の膨らみが存在していない。マナのように小さいと言う訳でもないようだ。
ジュードの頬を包み込むように触れる手も、女性にしてはなんとなくガッシリとしている。女性の身体と言うのは全体的に柔らかいものだが、ジュードに現在進行形で覆い被さる身には、その柔らかささえも存在していなかった。
――つまり。
「お……おと、おと……男……!?」
「そうでぇす、でも心はしっかり乙女だから大丈夫よ」
「全っ然大丈夫じゃない!!」
にっこりと笑う『彼女』は、女性ではなく男――つまり『彼』であった。
ジュードは途端に蒼褪めると、押し倒されたままの状態で床にそれぞれ両手をつく。そして両手両足を動かし素早く後退して距離を取った。ガサガサガサと効果音さえ付きそうなほどの勢いだ。
すると彼女――否、男は目を丸くさせて緩やかに小首を傾げてみせる。
「まあ、失礼ねぇ。ほらほら、怖くないからこっちいらっしゃい、優しくしてあげるから」
四つん這いになりながら手招く男に、ジュードは勢い良く何度も頭を左右に振った。その顔はかなり青い、普通以上に蒼褪めている。
依然として自らの身を包む分厚い毛布に包まりながら、ジュードは戦慄するかの如く身を震わせて縮こまった。
そんな彼の様子に、男は愉快そうに笑い声を洩らす。そして企み顔で改めて笑みを浮かばせた。じりじり、とジュードににじり寄りながら、再度言葉を一つ。
「うふふふ、来ないならこっちから飛び付いちゃうわよ~」
「ひ……っ! お、お願いだからやめて、本気でやめて!」
言い知れぬ恐怖を感じながら、ジュードは改めて頭を左右に揺らす。乱雑に、そしてこれ以上ないほど必死に。
だが、彼の恐怖の時間はそこで終わりを迎えた。
「……イスキア、何をやっている」
不意に小屋の出入り口の扉が開かれたかと思えば、そこから長身の男性が入ってきたのだ。
男はジュードに迫る相棒の姿に小さく溜息を洩らすと、眉を吊り上げて咎めるべく声を掛けた。
イスキア――そう呼ばれた男、元いオネェは四つん這いになったまま不貞腐れたようにそちらを振り返り、軽く頬など膨らませてみせる。顔立ちはとても整っていて可愛らしいのだが、中身は男だ。騙されてはいけない。
「あ~んもう、シヴァったらもう帰ってきちゃったの? まだゆっくりしてても良かったのに! 折角これから熱い時間を……」
「お前が心配だったんだ」
「やっだ、嬉しい! シヴァもようやくアタシを意識してくれるようになったのね!」
「違う! お前が小僧に善からぬことをするんじゃないかと心配したんだ!」
取り敢えず助かった、と言葉には出さないがジュードは深く安堵を洩らす。よかった、あっちはマトモだ。現れたシヴァと言うらしい男性を見て、心からそう思った。
薄く雪の積もった肩や頭を軽く叩き払い、シヴァはジュードに歩み寄ると片膝をついて屈む。
「具合はどうだ」
「え、あ……だ、大丈夫みたいです、……ええと」
目の前に屈む男も、非常に美しい外見をしている。いっそ恐ろしいほどに。
青み掛かった白銀の長い髪、体質なのか男性にしては白い肌。瞳は落ち着いたアイスブルーをしている、その色はカミラの瑠璃色よりもやや明るい。
長い前髪から覗くその双眸には、しっかりとした意志が宿っているように感じられた。
言葉に詰まるジュードを見てシヴァは一度こそ不可解そうに首を捻るが、その真横からオネェが割り込んだ。
「アタシはイスキアよ、こっちの朴念仁がシヴァ。宜しくね」
「誰が朴念仁だ」
「他にいないじゃない」
不意に目の前で軽い口論を始めた二人を見て、ジュードはまた一つ安堵を洩らした。
取り敢えず、悪人ではないようだ。オネェ――イスキアはジュード的に多少は怖いが、深入りさえしなければ必要以上に懐きはしないだろう。そうであってほしい。
「シヴァさんとイスキアさんが、オレを助けて……くれたんですか?」
「そうよ、川辺に倒れていたのを拾ったの。濡れてたから勝手に服は脱がせて乾かしちゃってるけど……うふうふうふ」
「心配するな、脱がせたのは俺だ。コイツには何もさせていない、触るなとも言ってある」
口元に手を添えて何やら怪しい笑いを洩らすイスキアに、ジュードは再び蒼褪めて力なく頭を振る。毛布の下の自らの身体を見るように恐る恐る視線を下げるが、イスキアの隣にいるシヴァが即座にフォローを入れてくれた。
目で生き物を殺せそうなほどの鋭い視線でイスキアを睨み付けているが、当の本人は何処吹く風と言った様子だ。先程抱き着いてきたことは言わない方が良いとジュードは直感で悟る。
「シヴァの独占欲が強くってアタシ困っちゃうわ、心配しなくても浮気なんかしないから安心してちょーだい」
「黙れ」
ハートでも飛ばしそうなほど甘えた声で告げるイスキアを、シヴァは間髪入れずにバッサリと言葉で斬り捨てる。
