第四十話・ウィルとリンファ
「私の兄は、ノーリアン家に殺されたんです」
目の前でリンファが告げる言葉に、ウィルは身動き一つ出来なかった。
両親に同行して世界の至るところを巡っていたウィルは、地の国グランヴェルの最高貴族ノーリアン家の噂を知っていた。
裏では何か良くない組織と関わっているのではないか、裏で糸を引き世界の情勢を操っているのではないか。根も葉もない噂ではあったが、良くないものばかりだったことは記憶している。だからこそ、ルルーナがやって来た時もウィルは警戒したのだ。
だが、まさかそんなことに関わっていたなんて。そして、その家に大切な者を殺された人と逢うことになるなんて。ウィルは、そう思った。
つい先程、ルルーナに地の国の現状を聞いた時から国そのものに良い印象など持ってはいなかったが、まさか彼女の兄がルルーナの家――ノーリアン家に殺されていたとは思わなかった。
それならばリンファがルルーナを睨み付けていることも充分に納得出来る。恨んで、憎んで当然だ。
「……どうして」
暫しの沈黙があったが、ウィルが口に出せたのはそれだけだった。それほどまでに衝撃的だったのだ。
ウィルはルルーナのことをあまり快く思ってはいなかったが、最近の彼女は随分と変わったように見える。以前のような刺々しさがなく、あのマナとも相変わらず口論ばかりではあるが、多少なりとも歩み寄りが感じられるようになった。
そんな彼女の家が、リンファの大切な兄を殺した。信じたいことではない。
だが、リンファは悪戯に嘘を吐くような娘には見えなかった。
ウィルがやっとのことで洩らした疑問らしき呟きに、リンファは一度視線を下げる。そして言葉を考えるような間を置いてから、静かに口を開いた。
「……私の兄も、闘技奴隷だったんです」
それは、今から五年ほど前にまで遡る。
当時、まだリンファは十歳であった。
彼女の家族は両親と兄、そしてリンファの四人家族。
父は昔からある程度名の知れた魔物狩りで、魔物討伐の報酬で生計を立てていた。母はあまり身体が丈夫ではなく、やや病気がちであったが子供のことを放置するような性格でもなかった。いつでも子供のことを最優先に考えてくれる優しい母で、リンファは愛情に包まれた幸せな家庭で育ったのである。
大きくなったら父の仕事を手伝うのだと、兄もリンファも大好きな父にいつも稽古をつけてもらっていた。全ては大好きな家族のために。
――だが、そんな幸せな家庭は突如崩壊した。
地の国グランヴェルに凶悪な魔物が現れたのである。バジリスクと呼ばれる巨大な蛇だった。
吐き出される毒を受けると数分で生き物を死に至らしめる毒性の強い魔物で、その大きな身で人間を丸呑みにすることも多いとされている。
蛇にしては鋭く発達した牙を持ち、咬み付く力も尋常ではない。
また、その瞳を見ると生き物は身を石に変えられてしまうとも言われている。そんな魔物がグランヴェルに現れたのだ。
多くの魔物狩りがバジリスク退治に乗り出したが、誰一人として生きて帰ってくる者はいなかった。
やがて噂は広まり、リンファの父の元にも届いたのである。
報酬目当てではなく、父はグランヴェル全土の安全の為に仲間達と共にバジリスク退治へ向かったのだが――リンファの父は、生きては帰れなかった。
彼らの活躍でバジリスクは見事に退治されたが、それに伴う犠牲は大き過ぎたのだ。多くの者が命を落とし、死闘の末にようやく勝利することが出来たのである。
そして、リンファの父は命を落とした者の一人だった。
それからは収入源がなくなり、悲しみに暮れる暇もなくリンファ達家族は崩壊したのだ。
税を払えなくなった母は国の兵士に捕らえられ、他の貧民と共に三日三晩の磔の後に火あぶりの刑に処された。
親を亡くしたリンファと兄は奴隷へと身分を落とされ、当時まだ数の少なかった闘技奴隷にされたのである。
「……コロッセオには、私達よりも幼い子供がたくさんいました。そして毎日……魔物との賭け試合に駆り出され、次々に喰われていったんです」
「……ああ」
