第二十九話・ただいまとおかえり
その日の夜、精霊たちはヴァリトラの元に集まりのんびりとした時間を過ごしていた。
現在の時刻は夜の二十一時過ぎといったところだ。起きている者も多いだろうが、疲労が癒えていない者も現在は大勢いる。既に眠りに就いている者も少なくはないはずだ。
瓦礫が積まれた元中庭に集まった精霊たちは、久方振りの談笑を楽しんでいた。
「それにしても信じられないわ。オンディーヌったら、よく見極めもしないで神器を渡しちゃうなんて……」
「ふっ、よいではないか。それなら我々フィニクスとてそうだぞ。ガイアスだって、なぁ?」
「うふふ、そうですねぇ。イスキアは思っていたよりも真面目なんですのねぇ」
「……あんたたちが不真面目なのよ」
イスキアが瓦礫の上に腰かけながら呟くと、その傍にいた火の大精霊フラムベルクと地の大精霊タイタニアが愉快そうに返答を向ける。そんな二人の言葉に対し、イスキアは呆れ果てたように双眸を半眼に細めて深い溜息を吐き出した。
彼の頭の上では相棒のトールが腹這いに寝転がりながら、にこにこと上機嫌そうに笑っている。ライオットやノームも嬉しそうだ。
「……それで、そのオンディーヌ二人組はどうした?」
「まだ正式に帰還の挨拶をしてないから行ってくるって」
「帰還の挨拶だぁ?」
サラマンダーは近くの壁にもたれかかりながら、当のシヴァとフォルネウスを探していたのだが、イスキアから返った言葉には怪訝そうな表情を浮かべて頻りに首を捻る。
だが、彼は「ふふ」とどこかおかしそうに笑うばかりで、それ以上はなにも言わない。ヴァリトラやライオットはその意味が理解できているらしく、幾分微笑ましそうに見つめていた。
* * *
テルメースは、半壊滅状態にある城下街へ降りていた。理由は、メンフィス邸の庭で一人訓練に勤しむジュードに会うためだ。
城に部屋を用意してあるというのに、彼らはどうにも城での生活が慣れないらしく、このメンフィス邸で身を休めている。――もっとも、他の者たちがその部屋を使えるようにと配慮しているのかもしれないが。
月明かりの下、ジュードは庭で剣を振るっていた。聖剣ではない、見るからに重そうな大剣を。
「……」
既に彼の心は決まっているのだろう、この戦いから降りる気などジュードには微塵もない。まだ疲労が完全に抜けていないにもかかわらず、こうして訓練に勤しんでいる姿が動かぬ証拠だ。
あなたが戦わなくていいのだと、テルメースはそう声をかけてやりたかった。ジュードやエクレール、なぜ可愛い我が子がこのような危険な戦いに赴かねばならないというのか。
じわりと涙が滲み始めた頃、庭の入口付近で自分を見つめる存在に気づいたのか、ジュードはそれまで振り回していた剣を下ろして身体ごとテルメースに向き直った。
「あ……こ、こんばんは」
「え……ええ、こんばんは。ごめんなさい、勝手に……」
「そ、そろそろ休憩しようと思ってたので。……とと、ありがと、ちび」
両者の間に流れる空気もやり取りも、未だにぎこちない。それでも、カームの街で会った頃に比べれば随分と落ち着いたものだが。
それまで庭の縁でジュードを見つめていたちびは、嬉しそうに駆け寄ってくるなり頭の上に乗せたタオルをずい、を押しつけてきた。わう、とひとつ鳴いて。
ジュードはそれを受け取ると、頬や首元を伝う汗を拭きながら礼を向けた。
テルメースは暫しその様子を無言のまま見つめていたが、やがて改めて口を開く。聊か言い難そうに。
「……ヘルメスのことは、聞いた?」
「えっ?」
「今はミストラルの都で保護されているそうよ。ウィル君とクリフさんが殺さずに捕らえてくれたと聞いたわ」
その言葉に、ジュードは思わず屋敷の二階を見上げた。そこは普段ウィルが自室として使っている部屋だ。既に明かりが消えていることから就寝しているのかもしれないが。
ヘルメスを兄だと思ったことは一度もない。そのような実感は未だに湧かないのだ。
だが、それでも彼を生かしておいてくれたことに純粋な感謝の念が湧いた。もしも彼が戦死していたら、テルメースは今頃悲しみに暮れていたことだろう。
例え、人間にとっての裏切り者であっても彼女にしてみれば大切な子供なのだから。
「……昔は優しい子だったのよ」
「……知ってます。ヴァリトラが……見せてくれたから」
ヴァリトラが見せてくれた記憶の中で、ヘルメスはいつも優しかった。
ジュードがわんわん泣けば両親の代わりにあやしてくれたり、面倒を見てくれたり。勉強が嫌だと逃げ出したのを、いつだって匿ってくれていたのも彼だ。怖い夢を見て眠れないと泣いていれば、一緒に寝てくれたりもしていた。
『……貴様が邪魔なのだ、ジュード。貴様が……貴様さえいなければ、私はこうまで追い詰められることはなかった』
