第一話・二人の大精霊
「調子はどうなの?」
翌朝、ルルーナはリンファが休む部屋へと足を運んでいた。
固い床にやや厚めの布団を敷いただけの簡素な寝床、怪我人を休ませるには決して快適とは言えない環境だ。建前ではなく、ルルーナは純粋に彼女のことが心配だった。
途中でカミラがダウンしてしまったこともあり、あのあと仲間の治療はライオットやガイアスの力を借りてルルーナが行ったのだが、治癒魔法はそこまで得意ではない。恐らく痛みはまだ取れていないだろう。
けれども、心配させないためなのか、リンファは身を横たえたまま常のような無表情で静かに返答をよこしてきた。
「問題ありません。皆さまは……?」
「重傷人が人の心配してるんじゃないわよ、みんな大丈夫だから安心して休みなさい」
ネレイナの攻撃で特に重い傷を負ったのはリンファとカミラだけだった。ウィルたちの傷も重い方ではあったが、彼女たち二人に比べれば充分軽かったらしく、先ほど元気に走り回っているところを見かけたばかり。
地の都グルゼフも、昨日のアンデット集団の侵攻によりほぼ壊滅状態になってしまった。都に残ったゾンビたちはネレイナとの戦闘後、シルフィードとガイアスが鎮めてくれたが、残されたのはただの深刻な状況だけ。
国王のファイゲは辛うじて一命を取り留めることはできたが、王妃と王女はジュードたちが確認した際、既に事切れてしまっていた。
生き残りは城の一階に避難していた者たちだけで、それを併せても何人残っているか。
水の国に続き地の国までもこのような状況になってしまったことは、非常に痛い。元々同盟は結べなかったが、だからと言って見捨てられるものでもない。
「……アンタ、どうして今まで言わなかったの?」
ルルーナは暫しリンファを見つめたまま黙り込んでいたが、やがて最も気になっていた疑問をぶつけた。
その問いの意味は聞かなくとも理解できているらしく、リンファは依然として無表情のままルルーナを見返す。だが、その双眸に敵意や嫌悪を乗せることもなく静かに返答を向けた。
「……言ってどうにかなることではありません。それにあなたは仰ったはずです、コロッセオに……闘技奴隷に関わってはいなかったと……」
「……」
「最初は憎かった、あなたがノーリアン家の人間であるというだけで……殺してやりたいと思いました。でも、もしもあなたがあの一件のことをなにも知らなかったのだとしたら……ノーリアン家の人間だから、というだけで憎むのは違うような、そんな気がしたんです」
リンファと初めて出会った頃、彼女はいつだって刃物のように鋭い目で睨んできていたものだ。ルルーナは当時、彼女が仕えるオリヴィアと不仲にある自分が気に入らないのだろうとしか思っていなかった。
しかし、今は理解できる。あれは憎悪の目だったのだと。
ルルーナは以前口にしていたように、コロッセオや闘技奴隷には一切関与していない。だが、母がやったことをなかったことにはできないし、自分は関係ないと突っぱねることもできなかった。
自分がリンファのためにできること、それには一体なにがあるだろうかと悩んだ。
「……結局ね、クリフさんがお母様を斬り捨てたのよ」
「……? クリフ様が、ですか?」
「ええ、昨夜言っていたわ。人の命を奪うのを、子供にやらせたくないんだって。ジュードにもアンタにも……私にも、やらせたくないから自分がやったんだ、ってね」
その言葉にリンファは複雑な表情を浮かべた。
クリフは火の都に在籍する正式な騎士だ、恐らく罪人を裁くこともあっただろう。人の首を刎ねることもあったに違いない。彼はこの中で最年長でもある、余計に年若い者の手を汚させたくなかったのかもしれない。
そこで、次にリンファが気になったのはルルーナのことだ。リンファにとってネレイナはなにより憎い存在であったが、ルルーナにとっては母。それを失って大丈夫なのだろうか、と。
「……あなたは、大丈夫なのですか?」
「まったく問題ないってことはないけど……平気よ」
ジッと観察してみると、ルルーナの目元はほんのりと赤い。それだけで彼女が昨晩涙を流したのだということは容易に窺えた。
どんな人間であれ、母親だったのだ。亡くせば悲しいのは当然のこと。だが、深く追求すればルルーナの性格上、嫌がるのは明白。リンファは特に余計なことは口にせず、無言のまま見守るように彼女を見つめる。
そんな視線にルルーナは口をへの字に曲げると、片手で己の横髪を軽く掻き乱し、そっと小さく溜息を洩らした。
「……だから、アンタももう復讐とかなんとか考えないで普通の女の子になりなさいよ。私が言うのもおかしい気がするけど……」
「……普通の女の子?」
「そうよ、すぐには難しいんでしょうけど……もっと笑ったり色々なことに興味を持ちなさい。アンタのお兄さんだって、そうやって生きてくれることを望んでるんじゃないかしら。……もし逆の立場だったらそう思うでしょ」
その言葉に、リンファの目は思わず丸くなった。そんなことは今まで考えてもみなかったのだ。
今までは兄を救えなかった自分を責めていたし、その状況を作り出したネレイナを憎み続けてきた。それだけで精一杯だった。
だが、もし自分が兄の立場であったら。自分が殺されて、兄がその仇を討つために生きていたとしたら――きっと悲しくなる。そんなことはしなくていいから、自分のために、幸せのために生きてほしいと願うだろう。
