第二十九話・弱点のない身体
ジュードはヘルメスの身に絡みつくカラミティの触手や管から、必死に彼を救出しようとしていた。カラミティは力の源となるヘルメスを離すまいと、ジュードは兄をその魔の手から助け出そうと、両者必死だ。
己の腕を引っ張るジュードを虚ろな目で見つめて、ヘルメスは複雑そうに眉を寄せる。片眼は辛うじて見えているようだ。
「……ジュード……もうよい、私に構うな……このままでは、お前まで……」
「それじゃあ、みんながなんのために頑張ってくれてるのかわからなくなるだろ!」
「私が死んでも……悲しむ者など、誰もいない……だが、お前は……」
カラミティの触手はヘルメスのみならず、ジュードもろとも呑み込んでやろうと言うのか、次々に右や左、果てには頭上から迫ってくる。ヘビ嫌いの彼にとって、その動きはなによりも恐ろしい光景だ。だが、この手だけは決して離すわけにはいかなかった。
そんな中、ヘルメスが呟いたその言葉にジュードは目の前が真っ赤に染まるような錯覚に陥る。
確かに、記憶が戻った今でもこれまでを思えば、ヘルメスがしてきたことをジュードは決して好ましく思えない。自分が殺すとまで言われたのだから当然だが。
命令に背いてでも街を守ろうと必死に戦ったエクレールに手を上げ、それを止めたカミラにさえ暴力を振るおうとした。
聖剣を使い、ヴェリア大陸の外の人間に復讐しようとしたり、その聖剣を持って逃げようとしたり、裏で魔族と繋がりヴェリアの民の信頼を裏切ったのも彼だ。考えれば考えるだけ、腹立たしさばかりが込み上げてくる。
「……っ! ここに、いるだろ!!」
だが、それでも手を離すことはできなかった。
カームの港街で再会してからの記憶は確かに散々なものでしかないが、幼い頃は――そうではなかった。
ヘルメスは、本当は優しい男だったはずなのだ。それを歪め、変えてしまった原因は周りの環境とこれまでの過去に他ならない。
ジュードが半ば自棄になりながらそう叫ぶと、光を失ったヘルメスの双眸が驚いたように、それでいて不可解そうに見開かれた。
「あんたが死んだら、オレが悲しむんだよ! カミラさんだって、エクレールさんだって……!」
「なにを……」
「あんたが言ったんじゃないか、大きくなったら助けてくれるかって! その張本人が勝手なこと言うなよ!」
「……!」
ヘルメスは、それ以上なにも言おうとはしなかった。
ただ、見開かれた双眸が数拍の後に泣きそうに歪んだのを見ると、彼の中にもちゃんと残っているのだ。幼い頃の、まだ歪んでしまう前の記憶が。
ジュードは片手でしっかりと握り込む聖剣をカラミティの中へとぐっと押し込め、固く奥歯を噛み締める。すると、カラミティは幼子が嫌々でもするように大きく身を左右に揺らして聖剣の刃を嫌がった。
「離せよおおおぉ!!」
「ギィッ! グギギイイィッ!!」
カラミティの肉部分に添えた両足にしっかりと力を入れ、今一度身体の全体を使うようにして思い切り引っ張ると――ようやくヘルメスの身がカラミティから離れた。いくつもの管がずるりと抜け、勢いそのままにジュードはヘルメスと共に後ろにひっくり返ると、固い床に後頭部を派手に打ち付ける。
目の前に星が散るような錯覚に陥りつつ、それでも慌てて身を起こせば抱き留めたヘルメスを傍らに座らせた。そうして、休む間もなく弾かれたように立ち上がると両手で聖剣を持ち直す。
「――ヴァリトラ!!」
