第八話・心の闇
「どけえええぇッ!!」
ライオットはジュードを背に乗せたまま、群れの奥深くへと突撃していく。周囲にいる魔族はジュードが振り回す聖剣によって次々に斬り裂かれていく他、ライオットが全身から放つ光を嫌がるように散ることで、自然と道を空けてしまっている。
そんな中でも果敢に飛びかかってくる者はいるが、それらの攻撃はジュードの身に届くよりも前に彼の背中から顔を出すちびや、傍に寄り添うジェントに薙ぎ払われた。
『……ジュード、あれだ!』
「……え?」
程なくして、ジェントの目は群れの最奥に見える一際大きな姿を捉えた。続いてジュードもそちらを見据えたのだが、彼の記憶にはない姿だ。
だが、ジェントにとってはそうではなかったらしい。眉根を寄せて、端整な顔を顰めると共に舌を打つ。心なしか顔に怒りが浮かんだような気さえする。その反応から察して、彼には覚えがあるのだろう。
『ベリアル……気をつけなさい、ジュード。あれはデーモンの比ではない』
「は、はい」
あのジェントがそう言うくらいなのだから、余程の厄介な相手なのだろう。ジュードはそう結論づけると、固唾を呑む。
すると、ベリアルと呼ばれた魔族もちょうどこちらに気づいたらしく、どっしりと腰を下ろしていた地面から緩慢な動作で立ち上がり、駆けてくるライオットとその背のジュードを見据えた。けれども、その様には焦りなど微塵も見受けられない。愚かな人間がやってきた――そう言いたげに不敵に笑う。
ベリアルは二足歩行こそしているものの、まるで猛獣のようだ。
立派な鬣を持ち、口の端から飛び出る二本の牙は見るからに鋭く、殺傷能力が高いことは明白。がっしりとした身は不気味な暗い紫色の皮膚に覆われ、四肢や胴体などはデーモンのものよりも遥かに太い。その腕や足で蹴り飛ばされれば、人間など即座にただの肉片と化すことだろう。
しかし、ジュードの身体能力の高さはジェントであるからこそよく理解している。その彼が「気をつけろ」と言うことは――ベリアルの恐ろしさは、その肉体から繰り出される単純な攻撃ではないのだ。
「クックック、命知らずがやって来たようだな。この群れを潜り抜けてここまで来たことは褒めてやるが……無駄なことよ!!」
「……!?」
ベリアルはジュードを見据えながら喉を鳴らして笑うと、その刹那。肺いっぱいに大きく息を吸い、天を仰いだ。
そうしてこちらに駆けてくるライオット目がけて、鼓膜を突き破らんばかりの咆哮を放ったのである。ライオットは慌てて避けようとしたのだが、間に合いそうにない。
ジェントは背中に光の翼を出現させると共に大きく開き、ライオットもろともジュードを翼で包み込んだ。
「ギイィッ!?」
「ベ、ベリアル様ああぁっ!!」
ベリアルが放った咆哮は突風のように辺り一帯を襲う。目の前から巨大な風の塊に衝突したかのようにライオットは思わずバランスを崩してしまうと、転げる勢いで転倒してしまった。その拍子にジュードの身は投げ出され、固い地面を何度か転がってから止まる。落ちた際に派手に身を打ちつけたらしく、全身に鈍痛が走った。
だが、周囲にいた他の魔族――グレムリンやガーゴイル、デーモンはその程度では済まなかったらしい。引き攣ったような悲鳴や、制止を求めて名を呼んだ魔族たちは次の瞬間。内部から盛大に破裂した。
体内にある様々な臓器がベリアルの咆哮に対し悲鳴を上げるかの如く痙攣を起こし、耐え切れずに爆ぜてしまったのだ。
それだけではない。その次には全身の骨が砕け散り、内側から叩き出されるかのように眼球までもが飛び出した。身体の至るところからは大量の血が噴き出し、辺りを鮮血で染め上げていく。身に走る鈍痛も瞬時に忘れたかのように、ジュードはその惨状に絶句してしまった。
ジェントが咄嗟に翼で庇ってくれたからいいようなものの、いくらヴァリトラの加護を受けていようとまともに喰らっていたらどうなっていたことか。
「ぐわっはっはっは! いつ見ても見事な芸術よのぅ、例えようのない美しさだ!」
ベリアルはその惨状を芸術や美しいなどと称すが、ジュードには欠片ほども理解できない感性だ。しかし、愉快そうに高笑いを上げていたベリアルだったが、程なくしてライオットやジェントに目を留めるとのしのしと歩き始めた。
