第十五話・目覚めるもの
深い深い森の中に、淡い光を湛える泉がある。
ぱしゃり、と水を掻く音が立つと水面からにゅ、と人の手が伸び出てきた。それは水のように透き通っていたが。
程なくして一人の若い女性が上半身部分を覗かせ、ぼんやりと空を振り仰ぐ。全身が透き通った彼女の姿は非常に美しく、泉の水を受けて淡く光り輝く。
ゆっくりと泉から這い出た彼女は宙に白の衣を出現させ、一糸纏わぬ己の身を柔らかな絹のそれで包み込んだ。透き通っていた身は泉から上がったことで乾いていき、その刹那――彼女の背には純白の大層美しい翼が生える。それはまるで天使の翼だ。
「……ヴァリトラが傷ついている……」
ぽつりと洩れた声はその風貌を裏切ることなく、こちらもやはり非常に美しい。ひとたび歌でも紡げば、小鳥のさえずりと称されてもおかしくはないだろう。
空を見上げていた彼女は両手を天へ伸ばし、静かに目を伏せる。
すると彼女の両手の平からは真っ白の力強い輝きが溢れ出し、ゆっくりと天空へ浮上し始めた。
「我が光の子たちよ……その姿を見せなさい」
一言そう呟けば、空高く浮かび上がった光が八つへ分離し、分かれたそれらの光は程なくして人の姿を形成していく。彼女は背に生えた純白の翼を大きく羽ばたかせて天へ飛び立つと、己を囲むようにして出現した八人の少女たちを視線のみで見回した。
そうして宙から今度は光り輝くランスと大盾を出現させ、両手にしっかりと携える。それと同時に彼女の頭には白い翼がついたヘッドギア、肩や胸部を守る青い軽鎧が装着された。
「――セラフィムの名に於いて、あなたたちに魔族殲滅の命を与えます。ワルキューレたちよ、四神柱の力となり、人々を守りなさい」
彼女――セラフィムがそう告げると、周囲に散開していた少女たちはにこりと優しく微笑み、承諾の意味合いを込めて静かに頷いた。そうして、セラフィムと同じく背中に生える翼を羽ばたかせ、各々三方向へと勢いよく飛び出していく。
彼女たちが向かったのは東と西、そして南だ。北はセラフィム自らが赴くことを彼女たちは理解しているのだろう。
セラフィムは背に生えた翼を羽ばたかせると、ヴァリトラの援護をすべく北へと飛び出した。
* * *
リンファは両手に携える神器を駆使し、エクレールと共にアルシエルと交戦していた。
先ほどまでとは異なり、今度のアルシエルは本気だ。容赦なく振られる魔剣を避けても、彼の背中に生える両翼が追撃として刃物のように蠢き、襲いかかってくる。四方八方、どこから挑みかかってもその翼が攻撃を阻むように動くため、非常に厄介だ。
コウモリのもののような形状を持つ翼は、先に鋭利な爪が生えている。一度でも直撃すれば深く肉を抉られるだろう。
リンファが短刀を振るうと、アルシエルは魔剣を掲げて防ぐ。逆手の短刀を頭上から突き下ろせば彼の背に生える両翼が大きく開き、盾のように頭部を守るのだ。
アルシエル自身の魔力を纏う翼は例え神器であろうとその刃を通すことはなく、岩でも殴りつけているかのような強度を誇る。リンファや神器の力が弱いのではない、アルシエルの魔力が強すぎるのだ。
「小娘共がこの私とやり合おうなど――!」
エクレールは真横から襲いかかるが、視界の片隅にそれを確認するとアルシエルは魔剣を携える片腕に力を込めて武器ごとリンファの身を強く押した。それと同時に地を蹴って後方に跳び退るが、リンファとエクレールから距離を取ったところを――オンディーヌは見逃さない。
両手に携えるトライデントの切っ先を空へ向け、鋭い眼光でアルシエルを睨み据える。彼の魔力の高まりに呼応するかのように大地が大きく震え始めると、アルシエルの周辺からは巨大な氷柱が突き出してきた。
「チィッ!」
アルシエルは咄嗟に上空に跳び上がることで一度は難を逃れたが、その程度で終わるはずがない。
オンディーヌがアルシエルを睨みつけたまま双眸を輝かせると、大地から突き出てきた無数の氷柱が大砲のような勢いで空へと飛び出したのだ。それを見てアルシエルは双眸を見開き、両翼を使い器用に軌道を変えながら回避するが、一旦空へ飛び出した氷柱は執拗に彼を追尾し続ける。
空を飛び交う氷柱同士が激突し大きく砕けるものの、砕け割れたことで更にその数を増し――それら全てがアルシエルに襲いかかった。
「この……ッ! 忌々しい!!」
言葉通り忌々しそうに奥歯を噛み締めると、アルシエルは逆手を開いて突き出す。
すると猛スピードで飛翔する氷柱が弾け飛び、飛散した。それを見て一度はアルシエルの口元にも笑みが浮かんだが、爆ぜたことで更に細かく砕けた破片が四方八方から彼の身を襲撃。大小様々な氷の破片が瞬く間にアルシエルの身を突き刺した。
猛吹雪の如く飛翔する氷柱の群れは瞬く間に凍りつき始め、彼の全身を分厚い氷で包み込んでいく。完全に動きを封じてしまうのかとリンファもエクレールも思ったが、そうではない。
「凍てつく棺で眠れ――ルースレス・コフィン!」
