第七話・水と火の遭遇
水の国に入ったカミラたちは、空を飛行するヴァリトラの背の上で絶句していた。
空から見下ろした地上。いくつもの街や村があったのだが、それらのいずれも家屋はボロボロに破壊されていたのだ。
眠っているとはいえ、フォルネウスが水の国に戻ったことで異常気象は落ち着いた。この有り様は国全体に溢れ返ったゾンビの群れに襲われた結果だろう。
「(生存者は、イスキア様が連れ出してくださった方々しかいないのですね……)」
リンファは痛ましそうに表情を顰めると、ぐ、と下唇を噛み締める。
水の国は絶望的だ、魔族との戦いに勝ったとしても復興にどれほどの時間がかかることか。そして、その間にリーブルにどれだけの負担と心労がかかるか。考えるだけで国王の心身が心配になる。
「わたくしたちは、どこを拠点にすればよろしいのでしょう……?」
「うにぃ……生き残りがいないと迷うにね……」
風の国も地の国も住民がいる、それゆえにどこに防衛線を張ればいいかはある程度考えられるのだが。
この水の国には、その住民がいないのだ。どこかで生き残っている者もいるのかもしれないが、この広大な地上で探す手立ては今のところない。
ヴァリトラはまっすぐに精霊の里の方へ向かって飛びながら、背中の上にいるカミラたちに声をかけた。
「精霊の里へ。魔族がこの国に侵攻する狙いは、恐らく聖石だ。我の力を秘めるアレを破壊しようというのだろう」
「聖石にはヴァリトラの力が?」
「うむ、精霊の森が迷いの森のようになっているのはあの石が里を守るために幻術を生み出しているからだ。四千年前、ジェントがそう望んだ。魔法能力者たちが迫害されない時代になるまで、能力者があの里で安心して暮らせるようにと」
「ジェントさんが……」
ジェントは、幼い頃に魔法能力者の母を惨殺されたと聞いた。そのため能力者に対する思い入れは人一倍強かったのだろう。
それを思い返し、カミラは切なそうに表情を顰める。
「聖石は人の強い願いに反応する。魔族に扱うことはできぬが、人間ならばその力を引き出せるのだ」
「魔族はそれを阻止するために、聖石を破壊しようというのですね」
「そうだ、聖石は戦う能力を持たぬ人間でも強く願えばその力を引き出せる。世界中の人間が魔族との戦いに於いて勝利を強く願えば――聖石はその願いを叶えるべく、あらゆる奇跡を起こすことだろう。魔族にとっては弊害にしかならぬ」
ヴァリトラの語る言葉にエクレールは納得したように小さく頷く。
精霊の里は彼女にとっても所縁のある場所、気にならないはずがなかった。彼女がいれば問題なく里まで辿り着けるはずだ。
「――そう、アレは邪魔にしかならぬ。ゆえに破壊する」
しかし、その矢先だった。
不意に耳慣れない声が聞こえてきたかと思った次の瞬間――空を飛行するヴァリトラの右翼に巨大な槍のような光が突き刺さったのだ。
赤黒い不気味な光を纏うその槍はヴァリトラの翼の中央を貫通し、思わずバランスが崩れる。斜めに傾いた巨体から振り下ろされまいと、カミラたちは必死にその背中に捕まった。
「きゃあああぁッ! ヴァ、ヴァリトラ!」
「ぐうぅ――っ! あれは……アルシエル、貴様自らが出てくるかッ!」
唐突に貫かれた翼に思わずバランスを崩したヴァリトラだったが墜落することはなく、即座に体勢を立て直すと高度を下げて飛行を続ける。その合間に地上を見下ろすと、黄金色の双眸は見覚えのある銀髪の髪の男を捉えた。
それは間違いない、魔王サタンの腹心――アルシエルだ。
アルシエルはこれまで魔族の拠点でふんぞり返っていたはず。ヴァリトラとて、まさか彼が出てくるとは思わなかった。
「(アルシエルが出て来なければならぬほど魔族は追い詰められているということか? いや……違う、余裕がなければ聖剣を持つジュードを真っ先に始末しに行くはず……)」