「……うん? なにやら見覚えのある姿だが……」
「うにいぃ……なんでベリアルが生きてるに、おかしいに……」
「おおっ! これはこれは、ジェント様ではありませぬか! いやいや、勇者様とこうして再び会えるとは思ってもみませんでしたぞ。また、お仲間の仇でも討ちにいらしたのかな? ぐわはははは!!」
ベリアルはライオットの横を素通りすると、その奥に倒れているジェントの傍へと歩み寄り、どこまでもわざとらしく芝居がかった口調で言葉を羅列し始める。ライオットの呟きやベリアルの言葉を聞く限り、このベリアルもまた、メルディーヌのようにかつての大戦で勇者一行と衝突した一人なのだろう。
ベリアルは大層愉快そうに笑うと、大きな片手を開いてジェントの前髪部分を鷲掴みにして強引に顔を上げさせた。
「誰の仇討ちでしょうなぁ? 私もあなたのお仲間を何人も殺してしまいましたので、皆目見当もつきませんよ。あの大男? それともあっちの女かなあぁ?」
「や……やめるに……」
「ああ、もしかしてあの人間の男? それか――」
『いかん、王子よ! ベリアルを討て!』
饒舌に語るベリアルの言葉に声を上げたのはヴァリトラだ。と言っても、現在接続しているためにその声はジュード本人にしか聞こえていないのだが。
ジュードは聖剣を大地に突き刺すことで身を支えると、痛む身を内心で叱咤しながら立ち上がる。逆手は腰裏に収めた鞘から神牙を引き抜き、身構えた。
しかし、そんなジュードを視界の端に捉えたベリアルはにたりと薄く笑い――ジェントの髪を掴んだまま、その目をこちらへと向けてくる。
「ククク……お前の実の父親の最期、見物だったぞおぉ?」
「……え?」
『聞くな、王子よ。ベリアルは相手の最も触れられたくない心の闇を覗き、精神的に追い詰めてくる最悪の敵だ。一度心に入り込まれれば……』
「本当は私がじっくりと嬲ってやりたかったのだがなぁ、アルシエル様が私以上に楽しませてくれた。それはそれは美しく愉快なショーだったぞ」
ライオットはなんとかその場に立ち上がり、ヴァリトラは耳を傾けぬようにとジュードの頭の中に直接声を響かせる。しかし、ジュードの意識はベリアルから離れることはなかった。
ベリアルが語る言葉を一言一句聞き逃さぬようにと完全に聞き入ってしまっている。やはり実の父親の最期はどうしても気になってしまうのかと、ヴァリトラは思わず歯噛みした。
このベリアルという魔族は非常に厄介な敵だ。
相手の心を瞬時に覗き込み、抱える闇や痛みなどを把握することで精神を追い詰めてくる。心の闇や傷を抉ることで相手の精神を拘束し、戦う意欲や気力そのものを完全に奪ってしまうのだ。
その影響で四千年前の大戦では数え切れないほどの犠牲者を出したことを、ヴァリトラはよく覚えている。その犠牲者の中にジェントの仲間――かつての神器の所有者が含まれていたことも。
ベリアルは、仲間を守り切れなかったジェントの心の闇に狙いを定めたのだ。
「アルシエル様のお力によって、お前の父は全てを失ったのだ。最初は左腕、次に右足、更に左足、最後に右腕……じわじわと四肢が吹き飛んでいってなぁ……心臓を貫かれ、息絶える前に首を刎ねられた。実に美しい光景だったよ、お前に見せてやれないのが残念で仕方がない! ぐわはははは!!」
「ひ、ひどいに……」
「ひどい? 醜い人間でありながら、我々が美しいと思う姿にしてもらえたのだぞ? 光栄に思うべきではないか、是非とも感謝してほしいもの――――」
ライオットが弱々しく洩らした呟きに、ベリアルはさも愉快そうな口調で語る。だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
「……か……あ、ぁ……ッ!?」
得意げに語っていたベリアルの声は、次の瞬間にはほとんど出なくなってしまったのだ。ライオットは思わず目を見開いた。
なぜなら、愉快そうに言葉を並べていたベリアルの喉に――神牙が突き刺さっていたからだ。それは言わずもがな、ジュードが投げつけたもの。