ルルーナの言葉はリンファの胸の深い場所に触れて、今まで凍りついていたなにかを解きほぐしてくれたような、そんな気がした。目頭が熱くなって前がよく見えない。しかし、胸の苦しみは伴わなかった。
まるでお湯なのではと思うほどの暖かく感じられる涙が次々に溢れてきて、リンファは思わず目を閉じて片手の平で拭う。
それは今まで流してきた悲しい涙ではない、これまで溜めてきた苦しいものが解き放たれるような――そんな涙だった。
* * *
一方、中庭には「ガン、ゴン」というなにやら鈍い物音が響いていた。
カミラに朝食を運び終えたジュードは何事だろうと警戒を露わに廊下の窓から覗き込んだのだが、次の瞬間――その顔からはサッと血の気が引いて蒼褪める。
手にしていた空のトレイを放り出し、大慌てで中庭に飛び込んだ。その場には仲間たちの姿が見える他、精霊やヴァリトラも集まっていた。
「うわああああぁ! ちょッ、なにやってんの!?」
ジュードが真っ青になったのは、朝食の支度をしている時に「貸して」と言われて貸したばかりの聖剣をイスキアが振り回し、近場にあった岩を殴りつけていたからだ。使い手が違うためか現在の聖剣は「普通よりは斬れる剣」程度の力しか持っていないらしく、庭に被害は出ていない。
イスキアが聖剣を振り回し、サラマンダーが頻りに声を張り上げている。ウィルやマナ、クリフは困ったようにそんな様を見つめていた。
「さっさと出てきなさいよ! この放蕩勇者ああぁ!!」
「こっちの話はまだまだ済んでねーんだからな! このまま逃げられると思ったら大間違いだぞ!!」
「……よおジュード、おはよ。勇者様、無事なんだってな。さっきヴァリトラから聞いて……」
「それで、この状態よ。……でも、なんか嬉しそうよね」
放蕩勇者――十中八九ジェントのことだろう。
彼は今、聖剣の中でゆっくり休んでいるはずだ。意識があるのかどうかはわからないが、岩に刀身を殴りつければ出てくるというものでもない。
しかし、軽く止めたところで落ち着いてくれるようにも思えなかったし、マナの言うようにその表情には怒りが滲んでいる他、どこか嬉々も見て取れる。口で文句を言っていても、やはり彼が無事だったことは嬉しいのだろう。
「……それで、そっちの人たちは?」
「うに、みんなは初対面だにね。地の大精霊タイタニアと愛の大精霊アプロディアだに!」
次にジュードの意識が向いたのは、ヴァリトラの傍に佇む女性二人。片方は艶やかな長い金髪、もう片方は茶髪の。姿形がそっくりでまるで双子のようだ。
ライオットはいつものようにピョンピョンと跳びはねながら傍まで寄ってくると、ジュードの腰辺りにしがみついて、そのままよじ登ってきた。
タイタニアとアプロディア――そう説明を受けたジュードは改めて彼女たちに向き直る。
「はじめまして、マスター様。この地を救って頂き、ありがとうございます。私はタイタニア、ライオットの紹介通り地の大精霊です」
「あ……い、いや、オレたちの……方こそ……」
「……あら? うふふ……タイタニア、マスターさんはウブなお方のようですわよ」
どちらも大層美しい女性二人だ。その上、彼女たちが身に纏う服装はどちらも非常に際どいもの。
布地の面積が非常に狭かったり、豊満な胸や太股などが惜しげもなく晒されていたりと、目のやり場にとても困る。
いくら相手が精霊であっても女性の姿というだけで、どうしても気にしてしまうのだ。
ジュードは困ったように視線を斜めに下げ、逆にウィルはやや顔を赤らめながら上の方に視線を逃がす。マナはそんな幼なじみ二人の様子を胡散臭そうに見遣った。
「ったく……これだから男ってのは……」
「あっはっは! まだまだお子ちゃまだなぁ、お前さんたちは!」
「(まぁ……ウィルはともかく、ジュードがこんな風に余裕綽々になったらコレジャナイ感が半端ないとは思うけど……)」
ジュードとウィルは彼女たちを前に目のやり場に困っているが、クリフはやはり大人か、まったく動じるようなこともない。むしろ興味津々とばかりに彼女たちを見つめている。
タイタニアはにこにこと朗らかに微笑み、アプロディアは両手の平を己の頬に添えて「うふふ」と嬉しそうに笑っていた。
「そ、それで、ヴァリトラ。オレたちこれからどうしたらいいのかな?」
「うん? なんだ、もう暫し見ていてもいいのだぞ」
「あんまからかわないでよ……」
ジュードはひとつ咳払いをすると、余計な邪念を頭から追い出してヴァリトラを見上げた。
火の神器と地の神器を手に入れることはできたが、水の神器を取りに行くのは難しい。シヴァが戻らない限り水の神柱は誕生せず、神器を受け取ることもできないのだから。
それを理解しているからこそ、ヴァリトラはひとつ唸ると静かに頭をもたげて空を見上げた。
「……ひとまず火の都に戻るべきだろう、今後のことを話し合った方がよい」
「そうよね、神器は手に入ったけどこれだけで勝てるわけじゃないんだし……」
神器は手に入れられたが、ジュードの聖剣と合わせて未だ扱いには慣れていない。
恐らく魔族とは全面戦争になるだろう。それまでに少しでも使い慣れなければ、それこそ宝の持ち腐れになってしまう。
「(……間に合わぬか、オンディーヌよ……)」
神器があれば勝てるという話ではない、魔族との戦いは神器がなければ戦うことさえ愚かしいレベルなのだ。
恐らく熾烈な戦いになる、こちらの戦力が完全に揃わないことは大きな痛手でしかなかった。




