第十話・ヘルメスVSウィル
『姫巫女さま?』
『ええ、そうですよヘルメス。かつて勇者様は共に魔族と戦った姫巫女様と結ばれて、このヴェリア王国をお創りになられたと言われています。それ以来、ヘイムダルの里で姫巫女が誕生すると、ヴェリア王家の者に嫁ぐことになっていて……』
ヘルメスは幼い頃、母テルメースから伝説の勇者のおとぎ話を聞かされた。
昔から勉学に勤しんできた彼は、取り立てて勇者の話に興味を持ったことはなかったが。
おとぎ話など、結局は余計な脚色が加えられただけの子供だまし。伝説の勇者などと世間は持て囃すが、実際にその勇者を見た者がいるのか? 生き証人がいるとでも言うのか? どれだけ勇者と美化しようと視点を変えればただの破壊者に他ならない。
幼いながら、ヘルメスはそんなことを考えていたものである。魔族側にとっての勇者はただの冷酷な人間でしかないのだ、と。
しかし、テルメースにその話を聞かされ、実際に幼い姫巫女を初めて見た時――彼の胸は大きく高鳴った。
弟に連れられて王宮にやってきたカミラは、ヘルメスの目にとても魅力的に映ったのだ。人に慣れていないのか、彼女は丸みを帯びた頬を真っ赤に染めて、気恥ずかしそうに俯き加減で。
傍らに立つジュードの服の裾をぎゅうぅ、と握ったまま離そうとしなかった。
ヘルメスは第一王子で、ジュードは第二王子。
ヘルメスは勉強熱心で賢く、非常に聡明。ジュードは勉強が大嫌いで難しいことを考えるのは苦手――とても対照的な兄弟だった。
うんと小さい頃はヘルメスとてジュードのことを可愛がっていた。自分の弟なのだから、兄として自分が守ってあげないと、と。そんな使命感を持っていたものだ。
けれども、あの時。
両親が「お互いに好き合っているから」などという理由で、ジュードをカミラの婚約者とした時。
ヘルメスの中で、なにかが大きな音を立てて崩れていった。
父ジュリアスもテルメースも、しきたりに縛られる必要はないと思っていたのだ。伝説の勇者は既に四千年前の存在で、もうずっと姫巫女が誕生することなどなかったのだから。
しきたりに従うのではなく、姫巫女であるカミラが本当にジュードのことが好きで、お互いに好き合っているのだからよいではないかと。
だが、ヘルメスにとってはそのような問題ではなかった。
第一王子であるヘルメスは王位継承権を持っている。だというのに、当の姫巫女は第二王子の婚約者。
納得がいかなかった。いくはずがなかった。
* * *
「……そうだ、このようなことで負けて……なんになる……」
ヘルメスは脳裏を過ぎる忌々しい過去の記憶に奥歯を噛み締めると、剣を大地に突き刺して支えとし、身を支える。傷は未だ完全には癒えぬものの、憎悪に駆られた今の彼には痛みなど気にはならなかった。
対峙するウィルは肌にひしひしと感じられる怒りにも似た感情と感覚に、怪訝そうに眉を寄せる。
ブレインシャフトの効果は――未だに切れない。ヴィーゼは剣を支えに辛うじて立ち上がったが、彼の視界は周囲の騎士たち同様、上下左右に大きく揺れるばかり。本格的に酔い始め、強い吐き気さえ覚えるほどだ。
ヘルメスは他の者に目や意識を向けることさえなく、己の懐からひとつの珠を取り出した。大きさはおはじき程度の小さなものだが、その漆黒のガラス玉は禍々しいオーラを纏っている。
もっとも――それらがヴィーゼやウィルの目に留まることはなかったが。
そのガラス玉をヘルメスは躊躇もなく己の口に放ると、噛み砕きはせずに一息に呑み込む。
すると程なくして、心臓が大きく脈打つような錯覚を感じた。ドクン、と大きな鼓動がひとつ。それを皮切りに徐々に速くなり、見る見るうちにヘルメスの肌は紫という異常な色へと変色を始めた。
「この感覚、なんだ……!?」
ヘルメスの異常を察知したのか、ゲイボルグは一際強い風を吹かせてウィルに危険を報せてくる。目が使えないということがこうまで不便なのかと、もどかしい想いを抱えながらゲイボルグが教えてくれる情報に全神経を集中させた。
こうしている今も、周囲では多くの騎士たちが魔族によって屠られていく。早々に片づけて援護に回らなければ次々に戦力が削られていく一方だ。
上空では今もまだシルフィードがグレムリンの群れを押さえてくれているだろう、地上ではクリフが他の騎士団の援護をしているはずだ。