「聞けば、そう言った子供の方が賭け試合には最適なのだそうです。魔物に勝てる筈のない子供が勝てば、大穴になるらしくて」
ウィルには、到底想像出来ない光景である。
まだ親の保護が必要な子供がその親を亡くせば、他国であるなら何処かで保護されることが普通である。しかし、地の国では異なるのだ。
子供だからと奴隷になることを避けられる訳でもなく、奴隷に身分を落とされて、更には魔物と戦わされるのだと言う。
ウィルはただ黙って、脇に下ろした拳を固く握り締めた。
地の国は、子供でさえ命を懸けた娯楽に使うのだ。
リンファと兄は、大穴を狙える子供として重宝された。
二人は魔物狩りの父から戦い方を教わっていた為に、魔物との戦いに於いても命を落とすことなく戦えたのである。
貴族達は大喜びで、リンファと兄に大金を賭けて遊び回っていた。
そんな日々が続いて、三年後。
貴族達は当時の興奮も忘れ、兄をつまらなさそうに見つめていた。
リンファの兄は強くなり過ぎていたのだ。
どのような魔物と戦わせても、必ず生き残る。――負けると言うことは即ち死を意味するのだから当然なのだが。
そこへ、ノーリアン家の当主――ネレイナが貴族達に提案した。
『強者の戦いほど見ていてつまらないものもない。ハンデとして、五匹の魔物と戦わせてみないか』
その提案に興奮を忘れていた貴族達は拍手喝采、大喜びで賛成したのである。
コロッセオでの賭け試合は基本的に一対一で行われるが、リンファの兄は強くなり過ぎており、一対一の試合では物足りないとさえ感じられていたのだ。
反対する者は、誰もいなかった。
――翌日、いつものように賭け試合に駆り出された兄は、目の前に見える五匹の魔物に狼狽した。後の試合に出る奴隷を入れておく檻の中で、リンファは同じ闘技奴隷達と共にその光景を見ているしかなかったのである。
それでも平静を取り戻し、兄は必死に戦った。「兄さん、兄さん」と必死に呼び掛ける妹の――リンファの声に励まされながら。
だが、基本的に闘技奴隷には、反逆を恐れて武器などは一切与えられない。その上に多勢に無勢、幾ら強くなったと言えど五匹の魔物相手に一人の人間が勝てる筈もなかった。
体力的にも限界が近くなった兄に対し、一匹の蜘蛛型の魔物が粘着性のある糸を大量に吐き出したのだ。全身に絡む糸は瞬く間に身体の自由を奪い、大きな隙を作らせた。そして、腹を空かせた魔物達がその隙を見過ごすことはない。
魔物達は一斉に兄へと飛び掛かったのだ。
その瞬間、彼は震える声でただ一言だけを呟いた。
『――リンファ……ごめんよ……』
そしてリンファが最後に見た兄は、涙を流しながら必死に笑顔を作る姿であった。
大切な妹を一人残して先に逝く罪悪感、これ以上共にいられない寂しさ、一人逝く恐怖。
それら様々なものが表情に、そして一つの呟きに込められていた。
その光景は、まるでスローモーションのようにリンファの目に焼き付いている。
兄が涙を流して泣き笑う姿、そんな兄に喰らい付き、肉を貪り喰う魔物達。紙吹雪の如く金をばら撒く貴族たちの大歓声。
そんな中でリンファは狂ったように叫び声を上げ、兄の死を嘆いた。
「兄はとても強い人でした、強く優しく……いつか出られる日が来るから、それまで一緒に頑張ろう、って……」
リンファは、静かに語り終えると小さく呟いた。そして、気持ちを切り替えるように一度目を伏せてから顔を上げる。
しかし、彼女はすぐに目を丸くさせた。
「……ウィル様。なぜ、あなたが泣くのですか」
「いや、だって……想像したら出てきたんだよ」
ウィルは、紫紺色の双眸から涙を流していた。鼻頭もほんのりと赤く色付いている。
リンファは不思議そうに、そんなウィルを見つめていた。
ウィル自身も家族を魔物に殺された身だ。しかし、リンファはそのウィル以上に悲しく、そして辛い過去を背負っているのだと思ったのである。
もしも、自分がそんな状況になったら。そう考えると溢れ出す涙を止められなかった。そして、それでも彼女は強く生きているのだと思うと次々に出てくる。
暫し無言でウィルを見つめていたリンファだったが、やがて衣服のポケットからハンカチを取り出すと彼へと差し出した。
