第三十七話・勝利と共に……
全身から滲み出る憎悪を乗せて繰り出された爪による攻撃を、ジュードは左手に持つ神牙で受け止めた。全力を込めた一撃、当然ながら受け止めた方に訪れる衝撃も半端なものではない。身が軋むような感覚に歯を食いしばり、片足を軸に一歩後退。身を翻すと共に利き手に持つ聖剣を思い切りサタンの身に叩きつける。
対するサタンは肘を曲げ、腕一本でその一撃を防いでしまった。ヴァリトラの力と四神柱の力を混ぜた聖属性――それでも、力はまだサタンの方が上だ。
もっとも、ジュードが満足に動けないことが大きな要因となっているのだが。
四神柱の力全てを身ひとつで受け切るには無理がありすぎる。強大なそれらの力は依然として彼の全身に圧し掛かり続けていた。
「貴様のような人間の小僧に、俺を倒すなどできるはずがあるまい! 俺は負けぬ、負けるものか――貴様のようなガキに!!」
「……っ!」
休む間もなく繰り出された蹴りはジュードの鳩尾を狙ったが、それは直前でまたしても神牙に阻まれた。互いに力が拮抗し、至近距離で睨み合うこと数拍――次の手に出たのはジュードが先だ。
魔族の王として君臨してきたサタンでは咄嗟に考えつかないような野蛮とも言える反撃、頭突きである。一旦頭を後ろに引き、意図に気付かれるよりも先に思い切りサタンの額へ同様のものをぶち当ててやった。
その一撃に間近に見えたサタンの双眸は大きく見開かれ、堪らず額を押さえて数歩後退を始める。その隙を見逃さず、ジュードは聖剣を振りかぶり思い切りサタンの左肩に刃を喰い込ませた。
「があああぁッ!!」
しかし、それで終わるほど魔王は甘くない。今度はジュードが次の行動に移るよりも先にサタンが右腕を振り、鋭利な五指の爪でジュードの腹を抉ったのだ。一瞬のことに、一拍ほど遅れて激痛が走るとその表情は彼が頭で意識する前に勝手に歪む。
斬り裂かれた傷口がまるで焼けるような灼熱感を持ち、脈を打つのに合わせて定期的に痛みを訴えてくる。皮膚からはどっと脂汗が噴き出し、一瞬だけ意識がふわりと遠退いた。
倒れかけた身は片足を踏ん張ることで支え、即座に反撃に移る。残り時間は僅か数分、ほんの一秒ですら惜しい。
「(……なんでオレ、ここまで必死になってるんだろ……)」
少し前まで、ジュードはどこにでもいるような普通の子供だった。
それがカミラと出逢い、彼女の力になりたいと思っている間にあれよあれよと色々なことに巻き込まれてしまった。それを後悔しているわけではないが、なぜだかこんな状況になって初めてかもしれない疑問がぼんやりと彼の頭の中に浮かんだ。
けれども、彼の口元にはふっと、すぐに薄くだが笑みが滲む。
考えるだけ無駄なことだと即座に気付いたのだ。
伝説の勇者に憧れてはいたが、自分が勇者になりたいと思ったことはない。そんな風に持て囃されたいわけでもない。
王族や貴族に気に入られたいだとか、そんな欲もない。
ただただ、自分の大事なものを守りたいだけなのだ。それは当時から今に至るまで、まったく変わることのなかったもの。
「(魔王と戦う理由としては弱いのかもなぁ……でも、それだけなんだ。理由なんて、それだけで充分だろ――)」
ジュードは改めて歯を食いしばると、神牙を振り上げてサタンの右腕に切っ先を叩き下ろした。腹部からの激痛に目の前がチカチカと明暗を繰り返す、噴き出した汗が肌を伝い落ちてくるのが邪魔で仕方がない。
痛みに仰け反るサタンを見据え、神牙からそのまま手を離してしまうと聖剣を両手でしっかりと握り込んだが、依然として暴れ回る四神柱の力の影響で両手に思うように力が入らなかった。
「え……?」
思わず眉根を寄せて歯噛みした時だった。
不意にその力がじわりと身体に馴染み、刹那――ヴァリトラの力と一体化するようにして今度はジュードの全身に行き渡ったのだ。