だというのに、その兄は確かにジュードにそんな言葉を吐き捨ててきた。
ヘルメスは、カミラのことを好いていたのだ。だが、ジュードが先に彼女と出逢ってしまった。それだけではない、お互いに好き合い、あろうことか両親までもが二人の関係を認めてしまったのである。
長男であり、王位継承権を持つヘルメスにとっては面白くないことだろう。
だが、カミラは物ではない。例え彼女が姫巫女であっても、自由に人を好きになっていいはずなのだ。ジュリアスもテルメースも、しきたりに従った上で彼女をジュードの婚約者にしたわけではないのだから。
ただ、お互いに好き合っていたから。だから将来の相手として認めた。それだけだ。
「……戦いを降りる気はないの?」
「はい。ヴァリトラの言うこともわかるんですが……みんなが降りたとしても、オレは続けます。逃げることはできるけど、そうなったら誰かが代わりにやらなきゃいけない。オレはそうなってほしくないから」
「……そう」
それは以前、カミラに言われたことだ。
魔物と戦うことを怖くないのかと問うた時、彼女はそう答えた。自分がやらなかったら、別の誰かが同じように怖い想いをすることになる、と。
ここでジュードが戦いを降りれば、誰かが代わりに戦うことになるのだ。
ジュードの心は既に決まっている。
それを理解して、テルメースは口を噤んだ。心配は尽きないが、ここでそれらを吐露してしまえばきっと余計な枷になる。そう思ったのだ。
「お前は相変わらず頭を使うのは苦手のようだな」
そこへ、ひとつ声が届いた。
ジュードがむっとして庭の奥を振り返ってみれば、そこにはシヴァとフォルネウスの二人が立っていた。カミラたちから水の神柱が助けてくれたと聞いていたことで、二人が戻ってこれたのだとは理解していたが、こうして面と向かって再会するのはこれが初だ。
ジュードは二人の姿を視界に捉えると、その表情を輝かせた。シヴァは緩慢な足取りで歩み寄ってくるなり、なんとなく――どこか誇らしげに軽く胸を張る。
「言われた通り帰ってきたぞ、なにか言うことはないのか?」
「聞こえてたんだ。……へへ、おかえり、シヴァさん」
その言葉にジュードは思わず小さくふき出した。彼が肉体を失った時、元の彼でも違ってもいいから帰ってこいとは呟いた覚えがある。どうやら、その言葉はちゃんと届いていたようだ。
フォルネウスはやや遅れてジュードの正面まで歩み寄ると、その場に片膝をついて跪き、頭を下げた。
「……これまでの非礼を思えば今更このようなことを言える立場ではないのだが、私も……お前と共に戦わせてほしい」
フォルネウスはこれまで魔族側にいた存在だ、精霊たちにとっては裏切り者に他ならない。一度は牙を剥いた己がこのような頼みごとをするなど厚かましいと、フォルネウスはそう思う。彼はジュードを狙って容赦もなく襲撃した身でもあるのだから。
暫しそうしていたが、いつまで待っても返らぬ言葉にいよいよ不安になってきた頃に静かに顔を上げた。やはり許可はもらえないのだろうか、と。
だが、顔を上げた彼の目に映ったジュードはと言えば、頻りに疑問符を浮かべて首を捻る様だった。
「……おい。お前、私の話を聞いていたか?」
「え、いや……オレ、てっきりもう一緒に戦ってくれるものだとばかり思ってたんだけど……」
「……」
二人は水の国の防衛線に於いてカミラたちを助けてくれたのだ、ジュードにとっては既に「味方」でしかない。だが、フォルネウスにとっての認識は違っていたらしく、心底呆れ果てたような表情を浮かべて二の句を継げずにいた。言葉が出てこない、そんな様子だ。
シヴァはそんな二人を横目に見遣る。こちらもなんとなく呆れたような顔はしているものの――どことなく嬉しそうだった。
「こういう奴だ」
「……バカにされてる気がする」
「気のせいだろう、これでも一応は褒めているんだ。一応は、な」
「バカにしてるんじゃないか!!」
テルメースは、ジュードとシヴァのやり取りを見つめてそっと優しく笑う。
ジュードという名前は彼女が願いを込めてつけたものだが、その願いは充分すぎるほどに叶ったようだ。彼は本当に多くの者に愛されている、そう思う。
笑う気配にジュードとシヴァ、フォルネウスの三名は彼女の方に視線を向け、テルメースは一度目を伏せてから静かに頭を下げた。ジュードが戦うことを止められないのなら、その無事を祈るだけだ。
「……精霊たちよ、この子を……ジュードを、どうかお願いします」
本来の役目を捨てたテルメースのことを快く思わない精霊も存在する。フォルネウスとて、そのうちの一人だ。だが、彼女を責め立てる権利はないと思ったのか、特に口喧しいことは言わなかった。
シヴァには元よりその気はないらしく、言葉はなくともしっかりと頷くことで応えた。




