第四話・雑木林での出逢い
村を飛び出したジュードは近くの林へと足を踏み入れていた。女性の声がどこから聞こえてきたのか、正確な場所まではわからない。
だが、村の外から聞こえていたのは確かだ。
どこで何が起きているのか――ジュードの気持ちは逸るばかりだ。
街や村の外で起きることはいくつか存在する。一つが魔物に襲われるという脅威、そしてもう一つは暴漢などの悪党に襲われることだ。
風の国ミストラルは他の国に比べて魔物の狂暴化はそれほど進んでいないが、人型の魔物であるオーガは元々が好戦的な性格であり、人の姿を見ればほぼ確実に襲ってくるものが多い。
先ほど聞こえてきた声は確かに女性だ、もし狂暴な魔物にでも襲われていたら――そこまで考えて、ジュードは最悪な展開をかき消すように頭を振った。
「陽が暮れる前になんとか探さないと……」
それまでにはまだ時間はある、大丈夫だと自分自身にそう言い聞かせてジュードは辺りに視線を巡らせながら一歩一歩進んでいく。
この林は森と異なり見通しがよい、こうして周囲に目を向けていれば人の姿を見落とすことなどないはずだ。もっとも――相手が屈んでいたり倒れていたりすれば、茂みに隠れてしまうのだが。
その時、彼の視界に林には不似合いな紅色が飛び込んできた。
「あ、そこのあなた! ちょっと!」
「その声、さっきの悲鳴の……」
「オーガに追われてるの、助けて!」
それは、紅色の髪をした少女であった。
仲間はいないのか、女の一人旅には随分と不向きな――胸元や肩、二の腕、更には太ももなど際どい箇所を過剰に露出した格好をしている。白い肌に大きなスリットが入った黒のマーメイド型ドレスはひどく似合う。
彼女が持つ美貌と相俟って男を虜にするには充分だろう。
だが、ジュードの頭に浮かぶのは「なぜこんな場所にこんな格好をした女の子がいるのか」ということだ。悲しいかな、彼は色恋には恐ろしく鈍い。年相応の興味がない訳でもないのだが、グラムの育て方ゆえか、はたまたジュード自身の性格なのか女性との過剰な接触を善しとしていないのだ。
そして彼自身の意識や思考は、今は彼女が発した言葉に向いていた。オーガに追われている、という言葉に。
次の瞬間、彼女の言葉通りやや後方にオーガが姿を現した。オーガは人型をしているが、見てくれは明らかに人間とは異なる。
緑色の皮膚を持ち、大きく裂けた口の両端からは鋭利な牙が覗く。太い腕から繰り出される棍棒による攻撃は、民間人が喰らえば致命傷になるレベルのものだ。この風の国ミストラルで一番狂暴とされている魔物である。
ジュードは少女を己の後方に促すと、腰裏から素早く短剣を引き抜く。護身用に持ち歩いているものではあるが、その形状はボウイナイフと言われる格闘用に造られたものだ。
持ち手部分のハンドルとブレードを繋ぐヒルト部分に蒼く透き通る石が埋め込まれたそのナイフは、大層美しい。ジュードは得物を右手に持ち、真正面からオーガと対峙した。
「グオオオオォッ!」
オーガは雄叫びを上げると、ジュードの倍はあるだろう巨体を揺らして襲いかかってきた。駆ける度にドスドス、と鳴る重苦しい音からオーガの重量がどれほどのものかは大体想像はできる。
己の前まで駆けてきたオーガが棍棒を振り下ろしてくると、ジュードは身を屈めて真横へと跳ぶ。幼い頃から山奥の村で育ったジュードの眼は非常によく、その動体視力は常人よりも遥かに優れている。
オーガの力任せの攻撃は確かに脅威ではあるが、動体視力に優れたジュードにとっては直撃にさえ気をつければ怖い相手ではない。
「――こんのッ!」
「ギャオオオオッ!!」
振り下ろされた棍棒を難なく避けたジュードは、逆手に持つ短剣のブレード部分をオーガの背中に叩きつける。鋭利な刃の部分だ、当然オーガの背からは血飛沫が上がった。
それと同時にオーガは悲鳴と思わしき声を上げる。そしてその声は、やはりダイレクトにジュードの頭に響いた。
『――痛い、痛い、苦しい!!』
「くッ……!」
