第二十五話・訪れた平穏
あの吸血鬼騒動から、既に五日が経過していた。
クリークの街も平和を取り戻し、街の住民達は幸せそうに、そして楽しそうに穏やかに暮らす日々を取り戻したのだ。
ウィル達もこの街で身を休めてすっかりいつもの調子を取り戻すことが出来たが、街ではいつも英雄扱いだ。多少なりとも居心地の悪さはある。彼らはそう言った扱いには慣れていないのだから。
そして五日目となる、この日。
「……う……」
ジュードとウィルに割り当てられた宿の一室。
寝台で眠るジュードの傍らには、椅子に腰掛けてうつらうつらと舟を漕ぐカミラがいた。まだ朝も早い時間帯、ウィル達は朝食を食べに行っている。ジュードの看病は交代制で行われていた。
ウィルが戻って来たらカミラが食事に行く。今はカミラが看病をしている時間帯だ。
そんな中、窓からは朝陽が射し込みジュードを優しく照らす。眩しかったのか意識が浮上したのかは定かではないが、小さく洩れた声にカミラは弾かれたように目を開けて彼の顔を覗き込んだ。
気の所為かもしれない、とカミラは思う。これまでも声が洩れた気はしても気の所為だったことが多く、結局覚醒には至らなかったのだ。
――しかし、今回は違った。
小さく唸った数拍の後にジュードは軽く眉を寄せ、ゆっくりと静かに目を開けたのである。
ずっと待ち望んでいた瞬間であったにも拘わらず、カミラの頭は様々な感情が入り混じり真っ白になっていた。気の所為ではない、ジュードが目を開けた、それだけで一杯になってしまったのだ。
ジュードは焦点の定まらない双眸を何度かゆっくりと瞬かせてから、視線をカミラに移す。暫く声も言葉もなくぼんやりと眺めてはいたが、やがて静かに口を開いた。
「……カ、ミラ……さん」
「――っ! ジュード!」
小さく、本当に小さくだが彼が自分の名を呼んだのを理解すると、カミラは瑠璃色の双眸から大粒の涙を溢れさせた。
そんな彼女を見て、ジュードは思わず双眸を丸くさせる。女性の涙に大層弱いのがジュードである。慌てて身を起こそうとして、そして呻く。それと同時に世界がひっくり返ったような強烈な眩暈を感じた。上手く身体に力も入らない。
吸血鬼との戦いに於いて、ジュードが負った傷は生半可なものではない。丸五日眠っていたからと言って完治する筈もないほどの深手であった。
右肩や腕、足が主だが、全身に痛みを感じて思わずジュードは表情を歪ませる。カミラはそんな彼を確認するなり、無理に起き上がろうとするのを慌てて制した。
「ジュード! まだ寝てなきゃダメ!」
「で、でも……」
「ひどい怪我なんだよ、ここに運び込まれてから三日間すごい熱も出たんだよ」
ジュードは必死な様子で告げるカミラを暫し見つめていたが、程なくして小さく頷いた。
ウィル達がジュードをこの部屋に運んだ日の深夜、ジュードは熱を出したのである。傷口が化膿し、発熱に至ったのだ。
翌朝になると深夜よりも遥かに高い熱を出し、傷の痛みか高熱の所為か定かではないが苦しそうに荒い呼吸を繰り返す様はカミラ達を不安にさせた。
薬草と毒消し草を磨り潰して混ぜ合わせたものを患部に塗り、ガーゼと包帯で押さえ、様子を見て三日。なんとか熱は下がり、安定したのである。
「神父さまは大丈夫って言ってたけど、わたしもみんなも……すごく心配で……」
「……カミラさん、あの」
「?」
「オレ、どうしたんだっけ」
幾分申し訳なさそうに呟いたジュードに、カミラは双眸を丸くさせて瞬いた。
あの戦闘の最中、途中から黄金色に染まったジュードの双眸はすっかりいつも通りの穏やかな翡翠色をしている。
本気で覚えていないらしく、横になったまま頻りに首を捻るジュードにカミラは事の顛末を話した。
館の中で吸血鬼と戦ったこと、その吸血鬼をジュードが倒したのだと言うこと、そしてその直後に倒れ、五日間ずっと眠っていたことを。
その話を聞く中で、ジュードは傷をあまり刺激しないようゆっくりと静かに身を起こす。ずっと眠っていた所為で強い眩暈はまだ抜けない。ベッドヘッドに背中を預けて小さく安堵を洩らすと、不意に話し途中のカミラがいつものように「きゃ」とか細く声を洩らした。
見れば、やはりいつものように顔を真っ赤に染めて両手で顔面を覆っている。ジュードは不思議そうに小首を捻り、そして妙な肌寒さに気付いた。
「……!」