そう叫ぶと同時、ジュードの双眸はいつものように黄金色へと瞬時に変貌を遂げた。彼の身を中心に辺りには爆ぜるような衝撃が走り、カラミティは怯えの色を滲ませて思わず後退っていく。暴れ回っていた触手の勢いはヘルメスを失ったことですっかり鳴りを潜め、呻くような声が無数に存在する口からか細く洩れた。
そんな様をまっすぐに見据えてジュードは勢いよく飛び出し――躊躇なく聖剣を叩き下ろして不気味な肉の塊を一刀両断、真っ二つに叩き斬ってしまったのだ。
ヴァリトラとの交信で強化された身体で振るう聖剣の威力は凄まじく、刃を振り下ろした際に鋭利な衝撃波が発生し、謁見の間の壁さえも思い切り破壊してしまった。そのような一撃を受けて無事でいられるはずがない。
真っ二つにされたカラミティの身は床に崩れ落ちると、まるでスライムのようにどろりと溶けていき、やがてどす黒く変色してしまった。それ以上、動くこともなく。
カミラとクリフは互いに顔を見合わせると喜色満面と言った様子でヘルメスの傍に駆け寄り、前線でジュードを守り続けたリンファとグラム、ウィルやちびは疲れを滲ませながらもその顔には隠し切れない安堵と嬉々が浮かんでいた。
ルルーナは肩が凝ったのか、杖を持たぬ逆手で肩をトントンと叩いていたが、こちらもやはり嬉しそうだ。
「ヘルメスさま!」
「よかったよかった、ご無事ですか?」
ヘルメスの状態を見れば決して「無事」とは言えないのだが、生きていることを確認できただけでもカミラやクリフの中には安堵が色濃く滲んだ。
カミラはヘルメスの傍に座り込むと、ケリュケイオンをそっと翳す。一度の治療で完治は難しいだろうが、聖杖ケリュケイオンと彼女の治癒魔法があればきっとかなりの回復が見込めるだろうと、ジュードはそちらを振り返ってそっと一つ息を洩らした。
だが、ヘルメスを救出して終わりではない。むしろ本番はこれからなのだ。
「カミラさん、クリフさん。ヘルメス王子を連れて後ろに」
「う、うん……気をつけてね……」
ジュードがサタンの方へ目を向けると、ウィルやリンファ、グラムもそれに倣い身体ごとサタンへと向き直る。そんな仲間たちの様子を確認して、マナは高々と神杖レーヴァテインを掲げて貯めるに貯めた魔力を一気に解き放った。
ルルーナに言われたように、彼女はこれまでの間にずっと魔力を神器に貯め続けていたのだ。ようやく全力で戦える、そう言わんばかりに思い切りサタンに向けて魔法を放ってやった。
「――燃えちゃいなさいよ! いっけえええぇ!」
「ちょ、ちょっとマナ!? 勇者様がサタンの傍にいるんじゃ……!」
マナが杖を高く掲げるや否や、先端部が真っ赤に光り輝きサタンの足元から渦を巻く巨大な火柱が上がった。空気を巻き込み轟々と燃え盛る紅蓮の炎は瞬く間にサタンの身体を呑み込み、すぐに見えなくなってしまったのだが――ルルーナはマナに慌てて駆け寄ると、やや蒼褪めながら声をかけた。
横槍を入れようとしたサタンの妨害をジェントが防ぎ、ヘルメスを助け出そうとする間、彼がずっと押さえてくれていたのだ。サタンと交戦していたのなら当然近くにいたはず――ルルーナの言葉にようやくそれを思い出せば、マナの口からは自然と「あ」という極々小さな声が洩れた。やってしまった、と言うような声が。
けれども、それは杞憂に終わった。
サタンの身が炎に呑まれてから数拍。ジュードたちも蒼褪めていたのだが、火柱の中からジェントが飛ばされてきたのだ。顔の前で両腕を交差させているということは、攻撃を防いだのだろう。
「ジェ、ジェントさん! 大丈夫ですか!?」
『問題ない、……そっちは?』
「はい、ヘルメス王子は無事です。あの気持ち悪いのも倒しました」
『それはなによりだ。だが、こちらは少々マズいようだぞ』