声帯をやられたのか、ひゅ、と空気が洩れるような音ばかりが零れる己の口と喉から全身に走る激痛に、ベリアルは目をひん剥いてジュードを見遣った。
「……まだ完璧じゃないけど……ある程度の記憶は戻ったから、覚えてるよ。本当の父さんのこと。いつも笑ってて、優しくて……正直、その父さんがそんな死に方をしただなんて信じたくない」
「か……っ、ごほッ……!」
「だから、同じようなことを繰り返させないためにここまで来たんだ。それから……」
静かな口調でそう語るジュードを前に、ベリアルは忌々しそうに表情を歪める。喉元に突き刺さった神牙を片手で掴み引き抜いてしまうと、聖剣を構える彼を真正面から睨み据えた。けれども、ジュードには臆したりするような様子はまったく見受けられない。それがまた余計にベリアルの神経を逆撫でしていく。
しかし、今のジュードにとってはベリアルが怒ろうとどうしようと、さしたる問題ではない。両手で聖剣を持つと、まっすぐにベリアルを見据えて一息に駆け出した。それまで静かだった表情を怒りに染め上げて。
「――その汚い手、さっさと離せよ!!」
ジュードは一気に間合いを詰めると、ベリアルが次の行動に移るよりも前に思い切り剣を振り抜いた。右下から勢いよく振られた聖剣の刃は、依然としてジェントを掴んだままのベリアルの左腕を殴り飛ばす勢いで一刀両断。上がる血飛沫と悲鳴に目もくれず、即座に次の攻撃に移る。
だが、周囲の魔族の群れはそんなジュードを見て一斉に飛びかかってきた。指揮官をやらせはしない、とばかりに。
「……下がってろ!!」
しかし、ひとつ息を吸ったジュードが腹の底から吼えるように声を張り上げると、彼の身を中心に大きく衝撃が走った。その咆哮は今まさに襲いかかろうとしたガーゴイルたちの群れを弾き飛ばし、一番傍にいたベリアルの身さえも吹き飛ばす。ビリビリと、まるで電気でも走ったかのような振動を直に感じて、思わずライオットは息を呑んで状況を見守った。
『(……そうだな、お前は心の闇などに惑わされることはないか。今まであれだけ色々と悩んで立ち止まって、苦しんできたのだ。仲間に支えられ、乗り越えてきたお前ならば今更あれだこれだと悩むこともない……ベリアルの精神攻撃も怖くはないのだな)』
ジュードの中で彼のことをずっと見てきたヴァリトラは、これまで抱えてきた悩みとて当然理解している。ジュードとジェントの明らかな違いは、ここに至るまでの過程だと――ヴァリトラはそう思った。
大きく吹き飛んだ魔族の群れを確認することもせず、ジュードはベリアルに飛びかかる。その様には、躊躇いなどというものは欠片も見受けられなかった。
「ふ、ぐううぅッ!!」
「いっけええええぇ!!」
頭上に振り上げた剣を渾身の力を込めて叩き下ろすと、聖剣はジュードの怒りに呼応するかのように力強く輝きを放つ。そうして、巨大な衝撃波を発生させた。
それは聖剣と閃光の衝撃の合わせ技だが、衝撃波の大きさも威力も、これまでとは比較にならないほどのもの。巨大な衝撃波は次の瞬間にはベリアルの身に直撃し、ジュードの倍はあっただろう身は――粉微塵に吹き飛んでしまった。その様を見て、周囲にいた魔族の群れは大慌てで撤退を始める。
しかし、ジュードは群れを無理に追うようなことはせず、倒れ込んだままのジェントの傍に駆け寄った。
「ジェントさん!」
『……聖剣の中で休ませてやるといい。なに、少しすれば目を覚ますだろう』
「……うん……」
抱き起こした彼には、意識がなかった。先ほどベリアルが語っていた言葉を思い返して、ジュードは悔しそうに下唇を噛み締める。
「(この人は……どれだけの傷を負ってるんだろう。小さい頃にお母さんを殺されて、育ててくれた人も魔族に殺されて。その上、仲間までだなんて……)」
魔族に付け込まれるほどその心は傷だらけなのだと、この時ようやく理解した。それと同時にやり切れない想いが込み上げてきて、ジュードの表情は思わず歪む。
魔族の群れは次々に撤退していく、この分ならばすぐにウィルたちも追いついてくるだろう。ヘイムダル奪還までもう少し――だが、それでもジュードの心は晴れてくれなかった。




