第三十六話・奴隷
しっかりとジュードに抱き着くオリヴィアはこの上なくご機嫌だ。しかし、彼女に抱き着かれるジュードの表情が何処か痛むように歪むのを、カミラとリンファは見逃さない。
カミラは軽く頬を膨らませるとそちらに歩み寄り、頭の片隅で失礼だとは思いながらもオリヴィアの肩を掴んで引き剥がした。
だが、当然そこで不満を押し出すのは引き剥がされた当の本人――オリヴィアである。
「まあっ、なんですの?」
「ジュードが苦しそうです」
ルルーナの言うように、オリヴィアは男性に対する反応と女性に対する反応とでは圧倒的に異なる。
男性には甘えた声を出して見た目通りの可愛らしい対応をするが、女性相手となると途端に目付きは厳しくなるし表情も不愉快そうなものへと変わる。
そして、そこはやはり人の感情に敏感な女性である。
ジュードがカミラに好意を抱いていることも敏感に察知しているのだろう、彼女がカミラを見る目は特に厳しい。
更には昨日の口論だ。ルルーナの古傷を抉ったオリヴィアに対し、横から口を挟んだことが気に食わなかったのかもしれない。
だが、カミラは苦しそうに表情を歪ませるジュードを見過ごせなかった。
オリヴィアの抱擁から解放されたジュードは、安堵に一度小さく吐息を洩らす。一瞬、ほんの一瞬だけ右肩へと視線を投じたのだが、リンファはそんなジュードの目の動きを見逃さなかった。
リンファはジュードの傍らに片膝をついて屈むと、彼の右肩に手を添える。微かに震えているのがリンファにはすぐに分かった。
「……転倒なさった時に傷口が開いたのですね」
「え……な、なんで……」
「分かります、肩が少し震えていらっしゃいますから。……痛みがあるのでしょう」
図星を突かれて、ジュードは翡翠色の双眸を丸くさせたまま言葉に詰まった。
リンファの言うことは全て当たりだ。
ジュードはオリヴィアに抱き着かれて転倒した際、右肩に確かな痛みを覚えた。ぶち、と何かが切れるような錯覚と共に。傷口が開いた感覚だと思われる。
次にじわり、と衣服に何かが滲む生暖かさ。この寒い地方で滲むほど汗が出る筈もない、開いた傷口から血が滲んだのだ。
「……少し、ジッとしていてください」
「え、でも、あの」
「大丈夫です、魔法が駄目だと言うのは……存じております」
リンファは変わらず無表情のまま小さく吐息を洩らすと、ジュードの右肩に両手を添えた。
すると、一拍の空白の後に彼女の手からはほんのりと白く柔らかい光が溢れ出した。その光はジュードの右肩を包むように淡く輝く。
一見魔法のようではあるがジュードの身は特に苦痛も覚えず、そして拒絶反応も起こさなかった。寧ろ、逆に暖かく――心地好ささえ感じるほどだ。
ウィルとカミラ、そして駆けてきたマナやルルーナもその光景を見守る。
「ジュ、ジュード、大丈夫なの?」
「あ、ああ……うん、大丈夫。なんか暖かくて……気持ちいい」
「これは……何なんだ?」
マナは恐る恐るジュードに問い掛けたが、当の本人は感じるままの感想を簡潔に呟くだけである。無理もない、ジュード自身が驚いているほどなのだ。
いつも魔法を受けるだけで苦痛を覚え、高熱を出して倒れてきたのだから当然ではあるのだが。
ウィルはほんのりと光るリンファの手を見つめて、幾分控え目に問い掛けた。集中しているのなら、邪魔にならないようにとの配慮である。
集中しているのか否か――はたまたジュードの傷の具合を心配してくれているのかは定かではないが、伏せ目がちに患部を見つめるリンファは十五歳の少女と言うには随分と大人びて見える。無表情さ故か、日頃から喜怒哀楽の感情表現たっぷりのマナやカミラよりも幾分年上のように感じられた。
「私のこれは魔法ではありません、気功術です。氣は全ての生き物が持っている自然の力ですから……気功術でその人が持つ治癒力を高め、回復を促進します」
無表情に淡々とした口調で答えるリンファに、ウィルとマナは期待を双眸に宿して互いに顔を見合わせる。
気功術――それは治癒魔法さえも受け付けないジュードのことを思えば、これ以上ないほどの朗報であった。
「ね、ねえリンファ。じゃあ……気功術を使えば、ジュードの怪我も早めに治るかしら」
「……カミラ様の治癒魔法のようにはいきませんが、多少は……治りも早まるのではないかと思います」