何とはなしに自らの身を見下ろして、絶句。
それもその筈、横になっていた時は首の辺りまで布団が掛かっていて気付かなかったが、今のジュードは裸であった。
右肩や腕、胸の辺りに包帯は巻かれているが、衣服らしい衣服は身に付けていない。女性とは異なり上半身を見られたところで恥ずかしくはないが、密かに想いを寄せるカミラに見られるとなると話は別だ。その事実は、ジュードに確かな羞恥を植え付けた。
「な、なんでオレ、ハダカ……? カ、カミラさん……?」
「わ、わたしじゃない! わたしそんなことしないよ!」
「(ですよね……)」
哀れなほどに真っ赤に染まったカミラの顔を見れば、犯人が彼女でないことは明白であった。カミラは男慣れしていないのだ、男性の裸を見るだけでこんな反応を返す彼女がそんな大胆な行動に出られる訳がない。
慌てての否定の為に、反射的に彼女は顔を上げていた。そしてまた悲鳴を上げ、両手で顔面を押さえて背中を向ける。本格的に男に慣れていないらしい。
しかし、今度はジュードが赤くなる番であった。
「カ、カミラさん、ちょっと!」
「え?」
「せ、背中! なんて服着て……!」
カミラの長い髪に隠れていた背中。勢い良く背を向けたことで微かに見えたそこは、惜し気もなく晒されていた。
正面から見ればなんてことはない、ごく普通の肩を出した黒いドレス。
しかし、首の裏で結ぶ形になっているそのドレスは、背中側の首裏から下部分は腰の辺りまでガラ空きであった。
普段は衣服に隠れていて見えなかった部分の露出に、ジュードは自然と顔に朱を上らせる。そんな彼の言葉にカミラは慌てて彼の方へと向き直り、そして視線を下げて俯いた。
「わ、わたしの服、ボロボロになっちゃって着れないから……ル、ルルーナさんが貸してくれて……」
「あ、ああ、そっか……」
「こ、これが一番……その、露出が少なかったの……」
「(嘘だろ、他にどんなの持ってるんだよルルーナは……)」
しどろもどろながら返る言葉に、ジュードは納得したように小さく頷く。だが、そこでようやく吸血鬼に関わった部分の記憶が断片的に蘇ってきた。
カミラとルルーナが連れていかれたこと、救出すべく館へ向かったこと。そして、最上階でカミラが怪我をしていたこと。
それと同時に、ジュードの中には吸血鬼に対する憤りが湧いてくる。
ジュードにとって女性は大切にしなければならない、守らなければならない対象だ。そんな存在に、ましてやカミラに傷を負わせたと言う行為はやはり許し難いものであった。
「(それに、服を裂いたりして……ただでさえカミラさんは男慣れしてないのに)」
そんなことを思いながら、ふとジュードは思い返す。
カミラは、服がボロボロになったと言った。確かにジュード自身も彼女の服が引き裂かれてズタボロになってしまったことは記憶している。
ぼんやりとではあるが、露出した彼女の肌や下着も。
「(……オレ、かなり勿体ないことしたかも……)」
ジュードは内心でひっそり呟き、頭を垂れた。
ジュードにとってカミラは初めて惚れ込んだ相手でもある。男として女性を好きになったのは、彼女が初めてなのだ。
更に言うのであれば、ジュードとて一人の男である。好きな人の肌に興味がない筈もない。
「(なんで意識飛ばしちゃったんだよ、オレのバカ……! 折角カミラさんの普段は見れない素肌を拝めるチャンスが――)」
ジュードは眉を寄せて静かに目を伏せながら、内心で思うがままを連ねる。
好きな人の素肌を見損ねた、それは年頃の少年にとってはどうにも諦め切れないことだ。しかし、ルルーナに借りた服だと言うドレスもまた、ジュードにとって刺激が強めである。
だが、そこでジュードは慌てて頭を振り、突如として自身の思考を止めるように声を上げる。
「――って、そうじゃないだろ!」
「ジュ、ジュード……?」
不意にノリツッコミの如く声を上げたジュードに、カミラは思わず肩を跳ねさせて目を白黒させる。黙り込んで何か考えていると思っていた相手が突然声を上げたのだから、当然の反応だ。
そんなカミラに対し、ジュードは慌てて我に返るとぎこちない笑みを浮かべながら頭を横に振った。なんでもない、と示すように。
――その時、廊下から何やらけたたましい足音が聞こえてきた。程なくして部屋の扉が蹴破るように勢い良く開かれる。