頭に響き渡るその声にジュードは眉根を寄せて歯を食いしばると、身を翻して後方に跳びオーガと距離を取る。だが、攻撃の手を緩めた訳ではない。
右手に持つ短剣に意識を集中させると、ヒルト部分に埋め込まれた蒼い石がまるで呼応するように淡く光り輝く。
背中を斬られ怒りが頂点に達していると思われるオーガはそんなジュード目がけて再び駆け出し、そして飛びかかった。ジュードはそんなオーガを見据え、淡い光をたたえる短剣を真横に薙ぐように振るう。
すると、ジュードの周囲に無数の氷の刃が出現し、襲いくるオーガを直撃した。それは氷属性の初級攻撃魔法『アイスニードル』だ。飛翔する氷の刃はオーガの腕、腹部、足など身体の至るところに突き刺さり、飛びかかるその巨体を叩き落とした。
「今のは魔法……? でも、あの子……魔法の詠唱なんてしてなかった……」
その光景を見ていた少女は、隠れていた木の陰から身を乗り出して目を見張る。
生まれ持った才能に左右される部分こそあるものの、魔法は通常であれば習うことで誰でも扱えるものだ。しかし、魔法を使うには必ず詠唱の時間を挟む必要がある。
魔法というものは世界に広がる精霊の力を一時的に借り受けて放つものだ、詠唱はその精霊たちの力を具現化させるためのもの。これを省略しては正しく発動はしない。
だが、ジュードはその詠唱もなく魔法を放った。ゆえに少女は驚き目を見張ったのだ。
無数の氷の刃が突き刺さったオーガは「ガオオォ、ギャオオォ」と悲痛な声を洩らして起き上がると、お手上げとばかりに来た道を駆けて一目散に逃げていく。
ジュードはそんなオーガの背中を見送って、一つ安堵の息を洩らした。
「あ……ありがとう、助かったわ」
「いや、大丈夫?」
「ええ、お陰さまで。……あら、腕のところ擦りむいてるわよ」
オーガが逃げていったのを確認すると少女はそっと片手で己の胸を撫で下ろし、薄く笑みを浮かべながら静かにジュードの傍らへと歩み寄る。そんな彼女に気づくとジュードは短剣を腰裏の鞘に戻し、礼を言われることではないとばかりに小さく頭を左右に振る。
だが、ふと少女はジュードの手の甲に視線を向けると、血こそ出てはいないもののそこに薄い傷を認めた。
「ほんとだ、木の枝で引っかけたかな」
先ほどのジュードはといえば、悲鳴を上げた女性を探そうと己の身のことなど全く考えていなかった。その際にどこかの木の枝に引っかけたのだろう。
少女は一歩改めてジュードに歩み寄ると、両手でその手を取った。
「ジッとしてて、私にできるお礼なんてこれくらいしかないけど……」
「……え?」
そう告げると、少女は静かに双眸を伏せる。そして形のいい口唇から短い詠唱を紡いだ。それと同時に彼女の手からは黄色の優しい光が溢れ出す――それは、地の精霊の力を借りた初歩的な治癒魔法。
しかし、その光景を目の当たりにするなりジュードは蒼褪め、咄嗟に声を上げた。
「――っ! ちょ、待っ……!!」
「……どうしたの?」
その声に驚いたのは当然少女だ。
彼女にとっては礼のつもりであったのだが、一体どうしたのかと伏せていた双眸を開いてジュードを見上げる。
すると、ジュードは苦悶の声を洩らし片手で己の胸辺りを押さえて崩れ落ちた。彼の手を包んだ優しい光は、まるで弾かれるかの如く飛散していく。
「え……っ、ちょ……どうしたの!? ねえ!!」
少女はジュードの傍らに屈むと、崩れ落ちた彼の身を支える。彼女はただ治癒魔法をかけただけだ、だと言うのになぜ倒れなければならないのか。
手を触れた彼の身は衣服越しでも分かるほど熱い、異常なほどの体温だ。――否、今もまだその熱は上がり続けている。意識があるのかないのか、既にそれさえわからない。眉は苦しそうに寄せられ、薄く開いた口唇からは荒い呼吸が洩れる。双眸は完全に伏せられていた。
少女はその様子に戸惑ってはいたものの、やがて神妙な面持ちで息を呑む。
「(……魔法に対する拒絶反応? まさか、この子……)」
言葉にこそ出さなかったが、少女は暫しそのままの状態でジュードを見つめていた。