第三十六話・最後の力
たった今、確かに仲間たちには嬉々が浮かんだ。
サタンを、あの魔王サタンを倒せたのだと誰もがそう思って表情に隠し切れない笑みと安堵を滲ませていたはずだった。
しかし、そんな喜びも束の間――その場にいた全員がまるで巨大ななにかに殴り飛ばされたような強い衝撃を受けて、固い床や壁へと身を叩きつけられたのである。なにが起きたのか、わかるものは恐らく誰一人としていない。いたとすれば、ジュードの中にいるヴァリトラだけだ。
「ううぅ……ッ! 痛……っ!」
例に洩れず、仲間たちと共に思い切り吹き飛ばされたジュードは目が回るような錯覚と眩暈に眉を寄せ、表情を顰めながら片手で己の額辺りを摩る。思い切り身を打ちつけたせいで全身に鈍痛が走った。
みんなは無事なのか――そう思いながら身を起こすと、先ほどまで自分たちがいたと思われる場所にはサタンの姿しか見えない。辺りを見回せば、あちらこちらに仲間が倒れ込んでいた。一応生きてはいるようだが、誰もが起き上がれずにいる。
かく言うジュードも、身に負ったダメージは決して軽いものではなかった。
意識を飛ばすには至らなかったものの、左肩を強打したせいで満足に力が入らない。それに、聖剣と融合したケリュケイオンは既に分離してしまっていた。
「聖剣が……!」
『(王子よ、無事か。聖剣がケリュケイオンと分離したのは我が強制的に交信を切ったからだ)』
「(ヴァリトラ……じゃあ、精神力はまだ……)」
『(……)』
ヴァリトラの言葉にそっと小さく安堵を洩らしたジュードは、痛む身を内心で叱咤しながらその場に立ち上がろうと両足に力を込め、剣を床に突き刺す。まだ精神力が残っているなら、身体が動くうちにサタンを倒さなければと、そう思って。
だが、ジュードの問いにヴァリトラから返った言葉は彼に絶望を与えるものだった。
『(……無理だ、サタンは倒せん)』
「え……な、なんで……ここまでやったのに……!?」
『(お前に残されている時間は五分もない、他の魔族ならばともかく……相手はサタンだぞ、それを僅か五分で倒すなど……無理だ)』
ヴァリトラから告げられたその言葉に、ジュードは思わず瞬きも忘れたように目の前の宙空を見つめた。
気合で立ち上がることはできるが、仲間は倒れていて協力は頼めそうにない。視界に映るサタンも苦しそうに屈み込んでいるが、その姿から闘志は失われておらず、それどころか殺意や憎悪が更に増しているようにも感じられた。
サタンも限界近くまで弱っている。だと言うのに、残された時間は雀の涙ほどしかない。
――どうすればいい、どうすればこの状況を打破できる。そうぼんやりと考えを巡らせたジュードの思考を止めたのは、つい先ほどまでクリフの傍に付き添っていたジェントだった。
『ジュード……大丈夫、なのか……怪我は……?』
宙空をぼんやりと見つめていた視線を彼へと合わせ、僅か数拍――ジュードは静かに目を伏せて頭を垂れた。覇気も気力も感じられないその様を見ると、さしものジェントもなにも言えなくなった。
ケリュケイオンと融合した聖剣の一撃でサタンは既に不死身ではない、自分がやるべきか――ジェントがそう考えるのと、ジュードが静かに口を開いたのはほぼ同時。注意していないと聞き洩らしてしまいそうなほどの小さい声で呟かれたのは、謝罪の言葉だった。
「……ごめんなさい、ジェントさん……」
『……』
項垂れて、そんな風に謝罪を紡がれてはジェントに言えることはなにもない。本来は自分がやらなければならなかったことだと言うのに、全てジュードたちに押しつけてしまったのだから当然なのだが。
ここで諦めたとしても、ジェントに彼らを責めることはできなかった。叱責ではなく、せめて労いの言葉を、と思ったが、当のジェントが口を開くよりも先にジュード本人が顔を上げる。
「――最後まで、無理させるみたいです」
『……え?』
顔を上げたジュードの目は、まだ死んでなどいなかった。彼は欠片ほども諦めていないのだ。その反応と言葉に驚いたのはジェントだけではなく、彼の中にいるヴァリトラも同様だった。
ジュードは床に突き刺した剣を支えに静かにその場に立ち上がり、満足に力の入らない逆手の甲で口端に滲んだ血を拭う。
『(王子よ、どうすると言うのだ。お前に残された時間は――)』
「……懐かしいな、少し前に戻ったみたいじゃないか。なにも知らないでヴァリトラと勝手に交信してた頃は五分が限界だったんだろ? でも、その五分で守れたもの……いっぱいあるんだ」
