第二話・魔物の声
「もう! 今日はロールキャベツ作るから早く帰ってきてねってあれだけ言っといたのにジュードったら!」
「ご、ごめんって、マナ!」
「ロールキャベツは煮込む時間が大事なんですからね! 食材買いに行った人が帰ってこないなんて……!」
「う……ご、ごめんって……」
麓の村から自宅へと帰り着いたジュードは、家の扉を開けるなりその表情を引きつらせた。
なぜなら、その先には腰に両手を当てて仁王立ちをする少女がいたからだ。太陽色の艶やかな髪を頭の高い位置で結った可愛らしい少女である。しかし、その可愛らしい風貌は思わず目を逸らしたくなるほど怒りに満ち溢れていた。
彼女はマナ・ルイスという、この家に住む少女だ。主に料理や洗濯などの家事を引き受けている。
そんな彼女の怒りは――先の通りだ。
食材の調達をジュードに任せたはよいが、そのジュードは陽が傾く夕方になるまで帰らなかったのである。それもそのはず、ジュードは村でジス神父の話を長々と聞いていたのだから。
平謝りするジュードに対し、マナの怒りはどうにもこうにも治まる気配がない。ガミガミと叱る彼女の姿は友人というよりは、どこか小さい子供を叱りつける母親のものに近い。
そんな様子を見かねたのか、それまで台所で野菜の皮をむいていた一人の青年が苦笑いを浮かべながら彼らへ声をかけた。
「あーほらほら、そのくらいにしてメシの支度しちまおうぜ。ジュードも反省してるって」
「だってウィル! 途中で献立変えるのって大変なんですからね!」
「だから俺も手伝うって、ほらジュード。お前もグラムさんに挨拶して、こっち手伝えよ」
ウィルと呼ばれた青年は慣れた手つきで包丁を扱い、やや大ぶりの人参の皮を綺麗にむきながら淡々とした口調で告げた。
年頃は二十歳にはまだ届かない十八、十九歳程度だろう。薄柳色の髪は襟足の部分が長く、横は短めだ。その風貌は整っており、どちらかといえば美形と呼べる部類である。
それでもマナは暫しの間ジュードを睨みつけていたが、程なくして風船から空気が抜けるかの如く深く長い溜息を吐き出してから台所にいるウィルの元へと戻っていった。もちろん、最後に肩越しにジュードを睨むことだけは忘れずに。
傍らにマナが戻ってきたのを横目で確認したウィルは玄関先に佇んだままのジュードを振り返るなり、言葉もなく片手の指先で上を指し示す。二階にはジュードの父がいる、此処は任せて父親に挨拶してこい、と言うのだ。その意図を理解したジュードは顔の前で利き手を立て、幾分申し訳なさそうに苦笑してから二階に続く階段へと足を向かわせた。
「あ……」
二階に上がったジュードは、父に帰宅の挨拶をすべく目的の部屋へ向かっていたのだが、各寝室に繋がる短い渡り廊下の窓からふと外を見遣る。
彼らジュードたちは鍛冶屋として生計を立てている、この自宅の隣には鍛冶仕事をするための作業場が設けてあるのだが、その近くに一匹の魔物の姿を確認したのだ。作業場の近くをウロウロと彷徨うのは緑色をした液状の魔物――スライムだ。
だが、その姿形は通常のものより一回りは小さい、まだ子供なのだろう。
ジュードは締め切られた窓に片手を添えてそっとスライムの様子を窺うが、次の瞬間――彼のその表情は苦痛に歪んだ。逆手で頭を押さえ、奥歯を噛み締める。
「――う、ぅッ……!」
頭の中に直接響き渡る強い耳鳴りにも似た音にジュードは苦悶を洩らし、次いで広がるそれに眉根を寄せる。
『(帰りたい、帰りたい、こわい――)』
それは恐らく魔物の声だ。
あのスライムは群れからはぐれて、ここに迷い込んでしまったのだろう。ジュードはその声を聴いているのである。
先の耳鳴りのような音は人間ではないなにかの声が聞こえる前兆だ、いつも決まって魔物や動物の声を拾う直前にジュードはあの音を聞く。そうして次の瞬間には、まるで人のような声が彼の頭に広がるのだ。
