第二十六話・いくつもの命
固唾を呑んでサタンと向き合う中、不意にジュードはじりじりと手が痺れるような錯覚を感じた。ちらりと視線のみを横にずらして見てみれば、聖剣だ。聖剣がじわりじわりと徐々に力を増幅させていっている。ヴァリトラと交信していなければ、下手をすると持っていることさえ困難だったかもしれない――それほどの力だ。
「(これ……ッ、ジェントさんか……!?)」
『ジュード、一気に叩く。君は奴の心臓を狙え』
「は、はい! わかりました!」
背中に、言いようのない感覚を感じる。なにか、とてつもなく大きな――尋常ではない力の波動だ。
だが、サタンから注意を逸らすわけにはいかない。今はともかく、目の前のこの男を倒すことが最優先だ。
まっすぐにサタンを見据えて唇を真一文字に引き結ぶ。ぐ、と両手の武器を固く握り込んでから、上体をやや屈めて勢いよく飛び出した。
サタンはジュードの一挙一動を見逃すまいと切れ長の双眸を細め遣り、両腕に燃え盛る紫色の炎を巻きつけて――叩き込まれる聖剣と神牙を正面から受け止める。
サタンの両翼は未だに凍りついていて、使い物にならない状態だ。これならば空への逃亡は避けられる。叩くのであればこのチャンスしかない。
「貴様のような人間のガキが、この俺と本気で渡り合えると思っているのか……!?」
「無謀だろうとなんだろうと、やるんだよ!」
精神力が増えたとは言え、ヴァリトラの力はあまりにも強大だ。契約できていない状態では、交信を保っていられる時間的な余裕はそれほどない。早々に片をつける必要があるのだ。
受け止められた聖剣に構うことはなく、即座に神牙でサタンの肩を狙う。だが、サタンとてまだ両腕は無事だ、刃が肩を抉るよりも先に掴んで止められてしまった。当然、刃を手で掴めば食い込むのだが――既にサタンの方にも余裕はないのだろう、なりふり構っていられない、そんな様子が見て取れる。
互いに両手を塞がれて次の手が出ない。
だが、戦いになれば手でも足でも、下手をすると頭まで出るのがジュードだ。サタンが次の行動に移るよりも先にジュードは片足を持ち上げると、相手の腹部に思い切り蹴りを叩き込む。
「ぐッ! 貴様……っ!」
僅かにサタンが怯んだのを見過ごさず、ジュードは一度上体を左に軽く捻ると、すぐに勢いをつけて聖剣を叩きつけた。光り輝く刃は防ごうとしたサタンの腕を深く斬り裂き、その腕を肘の上から切断――上がる血飛沫に目もくれず追撃に移るが、サタンとてそれを許しはしない。
逆手を下から思い切り振り上げることで、ジュードの胸部を爪で引き裂いた。皮膚を裂き肉を抉られる激痛に表情は歪むが、怯んでなどいられない。
刹那、サタンは大きく口を開くと先ほどと同じく燃え盛る紅蓮の炎を吐き出してきた。
その様と炎の勢いにジュードは双眸を見開き、咄嗟に両手を顔の前で交差させて軽く顔を俯ける。すると、聖剣が青い輝きを放ち彼の身を守るよう結界を張り巡らせたのだ。左右に分かれた炎は、瞬く間にジュードを呑み込んでいく。
サタンが吐き出したものだ。炎の威力はヴァリトラの力に決して劣ってはいなかった。じわじわと結界内部に熱が伝わり、ジュードは思わず唇を噛み締めて眉を寄せる。
「ククッ……! やはり所詮は人間のガキだな、これでも喰らえ!」
「……!」
炎に気を取られている隙に、サタンは素早く術の詠唱を終えたらしく無事な片手をジュードに向けて突き出すと、口端を吊り上げて笑った。ジュードが避けようと思考を働かせるのと、その魔法が発動するのは――ほぼ同時。
サタンの手の平には渦を巻くようにして黒い輝きが出現し、瞬く間にその大きさを増した。人の顔の大きさほどの黒く不気味な光となったそれは、レーザー砲のように勢いよくジュードの身を撃ったのである。
巨大ななにかに前方からぶん殴られたかのような衝撃を受けたジュードの身体は踏ん張りも利かず、屋上の塀に思い切り叩きつけられた。
「が……ッ! ううぅ……!」
「トドメだ、くたばれ!!」
背中から思い切り叩きつけられたことで脳が揺れるような錯覚を覚え、受け身を取ることさえままならない。うつ伏せに倒れ込んだジュードを見据えると、サタンは片手を突き出したまま再び術の詠唱を始めた。
だが、全身が拒絶反応を起こすかの如く粟立つと、サタンは咄嗟に視線を外して弾かれたように左手側へ目を向ける。すると、切れ長の双眸は大きく見開かれた。
『くたばるのは……お前だッ!』
「ジェント、貴様っ!」
『四方より交わり出でし翼よ、敵を討て――光翼飛翔!』
ジェントが己の胸の前で十字を切ると、彼の背からは純白の輝きに包まれた光の羽根が出現した。怯えるかのように大気を震わせるそれは、四神柱の力をひとつに纏めることで顕現する聖属性が引き起こすものだ。
彼の背で光の翼はゆっくり、そして大きくひとつ羽ばたくと、煌々と輝き――まるで弾丸の如く無数の羽根がサタン目がけて飛翔した。
光の速さで飛び出したそれらは次々にサタンの頭や肩、首に突き刺さり、ジェントが片腕を払うと一際大きな羽根が頭部を四方八方から貫いた。
どのような生き物も、心臓か頭を潰してしまえば生命活動を停止する。それを狙ったのだ。
