第三十八話・ジュードとアンヘル
アンヘルは、目の前に広がる光景に絶句し、戸惑いを交えて見つめていた。
ジュードの中に入り込んだ彼は、その身を乗っ取ろうと心のより深い部分への侵入を試みたのだが――その結果がこれだ。
現在の彼の前には、三百六十度どこを見ても懐かしい光景が広がっている。まだ魔族に滅ぼされる前の、聖王都の光景だ。アンヘルにとっては忌々しい記憶でもある。
「なんなんだよ、これは……ッ!」
美しい聖王都の街並みは、当然ながらアンヘルの記憶の中にも残っている。
城下にはいくつもの洋館が建ち並び、多くの貴族が優雅なティータイムを楽しんでいた。商店街には様々な露店が顔を覗かせて、訪れる者に店主たちがこれまた楽しそうに声をかけている。
店主も貴族も、それに客も。誰も彼もが笑顔だった。それはそれは楽しそうな、それでいて嬉しそうな。
聖王都ヴェリアは、いつだって笑い声の絶えない街並みだったのだ。住まう者の多くが穏やかな性格を持った、心優しい人間たちばかり。その光景を目の当たりにして、アンヘルは固く奥歯を噛み締めた。
「……お前が知ってる聖王都の光景だよ。覚えてるだろ?」
「テメェ……っ! オレにこんなもん見せてどうするってんだ!」
ふわりとアンヘルの隣に降り立ったジュードは、彼には目もくれずに眼前に広がる過去の街並みに視線を投じる。その横顔がどことなく寂しそうで、それが余計にアンヘルの神経を逆撫でした。
だが、その光景は突如として場面が変わる。次に映し出されたのは、ジュリアスとテルメース――そしてヘルメスやエクレールがいる平和な映像だ。
城にある空中庭園で一家揃ってのんびりとした時間を過ごす、そんな光景。
ジュリアスはまるで子供のような笑みを浮かべて酒を呷り、テルメースがそれを優しく制す。
幼いジュードとエクレールは、兄のヘルメスにあやされて三人仲良くじゃれ合っていた。この頃のヘルメスにはヒネくれた様子は一切感じられず、子供らしく可愛い笑顔を浮かべながら弟と妹と遊んでいる。恐らくまだ八歳ほどだろう。
「……ヴァリトラが見せてくれたんだ、昔のこと。お前だって覚えてるだろ?」
「……」
「……アンヘル?」
穏やかにそう語りかけながら返答を待ったが、当のアンヘルからはいつまで経ってもなんの反応も返らない。ジュードは思わず怪訝そうな表情を浮かべながら、傍らに立つ彼を見遣った。
だが、アンヘルは――信じられないとでも言うような面持ちで、そのどこまでも平和な光景に見入っている。ジュードは不思議そうにそんな彼を見つめていたが、程なくして一度静かに目を伏せる。
すると、次に浮かび上がってきたのは別の家族の団欒風景だ。
母テルメースに抱っこされてあやされる様、剣の稽古を頑張ったことをこれでもかと言うほどに父ジュリアスが褒めて頬擦りしてくる様。
勉強が嫌だと逃げ出したところを匿ってくれる兄のヘルメスや、お兄さまお兄さまと後ろを嬉しそうについて回る妹のエクレール。
それらの光景を見て、アンヘルの表情は思わず苦痛に歪んだ。逃げ場などないと言うのに反射的に数歩後退り、片手で己の前頭部を押さえる。それと共に彼の頭周辺にいくつもの魔方陣が浮かび上がるのを、ジュードは見逃さなかった。
「(あれが記憶封印のナントカってやつか……! ここはオレの心の中なんだ、聖剣の力は使えない。だったら……!)」
ジュードはアンヘルの傍らに寄り添うと、その場に屈んで苦しそうに呻く彼を横から支えた。宙にふわりふわりと浮かんで不気味な光を湛える魔方陣は、まるでその様を嘲笑うかのようだ。
それを忌々しそうに見遣ってから、ジュードはアンヘルの身を軽く揺さぶった。
「知らない、オレはこんなもの……知らない……っ!」
「違う、知ってるはずだ。苦しくても思い出せ!」
「うるさい! 貴様にオレのなにがわかる! オレを置き去りにして逃げ出したような奴に、なにが――!」
「……」
置き去りにして逃げた――アンヘルは、そう思い込まされているのだ。
彼は、あの聖王都陥落の日になにがあったのか、その記憶からして書き換えられてしまっている。ジュードは複雑そうに眉根を寄せると、改めて一度目を伏せた。
彼にとっても、あまり思い出したくない光景に思いを馳せて。
それは、サタンに呑み込まれたあの時の様子だ。
サタンに喰われ、テルメースに助け出されるまでの。それは時間にして短いものだったが、当のジュードにとっては非常に長い時間に感じられた。過去の記憶だというのに、実際にヴァリトラに見せられた時は「このまま死んでしまうのではないか」と思えるほどの恐怖と絶望を覚えたものである。
再び変わった映像を食い入るようにして見つめるアンヘルは、瞬きさえ忘れたように絶句していた。
「な……んで……」
「オレはお前を置き去りにしたんじゃない、サタンに喰われてテルメースさんに助け出された時に……無理矢理に引きはがされたんだ」
「……」
「……お前は、テルメースさんにもジュリアスさんにも……みんなにしっかり愛されてたんだよ。ヘルメス王子やエクレールさん、カミラさんだって……」