「……ジュード!」
ウィル達であった。
この部屋から食堂も兼ねているロビーまではあまり距離もない。話し声か、つい今し方のジュードのノリツッコミの声でも聞こえたのだろう。
開かれた扉の先、そこに見えたウィル達の様子は各自真剣なものであったが、ジュードの姿を確認するとその表情もすぐに緩む。その場に安堵が広がっていくのがよく分かった。そして、足早に室内へと足を踏み入れる。
「ジュード……ジュード、気分は……どうだ?」
信じられない、と言わんばかりの様子で恐る恐る問い掛けてくるウィルに、ジュードは緩く眉尻を下げる。
普段は何処か飄々としていて歳上らしい余裕さえ持つウィルが、今にも泣き出しそうな表情で見つめてくるのだ。そこまで心配を掛けたのだとジュードは思うが、何となくむず痒さを感じた。
「なんて顔してるんだよ、ウィル。オレはちゃんと生きてるって」
「だって、だってなぁ……お前、全然起きないし……」
「そうよ、心配したんだからね」
ウィルの傍らに立つマナの目も涙で潤んでいた。だが、皆一様に不安や心配からのものではなく、安堵からの嬉し涙を溜めていると言った様子である。
ルルーナも、カミラの隣に立ち薄く微笑んでいた。
「と、とにかく、まだちょっと眩暈はあるけど大丈夫だって。今は少し寒いのと……腹減った。大体なんで裸なんだよ」
「なんで、って俺が脱がせたから」
「犯人はウィルかよ……」
ジュードから服を剥ぎ取った犯人は、同室のウィルであった。あっけらかんとして答える彼にジュードは思わず双眸を半眼に細める。
水の国は世界の北側に位置している。今の時期、昼間は過ごし易いのだが朝晩は結構冷え込むのだ。下着までは流石に剥がれていないが、衣服がないのはやはり寒い。
「だって、あの服ズタボロだったんだぞ。血もベッタリくっついて固まっちまっててさ。これじゃ傷口も悪化するんじゃないかと思ったんだよ」
「……そんなに酷かったのか?」
「お前、覚えてないの?」
ウィルの問い掛けに、ジュードは苦笑い混じりに頷く。カミラに話を聞きはしたが、ジュードにはほとんど覚えがなかった。
「ヤバい、と思ったのは覚えてるんだけど……ここ刺された後の記憶が全くない、かな」
「マジかよ……」
ここ、とジュードが指し示したのは右肩だ。彼が見たこともないような圧倒的強さを誇ったのもその部分――右肩を男に突き刺された直後である。
本人が覚えていない以上、得られそうな情報はない。
あの時にジュードが見せた力と動き、その強さは確かに異常なものであった。まるで人が変わったような印象さえ受けたのをウィルもマナも覚えている。
「(けど、ジュードはジュードだもんな)」
実際に、今現在こうして言葉を交わす彼はこれまでと何ら変わりない、ウィルにとっては可愛い弟分だ。理由こそ定かではなくとも、あの強さに助けられたのも事実である。ジュードがいなければ恐らく全員が殺されていただろう。
だからこそ、ウィルは一度マナを一瞥し視線のみで促す。取り敢えずは気にしないように、と。
そこはやはり長い付き合いである。言葉はなくともウィルの言わんとすることを理解したらしく、マナはしっかりと頷いた。
そしてウィルは改めてジュードに向き直る。
「んじゃ、取り敢えずは飯と服だな。どうする? 俺の貸してやろうか?」
「ああ、うん、それしかない……かな」
「ジュードには少し大きいだろうけどな」
その提案にジュードは一度頷くが、ウィルは可愛い弟分が目を覚ましたことが嬉しいらしく、すっかりいつもの調子を取り戻して揶揄さえ向ける始末。
ジュードはまだ成長するとは言え、ウィルよりは背が小さい。それを揶揄されることは久々のことであった。懐かしさを感じると同時に反発心も生まれる。ジュードは軽く眉を寄せて双眸を細めた。
「ふふ。じゃあ、あたし達はその間にご飯を用意しておくわね」
「ああ、頼むよ」
マナにとっても、何かと懐かしいやり取りである。子供の頃から共に育った彼らにしてみれば、まるで自宅にいるような錯覚さえ覚えるほどだ。
マナがそう告げると、ウィルは改めて彼女に視線を向けて頷いた。
そんな様子を確認してから、マナは弾むような足取りで部屋を出ていく。機嫌が良さそうだ。流石に男性の着替えを見ている訳にもいかず、カミラとルルーナの二人も彼女を追い、部屋を後にした。