第三十三話・残された時間
「ひ……ッ、うわああぁ!」
目の前に迫るエリゴス数体に、武器を破損した兵士は尻餅をつき顔面蒼白になりながら悲鳴を上げた。真っ黒な馬に跨る騎士が突き出すランスが眼前に迫り、死を覚悟した時――彼の視界には燃え盛る炎と輝くような金色が映り込む。
身を貫かれる衝撃と激痛に襲われる代わりに、彼に訪れたのはじりじりと照りつけるような熱。それは彼とエリゴスとの間に割って入ったサラマンダーから発せられる炎によるものだ。
「ノーム、そいつは頼んだぞ!」
「任せるナマァ!」
サラマンダーの隣にはエクレールの姿も見える。一国の王女だと言うのに、その身はボロボロだ。身に纏う衣服は土埃や泥にまみれ、肩や腕には裂傷を負った際に出たと思われる血が滲み、黒く変色しかけている。
しかし、どれだけ泥や血にまみれようとも怯むことをしない彼女の姿は、騎士や兵士にとって希望にもなりつつあった。あのような少女が頑張っているのだから、こんなところで負けられない――自然と奮起し、こうして魔族の群れと交戦し続けられている。
彼女の存在は、真っ暗な闇にそっと射し込む光のようだった。
「こんなところで……負けられない! 行きます!」
「おうよ、お供するぜお姫様!」
ノームはサラマンダーに頼まれた通り負傷した騎士の元へ駆け寄り、その傷の具合を窺う。
エクレールはサラマンダーと共に剣を固く握り締め、エリゴスの群れへと飛び込んだ。大精霊の誰かが駆け付けるまでの辛抱、そうすれば状況は今より圧倒的に有利になる。そう信じて。
* * *
「トドメだ!」
「やらせないわよ!」
サタンの魔法から仲間を守り続けていたクリフの身は、既に限界を超えていた。両腕には骨が砕かれたかのような激痛が走り、満足に力さえ入らず震えるばかり。しかし、決して神盾だけは離すまいと固く握り締めて顔を伏せる。
結界は所々が破損し、もう長くはもちそうにない。それを見たサタンは両手を突き出し、クリフの目の前に不気味な黒い光を集束させていく。それはこれまでクリフが延々と防いできた『アーテルフラルゴ』という恐ろしい破壊力を持つ闇の魔法だ。
黒い爆発との意味を持つその魔法は、名を裏切らぬ通りに凝縮した闇の力を対象の間近で大きく爆発させるもの。爆ぜると同時に周囲には黒煙が上がり、こちらの視界を遮断してくるタチの悪い魔法でもある。
現在のクリフの状態では、完全に防ぐのは厳しい。直撃を受ければ辛うじて活きている結界が跡形もなく崩壊してしまうだろう。
だが、ルルーナがガンバンテインを掲げると、間一髪――魔法が爆ぜる直前にサタンの魔力が大幅に落ちたのがわかった。集束する黒い光があちらこちらへ飛散し始めたからだ。
それは、オンディーヌが地の魔将ダングランを撃破した証拠に他ならない。地の加護を失ったことで、ガンバンテインが持つ「対象の能力を低下させる」能力が発動したのだ。
その効力により魔法の威力は格段に落ち、爆ぜても神盾オートクレールが作り出した結界が破壊されることはなかった。
「ほう……奴らが四魔将を撃破したというのか?」
それでも、サタンが驚愕するというようなことはなかったが。しかし、これでようやく満足に戦うことができるはずだ。
攻撃の手が一旦止まったのを見逃さず、グラムを筆頭にウィルとリンファもほぼ同時に飛び出した。それを見て、マナは賺さず杖の先端をサタンへと向ける。
すると、真っ赤な光がサタンの足元から立ち上り、その全身を包み込んだ。魔心臓の驚異的な守りを剥がした神杖レーヴァテインの効力である。
ガンバンテインで能力を下げ、レーヴァテインで守りの力を引き剥がす。
こうしてしまえば、いくら相手が魔王と言えど手も足も出ないということはないはずだ。
「ククク……あくまでも苦痛の中での死を望むか。いいだろう、ならばお望み通り八つ裂きにしてくれるわ!」
「なんという気迫だ……これが魔王という生き物なのか。油断するな、いくら能力を下げているとは言え、なにをしてくるかわからん」
「はい、グラムさん!」
サタンの真正面からはグラムが、両脇からはウィルとリンファがそれぞれに分かれて一気に攻撃を仕掛けた。
正面から叩きつけられるバルムンクを右手、脇から迫るゲイボルグは逆手で。その逆から振られた二双のアゾットは、背中に生える魔剣ダーインスレイヴで完全に受け止めてしまった。ほとんど力など入れずに。