魔族にとってはヴァリトラが脅威であることは理解できる。しかし、過去に瀕死の重傷を負うほどに傷を負ったこともある、決して無敵ではないのだ。複数の魔族に総攻撃を受ければただでは済まない。
聖剣を持つジュードの方が、今の彼らには脅威になるはず。
そのジュードではなく、敢えて彼が聖石を破壊しにきたということは――考えられることはあまり多くない。
「まさか……サタンか!」
「ククッ、流石に察しがよいではないか。これまでサタン様の身を蝕んでいたエクスカリバーの魔力が消えてくれたのでな、ようやくサタン様が元のお姿でお戻りになられた。今頃、火の国は壊滅していることだろうよ」
アルシエルは背中に生える翼を羽ばたかせてヴァリトラの斜め後方につくと、愉快そうに笑いながら饒舌に語る。
魔王サタンが復活した。その事実に、エクレールもリンファも思わず表情を凍りつかせた。
おとぎ話の中でしか聞いたことのない魔王。こうして目の前に魔族がいることからして、既におとぎ話の領域は完全に飛び出ているのだが、勇者がようやく倒すことのできた相手――そんなものと自分たちが戦えるのだろうかと。
漠然とした不安が、彼女たちの身を襲っていた。
「――ッ、ガルディオンにはジュードがいる! 魔王になんか絶対に負けない!」
しかし、カミラは拳を固く握り締めると声を張り上げてそう言ってのけた。
それは根拠もなにもない言葉であったが、彼女たちの不安を一掃するには充分だったらしい。エクレールもリンファも、すぐに気を取り直すと各々武器を身構える。
各国では、今も仲間が必死に戦っているはずだ。不安に駆られて諦めるなど、あっていいはずがない。
「ふっ……ならば、そのジュードに殺されるがいい。よそ見をしていると首と身体がおさらばするぞ」
アルシエルは一度こそ切れ長の双眸を僅かに丸くさせたが、すぐに口角を引き上げる。
低空飛行を続けるヴァリトラの上空、そこには一匹の赤黒い竜がいた。大きさこそヴァリトラとは比べものにもならないほどに小さいが、その背には人影がひとつ。
カミラが慌てたようにそちらを見上げるのと、その人影が飛び降りてくるのはほぼ同時だった。
「ヴァリトラ、避けてください!」
リンファは咄嗟に声を上げたが、回避は間に合わなかった。
背中に乗る仲間の身に直撃することはなかったものの、飛び降りてきた人影が振り下ろした漆黒の刃はヴァリトラの左翼の根元を叩き斬ったのだ。
両翼共に傷ついてしまったことで流石のヴァリトラも完全にバランスを崩し、頭から急降下していく。ノームは墜落の衝撃から仲間を守るべく彼女たちを土の壁で包み込んだ。
「(今のは――アンヘル・カイドか……! おのれ、まさかアルシエルの奴が出てくるとは……)」
ヴァリトラの左翼を叩き斬った人影、それはジュードの精神体であるアンヘルだ。ヴァリトラの上空を飛ぶ竜の背から飛び降り、その勢いを加えて翼を斬ったのである。
頭や腹部分から見事に墜落したヴァリトラは、両翼に感じる激痛に低く唸りながら空を見上げた。
ノームが岩の壁を展開してくれたお陰でカミラたちは無事のようだが、状況は決してよいとは言えない。むしろ最悪だ。
上空にはアルシエルと、赤黒い竜に掴まるアンヘル。
派手に墜落したことで、国に溢れているゾンビの群れも程なくしてこの場にやってくることだろう。ヴァリトラは両翼をやられ、飛び立つことは難しい。精霊の里までは――まだ距離があった。
* * *
辺りから聞こえてくる爆発音や悲鳴の中、ジュードは王城の階段を無我夢中で駆け上がっていく。
王都ガルディオンの街は瞬く間に火の海に包まれ、城下には大量の魔族の群れが飛来した。街の防衛にはメンフィス率いる精鋭部隊が出て食い止めてくれている、マナの魔法による援護があれば随分と楽にはなるだろう。
