第一話・嵐の前の……
お待たせ致しました。
予定通り本日27日から更新を再開します。
残すところあと僅かとなりましたが、彼らの物語に最後までお付き合い頂けましたら幸いです。
薄暗い謁見の間に、ポタリポタリと血が滴る。
玉座に腰かけるサタンは、ゆっくりと近づいてくるその影に双眸を細めて静かに立ち上がった。薄暗い中でも慣れ親しんだ気配、それが誰なのかは容易に理解できる。
「……アルシエル、その傷は……」
「サタン様……申し訳、ございません……」
それは、水の国の防衛戦に於いてセラフィムにトドメを刺されたアルシエルだった。命は辛うじて繋ぎ止めたが、それもどうやら長くはもたないらしい。彼の身に刻まれた傷は深く、治療にはかなりの時間を要することだろう。それがわかっているからこそ、アルシエルはこうして玉座の間へとやって来たのだ。
サタンは幾分早足に彼の元へ歩み寄ると、力尽きたように崩れ落ちるその身を支えた。
「ようやく、戻って来れました……サタン様、よく……ご無事で……」
「……セラフィムの奴か」
「ええ、奴が目覚めるとは……予想外でした……サタン様、私はもうもちません。ですから、どうか……」
アルシエルは白い顔に薄らと笑みを浮かべると、言葉もなく小さく頷いた。
長期に渡る治療を受ければ、完治はするだろう。しかし、既にそれだけの時間的な余裕がないことはアルシエルだからこそ理解している。彼は四千年前の戦いに於いてもサタンの傍で奮戦した身、セラフィムやヴァリトラ、それに当時の勇者であるジェントが揃っている以上、次の戦いが最後になることは深く考えなくともわかっていた。
アルシエルは貫かれた胸部を片手で押さえながら、力なく笑う。
「サタン様……私を喰らい、あなたのお力の一部としてください……この身は既にままなりませんが、私の力は……まだまだ生きております。肉体を捨てても、あなたのお力に……なりたいのです……」
途切れ途切れになりながら、呻くように洩らされる言葉にサタンは無表情のまま暫し黙り込む。
けれども、やがて小さく溜息を洩らせば無言で静かに頷きを返す。地の王都に向かったまま、メルディーヌは行方不明となった。現在、アルシエルの身に刻まれた傷を迅速に治療することができる者は魔族側には存在しないのだ。
いたとしても、これほどの深手。余程の者でなければ完治など難しい。いつ事切れてもおかしくないほどの傷なのだから。
「……お前の願いと忠誠、確かに聞き届けた。共にこの世を支配しようではないか……」
サタンが静かに呟くと、アルシエルは心底安堵したように笑って力なく目を伏せた。彼の身体から力が抜けるのを感じるや否や、片腕を振り上げる。そうして双眸を細めると、鮮血が溢れ出すアルシエルの胸部を貫いた。
刃物のように鋭利な爪が彼の皮膚を裂き、骨を――肉体を貫通し、アルシエルの口からは大量の血が吐き出される。それを見遣りながら、サタンは目を伏せた。アルシエルの胸部を貫通した片腕からは、彼の膨大な魔力が次々にサタンの中へと雪崩れ込んでくる。
「我が血肉となり、この命が尽きる時まで共に在ろうぞ……アルシエル」
サタンのその呟きがアルシエルに届いていたかは定かではないが、今のサタンにとっては然したる問題ではない。ぐったりと完全に力の抜けた彼の身を床に横たえて、サタンは静かに立ち上がった。
アルシエルはサタンに全てを託したのだ。彼のその想いを、決して無駄にするわけにはいかない。そう思った。
* * *
「おう、ここにおったか」
「なんだ、飯がまずくなりそうな奴に見つかっちまったなぁ」
「ふん、言っておれ」
ゆったりとした波に揺れる船の上、空を見上げていたグラムは不意にかかった声に肩越しに振り返る。すると彼の視界には昔ながらの悪友の姿。火の国の騎士団長メンフィスだ。
常のような軽口を交わした末に互いに一頻り笑い合うと、メンフィスの視線も一度空へと投じられた。上空では無数の天使が辺りを警戒するように羽ばたいている。
「見事なものだな、空からの襲撃をどうするか陛下と頭を悩ませておったのだが……」
「うむ、セラフィム殿が率いる天空の騎士団とはな。あれだけの数がいればグレムリンやガーゴイル程度、蹴散らしてくれるだろうさ」
「あの子たちは?」
「ヴァリトラが船内に作った精神空間で訓練中だよ。身体を動かしとる方が安心するらしい」
現在、ジュードたちは火の都を後に船でヴェリア大陸へと向かっている最中だ。
船の上で戦闘になる可能性も充分に予想されていたことであり、女王アメリアは上陸するまでをどう対処するかと随分頭を悩ませていた。カミラはケリュケイオンを取りに行く際に単身でヴェリア大陸に渡ったが、その際にグレムリンたちによる襲撃を受けた。きっと今回も魔族が黙っているはずがないと思ったのだ。
しかし、その問題はあっさりと解決してしまった。
光の大精霊セラフィム率いる天空の騎士団、ワルキューレが空での戦闘を全て引き受けてくれたのだ。
目覚めたばかりの時と異なり、現在空を防衛している天使の数は数千に及ぶ。魔王サタンにこそ歯が立たなかったが、グレムリンやガーゴイル程度の魔族であれば彼女たちに任せても問題はない。
空からの襲撃にそれほど気を回さなくていいというのは、随分と気持ちが楽になる。そこで、次にメンフィスが気になったのはジュードたちの行方だ。先ほどから姿が見えない。
彼らが乗り込むこの船は、他の船と比べてとても大きい。謂わば旗艦のようなものだ。その大きな船で各々自由な時間を過ごしているのかと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
グラムから返る言葉に、メンフィスは一度目を丸くさせた末に愉快そうに声を立てて笑い出した。
「はっはっは、そうかそうか。ワシらもあの戦いの前はそうだったなぁ」
「そういうモンだ、大一番を前にすると落ち着かなくなるものよ」
「塞ぎ込むよりはよっぽどいいな、緊張で固くなっとるのではないかと思っとったんだが……要らぬ心配だったか」
メンフィスは彼らとそれなりに長い時間を共にしてきた身だ。
つい先日まではまだまだ子供だとばかり思っていたはずなのに、今やすっかりジュードたちは戦士になってしまった。年端もいかない子供たちが、このような命を懸けた――否、世界の命運を懸けた戦いに駆り出されるなど決して喜ばしいものではない。
グラムの隣に並ぶと、メンフィスはひとつ重苦しい溜息を洩らしてから再度視線を空に向けた。
「こんな戦いは、これっきりにしたいものだな」
「ああ、そのために行くんだ。二度と繰り返さないためにな。ジュードたちだって同じ考えだろうよ」
ジュードたちはまだまだ世間一般では子供に分類される年頃だが、誰もが皆、悲しみを背負っている者たちばかりだ。
魔物の狂暴化で家族を失った者もいれば、魔族に奪われた者もいる。そんな彼らだからこそ、自分たちのような者をこれから先の未来で出したくない、そう思っている節もあるだろう。
最終決戦の時は近い。
嵐の前の静けさとでも言わんばかりに、穏やかな海の様子を見つめながらグラムとメンフィスは確かな緊張を肌に感じていた。




