第四十二話・邂逅
カミラは、小屋から少し離れた場所で木の枝を拾っていた。
所謂薪拾いである。雪が積もった中を新しい足跡を刻みながら歩き、落ちている木の枝を拾う。カミラの手は雪と冷風に冷やされ、すっかり冷たくなっていた。
拾った枝を近くに置いて、その場に屈む。両手で口元を覆い暖めるように吐息を吐きかけることで暖を取った。
「うう、冷たい……でも、頑張らなきゃ」
少しの間、同じように何度か息を吐きかけて手を暖めていたカミラであったが、程なくして薪を抱え再び立ち上がる。
夜になり気温も下がった中を、鉱山から出てくるだろうウィルとリンファの為だ。二人が合流する時には小屋の中を暖かく満たしておきたい、出来るだけ寒い思いはさせたくない。そんな思いからであった。
再び足を踏み出して、カミラは薪を探す。本来ならばまだ複数落ちていそうなものだが、辺り一面に降り積もった雪が地面を隠してしまっている為に、あまり木の枝が見つからないのである。
チラとカミラは腰に提げる剣に視線を向ける。掘ろうか、と思う辺り彼女の思考回路はなんだかんだと、力業で解決するジュードに似ていた。積雪の範囲は幅広い。森全体と言っても良いくらいだ。
そんな中、薪を探す為に雪を掘ると言うのは途方もない話である。
だが、その最中。
「……え?」
不意に、彼女は頭の中に声が響いたのを聞いた。
それも、その声はカミラには何より懐かしく、恋しいものであったのだ。
――カミラ、カミラ。
自分を呼ぶ、変声期を迎えていないと思われる少年の声。
それは忘れもしない――忘れられる筈のない声であった。
カミラは思わず薪を手放してしまいながら、空を仰ぎ辺りを見回す。周囲はすっかり暗くなっており、高く生い茂る木々が阻害して月明かりさえ見えない。それでも、カミラは必死になって夜に支配された森を見回した。
「――!? まさか……あなた、なの……!?」
信じられないと言うような様子で、カミラは声を上げる。
彼女に呼び掛けるその声は、十年前――聖王都ヴェリア陥落の際に魔族に喰い殺された第二王子のものであった。
そしてそれは、カミラが幼い頃に愛した王子でもある。
聞き間違いではないか、カミラは一瞬こそそう思いはしたのだが、声は幻聴などではなかった。すぐにまた、頭の中に声が響いたからだ。
『――カミラ、すぐに仲間のところに戻るんだ。そして早く森を出て』
それは、幻聴とは違う。とてもハッキリとした――明瞭な声だ。
何処から聞こえるのか、何処から自分に呼び掛けてくれているのか分からず、カミラは辺りに目を凝らす。死んだと思っていた大切な人の声が聞こえてくるのだから、当然だ。
「どこにいるの? どこから声を掛けてるの?」
『……ごめんよ。ゆっくり説明してる時間がないんだ。お願いだから、僕の言うことを聞いて……』
カミラがどれだけ辺りを見回してみても、その姿を捉えることは出来なかった。姿は見えないが、声は確かに聞こえてくる。それはカミラの記憶の中のものと全く変わらない、王子の声そのものである。
泣きそうな表情で訴えるカミラに対し、少年の声は静かに語り掛ける。だが、その声には懇願の色が確かに含まれていた。
当然カミラがそれに気付けない筈がない。気になる、彼の姿が見たい、逢いたい。そうは思うが、大切な王子の願いを無視するなどカミラには出来なかった。
白いカーディガンの裾を強く握り締め、程なくして小さく頷く。
「……分かった、分かったよ。森を……みんなと出ればいいの? ここの森は危ないの?」
『魔族が動き出したんだ、結界は消えてしまった……奴らは、もうこの森に……』
「え……っ!?」
語られる言葉に、カミラは瑠璃色の双眸を見開く。
――結界が消えた。それはつまり、魔族の襲来を意味していた。
魔族を封じ込めていたと思われる結界が消えた以上、今後はヴェリア大陸のみならず外の世界にも魔族が現れると言うことだろう。