『(これは……聖石の力か! 精霊の里の者たちが、聖石に祈っておるのだ!)』
「(精霊の里……ラギオさん、イスラさん……)」
聖石はヴァリトラの力を秘めた奇跡を起こす石だ。里の者たちの平和を願う祈りが聖石に力を与え、暴れ回る四神柱の力を馴染ませてくれたのだろう。
神牙が突き刺さった箇所を押さえて項垂れていたサタンは弾かれたように顔を上げるや否や、大きく開いた口から黒い光線を吐き出した。突然のことにさしものジュードも反応が遅れ、僅かに身を横へとずらしたが――その一撃は彼の右胸部を貫通し、奥の壁さえも突き破ったのである。
『――ジュード!!』
『(……ッ!)』
耳にはジェントの声が届き、頭の中ではヴァリトラが息を呑む微かな音が聞こえた気がした。
ジュードの身は大きく吹き飛ばされ、サタンはそこで勝利を確信した笑みを滲ませる。時間は残っておらず、唯一戦えたジュードは致命傷。彼に一度に力を託したジェントは片膝をついて屈んだまま立ち上がることもできずにいる。これで、己を倒せる者は――誰もいない。そう確信したのだ。
しかし、吹き飛ばされる最中にジュードは両足を振り上げて宙でひと回転。逆手を床につき数メートルほど滑ったところで止まると、即座に飛び出してきた。
「なにッ!?」
「喰らええええぇ!!」
体勢を低くして獣の体当たりのような勢いのまま、両手で持った聖剣を突き出し――ジュードはサタンの左胸を確かに貫いた。深くまで剣を突き刺したことで肉を裂き、骨を砕く嫌な感触がリアルに伝わってきたが既に気を向けるだけの余裕さえない。
悲鳴すら上がらず、すぐ間近からは苦しげなサタンの呻く声と吐息が微かに洩れ聞こえるだけ。ジュードは聖剣から手を離すと、ふらりふらりと覚束ない足取りで数歩後退し、片手で胸元を押さえた。血は止まることをしらず、衣服を真っ赤に染め上げて次々に生温かさを持ったまま溢れ出てくる。
「ぐ……ッ、が、あ、ぁ……この、俺が……っ!」
「は……、はぁ……」
「く、ふふ……っだが、俺だけが……死ぬことは、ない……貴様も、その傷では……ふふふッ……」
苦しげな声を洩らしながら、サタンの身が黒い煙となって溶け出すのを視界に捉えて、ジュードは目を細めた。既に意識を繋ぎ留めておくだけの気力さえ、彼には残っていない。
足先から始まり、瞬く間に空気に溶けていくサタンは最後までその顔を歪んだ笑みに染めて、預言とも思える言葉を紡いだ。
「……忘れるな……貴様ら醜い人間どもが生きている限り、我々魔族は……また再び、この世に侵略するだろう……更なる、力を……得て、な……」
その言葉を最期に、サタンの身は完全に黒い煙と化し空気に溶けて消失した。その場に残された聖剣と神牙は重力に倣い地面へと落ち、ジュードは口から盛大に血を吐いて――力なくその場に倒れ込んだ。
彼の中からはヴァリトラがふわりと抜け出て、慌ててその容態を窺う。何事か呼びかけてはいるが、なにを言っているのかまでは聞こえなかった。薄らと開いた目に映ったのは、今にも消えてしまいそうなほどに透けたちびの姿。
起き上がることさえできないジュードの傍にふらふらになりながら歩み寄り、彼の頬をぺろりと舐めて「くぅん」とか細く鳴いた。
「(……そっか。オレが死んだら、ちびも一緒に消えちゃうのか……まいったなぁ、死ぬ予定なんかなかったんだけど……でも、お前と一緒ならそれも……いい、のかな……)」
そんなことをぼんやりと考えながら、ジュードは吸い込まれるように静かに目を伏せる。
死ぬことへの恐怖は――自然と感じなかった。
* * *
「魔族の群れが……」
城の外で戦っていたエクレールたちは、空や地上を黒く染める魔族の群れが次々に黒い砂や煙となって溶けていく様を見遣り、思わず攻撃の手を止めた。彼女の傍には合流を果たした大精霊たちの姿も見える。城の周辺の大地は抉れ、青々と茂っていた木々はその大半が燃え尽きてしまっていた。それだけで、どれほどの死闘だったかは嫌でも理解できてしまう。