「おいおい、良かったじゃないかジュード! お前はどんな魔法でもぶっ倒れちまうからさあ……」
一番嬉しいのは、当然ジュード本人である。
治癒魔法さえ受け付けない為に戦線離脱を余儀なくされている現状から、少しでも早く復帰出来る見込みが立つのは非常に嬉しい。
だからこそ、ウィルやマナだけでなくカミラやルルーナもホッと安心したように表情を和らげ、そしてジュード自身も自然と表情には笑みが浮かんだ。
「ああ。ありがとう、リンファさ――」
だが、ジュードがリンファに礼を向けようとした時だった。そんな和やかな雰囲気は一瞬で壊れる。
「……リンファ! どうしてお前はそうなの!?」
オリヴィアが、突然彼女に怒声を向けたのだ。
突然のその声にリンファは慌てて顔を上げ、ジュードの肩から――否、ジュードの身から瞬時に離れてオリヴィアへ向き直る。身を縮めるようにして頭を下げる姿は、まるで小さな子供のように見えた。
ジュードもウィルも、もちろんカミラ達も。なぜオリヴィアが唐突にリンファを叱り付けるのか理解が出来ない。何事かと戸惑うばかりだ。
ウィル達にとっては非常に有難いことだ。ジュードに恋心を抱いているのなら、当然オリヴィアも本来は喜ぶべきことなのではないか、誰もがそう思う。
「わたくしの許可なしに、勝手に男に触れるなと言ったでしょう!」
「で、ですが……ジュード様はオリヴィア様を二度も助けてくださった方で……その、お礼を……」
「黙りなさい! 奴隷の分際で姫であるわたくしに口答えするだなんて……っ、さっさと先を見てきなさい!」
これまでの甘えたな姫君の様子とは打って変わり、突然激昂し護衛である少女に暴言を吐き散らす様は見ていて気持ちの良いものではない。
唖然とするジュード達を後目にリンファは一度だけ深く頭を下げると顔を伏せたまま立ち上がり、そして先へと続く道を駆けていった。オリヴィアの命令通り、先の様子を見に行ったのだ。
数拍の間を置いて最初に我に返ったのはウィルだった。ウィルはやや乱雑に頭を左右に揺らし意識を完全に引き戻すと、胸中に渦巻く憤りや困惑を抑え込みながらオリヴィアに詰め寄る。なぜあの幼い少女が怒声を向けられなければいけないのか、全く理解が出来なかったからだ。
「おい、どういうことなんだ、今のは!」
「……ウィル様?」
「なんであんな風に怒らなきゃならない? なんなんだよ奴隷って!」
「そうよ、それにジュードの怪我を治すサポートをしてくれるなら、あたし達にとっては有難いことだわ!」
ウィルに続き、マナも慌てて意識を引き戻す。二人の声にジュード達も思考を切り替え始めた。
しかし、当のオリヴィアは何でもないことのようにつん、と顔を余所へ向けて双眸を伏せる。まるで当たり前とでも言うかの如く。
「リンファは男性に色目を使って誘惑するのがお上手なんです、ジュード様を誘惑しようとしていたからですわ」
「さっきのあれの、どこが誘惑なんですか!? リンファさんは本当にジュードの傷の具合を心配してくれて……!」
普段はおっとりとしていることが多いカミラも、流石に黙ってはいられなかったらしい。昨日の不貞腐れた表情とも異なり、明らかな怒りを表情に滲ませてウィルと同じくオリヴィアに詰め寄る。
しかし、オリヴィアは不愉快そうに眉を寄せて双眸を細めると、座り込んでいたそこから立ち上がった。両手を腰に添えて上体を前に倒し、下からカミラの顔を覗き込んで睨み付ける。
「あなたのように平和な頭をした人には分からないでしょうけれど、あの娘は本当に手癖の悪い女ですのよ。リンファは奴隷出身ですから、男性経験が豊富なんでしょうけどね」
「……え?」
カミラは、オリヴィアが吐き捨てるように告げた言葉に耳を疑った。つい先程も耳にしたその単語にだ。
だが、カミラやウィルが問い返すよりも先にルルーナが溜息混じりに一つ呟く。鞭を腰の鞄へと戻してから胸の前でゆったりと腕を組み、不機嫌そうに目を細めた。
「……そう。あのリンファって子、グランヴェルの出身なのね」
「……ルルーナ?」
彼女の言葉に反応したのはジュードだった。続いてウィルやマナ、そしてカミラもルルーナへと説明を求めるような視線を投げ掛ける。
地の国グランヴェルは彼女の実家、ノーリアン家がある国である。そして、ノーリアン家は地の国の最高貴族だ。リンファが地の国出身ならば、何か知っていてもおかしくはない。