けれども、リンファは即座に状況を把握すると持ち前のスピードを活かし片足を斜め下から思い切り振り上げ、サタンの右の二の腕辺りを強打した。
それは予想していなかったか、僅かにバランスを崩しかけたのをグラムもウィルも見逃さない。
グラムは一度剣を己の右斜め下へと下ろし、ウィルは大きく槍を引く。
そしてサタンが体勢を立て直す前に同時に剣を振り上げ、槍を思い切り突き出すことでその身を叩いた。バルムンクの刃はサタンの脇腹に、ゲイボルグは腕を深く抉り、初めて魔王の身に手傷を負わせることに成功したのである。その事実は彼らに純粋な希望を与えた。
聖剣でなくとも――ジュードでなくとも、魔王と戦うことができるのだと。
「小賢しい真似を――!」
対するサタンは流石に気分を害したように形のいい眉を顰めると、一息に彼らの身を斬り裂いてやろうと魔剣を構えようとしたが、それは二人の援護に回るリンファが押さえてくれた。神双アゾットで刃を押さえ、振り回せなくしたのだ。それがまた、余計にサタンの神経を逆撫でしていく。
ルルーナは戦況を見守りながら、再び魔法の詠唱へと入る。元々攻撃魔法を得意としない彼女に今できる最良のことは、アタッカーである彼らの能力の底上げだ。彼女の操る補助魔法は、以前ジェントにも褒められたことがあるほどのもの。使わない、などという手はない。
「最後だもの、出し惜しみなんかしてられないってね!」
ルルーナがガンバンテインを今一度高く振り上げると、サタンと交戦するグラムたちを力強い輝きが包み込む。対象の攻撃力を一時的にだが大きく飛躍させる、ルルーナがなにより得意とする補助魔法のひとつだ。
このまま押し込めればいいが、そう簡単にはいかないだろう。ジュードはチラチラと時折前線へ気遣わしげな視線を投げつつも、ヘルメスの治療にあたるカミラの傍へと駆け寄った。
「え、えっと、ケリュケイオンと聖剣を重ねればいいの? でも、まだ王子の治療が……」
「……私は、よい。カミラのお陰で随分と落ち着いた……今は、すべきことを……」
『(……お前の気持ちはわかるが、ここはヘルメス王子の気遣いに従うのだ。こうしている間にも、残されている時間は少なくなっているのだぞ)』
「の、残されてる時間?」
見れば、ヘルメスの身体はまだほとんどよくなっていない。片眼は依然として光が失われたままであるし、身体も自分の意思ではまだ満足に動かせないようだ。喋るのも苦しそうに見える。カミラは困ったようにヘルメスとジュードとを何度か交互に見つめた。
ジュードが言うことや、カミラの心配は当然ヴァリトラとて理解している。ここで治療をやめて手遅れにはならないのかと、そう言いたいのだ。だが、ヴァリトラの声には多少の焦りが滲んでもいる。ジュードはその言葉と様子に疑問を抱いた。
『(わかるだろう、お前はずっと共鳴能力を使っておる。いくら我と契約を結んでいても、能力を使っている限りは徐々に精神力を消費するのだ。その上で交信をすれば、より消耗が激しくなる。……お前に残された精神力は、もうそれほど多くはない)』
「……!」
『(聖剣とケリュケイオンを合わせ、そのままサタンを討て。交信を解除すればケリュケイオンは再び元の錫杖へと戻る、巫女の力であれば治療はそれからでも充分間に合うはずだ)』
ヘルメスの身は確かに心配だが、それも命があってこそだ。ジュードの精神力が尽きてしまえば共鳴の効果が消え、仲間や外で戦っている騎士たちからはヴァリトラの加護が消えることで、能力が格段に下がる。
なにより、交信ができなければいくら聖剣を持っていたとしても――サタンを倒せるかどうか定かではないのだ。
「……カミラさん、ケリュケイオンを」
「で、でも、ヘルメスさまがまだ……!」
「よいのだ、カミラ。さあ……」
ジュードの言葉にカミラは困惑したようにヘルメスを見遣るが、当の彼本人は静かに目を伏せて力なく頭を横へと振った。覇気のないその声はやはり心配を煽るが、これまでとは異なりヘルメスのその表情は非常に穏やかだ。早く終わらせればその分、彼の治療も落ち着いた場所でできる。
カミラは暫し躊躇ってはいたものの、やがて手に持つ聖杖を両手でそっとジュードに差し出した。