静かに語られる言葉に、アンヘルは思わず自分の手の平を見下ろした。やはりその顔には「信じられない」と言うような表情が色濃く滲んでいるが。それでも、彼の中の記憶が揺らぎあやふやになっているのは事実だ。
しかし、アンヘルが本来の記憶を思い出そうとすれば――彼の周囲に浮遊するいくつもの魔方陣がそれを阻む。不気味な黒い輝きを放ち、彼の記憶を無理矢理に押し込んでしまうのだ。ジュードは忌々しそうにそれを見上げて、固く奥歯を噛み締めた。
「――っ! オレが持ってない大事な記憶を、お前は持ってるはずだろ! 無理矢理にでも思い出せ!」
「ぐ、ううぅ……ッ!」
その場に蹲って両手で頭を押さえるアンヘルに、ジュードは怒鳴るように声を張り上げた。すると周囲に浮かび上がっていた映像が揺らぎ、漆黒の闇に包まれた後――ジュードには見覚えのない光景が出現し始めたのである。
なにかの生き物の体内のような、辺り一面がピンク色だ。だが、見た目は決してよいものではなく、どちらかと言えば醜悪な印象を与えてくる。あちらこちらに魔物や人間など様々な生き物が倒れ込み、いずれもその身を細長い無数の触手により拘束されていた。
「これ、まさか……サタンの、中……?」
程なくして、映像の中にジュードが見つけたのは――メルディーヌとアルシエルの姿だった。そして、その奥には幼い自分の姿も。恐らくこれは、アンヘルが辿った記憶だ。
他の生き物と同じように拘束されたままの幼いジュードは――否、アンヘルは、メルディーヌに何度も術をかけられているようだった。最初はメルディーヌを睨みつけて抗っていたが、数えきれないほど同じことを繰り返したせいで抵抗力も弱まり、アンヘルは徐々に徐々に洗脳されていった。
何度も場面は変わるが、状況は決して変化していない。これがどれほどの期間に渡り行われたことなのかは定かではないが、短いスパンではないだろう。何度も繰り返し変化する場面、角度を考えるに少なく見ても数週間に渡る。
それだけの期間、何度も何度もメルディーヌに術を施されたせいで抵抗するだけの力も失い――こうしてアンヘルとして誕生してしまったのだろう。
『メルディーヌの精神操作の術によって記憶を書き換えられ、闇に染まっていく様は非常に愉快であったぞ』
アルシエルは、以前確かにそう言っていた。これがそうかと理解したジュードは、込み上げる怒りに下唇を噛み締めた。
アンヘルは、無理矢理に記憶を抑え込まれたのだ。彼が望んだわけではない。繰り返し何度も同じ術をかけられて抗うだけの力まで奪い去り、弱り切ったところをメルディーヌに支配された――そういうことだろう。
ジュードは蹲るアンヘルを包み込むように抱き締めると、辺りに浮かぶ黒い魔方陣を睨み据えた。
「……すぐに迎えに行けなくて、悪かった。お前、こんなことになってたんだな」
「なんで……アルシエル様が、オレを……騙す、はずが……」
「……騙されてたんだよ。これが……あいつらのやり方なんだ」
喉奥から絞り出すように呟くと、その言葉を聞いたアンヘルはそれ以上なにも反論してくることはなく、静かに身体から力を抜いた。ふわりふわりと浮かぶ魔方陣からそんな彼を守るように、ジュードはアンヘルの身を抱き直して静かに目を伏せる。
「……思い出せ、お前の奥深くにある本当の記憶を。オレも一緒に、お前の痛みも苦しいのも全部背負うから」
「お前……っ」
「だから、一緒に思い出そう」
「……」
静かに顔を上げたアンヘルの表情は、やはり周囲の魔方陣のせいかとても苦しそうだった。だが、そんな中でも彼はしっかりとまっすぐにジュードを見返してくる。その目に――これまでのような狂暴さや、全てを否定するような色は見受けられなかった。
* * *
「きゅうぅ……」
ジュードが眠ってから、既に三時間ほどが経過している。時刻は深夜だ、あと同じくらいの時間が経過するとまた朝陽が昇ってくることだろう。
ちびは依然として寝台に顎を乗せたまま、ジュードを心配そうに見つめていた。ふさふさの尾はふにゃりと床に垂れていて、とても心配そうだ。ジェントはそんなちびの隣の床に座り込み、背中の毛をゆったりと撫でつけている。
当のジュードはというと、時折苦しそうな声を洩らして呻くばかり。不意に宙に不気味な魔方陣が浮かび上がることさえある。それが余計にちびとジェントの心配を煽っていた。
その魔方陣を叩き壊してやろうかと思いはしたが、なにもしないでくれと言われた手前、そうするわけにもいかない。ジュードの決意を無下にはしたくなかった。
『……?』
けれども、既に何度目になるか定かではない魔方陣が浮かび上がった時。
不意にジュードの身が淡く光り輝き、宙に浮遊するそれらの魔方陣を白の光で包み込み、跡形もなく焼き払ってしまったのだ。それらは一瞬の閃光となり、夜の闇を明るく照らしたが、次の瞬間には何事もなかったかのように再び静まり返ってしまった。
「わう?」
『ジュ、ジュード……?』
光が止んでも、ジュードは眠ったままだった。目を覚ますような気配もない。
だが、ちびとジェントはこれまでとは異なる確かな違いを目の当たりにしていた。互いに不思議そうに顔を見合わせてから、再びジュードを見下ろすが――やはり、ジュード本人はすやすやと寝息を立てて眠るばかりだった。




