第三十五話・命の浄化
「ぐはははは! どうした、かつての勢いはどこへ行った!?」
『……っ!』
サタンは猛然と駆け出し、勢いそのままに魔剣と共に両腕を振るう。鋭利な刃物のような鋭さを持つ五指の爪は、ひとたび触れれば衣服や肌などズタボロにしてしまうことだろう。
対するジェントは力、技、スピードなど全てに於いて己の上を行くサタンを前に、忌々しそうに表情を顰めながら守りに徹していた。いくら四神柱の刻印を刻んでいる彼でも、聖剣もなしに魔王と互角に渡り合えるわけではないのだ。
過去に異端者と呼ばれていようと、結局は彼も一人の人間に過ぎないのだから。
振り回される爪による攻撃を防いでも、即座に魔剣が真横から迫る。
ジェントは生身の肉体を持っているわけではない、直撃を受けたとしても呪いの効果は受けないが――痛みだけは存在する。間違っても進んで受けたいとは思わない。
形の良い眉を寄せ、翡翠色の双眸を細めると素早く上体を低くし利き足を思い切り振り上げて魔剣を蹴り飛ばした。
「っ……ほう、そのような抵抗を見せる気概はあるか――そうでなくては面白くないッ!」
『こ、の……!』
思わぬ反撃に流石のサタンも一度は体勢を崩しかけたのだが、即座に立て直すと逆手で薙ぎ払うように下から上へと片腕を振り上げた。その一撃は身を低くしたジェントの胸部を深く抉ったが、生身の肉体を持たぬ彼の身は――即座に元の形へと戻っていく。
そんな光景を目の当たりにすると、サタンは攻撃の手を休めることはしないまま逆手を振り下ろしてきた。ジェントは口の中で小さく舌を打ち、痛みに表情を僅かに歪めながら辛うじて後方へと跳ぶことで回避するが、力の差は歴然だ。
「貴様を殺せば聖剣も壊れるのか、それとも聖剣を破壊すれば貴様を殺せるのか? クククッ、実に興味があるな。どうせ貴様では俺に敵うことはないのだ、じっくり……嬲り殺してやるぞ」
『(あの子たちは……あの子たちは、無事なのか……)』
グラムやウィルのことはもちろんなのだが、リンファの容態も気になる。妨害をしたことで直撃は受けていないはずだが、負った傷は決して浅くはないはずだ。固い床に思い切り打ちつけられたことで、どこか骨を痛めている可能性もあった。
だが、仲間のことを気にかける心の動きをサタンは見逃さない。切れ長の双眸を見開き、再び飛び出してきた。
「随分と余裕ではないか! 俺の相手をしながら、考え事か!?」
『……なんだ、気に入らないのか?』
「俺を相手にそのような余裕を見せることがなッ!!」
けれども、サタンの次の一撃がジェントの身に届くことはなかった。
それよりも先に、最後方から謁見の間全体を包み込むような眩い閃光が放たれたからだ。それにはサタンだけでなく、ジェントも驚いたように顔ごと視線をそちらへと向けた。
眼孔を無理矢理こじ開けられるかと思うほどの鈍痛を目に感じながら見た後方、光の傍にはマナやルルーナの姿が微かに窺えたが、なにが起きたのかはどちらにもわからない。
「――なにッ!?」
「こんの野郎っ!!」
やがて、光の中から飛び出してきたのは――ジュードだった。勢いよくサタンへと飛びかかり、両手で持つ剣を思い切り振り抜く。
突然のことながら、サタンは反射的に床を蹴り後方に跳ぶことでなんとかその一撃の回避には成功したが、切れ長の双眸が捉えているのはジュードではない。正確に言うのなら、彼の手にある見覚えのない剣だ。
『ジュード……!』
「なんだ……その、剣は……」
ジュードの手にある剣は、再び形状が変わっていた。
柄や握り手、柄頭は輝くような黄金色。まっすぐに伸びた白銀の刀身は今までの聖剣よりも遥かに太く、表面には同じく黄金の複雑な模様が装飾としてあしらわれている。まるで観賞用かと思うほどの、美しい造形の大剣だった。
剣そのものが純白の輝きに包まれ、直視すれば目を通して肉体の内側を焼かれるような錯覚に陥りながらサタンは表情を嫌悪に歪める。純白のその光は、闇に属する彼にとっては猛毒にも思えたのだ。
『(そうか、あれがケリュケイオンと聖剣を合わせたもの……ならば、あれでサタンを叩けば……)』
サタンの中にあるいくつもの命を浄化できる。
それはつまり、サタンが不死身ではなくなるということを意味していた。そうなればまだ充分に勝ち目はあるだろう。
「ライオット、リンファさんを頼む。ちび、行くぞ!」
「ギャウウゥッ!」
「りょ、了解だに!」
割り込む隙を窺っていたライオットは、突然かかった指示にその身をいつものふざけた形に戻すと大慌てでリンファの元へと駆けていった。彼女は未だ起き上がれていない、余程ダメージが大きかったのだろう。