オンディーヌがトライデントを掲げると、上空の雲を引き裂き――三本の巨大な氷柱が左右斜めから、そして最後に真上から降り注ぎアルシエルの身を貫いたのだ。
凍りついて動けないところにこの攻撃、流石のアルシエルも完全に無傷とはいかない。それどころか随分と深手を負わせることはできたようだ。魔力で覆われた頑強な翼も、氷柱に貫かれたことで既に翼の役割を果たしておらず、羽ばたいても彼の身を上空で停止させることは叶わなかった。
「ま、魔法の同時発動……? すごい……」
「オンディーヌの得意分野は魔法攻撃だ、あいつは同時にいくつもの魔法を発動させることができる」
カミラはヴァリトラから返る言葉にあんぐりと口を開けたまま、アルシエルとオンディーヌとを何度も交互に眺める。あれだけの魔法を放ったというのに、オンディーヌには疲労の色さえ見えない。
この場は彼が加護を与える水の国。それも、フォルネウスが戻ったことでシヴァの力も完全に回復しているのだろう。今のオンディーヌは本来の力を取り戻し、まさに絶好調なのだと言える。
けれども、アルシエルとて負けてはいない。身をあらゆる方向から貫かれたことで鮮血を吐きながらも、利き手に携える剣を薙ぐように振るえば――彼の身を覆っていた分厚い氷は大きな音を立てて派手に砕け飛んだ。
魔剣は禍々しい黒のオーラを放ち、表情を憎悪に染め上げるアルシエルの全身を包み込んでいく。それらは負の感情となり、この国全体を覆い尽くすかのように空に、そして大地に物凄い速度で広がりを見せた。
「貴様ら……ッ! 今この場にいることを呪うがよい、我が魔力で沈めてくれるわ……ッ!」
アルシエルが放つ負の感情に包まれた大地は次々に崩れ、いくつもの亀裂が走り始めた。今はまだ昼頃だというのに、空は夕刻のように暗くなっていく。
リンファとエクレールは大地に降り立ったアルシエルを睨み据えながら攻撃の隙を窺うが、彼の身から放たれる禍々しいオーラは触れるもの全てを破壊している。雪に覆われた大地はあらゆる方向に抉れ、近付くだけで危険だということを暗に示していた。
「これでは、近づけません……っ!」
「ですが、このままでは――!」
この国全体が負の感情に覆われ、文字通り沈められてしまう。
神双アゾットは、持ち主の傷を癒してくれる――ならば負傷を覚悟でアルシエルを止めるしかない。リンファは己の手にある神器を一瞥して判断すると、改めて構え直す。
しかし、彼女が動くよりも先にヴァリトラの治療に専念していたカミラがどこか気の抜ける悲鳴を上げた。
「ひえぇっ……! な、なに……!?」
何事だと反射的にそちらを見遣ると、彼女が身につける腕輪が突如として強い白の光を放ったのだ。カミラの腕に鎮座するそれは、彼女の目の前で杖へと形状を変えた。
「ケ、ケリュケイオン……どうして、突然……」
眼前でふわりふわりと浮かびながらゆっくりと回転する聖杖を手に取り、カミラはわけがわからずに目を白黒させていたものの――そんな彼女の視界の片隅で、不意に同じような光が閃いたのを見逃さなかった。アルシエルが放つ負の感情に覆われた空、光など本来は見えないはず。
だというのに、確かな輝きを見つけたのだ。
その刹那、まさに光の速度で白の輝きが黒い空を穿ち――アルシエルの身を背中から突き刺した。それまで辺り一帯を覆い尽くしていた負の感情は、出所となるアルシエルの集中が散ったためか、はたまた光を嫌がったのかは定かではないが空気に溶けるように飛散していく。
アルシエルの背中に突き刺さり、その身を貫いたもの――それはまさに光の速さで一直線に飛んできたランスだった。
「な、んだ……これは……ッ! がは……っ!」
アルシエルは己の胸部から突き出る槍を見下ろし、なにが起きたのかと状況の把握を試みたが、そんな彼を次の衝撃が襲う。彼の背中になにかが突進してきたのだ。
それは突き刺さったままの槍を両手で握り込み、猛スピードでアルシエルをその場から引き離し、緩やかな軌道を描いて天高くへと誘う。
「て、天使……天使さま……!?」
「セ、セラフィムだナマァ! 駆けつけてくれたんだナマァ!」
「あ……あれが……!?」
猛烈な速度で空高くまで舞い上がってしまったセラフィムと、連れ去られる勢いでその彼女に空へ追いやられたアルシエルは既に肉眼では捉えられない。
「我々の父を傷つけてくれたお礼をしにきました、アルシエル」
「ぐぐ……ッ! セラ、フィム……貴様ああぁ……ッ!」
「わたくしの胸の中で眠りなさい――ヴァニシングノヴァ!!」
セラフィムがそう吼えるように声を上げると、アルシエルの身に突き刺さったままの槍からは巨大な白の光線が放たれた。それは雲さえも穿ち、アルシエルを空の彼方へと吹き飛ばす。
雲よりも高い位置で爆ぜた光はそのまま世界中へと飛散し、さながら真昼に降る流れ星の如く地上へと降り注ぎ始めた。
その光を見て、各地で奮闘する四神柱ならば自分が目覚めたことを察してくれるだろうと、セラフィムは思う。そして、それが少しでも希望に繋がればと。