最早、魔物の狂暴化だけでは済まされない。
「結界が……そんな……!」
『急いでくれ、カミラ……早く行くんだ。でないと、この世界が……』
「……え?」
『この世界が終わってしまう……だから――』
少年の言葉を、カミラは完全に理解出来なかった。
魔族が現れると言うことは確かに世界的な脅威となるが、世界が終わるとはどういうことなのか。
しかし、言葉はそこで途切れた。
「……どうしたの? ねぇ!」
それからは、カミラがどれだけ呼び掛けても反応は返らなかった。
だが、すぐに彼に言われた言葉を思い返すと薪を拾い直し、足早に引き返していく。
――仲間達のところへ。一刻も早く、この森を出る為に。
しかし、小屋へ向かって駆け出したカミラはその直後、森中に響き渡るような悲鳴を耳にした。
「今の声……まさか、ジュード!?」
それは聞き覚えのある声だった。
仲間の元へ行かねばならない、しかし彼のことを放っておける筈もない。それに、彼も当然仲間だ。カミラが外の世界に出てきて、初めて出来た仲間であり――心の傷を受け止め癒してくれた大切な存在なのだから。
もう薪には構っていられない。カミラは抱えていた薪をその場に転がすと、声が聞こえてきた方へ全力で駆け出した。
* * *
「あはっ、見ぃつけたぁ。ジュードくぅん」
ジュードは勢い良く伸びてきた影に両手両足を捕らえられ、その場に繋ぎ止められていた。夢の中の光景と非常によく似ている。ぞわぞわと、形容し難い不快感が全身を駆け巡った。
違ったのは、場の雰囲気に似つかわしくない可愛らしい少女の声が聞こえたことだ。
刹那、辺りにやや強めの風が吹き、木々を揺らす。ようやく僅かに射した月明かりが映し出したのは、可愛らしい装いをした幼い少女であった。
頭を覆う黒いボンネットキャップ、フリルをふんだんに使った黒いブラウスに、膝下丈のジャンパースカート。所々に緑色のチェックリボンが結ばれていて、なんとも可愛らしい。
顔立ちも美少女と言える風貌をしているが、肌の色は人間と異なり青白い。寧ろ灰に近かった。そして長い髪から覗く耳は先が尖っていて、一目で人間とは異なる存在だと言うことを伝えてくる。
少女はにっこりと笑い、一度肩越しに自分の後方を振り返った。
「呆気なかったわね、アグレアス。ちょっとは手加減してあげればいいのに」
「そんなことをして何になる、サタン様をお待たせするつもりか?」
そして、少女に続いて大柄な男が暗がりの中から出てきた。声は野太く、非常に低い。
アグレアスと呼ばれた男はゆっくりとした歩調でジュードに歩み寄り、目の前に立つと薄く口元に笑みを滲ませた。
ジュードは男――アグレアスを睨み上げる。全身が悲鳴を上げるかのように粟立っていた。
「小僧、怖いか? なぁに、一瞬だ。すぐ楽になる」
「何を……」
「――サタン様、どうぞ」
アグレアスは一歩片足を後ろに引き、後方に視線を向ける。そんな様子を確認し少女もそれに倣い後ろに向き直ると、深く頭を下げた。
その先、少女と男が出てきた暗闇の中にはまだ蠢く――巨大な何かが潜んでいたのだ。
まさか、とジュードは思う。あの夢には、まだ続きがある。
正体さえも分からない不気味な何かが、ジュードを喰らおうと飛び掛ってきたのだ。赤い目玉を持つ、不気味な何かが。
ジュードの嫌な予感は的中していた。ゆっくりと、何かを引き摺るような音を立てながら姿を現したのは夢で見た合成魔獣に似た不気味な生き物だったのだ。
静かに伸びてくる部分は恐らく頭。夢で見たように黒い頭らしき場所に一筋の光の線が走る。
次の瞬間、その線は左右に割り開かれ、中からあの赤い目玉が現れた。右左にと転がるように動き、値踏みでもするかの如くジュードを見遣る。
「――贄……」
そして、また一つ呟いた。複数の声が様々に重なる、声と言うよりは音に近いものだ。
その音は鼓膜を振動させ、頭の中に不気味に響くような錯覚さえ与えた。