ちびはジュードの呼びかけにひとつ吼えると、彼の隣へと寄り添うように並ぶ。サタンはそんな様子を目の当たりにして、く、と小馬鹿にするかの如く口角を引き上げて笑った。しかし、その目の奥は決して笑ってなどいない。
「……この俺を、そのような武器で倒せるとでも思うのか? それは俺の目に非常に不愉快極まりない、早々に吹き飛ばしてくれるわ!」
「やれるもんなら――やってみろ!!」
サタンが両手の拳を固く握り締めて全身に力を込めると、それまで彼の身を覆っていたローブのような漆黒の衣の上半身部分が弾け飛んだ。これまで衣によって隠されていたサタンの身は、腕も胸部も腹部も細々としたやせ型といった様だったが、次の瞬間――全身が盛り上がり、筋骨隆々な姿へと変貌を遂げる。
それと同時に全身が不気味な紫色へと変色し、両頬には爪痕で引き裂かれたような真っ赤な痕が滲む。側頭部から生える二本の角は、向かってくる相手を威嚇するかの如く鋭利さを増した。
全身からは肉眼で捉えられるほどの膨大な魔力が噴き出し、オーラのようにサタンの全身に纏わりついている。その様を見据えて、ジュードは身構えたまま固唾を呑んだ。
『(……王子よ、わかっているな。今からは共鳴と交信の両方を同時に使うことになる。つまり……より精神の消耗が激しくなるのだ。お前に残された時間は僅か十五分――それまでに片付けろ)』
頭の中に響く言葉に、ジュードはサタンを睨み据えたまま無言で静かに頷く。
交信しているせいなのか、はたまた大一番を前にしてなのかは定かではないが、精神的な疲労はまったく感じない。しかし、実際に接続しているヴァリトラが言うのだから、時間はそれしか残っていないのだろう。
先に動いたのは――ジュードの方だ。一度両膝を曲げ、勢いをつけて真正面からサタンへと駆け出す。遅れることもなく、ちびはそんな彼に追従した。
「これでも喰らえええぇ!!」
「そのようなもの、俺の前では無力だということがわからぬか!」
上体を低くしながら駆けたジュードは、突進の勢いをそのまま斜め下から聖剣を振り上げた。脇腹から胸部を狙ったその一撃を、サタンは両腕を交差させて防いだのだが――異変を感じたのは、その直後。
聖剣の刃はサタンの腕を切断するには至らなかったが、まるで熱した鉄を押しつけたかのようにその身を焼き始めたのである。だが、厳密に言えばそれは火傷ではない。
「な、んだ……これは……!?」
その現象には流石のサタンも双眸を驚愕に見開き、同時に表情を顰める。休む間もなく飛びかかってきたちびに対し舌を打ち、一旦後ろへと跳んだ。
刃が触れた腕を見れば、そこには焼け焦げたような黒い剣傷がくっきりと刻まれている。
「セラフィムの力……? いや――それは、ケリュケイオンか! 聖剣とケリュケイオンを融合させるだと……!?」
それがわかれば、現在ジュードの手にある聖剣が己にとってどれほど危険なものであるかは容易に理解ができた。驚異的な力を持つ聖剣と、癒しの力に特化した聖杖ケリュケイオン。それらが合わさったことで、己の中にある命を掻き消そうとしている――そう考えたサタンは己の翼に手を伸ばし、自身の身と一体化した魔剣を引き千切った。
アルシエルが残した魔剣で聖剣を防ごうと言うのだ。ジュードは決して剣の達人ではない、むしろまだまだ粗削りな部分ばかりが残る。子供相手に剣で後れを取るはずがない。
サタンはそう思ったのだが、その考えは即座に吹き飛ばされた。
「どこ見てんのよッ!」
サタンが身構えようとした時、不意にその足元で爆発が起きたのだ。咄嗟のことにサタンは魔剣を持つ片手の肘を曲げ、腕を顔前に引き上げることで防ぐ。
その爆発は、先ほどジュードに援護を任されたマナのもの。絶好のチャンスだ。サタンが身構えようとすれば、その都度マナは何度もその周辺に爆発系の魔法を見舞う。強力なものよりも、短い詠唱で連発して撃てるものを最適と踏んで。
「あの小娘……ッ!」
高い魔力から繰り出されるマナの魔法は、受ければ流石にサタンでも痛い。
無限にあると言っても過言ではない命であれば被弾など気にすることもないのだが、現在ジュードの手にある聖剣は――その命をサタンの中から奪っていく。そうそう直撃を受けるわけにはいかない。
サタンがそう思った時、今度は斜め後方から予想だにしない風の刃が猛烈な速度で飛翔してきた。回避が間に合わず、大きな風の刃は見事にサタンの身に直撃し、その身を斬り裂いていく。
「くッ! 何事だ!?」