ジュードが無意識にヴァリトラと交信するようになったのは、水の国での吸血鬼騒動の時からだ。それから事ある毎にヴァリトラの力を勝手に拝借して、仲間を守ってきた。五分もあれば充分、ジュードはそう思ったのだ。それに、ここでやらねばやられるだけなのだから。
しかし、こうしている今もサタンが纏う魔力は止まるところを知らずぐんぐん強まっていくばかり。聖剣と交信があっても敵うのか――ヴァリトラはそう思った。
「水の国で初めてメルディーヌと戦った時、助けてくれたのはジェントさんですよね。……お願いします、あの時みたいに力を貸してください。今度は……四神柱たちの力を、一度に全部与えてほしいんです」
ハッキリとした口調で告げられた願いに、ジェントは思わず目を見開いて絶句した。
神柱たちと繋がっての交信でなければ、ジュードは己の精神力を消費することはない。精神への負担はかからないはずだ。しかし、神柱たち全ての力を与えれば彼の肉体がもたない。強すぎる力に圧し潰され、そのまま倒れてしまう可能性とてゼロではなかった。
いくらなんでも、そのような危険な賭けはできない。ジェントは言葉を失ったままジュードの真剣な顔を凝視した。
「……大丈夫です。オレ、死んだりしませんから。まだまだやりたいこと、たくさんあるんです」
『……』
「でも、そのためには世界を平和にしなくちゃいけません。だからお願いします、力を……貸してください」
どこまでもまっすぐな双眸に見据えられて、ジェントは思わず薄く苦笑いを滲ませた。
彼は、どれだけの無茶を頼んでいるのか充分に理解しているのだ。それがどれほど危険で、身体に無理を強いることなのか。
その時、聖剣によって負わされた傷の修復が済んだのか、サタンの身から再び爆ぜるような衝撃波が巻き起こった。色々な意味で時間は――もう残されていない。
ジェントは暫しジュードを無言のまま眺めていたが、やがてそっと口元に笑みを滲ませた。
『…………わかった。……チャンスは一度きりだ、いいな?』
「はい!」
『(だが、危険すぎる。もし四神柱の力に肉体が耐え切れなければ……)』
「大丈夫だよ、どっちみちそれしか残されてないんだ。最後の最後まで足掻いてみせる、無理だって決めつけて最初から諦めるのは嫌なんだ」
ぐ、と聖剣を握り締めると、その想いに応えるかのように柔らかな光がジュードの身を癒していく。左腕の違和感も綺麗に消えてくれた。腰裏から神牙を引き抜き、数歩サタンの方へと足を向けて深呼吸をひとつ。
ジュードもサタンも、既に限界だ。勝負は次の一度で決まるだろう。
ジェントは静かに目を伏せると、己の胸の前へそっと指先を滑らせる。四神柱の力を四方に展開し、その力の全てをジュードの元へと降らせた。
『(……俺も約束しよう、ジュード。君を死なせることはしない、カミラたちに泣かれて怨まれるのは冗談じゃないからな)』
四つの輝きはジュードの胸部で眩い輝きを放ち、真っ白な光となって彼の身を包み込んだ。それと同時に全身に大きな鉛の玉でも付けられたかのような重量を感じて、ジュードは思わず軽く上体を屈ませた。
痛みが消えたばかりの左腕や太股、脇腹など至るところに裂傷が走り、あちこちから血が噴き出す。四神柱の強大過ぎる力に全身が悲鳴を上げていることがよくわかった。
そんな彼を嘲笑し、薄笑いを浮かべるサタンと真正面から対峙しながらジュードは口元に笑みを形作ると、神牙を持つ手でそっと己の胸元を撫でる。
「(……いっつも無理させてごめんな。あと少し……これで最後だから、もう少しだけ……頑張ってくれ)」
残されている体力は非常に少ない、だがそれはサタンも同じこと。
それがわかっているからこそ、早々に決着をつけるべく先に飛び出してきたサタンを見据え、ジュードは翡翠色の双眸を細めた。身に感じる痛みは奥歯を噛み締めることでやり過ごし、一度顔の前で両腕を交差させる。
次の瞬間、勢いよくその腕を広げると彼の双眸は黄金色へと輝き、全身からヴァリトラの力と合わさった四神柱の力が噴き出した。
「――――交信!!」
サタンは右腕を思い切り振り上げ、立ち止まることもせずに突進してくる。そのまま薙ぎ払おうと言うのだろう。五指の鋭利の爪は鋭さを増しており、直撃すればただでは済まない。
しかし、ジュードには攻撃を避ける気などなかった。避けるという動作にすら、労力を割きたくなかったのだ。
両手の得物をしっかりと握り締め、真っ向からぶつかるべく一拍遅れてジュードもまた駆け出した。