第四十三話・勇者の敗北
「ジュード……! 大丈夫なの?」
「ジュード様っ、しっかりなさってくださいませ!」
「あ、ああ……悪い、もう大丈夫だ……」
大丈夫、と言うジュードの顔色は確かに先程よりは良い。だが、まだ大丈夫と言えるレベルではなかった。長い付き合いだ、マナには当然分かる。
彼が、あのジュードが明らかに恐怖している。あの勇敢な――そして時に無謀な筈のジュードが。
「(ジュードがこんなに怯えるなんて、信じられない……! あのサタンって奴、やっぱりあの魔王サタンなの……?)」
嘗て勇者によって倒され、封じられた筈の魔王サタン。
姫巫女の張った結界が消えてしまい魔族が現れた今、魔王が現世に現れても不思議なことはない。
吸血鬼を前にしようが、殺されそうになろうが、決して怯むことのなかったジュードが顔面蒼白になるほどに怯えているのだ。可能性としては充分に考えられる。
しかし、その矢先。眩い閃光が辺りを支配した。
「――カミラ!」
白い光が、カミラの全身を包んでいた。それを見てマナは思わず声を掛ける。大丈夫なのかと心配になったのだ。
内側から溢れ出すような魔力を感じて、アグレアスとヴィネアはそれぞれ彼女に向き直る。しかし、反応は間に合わない。
「白き十字よ、敵を討て! ――ライトクロス!」
カミラの声に呼応するように白い光は更に眩く輝き、十字に煌く無数の光弾をアグレアスとヴィネア両名へと叩き降らせたのである。
光の十字架が対象を攻撃する光属性の攻撃魔法だ。全体攻撃を基本としている中級クラスのものであった。通常の魔物ならばともかく、光に弱いとされる魔族が喰らえば致命傷になる可能性は充分にある。
だが、アグレアスもヴィネアも多少こそ怯みはしたが、すぐに体勢を立て直した。ヴィネアはふわりと外側に広がったスカートを、埃でも付いたかのように手で軽く叩き払い、アグレアスは小首を傾げて薄く笑う。それにはカミラだけに留まらず、ウィル達も瞠目する。
十字が直撃したアグレアスの胸、光弾が頭上から降り注いだヴィネアの傘にはそれぞれ不気味な塊が付着していた。人肉、もしくは何かの生肉のような塊だ。それは先程の合成魔獣のような姿をしたサタンの身に酷似している。サタンの一部のような、原型を留めていない何かであった。
「驚いたか? 俺達が光魔法に何の対策も練っていない筈がないだろう」
「サタン様は十年前の戦いで、完全ではないですけれど光に対する耐性を身に付けましたの。これはサタン様がわたくし達にくださった対光魔法の盾ですわ」
「そ……そんな……」
ヴィネアの言葉を聞き、カミラの身からは白い光が散っていく。集中が解けたのだ。
全力で放ったにも拘わらず、アグレアスにもヴィネアにもほとんどダメージを与えられていない。それを見てヴィネアは改めてにっこりと笑った。
「サタン様は、自らの体内に取り込んだ者の力を自分のものに出来ますの。十年前にヴェリア王を喰らい、勇者の血を取り込むことで光への耐性を身に付けたのですわ」
その言葉に、カミラは強い眩暈を覚えた。
彼女は、ヴェリア王とは面識があった。王子に連れられて緊張しながら王宮に行った幼いカミラを快く受け入れてくれた優しい王だ。
勇敢に魔族と戦い死亡したとは聞いていた。だが、サタンに喰われ体内に取り込まれたなど――初耳であった。
勇者の子孫が魔族に負けた、だけではなく。魔族の王に喰われ、望んだ訳ではないが血を提供してしまったのだ。そして、それによりサタンは完全ではなくとも弱点を克服した。
勇者の子孫は魔族の王の一部になるという、これ以上ないほどに屈辱的な――そして、完全な敗北に終わったのである。
「さあて、そろそろ遊びも終わりにしてやるよ。貴様らでは退屈しのぎにもならん」
「そうですわね、サタン様もアルシエル様もお待ちですもの」
ウィルとリンファは改めて身構えるが、カミラはもう彼らの言葉など耳に入っていなかった。瑠璃色の瞳から大粒の涙が溢れ出すのを止められない。
王の悲劇に悲しみ、自分の無力さに嘆き、どうしたら良いか分からなかったのである。勇者の血を体内に取り込んだ以上、勇者の血、そして勇者の子孫は既に魔王にとって恐ろしい存在ではなくなってしまったと言うことだ。半分は、サタンにもその血が入っていると言うことなのだから。
ヴェリア大陸に今もいるだろう勇者の子孫――亡きヴェリア王の二人の子供が力を合わせても、もうどうにも出来ないかもしれない。そうまで思ってしまったのだ。
そして、この中で唯一魔族に有効な属性を扱える身でありながら、アグレアスにもヴィネアにもダメージを与えられない自分の存在意義を完全に見失っていた。
「(わたし……一体、何のためにいるの……?)」
だが、嘆く暇など当然ある筈もない。
ヴィネアは傘を突き出し、自分の身を軸に勢い良く回転した。すると、彼女の身を中心に周囲に突風が吹き荒れる。まるで巨大な竜巻に衝突したかのような、そんな風だ。