ジュードは見開かれた真紅の目玉を前に言葉を失う。夢と同じように確かな恐怖を感じていたのだ。
サタンと呼ばれた不気味な生き物は、頭部らしき部位の下を静かに開く。大小様々の牙が覗くそこは、恐らくは口だ。蛇のように細長い舌を出して、ゆっくりと伸ばす。行き先はジュードの頬だった。
自らの最期を予期し怯えを滲ませる獲物の姿は、捕食者からすれば最高の瞬間である。待ち望んだご馳走を前に期待を膨らませ、舌なめずりを一つ。
じとり、と生温かい舌が頬を伝う感覚にジュードは嫌悪感を覚える。肌が粟立ち、怖気が湧いた。だが、極度の緊張状態と恐怖に身体は相変わらず指先一つ動かない。
――動いたとしても、四肢を拘束されていては何も出来ないのだが。
サタンは開いた口からしとどに涎を垂らし、そんなジュードに喰らい付こうと頭を寄せた。
だが、次の瞬間。
ジュードの身を拘束していた影が、サタンの首と思われる部位もろとも勢い良く切断されたのである。
それは真横から飛んできた、白い光の刃。暗闇を照らすような眩い輝きを持つ刃であった。
「――何ッ!?」
「サタン様っ!」
アグレアスは背負う大振りの両刃剣に手を添え、少女は切断されたサタンの頭を拾い上げて大切そうに両腕で抱き上げる。そしてアグレアスの見遣る方を忌々しそうに睨み付けた。
「――ジュードから離れて!」
そこには、カミラが片手を突き出して立っていた。瑠璃色の双眸にありありと怒りを滲ませている。先程の光の刃は彼女が放った光属性の攻撃魔法だ。
カミラの後ろには途中で合流を果たしたマナやウィル達の姿もある。皆、森に響いたジュードの悲鳴を聞き付けてやって来たのだろう。
アグレアスは小さく舌を打つと、首と胴体が離れつつも息絶えることはないサタンへ一声掛けた。
「チッ、ザコ共が大勢でぞろぞろと。サタン様、ここはお退きください。後は我々が――ヴィネア」
「ええ――サタン様、先にお城へお送り致します、贄は必ずわたくし達が連れ帰りますわ。アルシエル様とご一緒に吉報をお待ちくださいませ」
ヴィネアと呼ばれた可愛らしい少女は切り離されたサタンの首を掲げ、そして魔法を発動させる。
続いてサタンの胴体部分の足元に黒い魔法円が出現したかと思いきや、巨大なその身と彼女が掲げる首は闇に溶けるように消えたのである。ヴィネアが使った転送魔法だ。
カミラは視界にアグレアスとヴィネアの姿を捉えたまま、数歩足を踏み出す。その瞳にも表情にも、隠し切れない怒りが滲んでいた。
ウィルとマナはそんな彼女をやや狼狽しながら見つめ、しかしすぐにジュードへ視線を向ける。
「ジュード! 大丈夫!?」
ジュードはと言えば、拘束から解放はされたが立ち上がれずにいた。未だに精神が安定しないのだ。
だが、サタンが姿を消したことで徐々に落ち着きを取り戻し始めてはいる。マナの声に数拍遅れでゆっくり視線を返した。その顔色は夜の暗がりの所為でもあるのだが、青白い。顔面蒼白と言うに相応しかった。
「カミラ、こいつらは……魔族なのか?」
「間違いないわ、……魔族よ」
「じゃあ、結界が破られたってこと?」
見るからに『人間』とは異なる。
肌の色、尖った耳、そして先程の不気味な生き物を崇める様。
カミラの返答にウィルは息を呑み、ルルーナは眉を寄せて表情を顰めた。だが、その言葉にヴィネアは態とらしく鼻を鳴らしてみせる。
「結界が破られた? ふん、人間っておめでたいわね。結界を解いてくれたのはあなたたち人間じゃないの」
「なんだと……?」
ヴィネアの言葉にウィルは目を見張る、彼女のその言葉が純粋に理解出来ないものであったからだ。
「あなたたち人間が毎日のように放出する『負』の感情が結界を弱めて、遂には消してしまったのよ? なのにわたくし達の所為にするんですの? これだから人間は自分勝手で醜いのですわ」
「負の感情……」
「そうだ、特にこの水の地方、地の地方は顕著だったようだな。この二国のお陰で最近は特に結界の弱まりが早かった、礼を言うぞ」