このヘルメスを野放しにしてはならない――ウィルはそう思った。
目が使えない以上、ヘルメスがどうなっているのかはウィルにはわからない。視界が大地震を起こしているヴィーゼにも、詳細は窺えなかった。
次はどう出てくるのか――思わずウィルは固唾を呑んだのだが、それは一瞬のことだった。
「……は……ッ」
ゲイボルグがウィルに相手の出方を伝えるよりも先に、ヘルメスが振るったと思われる刃がウィルの右肩を深く斬り裂いたのだ。
一瞬、衝撃は感じた。そして次の瞬間には、肩を裂かれる激痛が彼の身を支配する。
斬られたと頭では理解したが、その動きは――まったくわからなかった。
「な、にが……ッ……!?」
視界を遮断しているせいで、より感覚が研ぎ澄まされていることもある。そのせいで肩から感じる激痛は、通常のものよりも遥かに大きい。
思わずその場に崩れ落ちそうになるのを辛うじて踏ん張りながら、武器を持ち直す。すると、今度は微かに反応が間に合った。身体が風のもたらす微細な情報を感じ取り、ウィルは上体を軽く横向ける。
その直後、身体のすぐ間近を鋭利な刃物が通り過ぎるのを感じた。ヘルメスが手にしていた剣を突き出してきたのだ。
けれどもヘルメスは休まない。即座にその剣を真横に振り抜いてきた。
ウィルは咄嗟に槍で防ぎ、なんとか直撃を回避することはできたが、攻撃のひとつひとつが速すぎる。ゲイボルグの反応を待っていたら回避さえギリギリだ。
かと言って目を開ければ、例の魔法のせいで状況は更に悪くなる。
「(……他に手はない)」
しかし、ウィルはそこまで焦ることはなかった。なにも八方塞がりというわけではない、ヘルメスにダメージを負わせる方法はもうひとつある。
――ただ、それはあまり取りたくなかった手段なだけだ。
このヘルメスを退ければ、戦況はそれなりに楽になるだろう。ならば、この男は自分が必ず押さえなければならない。
そこまで考えると、ウィルは一度後方に飛び退いて改めて構え直した。
「フ……私の動きについてこれるものなら、やってみせろ!」
薄紫色に染まった肌を持つヘルメスは、今や勇者の子孫などではなく――傍目にはただの悪魔のようにしか見えなかった。
日に焼けていない白い肌は不気味な色へと変色し、穏やかな翡翠色の双眸は魔族特有の真紅に染まってしまっている。全身には禍々しい黒のオーラ――負の感情を纏い、それらが彼の身体能力を高めていた。
先ほど彼が呑み込んだガラス玉は、負の感情を閉じ込めたものだ。ジュードたちが神器を取りに行く直前にメルディーヌがヘルメスに渡したもの。
当時はまだ勇者の子孫としてのプライドを持っていた彼はそれを口にすることを拒んだが――今となっては、そのようなプライドよりも「負けられない」という気持ちの方が勝ってしまったのだろう。
現在の彼の姿に、人々は間違っても希望など見出せない。抱くのは絶望だけだ。
光の国に生まれ落ちた王子は、すっかり魔族の色に染まってしまっていた。
「――くたばれ! 貴様の次は、憎きあの男だ!」
「……」
ヘルメスは吼えるように声を上げると、一気にウィルとの距離を詰める。
そうして切れ長の双眸を細めて彼の心臓に狙いを澄ませると、勢いよく剣を突き出す。それは風を切るほどの速度だった。
刹那――ヘルメスの剣は、ウィルの左肩を深く抉る。狙いが外れたのは、直前でウィルがやや膝を曲げることで身体の高さを僅かばかり下げたためだ。
だが、突き出された刃はウィルの身に深い裂傷を刻む。その事実に対し、ヘルメスは口角を引き上げて勝ちを確信した。神器を持っていようと自分の敵ではない、そう思いながら。
しかし、ウィルの口元に己と同じように笑みが滲むと、即座にその表情は不愉快そうに歪んだ。
「はッ……次は、なんだって……? ジュードはなぁ、俺の可愛い可愛い弟分なんだよ。血の繋がりがあるクセに弟を大事にもできねぇような奴に、誰が負けるかってんだ――馬鹿野郎ッ!!」
どれだけの手練れであろうと、かなりの確率で無防備になる瞬間がある。それが、攻撃の直後。
自らの身をエサに、カウンターを叩き込んでやろうと思ったのだ。案の定、ヘルメスは攻撃を叩き込んだ直後にほんの一瞬、油断を見せた。ウィルはその隙を逃さない。
身に感じる激痛にも構わず両手で槍を握り締めると、勢いをつけて切っ先をヘルメスの腹にぶち込んでやった。