アグレアスを除く、その場にいた全員がいとも簡単に吹き飛ばされた。竜巻にも似た風の突風は近くにいたリンファやウィルの身を深く切り刻む。それぞれ岩や木に身を強く打ち付け、力なく地面へと倒れ伏した。
「ヴィネア、それくらいにしておけ。贄に余計な傷を付けるとアルシエル様に怒られるぞ」
「あっ、そうでしたわね。サタン様の為の贄ですもの、大切に扱わなくてはいけませんわね。では、一人一人殺して差し上げましょうか」
そう言うと、ヴィネアは地面に倒れ伏すリンファの元へと足取り軽く、そして弾むように歩み寄る。手に持つ傘の先でグリグリと彼女の左背中――心臓部分を強めに押し、高笑いを上げた。
「きゃははははっ! スピードに自信がおありだったようですけれど、競う暇もありませんでしたわね。地に這い蹲って、惨めなものですわ!」
そして、アグレアスはウィルの元へと足を向ける。彼の前に片膝を付くと、前髪を掴んで無理矢理に上を向かせた。苦痛で歪むその表情に対し、薄く口元だけで笑う。
「小僧、蚊が停まっているのかと思う程度だったぞ。俺とやり合うには無理があり過ぎたな」
「リ、リンファ……!」
「こんな状況でも他人の心配か? その根性だけは認めてやるよ」
ウィルは自分のことなど、全く構っていなかった。視線は倒れ伏したリンファと、そんな彼女の心臓部分を強弱をつけて押し甚振るヴィネアに向いていたのだ。
マナもルルーナも、カミラまでもが圧倒的な力の差を前に戦意を喪失しているのか、起き上がることさえ出来ない。元々戦闘に参加していなかったオリヴィアは樹の後ろに隠れて、小動物か何かのように身を震わせていた。
ならば、自分が何とかしなければ。そうは思うが、優れた知性を持つウィルでも突破口が全く見出せなかった。
否――賢いからこそ理解してしまうのだ。この二人には勝てない、と。
「まずは、あの女が死ぬところをしっかり見ておけ。心配しなくとも、お前もすぐにその後を追わせてやるよ」
「やめろ……ッ、やめろおおおおぉ!!」
リンファは背を強く押される度に苦しそうな声を洩らす。マナは必死に起き上がろうとするのだが、ただでさえ彼女は打たれ弱い。木に強く身を打ちつけたダメージから回復出来ずにいた。負けん気の強い彼女の気持ちは折れてなどいない。しかし、身体が満足に動いてくれないのだ。
このままではリンファが――皆が殺される。そう思いながらマナは奥歯を噛み締めた。
だが、ふとヴィネアに歩み寄る一つの姿を視界に捉え、痛みも忘れて朱色の双眸を見開く。
そしてヴィネアも、自分の背後に気配を感じてそちらを振り返った。
「――あら? うふふ、どうしたの? 心配しなくても大丈夫、すぐにサタン様のところに連れて行ってあげるからねぇ、ジュードくぅん」
ヴィネアに歩み寄ったのは、他でもないジュードだった。ヴィネアは彼の姿を視界に捉えると可愛らしく笑って小首を捻る。声など完全に小馬鹿にしているのか、態とらしい猫なで声だ。
だが、ふと微かに声が聞こえた気がして大きな目を丸くさせた。
「え? なになにぃ?」
それを見たアグレアスはウィルから手を離して立ち上がり、彼もやはり馬鹿にするように小さく鼻を鳴らしてそちらに向き直った。アグレアスの位置からでは、ジュードは軽く俯いていて表情までは窺えない。
恐怖に涙しているか、もしくは懇願でもしているのかと嘲笑の意味を込めて愉快そうに目を細める。
「……せよ」
「えぇ~~? なぁに、よく聞こえないわぁ?」
態とらしくヴィネアが片手を耳裏に添えて身を寄せると、彼女の視界には固く拳を握り締めるジュードの右手が映る。
え? と流石に怪訝そうな表情を浮かべはしたのだが――遅かった。
「……離せ、って――言ってるんだよ!!」
頭上からジュードの怒声が聞こえたかと思いきや、ヴィネアが次に感じたのは脳が揺れるような衝撃だった。次いで鳩尾に激痛が走る。
ジュードがヴィネアの腹部に思い切り拳を叩き込んだのだ。彼女の小さな身は見事に吹き飛び、道の傍らに鎮座する岩に強く叩き付けられた。
それを見てアグレアスは驚愕に双眸を見開き、武器を構える。何が起きたのか分からない――そんな表情だ。
ジュードはリンファから借りたままの短刀を腰から引き抜くと、その切っ先をアグレアスに向けた。
「いい加減にしろよ……っ、魔族だかなんだか知らないけど、よくもそうやって命を弄べるな!」
「なん、だと……!? こいつ、一体何をした……!?」
アグレアスは、吹き飛ばされたヴィネアとジュードとを何度も交互に見遣る。突然の出来事に完全に狼狽していた。
当たり前だ。つい先程までは自分達を前に怯えていた子供が、まるで人が変わったように反撃に出たのだから。
「あ……ジュー、ド……」
そんな光景を目の当たりにして、カミラが未だ倒れたまま小さく声を洩らす。ルルーナやリンファ、オリヴィアは呆気に取られていたが、カミラやマナ、そしてウィルは知っている。
顔を上げたジュードの表情は怒りに染まり――彼のその双眸は、輝くような黄金色に変貌していたのである。
いつかの、吸血鬼との戦いのように。