炎の中から殴り飛ばされてきたジェントの身はボロボロだが、彼は聖剣と同化した身だ。その傷は瞬く間に綺麗になっていく。
だが、彼の顔に普段のような余裕は一切見受けられなかった。視線は燃え盛る炎の渦に向けたまま、忌々しそうに双眸を細めている。
「クククッ……数で押せば俺を倒せると思ったのだろうが、結局は無駄なことよ。貴様らでは、この身に傷を付けることさえ叶わぬのだ」
「う、嘘でしょ……!? 全力でやったのに……!」
続いてゆっくりとした足取りで火柱の中から出てきたサタンは、その顔に余裕に満ちた笑みを浮かべていた。言葉通り、身体には傷のひとつも付いていない。非常に綺麗なものだ。
全力で放ったにもかかわらずダメージさえ負わせることができなかったと見える状況に、マナは思わず双眸を見開いて両手で杖を握り直した。
「どうせ痩せ我慢かなにかでしょ!?」
「……違う。いくら魔王って言っても、ジェントさんとやり合って無傷でいられるわけがない」
ジュードは、ジェントの強さをよく知っている。例え相手が魔王で、彼が聖剣を持っていないとしても傷ひとつ負わせられないと言うのはどうにも腑に落ちないのだ。
ジェントはサタンから睨むような視線を外すことはせずに、静かに口を開いた。
『……攻撃が届かんのだ』
「……え?」
ぽつりと、けれども確かに呟かれたその言葉にジュードは怪訝そうな表情を浮かべながらジェントの背中を見つめた。
しかし、その疑問に答えてくれたのは彼ではない。依然として愉快そうに笑みを湛えているサタン本人だった。
「ふっ……四魔将が存在している限り、この身に傷を負わせることなど不可能だ。奴らの加護が属性攻撃を生命力として変換してくれるのでな。どれだけ攻撃を加えようが無駄なことよ」
「それって……フォルネウスにアクアブランドで攻撃した時みたいに……」
サタンの言葉を聞いてジュードの頭に真っ先に浮かんだのは、まだフォルネウスが敵だった頃のことだ。彼が初めて地の王都で襲ってきた際、ジュードはフォルネウスに水属性の剣アクアブランドで斬りかかったが、その一撃は傷を負わせるどころか生命力を与えることになった。
あの時とは違う、全ての属性で同じような現象を起こすのであれば――各属性を有する神器は役に立たない。むしろ逆効果だ。
「マ、マスター! 聖剣なら……!」
『四魔将は俺たちで言うところの四神柱……つまり、そういうことか』
「そうだ、四属性を纏めたら……どうなるのだった? ククッ、今となっては聖剣もただのオモチャに過ぎん、諦めるのだな。貴様らではどう足掻こうと、俺を倒すことなどできぬのだ」
四神柱の力を纏めることで、セラフィムが司る聖属性となる。そのため、四神柱の刻印を魂に刻むジェントは本人が聖属性そのものを有しているのだ。そして、その彼を取り込んだことで聖剣アロンダイトが同じく聖属性を持つことにもなった。
だが、対するサタンも同じように四魔将の加護を受けることで、聖属性を完全に無効化する身を手に入れたのだ。これでは、いくら聖剣が恐ろしいほどの破壊力を持っていたとしても意味を成さない。
「俺が直に魔力を与えた四魔将の力は四神柱よりも上、奴らでは撃破などできようはずもない。さあ、絶望するがいい!」
そう高らかに声を上げると、サタンは背中から漆黒の翼を出現させ――全身から魔力を放出する。まるで怯えるかのように大気が大きく震え、油断すれば吹き飛ばされてしまいそうだ。
突破口さえ見えぬまま、ジュードたちは各々武器を構えて真正面からサタンと対峙することとなった。