そんな二人を見てジュードは暫し口を半開きにして呆然と眺めていたが、程なくして小さく笑う。
不意に笑い出すジュードを見て、シヴァとイスキアも彼に視線を向けた。
「す、すみません。なんか……気が抜けて」
「うふふ、笑えるのは良いことよ。思った通り、笑っても可愛いわねぇ!」
「近付くな!」
先程のように飛び付こうとするイスキアに対し、シヴァは変わらず鋭い視線を向けたままその頭を押さえる。
当然イスキアは不満そうな声を洩らすのだが、シヴァが離すことはない。
どうやら、二人にとってはこれが常としたやり取りらしい。
「あ、あの。助けてくれて、ありがとうございました。オレはジュード、……ジュード・アルフィアです。それで、あの」
「どうしたの?」
「倒れてたのはオレだけ……ですか? 仲間がいるんですが……」
ジュードには大切な仲間がいる。共に戦っていた筈の仲間が。だが、今現在ここにいるのはジュードだけだ。カミラやウィル達の姿が何処にも見えない。
ジュードの言葉にシヴァとイスキアは一度互いに顔を見合わせたが、すぐに視線を戻すとシヴァが一つ頷いた。
「そうだ、お前だけだ。他の者の姿は見えなかったが」
「そんな……」
では、みんなはどうなってしまったのか。魔族にやられてしまったのか。悪い想像ばかりがジュードの頭を駆け巡る。
あの二人の魔族の力は凄まじいものがあった。力の差は歴然で、ウィルやリンファが赤子同然の扱いであったのだ。全く歯が立たない、そんな状況に陥っていた。
あれからどうなったのか、なぜ自分は川辺で倒れていたのか。ジュードの記憶には欠片も残ってはいない。
難しい顔で俯いてしまったジュードに、イスキアはそっと笑うと落ち着いた声色で言葉を向けた。
「……ジュードちゃん、もう少し休みなさいな。大丈夫よ、あなたのお友達は私達がちゃんと探しておいてあげるから」
「でも……」
「お友達に疲れ切った顔なんて見せられないでしょ? 今のジュードちゃんは休むのが仕事、……ね?」
先程までの何処か頭のネジが飛んだような様子とは一変、穏やかな――慈しむような表情と声色で言葉を向けるイスキアに、ジュードは視線を移す。
確かに、身体は依然としてあらゆる箇所が痛む。意識こそハッキリしてはいるが、まだ本調子とは言えず多少なりとも眩暈に似た感覚が残っていた。こんな状態、イスキアの言うように仲間には見せたくはない。また心配を掛けるだけだ。
そこまで考えて、やがてジュードは小さく頷いた。
「本当はベッドでもあれば良かったんだけど、この小屋はちょっとした休憩用みたいでね、付いてないのよ。ごめんね、ジュードちゃん」
「いえ、充分です。ありがとうございます、……みんなのこと、宜しくお願いします」
確かに、この小屋はとても簡素なものだ。暖炉と小さなテーブルくらいしかない。
ジュードは、仲間のことを思いながらシヴァとイスキアに静かに頭を下げた。それを見てイスキアはにっこり笑うと、そっと彼の肩を撫で叩く。まるで幼子でも寝かしつけるように。
身体も頭も依然疲れが抜けないのか、ジュードは零れそうになった欠伸を喉奥で噛み殺すと毛布に包まったまま身を横たえる。睡魔はすぐに訪れた。
「…………」
程なくして小さな寝息が聞こえ始めるとイスキアは双眸を細めて笑い、シヴァに目を向けた。
「どう?」
「子供だな」
「ええ、子供ね。でもいいじゃない、良い子だわ」
予想していた通りの言葉が返ると、うんうんとイスキアは何度か頭を縦に振って頷いた。そして眠るジュードの傍らに移動すると、変わらず慈しむような視線を送りながら彼の赤茶色の髪を片手で撫で付けた。その動作は非常に優しい。
先程までイスキアがジュードに触れることを咎めていたシヴァも、特に口喧しいことは言わずにそんな様子を静観した。
「……これからは魔族が表立って動いてくるわね」
「ああ……サタンも完全ではないが復活したようだな」
「ええ……」
シヴァは淡々とした口調でそう返答すると、イスキアがそっと頭を撫でるジュードへと視線を向ける。こちらも先程までの鋭い視線とは異なり、眦を僅かに和らげていた。
イスキアは相棒の言わんとすることを察し、一つ小さく頷く。そして真剣な表情で改めて口を開いた。
「この子がサタンの物になってしまったら、世界は内部から崩壊するわ。それだけは何としても阻止しなければ……蒼竜の為にも」
イスキアのその言葉に、シヴァは言葉もなく小さく頷いて目を伏せた。
そして、イスキアは眠るジュードに視線を戻すと緩やかに眉尻を下げて小さく笑う。
「……大丈夫よ、ジュードちゃん。あなたのことは、私達が絶対に守ってあげるからね……」
まるで誓いのように囁かれたその言葉は、眠るジュードの耳には当然届かなかった。
時刻は深夜に差し掛かろうとする頃。
外は、再び雪が吹き荒れていた。