「……あなたは、おかしな人です。人の為に泣けるのですね」
「俺もさ、目の前で魔物に家族を殺されたんだ。両親も、妹も」
サンキュ、と短く礼を向けてハンカチを受け取ると目元を拭う。彼女の過去を聞いてから語る自分のこと――それのなんと平和で幸せなことか。ウィルはそう思った。
血の繋がった家族こそ失ったが、そんな彼を受け止めてくれる新しい家族が彼にはいたのだ。ジュード、マナ、そしてグラム。とても暖かい中で大切にここまで育てられてきた、ジュード達と共に。
だが、リンファにはいなかった。唯一の兄さえも奪われて、それでも必死に生きてきたのだ。そう思うとウィルは自分が情けなくなった。
「ウィル様も……ですか?」
「ああ、けど、君に比べれば……」
「悲しい経験は比べるものではありません、ウィル様も充分に苦しまれた筈です」
即座に返ったその言葉に、ウィルは双眸を丸くさせる。
まだ十五歳という若い身でありながら、リンファは達観している。それは、彼女がどれほどの人生を送ってきたかを物語っていた。
ウィルは、暫し考えるように黙り込んでから改めて口を開く。
「……ルルーナも、コロッセオにはいたのか?」
「それは分かりません、私がいつも目にしていたのは王族の隣に座るノーリアン家の当主だけでしたから……」
「じゃあ、ルルーナは関わってない可能性もあるか……」
先程、地の国の現状を話してくれたルルーナの様子から考えるに、彼女はコロッセオや賭博試合には関わっていない可能性もある。
それでも、リンファにとっては憎い存在であることは容易に想像出来てしまう。だが、ウィルはどうしても黙ることは出来なかった。
「……なあ、リンファ。もし良かったら俺達と一緒に来ないか?」
「え?」
「あのお姫さんの護衛なんて辞めてさ、もっと……自由に生きたっていいんじゃないか? そりゃあ、ルルーナがいるから嫌だとは思うけど、でも……仲間って、結構良いモンだぞ」
それは、リンファには予想だにしない誘いであった。
彼女自身、世界規模で起きている魔物の狂暴化は痛いほどに理解している。その所為で父を失ったと言っても過言ではないからこそ、魔物の脅威を取り除く協力などは望むところなのである。自分と同じ悲しみを、他の誰かに経験させない為にも。
ジュード達が火の国にある前線基地の者達の為に鉱石を採りに来たのだとも、聞いて知っている。狂暴な魔物が少しでも減れば良いと、彼女とて思っているのだ。
――だが。
「……私は、オリヴィア様に恩があります」
「リンファ……」
リンファはそう呟いて、一度視線を下げた。
そして、ゴーレムとの戦闘に入る前の会話を頭の中に思い起こしていく。ジュードに言われた言葉は、なかなか頭を離れてはくれない。
暫しの空白の後に、リンファは改めて顔を上げた。
「ウィル様、私は……オリヴィア様の奴隷に見えますか?」
「え? ……あ、ああ。さっきのか。ジュードのこと悪く思わないでやってくれな、……ああいう奴なんだ、あいつ」
「はい、分かっております。ジュード様は私のことを思ってあのように……」
特に怒っている訳でもなさそうなリンファの様子に、ウィルは小さく安堵を洩らす。そして彼女から向けられた問いに対する返答を考え始めた。
確かに、ウィルの目にも今の彼女はオリヴィアの護衛と言うよりは奴隷のように映る。
リンファを見てみれば、彼女の表情は真剣だ。曖昧な言葉を求めているような目ではない。
ウィルは暫し悩み、葛藤してから静かに――そして言い難そうに口を開いた。
「……そりゃあな、見えるよ。俺も気持ちはジュードと同じ」
「……そう、ですか」
その返答を聞いて、リンファは一度目を伏せる。罪悪感に苛まれ、ウィルは何かしら声を掛けようとはしたのだが、それよりも先にリンファが口を開いた。
「――ウィル様、もう行きましょう。早く皆さまと合流しなければ」
「あ、ああ。その……ごめん」
「いいえ、……聞きたかっただけですから。ありがとうございます」
そう言うと、リンファはふと薄くだが表情に笑みを乗せる。そうして止めていた歩みを再開させた。