だが、魔物の声が聞こえるなど普通ではない。最初こそジュードもなにかの間違いだと思いはしたが、彼がどれだけ否定しようと、その音と声はいつも頭に響いてくる。
「(……帰れ、早く帰れ。そこにいたら父さんかウィルに殺されちゃうぞ……後ろにある森に行け、早く……)」
苦痛に表情を歪ませたままジュードが頭の中でそう思うと、ウロウロと動き回っていたスライムはピタリと動きを止め、そうしてゆっくりとした動作で後方にある森へと引き返していった。
それを確認してジュードはそっと安堵を洩らし、疲れ切ったように頭を垂れる。
いつからこのような声が聞こえたのか、それは定かではない。
ジュードが物心ついた頃には既にそれが当たり前であったし、おかしいことだとも思わなかった。この風の国ミストラルは他の国と比べて魔物の狂暴化はそれほど進んでおらず、ジュードが幼い頃は魔物とも一緒に遊んでいたくらいだ。
しかし、魔物や動物の声が聞こえる者は自分を除いて誰もいなかった。ゆえに、成長していくにつれそれが「おかしいこと」だと認識し、今ではそのような素振りは極力見せないようにしている。恐らくマナやウィルも、ジュードが魔物の声を聞いているなど知らないだろう。
「……ジュード、具合が悪いのか?」
「え、あ……と、父さん、ただいま。ちょっと疲れただけ、大丈夫だよ」
「そうか? それならいいが……おかえり、ジュード」
ジュードは不意に背中にかかった声に、下げていた頭を上げてそちらを振り返る。すると、そこには心配そうな表情を浮かべた銀髪の男性が立っていた。その姿を視認するなり、ジュードはホッとしたように表情を和らげる。
彼がジュードの父、グラム・アルフィアだ。元は鍛冶屋として名の知れた名匠だったのだが、現在はケガが原因で療養中の身である。ジュードたちはそんなグラムの跡を継ぎ、鍛冶屋を営んでいるのだ。
もっとも、彼のように名が知れ渡るにはまだまだ年月が必要なのだが。
「あ、父さん。夕飯できるまでもうちょっと時間かかるんだけど……」
「知っとるよ、マナの怒声がワシの部屋まで届いていたからな。助け舟を出しに行こうかと思っとったんだが、ウィルが宥めてくれたようだな」
「あ、ああ……そう……はは」
「まったくお前は、あまりマナを怒らせるんじゃないぞ」
「わ、わかってるよ。女の子には優しく、でしょ」
「そうだそうだ、よくわかっとるじゃないか。はっはっは」
一頻り声を立てて笑ったあと、グラムは階下に通じる階段を見下ろして口元に薄く笑みを滲ませる。その風貌はどこまでも穏やかで、優しい。
そんな父の様子を確認し、ジュードもまたその視線を辿った。
「早いものだなぁ、お前たちがウチに来てもう十年にはなるのか。それまではただ寝に帰るだけの場所だったというのに、賑やかになったものだ」
グラムのその言葉にジュードは眦を和らげてふっと、優しく笑う。
――お前たちがウチに来てもう十年。
その言葉は、彼らに血の繋がりがないことを示していた。
ジュード、ウィル、マナ。彼ら三人はこの家で共に生活をしているが、いずれも血の繋がりなどない。まるきり赤の他人なのだ。
そしてこのグラムとジュードにもそれは存在していない、彼らは実の親子ではないのだ。ジュードにとってグラムは父であるが、正確には養父だ。
ジュードがまだ幼い頃、ミストラルの森の中に捨てられていたのをグラムが拾い育てたというだけのもの。その少しあとにウィルとマナがこの家に来たのだが、彼らもまた悲しくも痛ましい過去を背負っている。
だが、この十年間。彼らは実の家族のようにここで暮らしてきた。ウィルはジュードとマナにとって兄のようなものであるし、グラムは彼ら三人にとって父親も同然だ。そしてグラムにとってジュードたちは大切な子供なのである。
彼らにとっては、血の繋がりなど大切なものではなかった。彼ら一人一人がここにいる――その現実こそが、なによりも大切なものなのだ。
さあ、と。
グラムはジュードの肩を軽く叩くと、マナとウィルの手伝いをするために二人揃って階下へと降りていった。