負の感情――それは人間誰もが持つ感情だ。
怒り、悲しみ、妬み、恨み、憎悪などのネガティブな感情のことである。
アグレアスの言うように、水の国は特に憎悪や悲しみなどの感情が強かった。魔物の狂暴化が起きるまでは穏やかな国であったが、元々争いを苦手とする者が多く集う国だ。狂暴化が始まってからと言うもの、人々は不安な毎日を送り、些細なことで感情が爆発することも珍しくはなかった。
そして、エイルのように火の国に対して強い怒りを抱く者も数多く存在する。
地の国は今でも閉ざされた国の中で命を賭けた賭博ゲームが行われ、多くの奴隷が貴族や王族に憎悪、怒りを抱いていることだろう。
ヴィネアは大きな双眸を細め、蔑むような表情を浮かべながら口を開く。
「信じられない、って顔してますわねぇ。これだから人間は……まあいいですわ、邪魔者は全て排除するだけですもの」
「同感だ、苦しまぬよう一瞬で終わらせてやろう」
ヴィネアとアグレアスは、そう口にするとそれぞれ身構える。アグレアスは背中から大振りの剣を、ヴィネアは何もない空間からハート柄の可愛らしい傘を取り出した。
それを見てウィルやマナ、そしてカミラにリンファ、ルルーナも武器を手に身構える。カミラは先頭に立ったまま、依然として怒り冷めやらぬ様子でアグレアスとヴィネアを睨み付けていた。
ウィルは小さく、そんな彼女に声を掛ける。
「……カミラ、いけそうか?」
「相手が魔族なら、役に立てると思う……」
カミラは、魔族に対して絶大な効果を発揮する光魔法の使い手だ。先程サタンの首を切断したのも光の魔法である。闇に属する魔族には特に効果があるのだ。
ウィルは槍を構え、リンファは格闘術で応戦すべく前に踏み出て身構える。アグレアスは鼻で笑うと地を蹴って駆け出した。
「人間風情が、俺達に勝てると思うな!」
その勢いはクマの突進のようなものであった。
素早さこそあまり高くはないようだが、それでも常人から見れば普通以上に素早く、勢いがある。太く鍛えられた腕で大剣を握り締めて振りかぶり、駆けながらウィルへ向けて振り下ろした。
辛うじて真横に跳ぶことで回避したが、剣の斬撃が直撃した地面は雪が蒸発したように飛び散り、その下にあった大地を深く抉る。地面が砕け、大小様々な破片が周囲に飛び散った。
――直撃を喰らえば、ひとたまりもない。
アグレアスは不敵に笑って剣を肩に担ぎ、逆手をウィルに向ける。そして手の平を上に向け中指と人差し指を招くように動かした。まるで挑発だ。
「――地のアグレアス、参る! 少しは楽しませてくれよ!」
リンファは、傘を持って薄く微笑むヴィネアを真っ直ぐに見据える。可愛らしく小首を傾げる様は、とてもではないが敵になど見えない。
だが、ヴィネアは閉じられていた傘を開くと中から無数の針を出現させてリンファへと勢い良く飛ばした。
それを見たリンファは無数の針の行方、軌道を睨み付けるように見遣り、持ち前の俊敏さを活かし身を翻すことで全て回避したのである。
しかし、ヴィネアは驚くような様子もなく、クスクスと小さく笑うだけであった。
「うふふっ、風のヴィネア――お相手致しますわ。出来るだけ苦しまないように殺して差し上げますわね」
にっこりと微笑む少女は人形のような愛らしい顔をしているが、顔と言葉が全くマッチしていない。
ウィルとリンファは緊張に固唾を呑み、それぞれ相手の出方を窺った。
「(頼むぜ……!)」
「(カミラ様……っ)」
敵との力の差は歴然だ。勝ち目があるとすれば、カミラの魔法次第である。光に弱い魔族の弱点さえ突ければ充分に勝機はある筈。ウィルもリンファも――マナやルルーナでさえ、そう思っていた。
すぐに両者、交戦が始まる。詠唱に入るカミラとルルーナを後目に、マナとオリヴィアはジュードの元へ駆け出した。未だ座り込んだままの彼の安否が気に掛かったのである。