サタンは己の頭部に突き刺さる羽根に苦悶を洩らし、片手で目元を覆う。右目は共に潰されてしまったが、左目は――まだ生きていた。詠唱を終えた術を放つべく、憎悪を宿した瞳を輝かせて彼を睨み据えたものの、それは間に合わなかった。
「忌々しい、忌々しい……ッ! どこまでも、貴様はああぁッ!」
「こっちのセリフなんだよ!」
「――!?」
不意に間近から聞こえた声に、サタンは残った左目を大きく見開いてそちらを見遣る。右目が完全にやられているせいで、右手側からジュードが至近距離まで近づいていることにまったく気づかなかったのだ。
自分の闇魔法を喰らって、なぜそうまで動けるのか――そう言いたげに驚愕一色に表情を染め上げるものの、既に言葉にはならなかった。ジュードは聖剣を両手でしっかりと握り込むと、左下から右上へ斜めに剣を振るう。刃はサタンの腹部を深く裂いたが、それだけには留まらない。
即座に構え直して、顔横にまで一度腕を引いた。切っ先を相手に向けるそれは、霞の構えと言われる構え方だ。そして体当たりの勢いで飛び出すと、先ほどジェントに言われた通り――聖剣の切っ先でサタンの左胸を貫いた。
「がはッ!?」
「終わりだ!」
サタンの心臓を的確に狙い澄まして貫くと、勢いをつけて刃を引き抜く。するとサタンは片手で胸部を押さえるが、血は止まることを知らず彼の手を真っ赤に染め上げながら次々に溢れ出した。
そして、彼の左目はジュードの腕にある輝きを捉えた。激しい戦闘の際に破れた服の下、彼の腕に鎮座する金色と蒼の輝き――それは、闇の魔法を一切受けつけない神の石ラズライト。幼い頃にヴェリアを離れる際、母テルメースが持たせた腕輪が今回もジュードを守ってくれたのだ。
それを目の当たりにして、サタンは糸が切れた人形のようにどさりとうつ伏せに倒れ込んだ。屋上の荒れた床には、どんどん鮮血が広がり、血だまりを作っていく。
「やった……の、か……?」
それを確認して、ジュードは片手で額の辺りを押さえた。その刹那、ふわりと彼の中からヴァリトラが抜け出て宙へと浮かび上がる。既にジュードの精神力も限界だ、眩暈を覚えてふらついた身は――ジェントがそっと支えてくれた。
『ジュード……大丈夫か?』
「ジェ、ジェントさん……あ、あれ? そういえば、なんで触れて……」
『聖剣と同化したせいだろう、詳しいことは俺にはわからないが……』
これまでジェントは魂だけの存在だったために、精神空間以外で直接触れるなどできなかった。だが、彼の言うように聖剣と同化したことでなにかしらの変化があったのだろう。
ジェントはジュードの意識が辛うじて繋がっていることに小さく安堵を洩らすと視線はサタンに向けたまま、上空で羽ばたくヴァリトラに声をかけた。
『……やったと思うか?』
「いや、気が消えておらぬ。……まだだ」
「……え?」
その言葉に、ジュードは慌ててサタンに視線を戻す。既に精神力は限界だ、ヴァリトラとの交信も切れてしまっている。そんな状態でサタンとこれ以上戦うなど、深く考えなくとも無理だ。
程なくして、倒れ込んだサタンの身がぴくりと動くとジェントやヴァリトラの考えた通り、再び動き出した。ゆっくりと身を起こして不気味に笑う様からは狂気が滲み出ている。口や腹、胸部に頭――様々な箇所から止め処なく血を流しながら、それでもサタンは生きていたのだ。
「ク、クク……これで、倒せたつもりなのか?」
「う、嘘だろ……頭も、心臓だって貫いたのに……」
「貴様は本当に愚かだな、贄よ。この身に命がいくつあると思っているのだ?」
サタンの言葉に、ジュードだけでなく彼を支えるジェントの顔にも怪訝そうな色が滲んだ。命はひとつしかないはずだ、だというのに一体なにを言っているのかと。
しかし、サタンは笑いながら氷の解けた両翼を大きく羽ばたかせてゆっくりと空へ浮上していく。
「ジェントよ、貴様のエクスカリバーによって封じられている間に、俺がどれだけの生き物を喰らってきたと思う? この姿に戻る際、俺は今までに喰らった命の全てをこの身に引き込んだのだ」
『な……』
「その中には貴様の父もいたのだぞ、贄よ。残念ながら、奴はアルシエルに屠られた後に喰らうことになったせいで、俺の中に命として存在はしていないがな」
そこでジュードの頭に浮かんだのは、以前ヴァリトラが見せてくれた過去の記憶だ。あの男性が、実の父親である彼が、アルシエルに殺された後にサタンに喰われたのだと言う。
その事実に、目の前が真っ赤に染まるような錯覚を覚えた。
サタンは上空に浮かんだまま彼らを見下ろすと、最後にヴァリトラを睨み据えてから更に高く舞い上がっていく。
「今日のところはここまでにしておいてやろう、だが――俺には無限とも呼べるいくつもの命がある。何度殺そうが、それらの命全てを消さぬ限り俺を倒すのは不可能だ。貴様らがどのように抗ってくれるのか、楽しみにしているぞ」
文字通り、愉快そうに笑いながらそれだけを告げると、サタンは黒い魔法陣に包まれてその場から完全に姿を消してしまった。それを察してか、城下を襲っていた魔族の群れも慌てたように撤退していく。
完全とは言えないが、それでも一応は都を守り切れたと言えるのだろう。ただ、城下も王城もボロボロだ。今はともかく、魔族を撃退できたことに安堵を感じてジュードは腹の底から息を吐き出した。