ジュードは空から攻撃を仕掛けてくる親玉を叩くべく、屋上へと飛び出した。
「あれは……!」
その先で見えたのは、青い空に浮かびながら悠々と見物を決め込む一人の男。背中には漆黒の翼が生え、ゆうるりと羽ばたいている。
彼の傍には前線基地で交戦した赤黒い竜が複数群れを成し、次々に炎を吐き出し王都に火を放っていた。瞬く間に広がった城下の火は、この竜たちの仕業だろう。
男は屋上に姿を見せたジュードに気づくと、表情には薄ら笑いを浮かべながら静かに高度を下げて降りてくる。遠目にはよく見えなかったが、恐ろしいほどに整った風貌の持ち主だ。髪が黒いせいか、白い肌がより蒼白く見える。
切れ長の双眸を笑みに細めて、男は静かに口を開いた。
「この姿でお目にかかるのは初めてだな、ジュード・エル・ヴェリアス。抵抗せずに、大人しく俺に喰われていればよかったものを……」
「……お前、まさか……」
「察しの通り、俺が魔族を統べる王サタンだ」
男が――サタンがそう名乗るのとほぼ同刻、ジュードの耳に鎮座していた聖剣が一際強く光り輝き、その形状を剣へと変化させた。それはジュードの右手に収まり、逆手は腰裏の短剣へと添える。
けれども、強い光を放つ聖剣を見遣るとサタンはゆっくりと数度瞬きを繰り返した。
「ふむ……? ほう、そういうことか」
「……?」
「なぜ唐突にエクスカリバーの魔力が消えたのか気にはなっていたのだが……そうか、貴様が俺を助けてくれたのだな」
サタンのその言葉に、ジュードは眉根を寄せて怪訝そうな表情を滲ませた。ジュードがサタンを助けた。それは一体どういう意味かと。
すると、サタンはそんな彼を見据えて愉快そうに喉を鳴らして笑ってみせる。
「俺の身はエクスカリバーの魔力に阻まれて再生することさえままならなかった、だが先日……唐突にその魔力が消えたのだ。そのお陰で、こうして完全な姿を取り戻すことができたというわけだ」
「……!」
「貴様の手にあるそれはエクスカリバーではないな? 知っているぞ、聖剣の仕組みを。貴様が聖剣を新たな形へと変化させたことで俺は解放されたのだ」
そこでジュードの頭に浮かんだのは、ヴァリトラの言葉だ。エクスカリバーはジェントのための聖剣であったと。
ジェントがサタンを封じ込めていたようなものなのだろう、だというのにエクスカリバーをアロンダイトへと変化させてしまった。そのせいで、サタンはエクスカリバーの魔力から解放され、こうして再生を果たすに至ったのだ。
その事実にジュードは思わず言葉を失った。
「(……けど、ショックなんて受けてられない)!」
自分のせいでサタンが完全に再生されてしまった――それは確かに衝撃だったが、状況が状況だ。こうしている今も、城下は火の海に呑まれ続けている。
自分がサタンの復活に手を貸してしまったというのであれば、そのけじめをつけるのもジュードの役目だ。
「……ほう、子供だと思っていたが動揺しないとはな。面白い、少しばかり遊んでやろうではないか」
サタンから見てジュードはただの子供だ。
こう言えば、恐らく戦意など簡単に失くしてしまうだろうと思っていた。
だが、それでも己を睨み据えてくる様を真正面から見遣ると改めて愉快そうに口角を引き上げて笑う。背中の両翼を大きく広げ、両手に魔力を込め始めた。
ジュードはそれを見遣ると腰裏から短剣を引き抜き、逆手にしっかりと構える。
両者暫しそのままの状態で睨み合ってはいたが、やがてサタンが片手を伸べ、人差し指と中指を招くように動かす。文字通り「来い」と言っているのだ。
その様を見遣り、ジュードは双眸を細めると上体を低くして駆け出した。
親玉であるサタンを倒せば、辺りに展開する魔族の群れは撤退するはず。今の狙いはそれだけだった。