地上に倒れ込む無数の身は数えるのも億劫なほどで、魔族はもちろんのこと、人間たちにも多くの被害が出ていた。
「これは……ジュードちゃん、あの子たち……やったのね……」
「はっはっは! あいつらならやってくれるって信じてたんだよなぁ、俺様はよ!」
「よく言うわよ、散々文句ばっか言ってたくせに」
「そうですぅ、そういうの調子がいいって言うんですよぅ、サラマンダー」
そんな精霊たちのやり取りを聞きながら、エクレールはその表情に心からの安堵を滲ませると己の中から抜け出てきたタイタニアを見上げる。
エクレールは大精霊たちが合流した後、守りの力に長けた彼女と交信し、可能な限り部隊の守りへと徹していた。タイタニアはふわりと優しく微笑み、労うようにエクレールの頭をそっと撫で付ける。
「よく頑張りましたね、立派でしたよ」
「……っ、いいえ……あなた方の、精霊たちのお陰です……わたくし一人では、このような……」
それだけを呟くとエクレールは剣を手放し、両手で己の口元を覆いその場に屈み込んでしまった。魔族は消滅し、戦いは終わったと言うのに今になって全身が震えてきたのだ。
それと同時に、長い戦いの終わりを理解して歓喜に涙が止まらなくなってしまった。ヴェリア大陸で永らく魔族と戦ってきた彼女にとっては、感動も一入だろう。そんなエクレールとずっと共に在った光の精霊ウィスプは、慰めるようにふわりふわりと彼女の周りを飛び回る。
タイタニアは空を見上げ、セラフィムと共に降りてくるフィニクスとオンディーヌを迎えた。自分も含めて彼らも存在していると言うことは、ヴァリトラも無事だ。
魔族との戦いはこれで終わり――そこで彼女の口からもやっと、ひとつ深い安堵が零れ落ちた。
* * *
カミラは落ちていた聖杖を拾い上げ、痛む身にも構わずジュードの傍に寄り添い、必死に治癒魔法をかけ続けていた。その傍にはウィルやマナ、グラムにルルーナ、リンファやクリフと言った仲間たちの姿も見える。身に負った傷は各々重いものだが、ひとまず仲間たちは全員無事だ。
「ジュード……ッ! ねぇ、逝かないで、しっかりして!」
「マスター! しっかりするに!」
ライオットはいつものふざけた姿に戻ったままジュードとちびの傍に寄り添い、その頬を何度もぺちぺちと叩く。どれだけ呼びかけても反応はひとつも返らず、ちびは相棒の隣で丸くなりまるで昼寝でもしているかのようだった。ジュードの力で転生を果たした身だ、その彼が死ねばちびも消える宿命なのだろう。
グラムとウィル、クリフは声が枯れるほどに呼びかけ続け、マナは嗚咽を洩らしながら顔を伏せる。ルルーナは片手で目元を覆って顔を背け、リンファは悔しそうに下唇を噛み締めて双眸を閉ざした。
泣きながら治癒魔法をかけ続けるカミラを含め、誰もが理解している。
もう――助からないのだと。
ジュードの身に刻まれた傷は深く、腹部と胸部に負った傷が致命傷。ケリュケイオンとカミラの治癒魔法を以てしても、その傷が塞がることはなかった。
彼女の力が劣っているのではない、ジュードの身体が回復できるレベルをとうに超えてしまっているのだ。傷は深く、流れ出た血があまりにも多すぎた。
城の外からは歓喜に湧く騎士たちの声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、ヘルメスは壁に凭れて座り込んだまま深く深く項垂れた。
程なくして、謁見の間には世の全てを呪うかのような泣き声が木霊する。上げたのは、他でもないカミラだ。それは彼女が治療を諦めた証に他ならない。
外は多くの者たちが勝利に湧いているが、対照的に謁見の間は悲しみと絶望に包まれていた。