ルルーナはオリヴィアを見据えたまま静かに口を開く。
「ジュード達は知らないでしょうけど、グランヴェルには奴隷制度があるのよ。完全に格差社会なの。富裕層である貴族がいるから、貧困に喘ぐ者が生まれる――そして税を払えなくなった者は人権さえも剥奪されて、強制的に身分を奴隷に落とされるの」
「そんな……じゃあ、リンファは……?」
「奴隷出身ってことは、そうなんでしょ。親が子供を捨てて逃げたか、亡くなったか――何にしてもあの戦い方を見る限り、普通の奴隷ではないわね」
「普通の奴隷じゃない……って、奴隷にも種類があるんですか?」
ルルーナの言葉に、ジュード達は思わず言葉を失っていた。カミラが恐る恐るルルーナに問いを向けると、彼女は一度だけ静かに頷く。
完全鎖国になってしまった以上、地の国グランヴェルの現状は全くと言っていいほどに窺えない。幼い頃に確かに両親について入国したことのあるウィルでさえ、国の状況がどうだったかは覚えていない。当然である、まだ十歳にもならない幼い身であったのだから。
オリヴィアが否定しないのを見てルルーナは彼女から視線を外すと、リンファが向かった道へと視線を投げ掛けた。
「家事関係の労働をする一般的な家事奴隷、性的欲求の捌け口にされる性奴隷、主の憂さ晴らしの道具にされる奴隷、そして強制的に戦わされる闘技奴隷。あの子の戦い方を見る限りでは、……闘技奴隷が濃厚かしら」
「……闘技、奴隷?」
「グランヴェルにはコロッセオと呼ばれる闘技場があってね、闘技奴隷は毎日そこで強制的に魔物と戦わされるの。王族や貴族は奴隷と魔物のどちらが勝つかを賭けて遊ぶ――奴隷にとっては命懸けでも、王族貴族にとってはただの娯楽なのよ」
ルルーナが静かに語る言葉、そして内容はジュード達に衝撃を与えた。地の国の内情は彼らが思っていたものより遥かに凄惨な状態であったからだ。
ウィルもマナも、そしてジュードも血の繋がった親を持たない。
もしも、彼らが親を亡くしたのが風の国ではなく地の国だったら。ジュードが捨てられていたのが、もしも地の国であったら。
彼らも、奴隷になっていた可能性が高いのである。
「そうですわ。リンファはわたくしがお父様に頼んで買い取った奴隷です。わたくしが主なのですから、好きにする権利があるのは当然でしょう?」
「けど、アンタのさっきの様子を見る限りじゃ……今までの男はアンタじゃなくてリンファに靡いたのね。アンタは彼女を妬んでるんでしょう? 大人しくて可愛いから」
「――バカを仰らないで! なぜ姫であるわたくしが妬まなければいけませんの!?」
今度はルルーナに食って掛かるオリヴィアを後目に、ジュードは静かに立ち上がった。それを見てカミラは心配そうに彼に一声掛ける。
「……ジュード?」
「カミラさん達は少し休んでて。オレ、ちょっと行ってくる」
「――ジュード様? 行くって、まさか……」
ジュードの言葉に、カミラはそっと薄く微笑むと小さく頷く。そんな様子を見て、オリヴィアはジュードを引き止めるように彼の片腕を掴んだ。だが、それでジュードが思い直したり、止まったりなどする筈がない。
掴まれた腕を緩く振ることで離させ、ジュードは一度こそオリヴィアを一瞥するが、特に口を開くことはなかった。そのままリンファが様子を見に行ったであろう先の道へと駆け出す。
「待てよジュード、俺も行く!」
そして、リンファに亡き妹を重ねるウィルも、そんな彼の後を追って走り出した。
ジュードにもウィルにも――もちろんカミラ達にも。リンファがオリヴィアの言うような少女には、どうしても見えなかったのである。
「……ウィル、大丈夫なのか?」
「ん? 何がだよ」
リンファの後を追って早足に歩くジュードは、傍らのウィルに一声掛けた。何のことを言っているのか、流石のウィルにも分からずに視線のみを彼に向けて問うたのだが、ジュードは真っ直ぐに目を向けたまま暫し黙り込む。
そこで理解した。彼はウィルの事情を知っているのである。
「……別に大丈夫さ、リンファはミリアじゃない」
「……そっか」
ウィルがそれだけを答えると、ジュードはまた改めて暫くの空白を要してから小さく相槌のみを返す。
リンファは妹ではない。それは理解しているのだが、ウィルにはどうにも彼女を放ってはおけなかった。