刃が飛んできた方へ素早く視線を巡らせると、先ほど瀕死の重傷を負わせたはずのウィルの姿がサタンの視界に飛び込んできた。出血が酷かったらしく、流石にその場から動くことはできずにいるが、ゲイボルグを振るうことでマナと共に援護に回ろうと言うのだ。
だが、周囲に気を向けているだけの余裕はない。ジュードはウィルとマナの援護でできた隙を見逃さず、一目散に飛びかかってくる。頭上から叩き下ろされる聖剣の刃を大きく真横へと身を滑らせることで回避すると、サタンは忌々しそうに奥歯を噛み締めた。
聖剣の刃は、触れるだけでサタンの中にある命を浄化していく。なによりも忌々しい存在だ。
だが、ジュードの交信対象はあくまでも精霊や神柱、それに神であるヴァリトラだけだ。聖剣と聖杖を融合させるなどできるわけがない。恐らくは、彼が交信するヴァリトラがやっていること。
「(ならば、奴の精神が尽きるまでダーインスレイヴで防いでしまえば……)」
ヴァリトラとの交信が切れれば、聖剣とケリュケイオンは分離するはずだ。
サタンはそう考えたが、その思惑は上手くはいかなかった。
今度は背中に――正確には片翼に斬り裂かれるような激痛が走ったからである。反射的にそちらを振り返れば、いつの間に背後に回ったのか、神剣バルムンクを両手に構えるグラムが立っていた。脂汗が噴き出し、顔色は非常に悪い。彼にしては珍しく呼吸も荒く、立っているのがやっとと言うような状態だ。ルルーナの治療は間に合ったようだが、万全ではないことは明白。
だと言うのに、そのような身体に鞭を打ち一撃を叩き込んできたのである。
バルムンクの直撃を受けた左側の翼は見る見るうちに凍結し始め、程なくして大きく砕け散った。
「この、虫けら共が……! 貴様らなど、群れねばなにもできぬくせに……!」
「……そうだ、人間は弱い。だから群れるのだ」
その間にも、ジュードはサタンに一撃を叩き込もうと距離を詰めてくる。再び真横へ回避しようとした行動は――今度は先んじて体当たりをかましてきたちびによって阻まれた。
バランスを崩し転倒したところへ、ジュードは聖剣を振り上げると今一度サタンの胸部目がけて刃を振り下ろす。しかし、サタンは片手に持つ魔剣を振りかざし、その一撃を受け止めた。互いの刃が衝突するとそこを中心に周囲には爆ぜるような衝撃が走り、ちびやグラムは踏ん張りも利かず軽く吹き飛ばされてしまった。
サタンの口元には自然と笑みが浮かんだが、それも一瞬のこと。
その刹那、彼の腕にはひとつの短刀が突き刺さった。
「――ですが、それは魔族も人間も同じこと。あなた方も、群れて人間たちを襲ってきたではありませんか。人も魔族も……決して、一人では生きられないのです」
その短刀は、リンファが倒れながらも手放すことのなかった神双アゾットの片割れだった。静かに、それでいてよく通る凛とした声で紡がれた言葉に、サタンの表情は自然と憎悪に歪む。
魔族も人間も同じという言葉に純粋な嫌悪と憎悪を抱き、受け入れられないのだろう。しかし、反論するだけの暇はなかった。
アゾットが突き刺さったことで魔剣を翳すサタンの腕からは力が抜け、ジュードはそのまま一息に聖剣を振り下ろしたのだ。
聖剣の刃はサタンの右肩から左脇腹まで到達する深い裂傷を刻み、勢いよく鮮血が噴き出してジュードの身や顔までもを紅に染め上げていく。それと共に白の輝きが傷口からサタンの体内へと侵入を果たし、大きな光の柱となって空いたままの天井から天へと立ち昇った。
「…………や、やった、の……?」
後方で杖を構えたまま固唾を呑んで状況を見守っていたマナは、やがてシンと静まり返る場の空気に耐え切れなくなったようにか細い声でぽつりと疑問を呟いた。
天へと噴出した光の柱が止んだ先、そこに立っていたのは倒れ込んだサタンを見下ろすジュードの姿。荒れ果てた謁見の間の床にはサタンから流れ出た血が次々に広がっていく。
倒せた――と、ルルーナは暫し遅れてからそう理解すると手から力が抜けたように神杖をぽろりと床に落とし、尻をついて座り込んだ。まさに、腰が抜けたかの如く。
「ヘルメスさま、みんなが……サタンを……!」
「うむ……」
カミラは目に涙を浮かべながらヘルメスを振り返ると、負担にならない程度に彼の身を軽く揺さぶった。片目の光が失われていても、弟やその仲間の勇姿を視界に捉えることはできたのだろう。ヘルメスの表情にも、微々たる変化ではあったが薄く笑みが滲んだ。
ジェントに身を支えられるクリフも、リンファに寄り添うライオットも誰もが皆、その顔に隠し切れない安堵と嬉々を滲ませている。
だが、そんな雰囲気を破壊するのもまた――サタンだった。
歓喜に湧きかけた謁見の間、その広い空間全体へ強く、そして強烈な衝撃が走ったのである。